郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

伝説の金日成将軍と故国山川 vol7

2012年05月14日 | 伝説の金日成将軍
 伝説の金日成将軍と故国山川 vol6の続きです。

 数日前、母が目の手術をしまして、たいした手術ではなかったのですが、全身麻酔だったこともあり、泊まり込みで母の入院につきあいました。その間、「アリランの歌」を読み返していました。

アリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯 (岩波文庫)
ニム ウェールズ,キム サン
岩波書店


 ニム・ウェールズは、張志楽と出会う以前に、中国を舞台にしました長編小説「大地」の著者・パール・バックと知り合い、感銘を受けていました。自身、詩を作ったりもしていまして、非常に筆の立つ女性です。

 「アリランの歌」の冒頭、ニム・ウェールズの宿泊所にキム・サン(張志楽)が姿を現して、物語が幕を開けるのですが、ドアがわりの青いカーテンを手でまきあげ、際だって背の高い男性が、逆光の中に姿を現します。障子窓の外は、雨です。
 臨場感あふれる描写に引き込まれて、おそらくは、ニム・ウェールズの想像力による部分も多々あるのでしょうけれども、読み終わったとき、歴史の狭間に消えていってしまいましたキム・サンという人物が、とても愛おしくなってまいります。そして、そのキム・サンが、「一番の親友」という呉成崙も、また。

 それはもちろん、ニム・ウェールズの筆の力によるものなのですけれども、キム・サン、張志楽の語りがすばらしくなければ、ニム・ウェールズの心がゆさぶられることはなく、この本は生まれなかったでしょう。
 私、これまで仕事で、インタビュー記事をけっこう書いてまいりました。めったにないことなのですが、語りがすばらしければ、もう、それをただ忠実に筆記しますだけで、名文になります。

 『坂の上の雲』と脱イデオロギーに書いておりますが、司馬遼太郎氏のお話をうかがった故・石浜典夫氏が、そういう語り手でおられまして、おっしゃることをそのまま筆記しただけなのですが、私は、自分が過去に書きましたインタビュー記事の中で、満足がいきましたのは、このときのもののみです。
 石浜氏は元新聞記者、それも司馬氏の弟子でおられましたが、張志楽も、自らが小説や詩を書く人でした。

 ではなぜ、張志楽は、自分が書こうとしなかったのか。
 それは一つには、英語で書かれることによりまして、朝鮮独立を望んでいる自分たちのことがもっと世界に知られることを望んでいた、ということが大きいと思うのですが、もう一つ、「自分にはもう時間がない」と悟っていたのではなかったでしょうか。
 粛正されることがわかっていた、とわけではないでしょうけれども、肺結核でしたし、安静にできる暮らしではなく、戦いの中に身を置くことを望んでいたのですから、なにも書くことができないうちに自分の命は燃え尽きると覚悟して、彼は語ったのでしょう。

 1937年(昭和12年)、延安でニム・ウェールズが張志楽に会います直前に、盧溝橋事件が起こっておりました。
 張志楽は、これによって、日中間で本格的に戦争が起こるとにらんでいました。実際、起こったのですけれども。
 以下、「アリランの歌」の「まえがき」より、張志楽の言葉の引用です。

 「戦争状態にはいったら、私はすぐ朝鮮人パルチザンを連れて満州にはいり、日本人と戦うつもりです。一番の親友が現在満州の第一軍の師団長をしていて、いっしょにやろうとたびたび手紙をくれます。この師団は朝鮮人七千人で編成されているんです」

 「第一軍の師団長」という言い方はおかしいですし、東北抗日聯軍第一路軍は、中国人も含めた数で、中共側資料(『中共延辺党組織活動年代記』『東北抗日聯軍闘争史』など)から6000人あまり、日本側資料(『満州共産匪の研究』)では1630人ほどです。
 吳成崙(全光)は第一路軍の政治主任なんですが、朝鮮人の数が多く、金成柱(北朝鮮の金日成)もいた、第一路軍第二軍の方の政治主任だったようです。

 しかし、張志楽がいう「一番の親友」は、まぎれもなく呉成崙です。
 張志楽は、この翌年、33歳の若すぎるその死の瞬間まで、満州の呉成崙のそばへ行くことを、願っていたにちがいありません。
 
 「まえがき」に続く「序章ーアリランの歌」からは、一人称のキム・サンの語りとして書かれています。
 
 朝鮮には受難の人々の真情からわき出た古い美しい民謡がある。深く心を打つ美が常に悲しいように、この歌も悲しい。朝鮮が永くそうであったように、この歌も悲劇的である。美しく悲劇的であるが故に、この三百年というものこの歌は全朝鮮人から愛されてきた。

 歌の意味は幾多の障害をのりこえた末にあるものはただ死ばかりであることを表わすもので、生のうたではなく、死のうたなのである。ただし、死は敗北ではない。多くの死から勝利は生まれよう。われわれの仲間がこの古い「アリランの歌」に新たな歌詞を書き加えるだろうが、最終の章はまだ書かれていない。われわれの多くは死に、さらに多くが「鴨緑江を渡って」逃げた。しかしわれわれの還る日は遠くはあるまい。

 男性が歌うアリランで、キム・サンが語る悲しみがこめられているものを、とさがしたのですが、韓国語のものでは見つかりませんで、白竜になりました。
 昔、乙女のころ、渋谷のライブ・ハウスで、生で聞いたことがあります。
 それに、この若いころの白竜は、呉成崙に似ていると思うんですよねえ。

 白竜 「アリランの唄」


 
 下は、昭和16年(1941年)、投降して一月ほど後、吉林討伐隊司令部における吳成崙です。満41歳になるはずですが、討伐隊側では39歳と思っていたようです。
 東アジア問題研究会編著、株式会社成甲書房発行「アルバム・謎の金日成〈増補〉ー写真で捉えたその正体ー」より、転載です。



 決して美形ではないんですけれども、とても個性的で、雰囲気が似ていませんか? 白竜に。
 「アリランの歌」を読みました後、この写真を見て、私はなにか、訴えかけられているように、感じずにはいられませんでした。
 百年近く昔、強い絆で結ばれていました二人の青年は、共に不本意な死を迎え、しかし魂は、「鴨緑江を渡って」故国へ帰ったのでしょうか?

 確かに、日本は敗れて、大陸から手を引きました。
 とはいえ、破れましたのはアメリカに、であって、ソ連にも中華民国にも敗れたわけではありませんし、朝鮮半島も自力で独立をもぎとったわけではありませんでした。
 二つに分かれました故国。わけても、共産主義の瘤妖怪、金成柱が金王朝を打ち立てました北朝鮮のその後に、二つの魂……、いえ、金光瑞もいますし、悲劇的に人生の幕を閉じた無数の闘士たちの魂は、果たして勝利の歌をうたえるのでしょうか?
 彼らにとって、最終の章はまだ書かれていないのだと、私には思えます。

 伝説の金日成将軍と故国山川 vol4のコメント欄に書いておりますが、かつて、T.K生という匿名で岩波の雑誌「世界」にコラムを持ち、北朝鮮を擁護しておられました韓国人の池明観氏が、実際に北朝鮮を訪問し、言っておられます。
「北の状況をひとことでいえば、1945年以前日本の統治下にいた時よりももっとひどい状況にあります。私は北に行って来て、北に対して何をどうすればいいのかわからなくなってしまった」

 池明観氏は、大正13年(1924年)、平安北道定州、現在の北朝鮮に生まれ、日本の統治を身をもってご存じです。
 その池氏が、そうおっしゃったのですから、故国の独立のため、非命に倒れた多くの魂が、安らぎを得ていようとは、私にはとても思えないのです。
 
 前回に書きましたが、張志楽は1905年(明治38年)、日露戦争の最中に生まれていまして、中国側の記録では平安北道龍川郡出身だそうです。
 家は貧しい農家でしたが、兄の一人が当時まだ珍しかった洋式の靴屋を開いていて、援助してくれたため、平壌の中学校へ通うことができました。
 1919年(大正8年)、三・一運動の後に、働きながら大学で学ぼうと東京へ渡ります。
 第一次世界大戦が終わった直後で、「当時の東京は極東全体の学生のメッカであり、多種多彩な革命家たちの避難所だった」のだそうです。

 1917年(大正6年)、第一次大戦の最中にロシア革命が起こりまして、反ボリシェヴィキ運動に民族運動が重なり、ロシアは内戦状態。1919年は、シベリア出兵の最中でした。
 しかし、当時の日本の大学生の間では、革命思想が大流行。社会科学、経済学関係の新しい雑誌も、次々に出版されていたのだそうです。
 張志楽は、クロポトキンのアナキズムに心惹かれ、「モスクワこそが新思想の根源」だと思い、1919年のうちに日本を去ります。

 したがいまして張志楽は、関東大震災を経験しておりませんで、当然、伝聞になるのですが、そしてもしかしますと、ニム・ウェールズの責任かもしれないのですが、この本の朝鮮人虐殺描写は、荒唐無稽です。地震で死んだ者が、すべて虐殺されたことになったとしましても誇大ですが、さらに大阪、名古屋でも虐殺が起こった、とされているにつきましては、目眩がしてまいります。
 この本が英語で書かれ、第二次大戦前にアメリカで読まれていたといいますのは、ちょっと考え込まされます。

 さて、一度朝鮮に帰った張志楽は、満州経由のソ連入りを試みますが、ロシア内戦のため列車が運行されていませんで、結局、南満州の新興武官学校へ入ります。
 そうです。新興武官学校は、金光瑞が、擎天と名乗って教官を務めた学校です。
 しかし、張志楽の入学は1920年(大正9年)のことでして、擎天がハルピン経由でシベリア入りしましたのと入れ違いとなり、擎天には教わっていないようです。

 新興武官学校の学習期間は三ヶ月で終わり、同年の冬に、張志楽は上海へ行きます。
 1920年当時の上海には、大韓民国臨時政府があり、朝鮮独立を目指す多くの活動家が集まっていました。
 その上海で、張志楽は、義烈団に属していましたアナキストにしてテロリスト、吳成崙に出会います。

 私が上海で吳成崙に会った頃、彼は三十歳前後、私はまだ十六歳だからその時は親しくならなかったが、数年後の広東では私の生涯を通して二人の親友のうちの一人となった。

 呉は非常に強い性格でおのずと人々の頭に立った。忠実に彼に従う者は多かったが、敵も多かった。私は彼に気に入られて特別の子分にしてもらい、一九二六年以後二人で組んで仕事をした。私たちの革命活動においては彼が黒幕を務め、私が表向きの指導者だった。
 呉は控え目のもの静かな人物で、あけっぴろげではなかった。彼の一生は秘密のうちに過ぎ、ともに何度も死に直面したことのある私でさえ彼の身の上のすべてを聞いてはいない。彼は言葉に信をおかず、ただ行動のみを信じた。容易に人を信用せず、長く知り合ったのちはじめて信用した。一旦決意すればめったなことでは変わらなかった。
 中背で、感じがいいがハンサムではない、モンゴル風に頬骨が高く、広い額には濃い髪がかぶさっている。健康そうでたくましい。美術と文学が好きで、故郷の村では教師をしていたことがあった。ロシアの虚無主義者と無政府主義者に影響を受け、一九一九年に義烈団に加わった。


 この「私たちの革命活動においては彼が黒幕を務め、私が表向きの指導者だった」といいますキム・サンの回想から、私は、東北抗日聯軍において、吳成崙は金成柱(北朝鮮の金日成)を金日成と名乗らせて表向きの顔とし、黒幕を務めたのではないか、と推測したんです。
 そうであってみれば、在満韓人祖国光復会の組織など、吳成崙の業績を盗んだにしましても、吳成崙は満州国に投降してしまった人ですし、金成柱にはまったくもって、後ろめたさはなかったんでしょうし、ね。

 若き日の金成柱には、それなりの魅力があっただろうことは、私にもわかるのですが、吳成崙もまた、とんでもない人物を選んで、表向きの顔にしてしまったものです。
 しかし、ひるがえって考えてみますと、張志楽のようにインテリで、繊細な感受性を持つ人物では、するりと危機をすりぬけることは難しい、ということが、呉成崙にはわかっていたのかもしれません。愛しながらも、ですが。
 東北抗日聯軍におきましては、教養が無く、神経が図太く、しかし要領が良く、機敏にたちまわることができた金成柱を表向きの顔にし、しかし、どうにも好きにはなれませんで、延安の張志楽に、「そばに来てくれ。いっしょに戦おう」と、たびたび手紙を書いた、ということなのでしょう。

 韓国映画に「アナーキスト」という義烈団を扱った作品がありますが、登場人物はすべて架空で、空想ドタバタ劇のようです。風俗でもそれらしくやってくれていたらいいのですが、現代的すぎまして、映像が平板で、ノスタルジックじゃないんですよねえ。

The Anarchist (2000) - ????? - Trailer


 吳成崙は、1900年(明治33年。1898、1899説もあります)、咸鏡北道に生まれ、幼い頃、家族とともに豆満江を渡り、和龍県(現在の吉林省和竜市)傑満洞、つまり間島、現在の延辺朝鮮族自治州に移り住みました。
 張志楽より五つ年上なだけでして、上海で知り合ったときに張志楽が16歳だったというのですから、吳成崙は21歳のはずですが、実際より10も年上に見られていますから、よほどふけて見える容姿だったのでしょう。

 独立運動のための武装テロ組織・義烈団は、1919年、吉林省におきまして、吳成崙より二つ年上の金元鳳(金若山)が中心となって立ち上げました。
 確証はないんですが、呉成崙もかなりはじめからメンバーに入っていたようでして、金元鳳は、金擎天が教官をしておりました時期の新興武官学校を出ました直後に、義烈団を結成しています。
 吳成崙は、もともと実家が吉林省にありますし、金元鳳とともに新興武官学校で学んでいて、金擎天に教わった可能性は、相当に高いと思います。

 1922年(大正11年)3月28日、吳成崙は上海黄浦灘で、陸軍大将・田中義一を狙撃します。
 「アリランの歌」の記述は、まず起こった年を1924年と2年まちがえていまして、さらに、以下の部分も、おかしなことになっています。

「田中は日本の領土拡張政策の主要な理論家であり、有名な田中書簡を書いた人物で、その反動的な征服計画は全中国人、朝鮮人および自由思想の日本人から甚しく憎悪されていた」

 補注にもあるのですが、「有名な田中書簡」とは、いわゆる「田中メモランダム(上奏文)」のことでして、今現在もアメリカには、これを信じる人々が存在するそうですが、学問的に、偽造文書であることがはっきりしています。

 しかし、ニム・ウェールズが話を聞き取り、この本を書きました時期には、他ならぬニムの夫エドガー・スノーがアメリカに紹介し、反日宣伝をくりひろげまして、多くのアメリカ人が本物と信じていたわけですから、ニムが田中メモランダムで有名な人物、と書くのは致し方がないのですけれども、いったい、ちゃんとメモランダムを読んで書いているんですかねえ。
 あるいは夫に、いいかげんに内容を聞いただけだったのかもしれません。
 これは、昭和2年(1927年)、田中義一が昭和天皇に上奏したという触れ込みの偽書でして、吳成崙の狙撃はその5年前ですから、狙撃の理由にはなりえないんですよね。

 吳成崙が田中義一を狙った理由は、田中がシベリア出兵のときの陸軍大臣であったことと、たまたま上海に姿を現したから、でしょう。
 どうも、ですね。
 このように、ニム・ウェールズが調べて書いた、と思われます部分には、相当にいいかげんな記述も多いのですが、具体的な吳成崙の行動につきましては、非常にコミカルになっていまして、あまりにおもしろく、これはこれで、どこまでほんとうなのかと、思わずにはいられません。

 田中が船をはなれた時、彼の前をアメリカの女が歩いていた。田中が八メートルほどのところに来ると呉が射った。アメリカの女は驚いてふりむき、田中に抱きついた。呉は確実に狙いを定めてそらさず射撃を続けたので、正確に女の体の同じ所に三発あたった。田中が倒れて死んだふりをしたので、呉成崙は成功したものと思って巧みに逃れた。

 無茶苦茶です。
 この「アメリカの女」はシュナイダー夫人だったと言われ、死亡という説と重傷だったという説と、あるのですが、いずれにせよ、田中義一は傷一つ負わなかったのですから、とんでもない失敗ですよねえ。

 呉成崙は逃げながら追って来る巡査何人かに傷を負わせバンドから漢口路まで来て自動車にとび乗り運転手をおどかしたが、車を動かすことを拒まれて呉は運転手を蹴り出してしまった。車の動かし方をよく知らなかったのだが、何とか道を通り抜けようとしてエドワード七世通りまで行ったところで他の車に衝突してしまい、イギリス人に逮捕された。フランス租界の住人だから、イギリス警察は呉成崙をフランス人に渡し、フランス人が日本領事に引き渡した。
 彼は領事館の三階の、扉と窓に鉄棒をはめた房に閉じこめられた。同室に五人の日本人がおり、一人は大工、一人はアナーキストで、呉に同情して逃亡を手伝ってくれた。
 日本人の娘が鋼鉄の小刀を届け、呉は大工に教わりながら扉の錠のまわりに穴をあけた。ある夜、彼とアナーキストとは扉を開け、真赤な囚人服を着たままで囲いのへいをのりこえて逃げた。他の日本人は短い刑でしかなかったから、企てには乗ってこなかった。
 呉がアメリカ人の仲間のところに行って三日間かくれていた間、イギリス、フランス、日本の警察は上海中の朝鮮人の家をとり囲み捜査していた。彼の写真はそこら中にばらまかれ、五万元の賞金がかけられた。


 少なくとも、吳成崙が逃げたことは、本当です。
 私、アジア歴史資料センターで、お間抜け領事館の電報文を見つけました。外務省外交史料館/外務省記録/レファレンスコードB03040762000です。

 〇二八五 暗 上海発本省著 大正十一年五月二日后二、四五 四、三〇 主、 内田外務大臣 船津総領事 第一一〇号 田中大将狙撃犯人二人ノ中呉世倫ハ厳重ナル監視ヲ為セルニ拘ラス手足ノ鎖鑰ヲ破リ更ニ監房ヲ破リテ本日午前二時項逃走セリ工部局警察ニ交渉シ各方面ニ亘リ極力捜査中ナリ 在支公使ヘ転電セリ 暗 大正十一年五月四日 大臣 在米大使宛 第二二七号 電送第三三六〇号暗 大正十一年五月四日前后六時〇分発 情報@舩津総領事ノ報告ニ依レハ田中大将狙撃犯人中逃走セル呉世倫ノ逮捕者ニ五百弗ノ懸賞金ヲ提供シ極力捜査中ナリ@ 六九八五 暗 上海発本省着 大正十一年五月三日后三、〇〇 三日后一〇、〇〇 主@、会、 内田外務大臣 船津総領事

 いまちょっと、手元になくて確かめられないのですけれども、「『アリランの歌』覚書―キム・サンとニム・ウェールズ」という本には、張志楽の小説「奇妙な武器」が収録されていまして、これは、このときの呉成崙の体験をもとに描いた短編です。確か、この電報の「手足ノ鎖鑰ヲ破リ」というような部分も、リアルに描かれていたように記憶しています。
 張志楽は詩も作ったそうなのですが、これにも吳成崙が題材のものがあって、ほんとうに張志楽は、吳成崙が好きだったんだと思います。

 「アリランの歌」によりますと、吳成崙は、広東に逃げ、パスポートを偽造してドイツへ行きました。
 嘘か本当かわかりませんが、「ベルリンではドイツ娘が彼に夢中になり、彼女の家族のもとで一年暮らした」そうでして、その後、ソ連領事館で手はずを整えてもらって、1925年(大正14年)にモスクワへ行き、共産党に入って、東方勤労者共産大学で学びました。
 翌1926年、吳成崙はウラジオストックから、再び上海に渡ります。

 このとき、ウラジオストックには金光瑞(擎天)がいて、朝鮮師範大学の日本語と軍事学の講師を務めていたはずです。前年、彼が妻子をウラジオストックに呼び寄せたことは、確かなのですし。
 とすれば、東方勤労者共産大学で学び、おそらくはかつて新興武官学校で金光瑞の教え子でした吳成崙は、金光瑞に会っただろう、と推測されます。
 これらのことを思い合わせまして、私、金日成伝説の流布には、吳成崙が一役買っていたのではないか、と思ったりするのですよね。

 一方の張志楽は、北京へ行って医学生となり、1925年まで在学します。北京で、吳成崙と並ぶもう一人の親友だという金忠昌(1898-1969)に出会います。その影響もあって、マルクスを本格的に学び、共産主義者となります。
 そして、 1926年(大正15年)の暮れ、広州におきまして、張志楽は吳成崙と再開し、生死をともにすることになります。

 なぜ広州か、ということなんですけれども、私、中国共産党の歴史は、まだちゃんと勉強しておりませんで、ちょっといいかげんな要約になるかもしれないんですけれども、とりあえず。
 1917年(大正6年)に起こりましたロシア革命の成功は、世界に衝撃を与えました。
 なにしろ、共産主義国家が、まがりなりにも現実に誕生したわけなのですから。
 1919年(大正8年)、そのロシア共産党が指導しまして、国際共産党組織コミンテルンがモスクワで発足します。

 1920年(大正10年)、シベリアにコミンテルン極東支局が誕生しまして、その指導の下、1921年には中国共産党が結成されます。日本共産党の成立の一年前のことです。
 生まれたばかりの中国共産党は、コミンテルンの指導のままに、1923年(大正12年)、北京の北洋軍閥政府に対抗しまして、孫文が率います国民党と第一次国共合作を遂げます。これによりまして広州には、ソビエト連邦の支援を受けました第三次広東政府が樹立されました。

  つまり、広州には、共産党員が入閣しました政府が成り立っていたわけでして、黄埔軍官学校もできましたし、共産党員となりました張志楽や吳成崙も、広州につどうことになったんです。
 「アリランの歌」より、キム・サンが語ります広州の日々の吳成崙です。

 呉は黄埔軍官学校の兵科でロシア語を教えた。また階級闘争や国際問題について論文を書き、ソ連邦について講話を行なった。詩がきらいで、それを時々書くからといって私を青二才扱いしたが、感情を表わさないだけで実は私同様悲しいものが好きだった。

 ところが、1925年(大正14年)、孫文が病死し、黄埔軍官学校の校長でした蒋介石が主導権を握り、やがて反共に転じます。
 各地で、共産党員が排除、逮捕される事件が相次ぎ、1927年(昭和2年)、第一次国共合作は終わりました。
 1927年8月1日、中国共産党は江西省南昌で蜂起しますが、失敗し、広東方面に向かって、海豊県、陸豊県に集結し、海陸豊ソビエト政権を作りました。

 張志楽と吳成崙は、この間、ずっと広州を動いていませんでしたが、コミンテルンの指令があり、1927年12月に起こされました広州蜂起に参加します。
 結局、この蜂起も失敗に終わり、張志楽と吳成崙は退去し、海陸豊ソビエトに逃げ込みました。
 張志楽がここで目撃しましたことは、農民たちが集団で、ろくな裁判もなく、にこにこと笑いながら、生きながらに、地主とその家族たちの両手を斬り、両目をえぐって、胴を切断する、といった、共産主義革命の残酷な実体です。

 私には、トルストイを愛する人道主義者だった張志楽が、なぜ、ここで共産主義に絶望しなかったのか理解できないのですが、衝撃を受けながらも、一生懸命、それはかつて地主が残酷だった反動だと、自分に言い聞かせていたようです。
 ともかく。
 すでにこのとき、海陸豊ソビエトは包囲されていたのですが、1928年5月まで、持ちこたえたと言います。

 張志楽と吳成崙は、戦闘に加わって転戦し、山中を逃走します。
 7月、サンパン船で香港に逃げようとしましたところ、待ち伏せにあって銃撃され、張志楽は、呉成崙とはぐれました。

 水からはい上がって蛇のように草にもぐり、村へ向かった。闇の中でつまずいて転んだように私の頭はからっぽで、狂気にとりつかれたようにただ呉は死んだか無事かとばかり問い続けていた。

 結局、張志楽は一人で香港へたどり着き、病が重くなったところを朝鮮人の商人に助けられて、上海へ行きます。

 或る日、ジャンクの帆柱が林立し、それぞれ重々しく旗をかかげた諸外国の砲艦が不気味に並ぶ黄浦港を眺めながら、あてどもなくフランス租界の海岸通りを歩いていた。ふと目を上げると、一つの顔が私の方に向かって来るのが幻覚のように見えた。まさか? 顔はだんだん大きく浮かび出て、夢の中にいるようにぼんやりと私の目の前に迫ってきた。なじみのある、荒れた手が私の手をつかみ、しわがれた二つの声が同時にささやきかけた。「死んだと思っていたよ!」。二つの体は同じ血と肉でできているかのように、次の言葉も出せずに、何分かはそのままくぎづけになっていた。やがてゆっくりと、涙が彼の顔を流れおちた。彼が泣く姿を見せたのははじめてだった。

 吳成崙でした。
 1929年(昭和4年)の春、張志楽は、共産主義活動のために北京へ移ります。
 呉成崙は体を壊していて、上海に残りますが、1930年(昭和5年)の秋、満州へ行きます。前回の伝説の金日成将軍と故国山川 vol6で、アジ歴の日本側資料をご紹介しておりますが、昭和5年の9月、吳成崙が満州で活動しておりますことは、確かです。

 再び、二人はめぐり会うことなく、それぞれの生を終えるのですけれども、キム・サンが語った吳成崙は、なんと魅力的なことでしょう。そして、ニム・ウェールズが、「アリランの歌」に二人の姿を書きとどめてくれましたのは、なんという僥倖でしょうか。

 もう少し、吳成崙を追いたいのですが、長くなりましたので、今度こそ、あと一度だけ、次回に続きます。

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1 コメント

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胸にぐさり (お初)
2014-12-03 22:16:47
「故国の独立のため、非命に倒れた多くの魂が、安らぎを得ていようとは、私にはとても思えないのです。」この言葉が胸にぐさりと突き刺さりました。私にも「こんなはずじゃなかった」と思っている魂が数多くあると思えてなりません。朝鮮半島が置かれた地政学的な位置と相まった「民族」の業というか、色々な要因が絡み合って一筋縄ではいかないような状況が今も続いています。パレスチナ問題や、宗教絡みの中東問題も根が深いですが、朝鮮半島問題も、なかなか大変です。
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