郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族

2006年02月17日 | 幕末雑話
昨日に続きまして、明治大帝の母、中山典侍の一族のお話です。
よく知られていますのは、典侍の弟の中山忠光卿でしょう。
なんといいますか、過激なお公家さん、とでもいいましょうか。
長州の志士や土佐勤王党など、尊攘檄派とのつき合いが深く、天誅組の総裁となり、長州に走って、二十の若さで非命に倒れました。

なにしろ明治帝の叔父君です。十四歳で朝廷に出仕、七つ年下の祐宮(後の明治帝)のお相手を務めます。
しかし、型破りの行動が多く、父親の忠能卿ももてあまし気味でした。
尊攘檄派が牛耳っていたころには、公武合体派と見られていた公卿を暗殺しようとして、土佐勤王党の武智半平太に制止されたこともあり、土佐藩主の山内容堂などは、「中山の狂人」と呼んでいたといわれます。
当時の忠能卿の日記には、息子の忠光に会いに来たとして、武智半平太や同じく土佐の吉村虎太郎、長州の久坂玄瑞や入江九一の名が見え、尊攘檄派のアイドル的存在であったことがうかがえます。

結局、長州まで行って攘夷戦に参加し、久留米藩に押し掛けて、投獄されていた真木和泉などの志士を釈放させて、京都に帰ります。
そのころ、京の尊攘檄派は、孝明天皇の大和御幸を画策していたのですが、土佐の吉村虎太郎を中心とする天誅組によって、それに呼応した大和での挙兵が計画されました。忠光卿はその天誅組の旗頭となり、大和五条の代官所を襲います。
しかしそのとき、八.一八クーデターで京の情勢が一変し、天誅組は幕府の討伐を受け、壊滅してしまいます。
忠光卿は逃亡に成功し、長州に身を寄せるのですが、その後の長州藩内部の抗争で、佐幕派の手で暗殺されてしまうのです。
そのほんの一月あまりの後、高杉晋作の功山寺挙兵があり、長州の藩論はまたしても一変するのですが、その前に、秘かに抹殺された忠光卿は、下関市綾羅木の浜に葬られ、後に中山神社が建てられました。

忠光卿は、忘れ形見を残していました。尊攘派に心をよせる下関の回船問屋の娘、恩地トミは、忠光卿の側に仕えて、種を宿していたのです。
父親の死後、この世に生を受けたのは女の子で、南加と名づけられました。
やがて長州藩は、明治天皇の叔父の忘れ形見をさがしだし、毛利家の養女とした上で、中山家に送り届けます。
忠能卿は、息子の忘れ形見を娘として迎え入れ、成人した南加は、維新後、嵯峨公勝に嫁ぎました。
嵯峨公爵家とは、幕末の正親町三条家です。公勝の父親は、正親町三条実愛。
そうなんです。
倒幕の密勅に名を連ねた公卿は、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の三人。
中山忠能の母親は、正親町三条家の娘で、両家は縁が深かったのです。
そして、南加の孫娘である嵯峨浩は、満州国皇帝の弟、愛新覚羅溥傑氏に嫁いだ「流転の王妃」です。
満州国滅亡の後、生き別れとなった二人は、激動を乗り越え、やがて再会し、中国で晩年を過ごしました。
現在、中山神社のそばに、愛新覚羅社があります。先に世を去った浩さんが、夭折した長女の慧生さんとともに、非命に倒れた曾祖父、忠光卿のそばに眠ることを望まれたのでしょう。後に、夫の溥傑氏の分骨もそばに葬られ、親子三人が祀られています。

幕末の中山家には、はっきりと事績が知られている忠光卿だけではなく、倒幕の伝説の影がちらついています。
というわけで、明日に続きます。

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