珍大河『花燃ゆ36』と史実◆高杉晋作と幕長戦争の続きです。
2015年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」続・完全読本 (NIKKO MOOK) | |
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なんとも、ふざけたお話です。
世子の持病のお薬が京にはないから、美和さまがお届けがてら、久坂の落とし子探しをさせてもらう!って、馬鹿も休み休み言えっ!!!ですわ。薬を欠かせないような持病があるなら、普通、侍医が従軍しますし、どーしても薬を届けなければならないなら、小姓が行きます。
なんでもこうも、常識の無い方がシナリオ書くんでしょ!
で、スーパー・ナニー美和さまは、どういう突風に乗って、いつの時代の京へ行ったというのでしょうか。
えー、前回、奥女中の鞠さんが「美和さま、今知らせが入りました。京で戦がはじまるようです」と告げ、京へ向かった世子にお薬を届けがてら、久坂の落とし子をさがしに、美和さまは京へ向かったわけなのですが、まず、京で戦がはじまる、というのですから、その戦とは鳥羽伏見の戦いのことではないか、と思うのですが、史実では、世子が京へ向かって山口を出発しましたのは、鳥羽伏見が薩長の勝利に終わり、徳川慶喜が会津桑名の藩主を連れて江戸へ逃げ、大阪城が落城して後の慶応4年(明治元年1868)1月22日のことでして、もう、なにがなんだか、です。
えー、いったいいつ、どこのことなのやら、わけもわからず、旅姿の美和さまは男たちにからまれまして、逃げ込んだ路地で、偶然、辰次さんとその子に出会う、といいます、馬鹿馬鹿しいにもほどがある設定で、辰次さんいわく「今の京にはあんた、脱藩浪士がうようよいてるんやから」って、あーた、文久年間、京にうようよいました脱藩浪士は、死ぬか投獄されるか長州にいるかですわよ。だいたい史実では、坂本龍馬も後にそうなりますが、長州まで久坂を慕ってきた脱藩浪士やその卵を、文さんは手厚く持てなしたはずですし、辰次さんもずいぶん、お座敷で脱藩浪士の相手をしたはずですのに、なんでここまで脱藩浪士を馬鹿にするでしょうか。大阪城が落ちて、略奪をしましたのはごく普通の地元の住民たちで、脱藩浪士じゃありませんから。
そして、禁門の変とちがいまして、鳥羽伏見の戦いは、京洛中の花街はまったく戦火とかかわりはありませんでしたから、薩長兵歓迎で相当に忙しかったはずでして、戦争の時こそ芸者さんの稼ぎ時ですし、長期の近代戦じゃないんですから、食べ物がないなんて、ありえません。
さらに文句をいえば、品川弥二郎は、絶対にありえへん高杉を狙う刺客、なんぞといいます妙ちきりんな役を割り振られましたあげくに、薩摩との連絡役として、薩長同盟に大きな役割を果たした史実はすっぽりとぬかされ、錦の御旗を作ったことまで無視されてしまいましたわね。一方、野村靖は、この時期京にはいませんでしたのに。
で、NHK独自創作のラブストーリーが、またまた気持ち悪いかぎり。
「日本のナニーになる!」と決心しましたスーパー・ナニー美和さまに、初恋の楫取さまが「わしがそばにいてお前をささえてやる」と、堂々の不倫宣言!です。
いや、だから、妻をほっぱりだして、義妹とたわむれるな! 馬鹿め。という、とんでもない結びでございました。
さて、本題です。
幕長戦争 (日本歴史叢書) | |
三宅 紹宣 | |
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三宅紹宣氏の「幕長戦争 」には、「幕長戦争をめぐる国際問題」という章があります。
ちょうど、ですね。この時期、フランスはロッシュ公使が日本へ赴任していまして、前回述べました、フランス海軍によります富士山丸の取り扱い伝習から発展し、横須賀製鉄所(製鉄所という名前ですが、要するに本格的なドックです)の建造をフランス人に任せ、同時に三井を介しましてフランスに生糸独占取り引きをさせようと、幕府が着手しておりました時期です。
これって、私がこのブログを書き続ける動機になりました事件でして、関心がおありの方は、最初の経緯はモンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1あたりを、幕長戦争とのからみは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3あたりを、ご覧になってください。
三宅紹宣氏は、イギリスのパークス公使が、幕府が戦場となることを想定して下関の外国船通過を禁止しようとしたことに抗議し、幕府の下関攻撃にも懸念を示し、幕府に雇われて兵士・武器弾薬を運んでいたイギリス商船に対します長州の砲撃(空砲)を黙認し、イギリス商船が幕府に協力することを禁止するなど、暗黙のうちに、長州政府が幕府と対等の立場で交戦権を持っていると認めていたことを、指摘されています。
一方、フランスのロッシュ公使が幕府の支配を認める立場だったことが述べられ、しかし長州は盟約関係にあった薩摩から、「ロッシュとフランス本国の意志は乖離している」と知らされたことが、「吉川経幹周旋記5」に見える(西郷従道が岩国藩に伝えた)のだそうです。
薩英戦争と下関の長州攘夷戦争によりまして、日本と条約を結びました欧米諸国は、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない」という認識を、噛みしめるようになったといえるでしょう。モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2あたりに書いておりますが、それは薩摩藩が、欧州にまで出かけていって、そういった認識をひろめたからでもあるのですが、一方、ドイツが統一戦争の最中、イタリアのリソルジメントが現在進行形でした当時の欧州におきまして、簡単に理解できることでもありました。
幕長戦争は、いわば、「日本は統一国家であって将軍がその実質的支配者だ」 と主張します幕府と、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は、実質長州藩主と同等の存在でしかない」と主張しています長州の戦いであった、と言い換えることも可能でしょう。
そうであったときに、です。関門海峡の制海権をどちらが握るかは、最大の争点であった、といえます。
海国兵談 | |
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林子平は、寛政の三奇人の一人で、 寛政5年(1793年)に55歳で没していますので、幕末というには少し早い時期の人物でした。
マリー・アントワネットより十数歳年上で、死んだ年は同じです。つまり、フランス革命の最中に世を去りました。
彼の著作「海国兵談」は、先見の明をもって、海防の必要性を訴えたものだったのですが、幕府の政策の不備を批判していましたため、発禁とされました。
海国は、外寇の来たりやすきわけあり。また来たり難きいわれもあり。その来たりやすしというは、軍艦に乗じて順風を得れば、日本道二、三百里の遠海も一、二日に走り来るなり。このごとく来たりやすきわけあるゆへ、この備えを設けざれば、かなはざることなり。また来難しといういわれは、四方みな大海の険ある故、みだりに来たり得ざるなり。しかれども、その険をたのみて備えに怠ることなかれ
江戸の日本橋より唐、阿蘭陀(オランダ)まで境なしの水路なり
要するに、以下のようなことを、林小平は、ペリー来航のおよそ70年も前に、警告していたわけです。
日本は四方を海に囲まれて、外国が攻めて来づらい国である。しかし一方、軍艦に乗って順風を得たら、二、三百里の遠くからも一、二日で来られるわけで、陸路よりも攻めやすい、ともいえる。したがって、現在のようにまったく海防を考えない日本は危うい。
江戸の日本橋から、清国やオランダまで、海は境のない水路である。
遠い昔から、瀬戸内海航路は、西日本の交通の大動脈でした。
そして、蒸気船の発達により、林子平の預言は現実となったのです。
アメリカの砲艦外交による開国で、横浜が開港し、瀬戸内海は、横浜と長崎を行き来する武装外国船の通路ともなり、瀬戸内海沿岸の住民たちは、否応も無く自分たちが無防備であることを、思い知らされました。
江戸が海に面した都市であったために、アメリカの砲艦外交は非常な力を発揮したわけなのですが、内陸の京都といえども、瀬戸内海通路の拠点、大阪、兵庫から、それほどの距離があるわけではありませんし、幕末、まさに海は、無防備な日本を、その中枢まで、侵略の脅威にさらすこととなったわけなのです。
関門海峡は、上方に直結します瀬戸内海の入り口であり、交通の大動脈の要です。
海峡の制海権を得ることで、長州は対外的に、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍と長州藩主は対等である」ことを、証明できるのです。そして、制海権を得るためには、対岸の小倉藩領(小笠原家)を占領する必要があります。
つまり、短距離とはいえ、軍団の渡海の必要があり、そのためにはやはり、どうしても蒸気船が欲しいところ、でした。
高杉晋作とモンブラン伯爵
上の「高杉晋作とモンブラン伯爵」に、その経緯を逐一述べておりますが、木戸(桂小五郎)が京都へ行き、一応、薩長盟約が成立し、近藤長次郎が自刃し、それでも解決しませんでしたユニオン号問題。
幕長戦争を目前にして、高杉はその解決をはかることを一つの目的とし、薩摩へ入国しようとしますが、それは果たせず、グラバーから独断でオテントサマ丸(丙寅丸)を購入します。
この時点で、ユニオン号問題の行方は不透明で、長州海軍には、丙辰丸、庚申丸、癸亥丸の木造帆船しかありません。
機動力を考えれば、たとえボート程度の小艦でも、蒸気船が必要だ、と購入にいたりました高杉の独断は、的確なものだったでしょう。
無事、長州海軍局の運用となりましたユニオン号、あらため乙丑丸とともに、丙寅丸は獅子奮迅の働きを見せます。
長州戦争―幕府瓦解への岐路 (中公新書) | |
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幕長戦争は、幕府海軍によります大島口の砲撃、兵の上陸で幕を開けます。
幕府海軍の優勢から、周防大島近海の制海権はをあきらめていました長州ですが、あるいは薩摩からの情報でもがあったのでしょうか、高杉は藩庁の許可のもと、丙寅丸で奇襲をかけます。未明のことで、たった一隻の小さな蒸気船の攻撃だとはわからず、実質的被害はなかったのですが、幕府海軍はあわてふためきます。結果、小舟によります長州軍の上陸奇襲を許し、周防大島を占領していました松山藩と幕府歩兵隊は、総崩れになって撤去に追い込まれ、幕府側は制海権を失うんですね。
大島近辺の制海権喪失は、そのまま芸州口の補給にひびいてくるようになるわけです。
なお、野口武彦氏の「長州戦争」で、松山藩兵はくそみそにけなされているのですが、三宅紹宣氏の「幕長戦争」は、かなり公平に描いてくれています。
前回もご紹介しました内藤鳴雪の自叙伝(青空文庫「鳴雪自叙伝」)では、幕府歩兵隊がやった乱行が全部、松山藩のせいにされてしまったのだそうでして、後に長州に謝罪の使者を出しましたのは、幕府がまったく頼りにならないし、長州に攻められては弱兵の松山藩はどうにもならないので、単独講和の必要があったからだそうです。
野口武彦氏は、非常に興味深い考察をなさるので、昔から尊敬申し上げていたのですけれども、けっこういろいろと、偏見をお持ちでおられ方だ、とも思ってしまいます。
その野口氏ですが、小倉口の幕府海軍につきましては、鋭く、つぎのような引用をなさっておられます。
小倉藩の史料「豊倉記事4」より
今日、戦地に彼(長州兵)が戦争中、当方(小倉藩)蒸気艦肥料丸を乗り出し、しきりに運動し大砲を打ち立て、しばしば彼が横撃をなし、彼これがために大いに苦しみたり。公船(幕府の)富士(山)丸・回天丸も時々、彼(長州)が地方(陸地)および海上彼が船に向かい発砲せしも、彼地台場(長州の陸の砲台)また船をば砲撃せず、彼地にも近づかず、独り飛竜丸のみ乗り廻り発砲するをもって、これを防がんとして彼が蒸気艦を乗り出すも、富士丸などの軍艦海上に備え向はん事を怖れて退く。
長州側の「防長回天史」にも、次のように記録されています。
「敵艦三艘新町沖に来たり、大里・赤坂の間を砲撃し、その往来を中断す。我が軍(長州)の死傷これがために多し(小倉藩記録によるに、この三艦は幕艦富士・回天と小倉艦飛竜丸なり。しかして前二艦は発砲したるに相違なきも、真に敵(長州)の台場あるいは敵船を攻撃するの活動をなさず、ひとり飛竜丸のみ真面目に活動して戦いたり)」
要するに陸戦にあわせて幕府側海軍、富士山丸、回天丸、飛竜丸も砲撃をしたが、長州側の台場、艦船をまじめに攻撃したのは、小倉藩の小型蒸気船・飛竜丸のみで、本格的な幕府軍艦、富士山丸、回天丸は、相手の砲弾が届かない距離に居て、ただ発砲しているだけだった、というんですね。
幕府海軍は、当時の日本では一番の強力な軍艦を持ちながら、脅しをかけるだけで、戦闘は避けていたわけです。
乗組員が、幕府官僚化して、サラリーマン気質になっちまっていたんでしょうね。
幕府海軍に戦闘魂が宿りますのは、江戸開城の後、脱走海軍となった後のことなんです。
海軍総督として小倉口の戦いに望みました高杉晋作は、主に長州藩奇兵隊と長府藩報国隊(支藩の有志隊で、乃木希典も所属していました)から成り立ちます陸軍と、小型蒸気船2隻、木造帆船3隻の長州海軍を率いて、海陸共同作戦の総指揮をとります。
奇兵隊と報国隊の関係は、かならずしもよくはなく、この二軍に海軍をあわせた作戦を実行できる人物は、高杉晋作しかいなかったでしょう。
幕府海軍とちがいまして、捨て身の長州海軍は、結果的に関門海峡の制海権を握りました。
陸上の占領は、制海権の確保に付随する問題でしかなく、高杉は、その機微を十分に心得、勝負勘を発揮して、長州を勝利に導いたんです。
航法計算がどれほど苦手でも、高杉晋作は、すばらしい戦闘能力を持った海軍総督となって、その短い生涯を終えました。
松山藩は、惨敗を喫しました幕長戦争で、「幕府は当てにならない」「蒸気船がどうしても必要だ」という、二つの大きな教訓を得ました。
実は、親戚筋の土佐藩で蒸気船を借りていたのですが、到着が開戦に間に合わず、幕府海軍は頼りになりませんでしたし、思いきって7万ドルの蒸気船を購入します。
鳥羽伏見でも、松山藩は、後方で少数ながら幕府方で参戦していたのですが、援軍を積んで大阪に来ました自藩蒸気船に、そのまま世子と敗走の藩兵を積んで帰って、謹慎し、かろうじて最悪の事態とはならずにすんだような次第です。
ようやく、高杉晋作と海軍について書き終えまして、次回は再び、久坂の子孫について、になりそうな感じです。まだ、ドラマを見てないんですけど(笑)
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ふと考えたのですが、最近視ていて正解だったのかなと思えてきました。この歴史的な駄作をリアルタイムで視る事が出来たのって、ある意味で良かったのかと・・。
初めから複数の脚本家が滅茶苦茶に作ってたのに、途中から脚本家の交代で登場人物の性格が変わったり、複線として用意されていたと思われるものが完全に無かったものとなったり、ファンタジーの枠でも括れないような物語としてもアウトなモノとなったこの大河は、後世に語り継がれるかもしれません(笑)。
松山藩の戦後の行動は、とても迅速でしたよね。大島の件の謝罪なんてのも素晴らしい判断でした。松山藩の事は詳しくないのですが、松山藩が海軍力の必要性を感じた事が後の秋山真之を生みだした事に繋がってくるのでしょうか?
三宅紹宣氏の「幕長戦争」は僕も持っていてかなり参考にしています。野口武彦氏の「長州戦争」も今度手に入れようと思っています。
こういった感想を郎女さんのブログでも度々見かけます。
確かに今年のあの大河のおかげで、こうして郎女さんのブログを楽しく読ませて頂く事が出来ているという、そういった良い面がある事も事実で、それを否定する訳ではありませんが、私の個人的な感想としましては、歴史上の人物に対するあまりの無礼さに対して、正直憤りが隠せません。
以前こちらのブログで拝見したと思うのですが、村上もとか氏の「JIN仁」における桐野の扱われ方に危惧を覚えられたという、郎女さんのご感想を拝見した記憶があります。
今回の文(美和)および久坂玄瑞の扱われ方は、それ以上に酷いと私は思います。
特にこのドラマにおける女性キャラクターの扱われ方は、制作者達の俗悪な神経がそのまま反映されているかのようで、このままでは杉家の(松陰の)姉妹の方々があまりにもお気の毒過ぎると思います。
文さん、千代さん、寿さん達のちゃんとした物語を作って差し上げて、今年のあの大河のイメージを上書きしてあげる必要があると私は思います。
郎女さんにお話しを書いて頂ければ、喜ばしい限りです。
秋山家は、村上水軍関係者の末裔だと伝えられていたんだそうなんです。御徒という低い身分の家でしたから、もともとは河野家(戦国時代までの中予の支配者)に仕えていて、帰農し、後から入ってきた久松家に仕えるようになったものかもしれません。
河野家の家臣団は、村上水軍がその代表ですが、周防に住み着いた者が多いんです。伊藤博文がそういう血筋だと伝えていますし、小田村家や松島家、久坂家なんかもそうだったみたいです。
ちょっと前にNHKで、モト冬樹のファミリー・ヒストリーをやっていまして、曾祖父の武東晴一氏は、岩国の高森の庄屋の息子だったそうですが、幕長戦争のときに有志隊に入って芸州口で戦い、維新後は御親兵になって東京へ出て、明治7年からは警視庁勤務だったんだそうですが、この武東家がやはり、伊予の河野家の家臣だったと、伝えていたそうです。
周防大島は両村上水軍の移住地ですし、松山藩のお船手組も二神水軍やら忽那水軍の末裔なわけでして、交流はかなりあったはずです。
といいますか、実際、三津浜あたりの家と周防大島の住人には、婚姻関係もかなりありましたし。
内藤鳴雪は、大島で戦死した松山藩士を、島民が丁寧に葬って墓を建ててくれたと、感謝して書いていますし、実際、乱行はほとんどが幕府歩兵隊のものだという鳴雪の言葉は、嘘ではないと私は思います。
えー、私、昔からなのですが、人物をちゃんと描写する力がないんじゃないのか、と思うんですのよ。それで、やたらに時代相を書きたがるものですから、最初に時代を説明している段階で、「導入がこんなに長井とだれも読んでくれない!」と思い始め、挫折するパターンが、もう幾度か。
今回も、序章は調子よく書けたのですが、挫折していたところで、ドラマがはじまってしまいました。
文さんを主人公にしようとすると、やはり無理があるのではないか、と思い、最初から、そういうつもりではいたのですが、もっとはっきり、語り手にして、幕末群像が書けないものかと、今、構想を練り直しています。
山本氏には「書く書く詐欺だ」と言われ、自分でも、このままでは、なにもまとまったものを書かないで死んでしまう、と心配になってきました。
団子岩に立ったときの感動を、思い起こして、がんばってみます。
ありがとうございます。
幕末の「攘夷」につきまして、なのですが、非常にわかりやすく解説くれている本がありました。青山忠正氏の「幕末維新」です。
http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E7%B6%AD%E6%96%B0-%E6%96%B0%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%BE%80%E6%9D%A5%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9D%92%E5%B1%B1-%E5%BF%A0%E6%AD%A3/dp/4404038755/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1443060320&sr=1-2&keywords=%E9%9D%92%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E6%AD%A3
この本に、まったく文句がないわけではないのですが、半藤一利氏のように、史料をまるで読まないでいいかげんにまとめられたものではないですし、基本、史料に基づきながら、一般に読みやすくまとめられております。今回、初めて知った本なのですが。
攘夷の急先鋒でした三条や東久世が、維新がなったとたんに外交官となりました機微など、頷けるところです。
私、乃木希典と玉木正諠についてこのブログで書いておりまして、正諠が一粒種を残したと知り、そして、ネット検索で見ます限り、その跡が途絶えているのではないかと思って、とても残念な気がいたしました。世の中の変化は激しいですし、彼らの思いを、また新しい形で、誰かがまた後世に伝えうれば、すばらしいと思います。
自分の感情を制御しないまま勢いに任せて乱暴な文章を書いてしまいまして、誠にお恥ずかしい限りです。
実際、小説を書くというのは大変な作業ですよね。
郎女さんが過去に書かれた記事をよく拝読しておりますが、その知識の量に圧倒されまして本当に尊敬しておりますので、すぐにでも小説を書いて頂けるものと勝手に思い込んでしまっておりました。
もし小説を書くのが難しいのであれば、伝記等、普通の幕末関連の書籍などをお書きになる事はないのでしょうか?このブログに書かれている内容だけでも既に何冊かの本になりそうな情報量だと思います。もし出版されるのであれば私は絶対に買いますよ。
郎女さんの小説の完成を心からお待ち申し上げております。
最後に、もしも私に小説を書く才能があったとして、更に郎女さん程の幕末知識があったとしたら、私は敢えて「花燃ゆ」とかなり似通ったプロットの「杉家の三姉妹」「松陰の妹たち」といった小説を書こうとしたかも知れません。「花燃ゆ」に便乗して、「これが本当の杉家のお話です」と、世に問う形で。
う~ん、やっぱり浅ましいかなあw
しかしそうは言いましても、そもそも私には男兄弟しかおりませんので、姉妹の人間模様を描くのは所詮無理な話でしょうけど。
私も、最初はおっしゃるような便乗のつもりでいたのですが、私のくせで、次々に新しい事実が出てきますと、なんとなく、思い描いたこととちがう部分も出てきたりしまして、もう、あんまり便乗は考えないことにしました。
浄土真宗とのつながりとか、絶対に、NHKではとりあげられそうもないこともありますし、そういったことは、ちゃんと書きたいかなあ、と。
実のある狂言回しになってくれたら、いいのですが。
青山氏の「幕末維新」の攘夷感なのですが、私は、まったく文句がないわけでもありませんで、それはまた、ブログの方に書きます。
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
の傷は根深い、と思わずにはいられません昨今です。
したがいまして、幕末のイデオロギーに関しましては、シカゴ学派のアメリカ人の方が、正当な評価をしてくれている気がします。
この数年、イデオロギーによる史実がいかにバイアスがかかっているのかがわかり、外から客観的に日本を俯瞰しているA.ゴードンの日本の200年のような本を読んで(マクロな視点で細かい部分はどうかな?とも思いながら)自分の洗脳をといているところです。
私と同年代前後から昭和一桁まではWGIPの影響が非常に強いですね。