郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

イギリスVSフランス 薩長兵制論争4

2009年11月06日 | 英仏薩長兵制論争
 イギリスVSフランス 薩長兵制論争3の続きです。

 清教徒(ピューリタン)革命の内乱の中で、議会軍を指揮して頭角を表し、独裁者にのし上がったのがクロムウェルです。彼も、ジェントリでした。
 しかし、なんなんでしょうか。えー、1644年、マーストン・ムアにおいて、議会軍と王党派軍が、2万6千vs1万7千で未曾有の大会戦を起こした、というのですが。これより44年前、関ヶ原の戦いでは、東軍10万、西軍8万ともいわれていまして、この程度の兵数で未曾有の大会戦とは、さすが海軍を偏重しましたイギリスです。

 ま、ともかく、です。クロムウェル率いる騎兵は、新戦法を身につけ、しかも清教徒の熱狂的な信仰で結ばれていましたがために圧倒的な強さを誇り、議会での発言権を増したクロムウェルは、自分の軍隊を核として、議会の常備正規軍を創設するんですね。つまり、イギリスにおける最初の常備正規軍は、王の軍隊ではなく、議会の軍隊だったのです。
 が、この議会にもさまざまな党派があり、意見がありました。結局、クロムウェルは自分が掌握した正規軍を使って議会の反対派を追い払い、捕らえていた国王を処刑して、共和国を打ち立てるんです。

 クロムウェルが死に、王政復古が成ったとき、常備正規軍は4万に膨らんでいたのですが、解散が求められます。しかし、とりあえずは規模を縮小し、結局、1万5千ほどが王の常備正規軍、ということで落ち着いたようです。
 とはいうものの、共和国独裁の道具であった正規軍が、今度は王の独裁の道具になるのではないか、という懸念は去りません。それが、前回引用しました「急進的ウィッグ派と穏健的ウィッグ派の意見対立」となっていたようです。で、急進的ウィッグ派が打ち出していた「民兵」の概念ですけれども、州防衛の民兵を国防に転用しようということだったのか、あるいは有事には義勇軍を仕立てようということだったのか、はっきりと記した文献にはめぐりあえませんでした。とはいえ、この場合の民兵は、後述する理由から、どうも義勇軍をさすのではないか、と思います。

 17世紀の末、今度は名誉革命が起こります。カトリックに傾倒していましたジェームズ2世が追われ、その娘でプロテスタントのメアリー2世と、夫のウィリアム3世の共同統治ということになったわけなのですが、即位にあたって、議会により権利章典がつきつけられます。この権利章典に、以下の2条があるんです。

 ●国王は議会の承認なしに平時において常備軍を維持することはできない。
 ●新教徒(プロテスタント)である臣民は自衛のための武器をもつことができる。


 これで見る限り、穏健派の意見が通ったことはわかるのですが、同時に、プロテスタントに限って、ですが、圧政に対して武器をとる権利も要求しているわけですから、理念の上においては、反政府義勇軍(ミリシア)の結成も認められていたことになります。
 クロムウェルの独裁は、反対派の財産権を侵害するものでして、これは、政府の圧政から、武器をとって自らの財産を守る権利、といいかえることもできます。ということは、「市民自らの自由を奪う動機をまったく持たない市民兵」とは、私的義勇軍のことをいうのだと、推測できるのです。

財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家1688-1783
ジョン ブリュア
名古屋大学出版会

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 ここからの参考書は、ほぼ上の一冊です。

 18世紀、イギリスは強大な海軍力をもって、植民地経営と交易に邁進し、帝国の礎を築きあげます。海軍の巨大化がはじまりましたのも、クロムウェルの時代から、でして、勃興してきました商工業者の要求に応え、海上運輸の安全確保、という意味合いが大きかったものですから、ロイヤル・ネイビー、王の海軍であったにしましても、市民(ジェントリや富裕な商工業者、です。主には)の自由と対立する、というような見解は起こらず、また海軍に限っては軍備拡大費用も利益となって納税者に返ってくる、ということで、ふくれあがっていきました。19世紀、イギリスが世界帝国となってパクス・ブリタニカを打ち立てる下地は、この時代に完成するのですが、それに寄与したのは主に海軍でした。しかし、とりあえずそれは置いておきます。

 海軍が巨大になった、ということは、海上輸送能力もあがった、ということでして、イギリスはヨーロッパ大陸における争いにもコミットするようになり、18世紀を通して、フランスと対立しました。これは、フランス海軍が強力になっていたこともあり、植民地に渡ってまで繰り広げられ、中世の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも呼ばれます。最終的に、ナポレオン戦争でイギリスが勝利をおさめ、19世紀のパクス・ブリタニカが訪れたのです。

 なぜイギリスが大陸にコミットするようになったかといえば、一つには、名誉革命以来、イギリス議会はカトリックの君主を嫌い、女系をたどって大陸出身の王を据えることになったこと、もあります。オランダの王族だったウィリアム3世もそうでしたが、続くアン女王には無事に成人した子供がなく、結局、ドイツ領邦ハノーヴァー公国の君主・ゲオルク・ルートヴィヒが招かれ、1714年、ジョージ1世として即位したのです。以降、19世紀のヴィクトリア女王即位に至るまで、ハノーヴァー公国とイギリスは、同君連合の関係にありました。
 フランスが、イギリスの王位継権を持つカトリックの王族を後押し、しかも海軍力を増強していたフランスは、アイルランド上陸を企てるようなこともありました。

 18世紀、平時におけるイギリスの正規常備陸軍は、3万から5万ほどで、クロムウェルが最終的に組織していた正規軍数と、さして変わりません。しかも、そのうちの大半はアイルランド正規軍としてアイルランドに常駐し、アイルランドの税金で養われましたので、イングランドに常駐する正規軍は、ほぼ1万5千であったようです。
 やはり、「大規模な正規陸軍は独裁政治の道具になりかねない」という観念は、根強くあったのです。
 しかし、有事にはこの正規軍が大幅に増強されます。
 スペイン継承戦争で9万、オーストリア継承戦争で6万、7年戦争で9万、アメリカ独立戦争では10万を超えました。
 正規軍の兵卒は、基本的に志願でしたが、有事にはそれだけでは足らなくなり、かなり無理な強制徴募もされたようです。
 
 貴族やジェントリーの子弟を中心とする、正規軍の将校団は、専門職化されていきました。とはいうものの、正規常備軍の存在そのものが、大陸諸国にくらべれば一世紀遅れて成り立ったものでしたので、士官学校の設立も遅れ、徒弟制度というのでしょうか、いきなり入隊して見習い将校からはじめる、という形態が、19世紀の前半まで残ったようです。さすがに、技術専門職である工兵隊、砲兵隊の将校については、1741年、ウーリッジに士官学校ができましたが、陸軍の華である騎兵隊、歩兵隊の士官学校が、サンドハーストに設立されるのは、18世紀も押し詰まり、ナポレオン戦争の最中、1799年のことでした。
 つまり、18世紀いっぱい、イギリスに本格的な士官学校はなかったといってよく、ナポレオン戦争時に活躍した将軍たちの中で、専門の将校教育を受けた者は、なぜか、アルザス・ロレーヌ地方にあったストラスブール士官学校に留学していた割合が多いようです。18世紀のイギリス陸軍将校には、フランス系の亡命ユグノー教徒の末裔がかなりいて、おそらく、なんですが、彼らに好まれた士官学校であったのかもしれません。

 さらに、これもナポレオン戦争時から逆に推測すると、なのですが、有事には、貴族や大地主所有者が編制した私的義勇軍が、そのまま正規軍に組み込まれることもあったようです。地域にもよったようですが、兵卒となる庶民にとって、まったくなじみのない正規軍に突然放り込まれるよりも、自分たちの地主が編制した軍で、顔なじみの仲間とともにある方が安心でき、志願兵になりやすかった、という状況だったのでしょう。
 
 また、この当時のイギリスは経済強国となっていて、ハノーヴァー陸軍はイギリス王の指揮下にありましたので当然ですが、同盟軍の外国兵に資金援助をすることも多く、前世紀に引き続いて傭兵も多数傭いましたので、正規軍の兵数のみでははかりきれないい兵力を備えていました。

 以上は派遣陸軍ですが、国土防衛軍としては、民兵隊が整備されます。1757年、フランス軍の上陸が懸念された7年戦争において、民兵隊法が成立します。以降、各州の民兵は年に28日の教練を義務づけられ、従軍中は軍法に従う必要がある正規の存在となり、その費用は、地方税で賄われました。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol5 恋の波紋に出てきますバーティ・ミットフォードの曾祖父、ウィリアム・ミットフォード大佐は、ハンプシャー民兵軍の将校を務めましたが、同僚のエドワード・ギボンは、「近年の戦闘教練と機動演習を経験して、私は古代のファランクスとレギオンがどのようなものであったか鮮明に想像できるようになった」と述べているそうです。
 新しく再編された州民兵軍では、初歩ながら、最新の軍事技術に触れえるようになり、18世紀に入って専門化していた軍事が、今度はもっと広範に、国民にとって身近なものともなっていった、といえなくもないのですが、バーティの曾祖父やギボンのように、将校となったジェントリたちはともかく、兵卒として駆り出される農民や労働者にとっては、あまりありがたいものではなかったようで、十分な兵数がそろわなかったといわれます。
 イギリスの陸軍が国民軍と呼べるようになるのは、やはり、欧州を席巻したナポレオン戦争においてのことでした。

 えーと、では、前回書きました私説義勇軍は? ということなのですが、前述しましたように、ずっと存在はしていたのではないか、と思われます。少なくとも、結成の自由はありました。しかし、これも本格的に市民軍として稼働しはじめましたのは、どうやら、ナポレオン戦争においてのことのようです。
 
 次回、そのナポレオン戦争におけるイギリス陸軍のあり方を見て、フランス陸軍とのちがいを、考えていきたいと思います。


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