生麦事件考 vol3の続きです。
もうほんとうに、これまた、なんといううかつなことでしょう!!! です。検索をかけていて見つけたのですが、宮永孝氏が、詳細に出典を明記し、生麦事件を考察しておられました。モンブランに続き、また宮永先生です。
真説生麦事件 補足で「消えた」と書いた書類が、実はあったんです!!! 「神奈川奉行所定廻役・三橋敬助が、リチャードソン落馬後の状況を、生麦村の二人の女性から、桐屋で聞いてまとめた覚書」です!!!
宮永氏によれば、原文は昭和19年発行、尾佐竹猛の「幕末外交秘史考」に収録されているそうでして、尾佐竹先生、どういう経緯で手に入れられたものか、この本、けっこう安価に古書店にありますから、原本を手に入れてからまたご報告しますが、とりあえず、抜き書きです。
落馬いたし候異人儀は並木縁りへ倒候を見受候処、左の脇腹に深手これあり、苦しみまかりあり候様子に見受け候処、士分の者五六人ほどにて、右異人の手を取り、畑中へひきこみ候うち、一人の士、剣をぬき候につき、驚入り陰へ入り居候に付き、其余の始末一切相弁じ申さず候。………最早異人相果候様子にて、右死骸へ古蘆すのこ打かけこれあり候。
うわっ!!! 女性二人が、数人の藩士がよってたかってリチャードソンを「斬りきざんだ」部分を、けっして語ろうとしなかったことをのぞけば、真説生麦事件 下で書きました、弁之助の話とまったく同じです。
結局のところ、市来四郎が語り、春山育次郎もまた、「英人の記する所」としながら、直接、海江田の談話を聞いた上で、それを否定していないのですから、リチャードソンが、落馬後に、奈良原繁を中心として、海江田信義をふくむ、複数の藩士にめった斬りにされたことは、事実であったと断言できるでしょう。
この斬殺が、薩摩藩内において、事件直後には、まったく問題にされていなかったことは、真説生麦事件 上で書きましたように、海江田と奈良原繁が、那須信吾に、「俺たち、二人も斬り倒したんだぞ!」と自慢していたらしいこと、さらに、生麦事件考 vol2で見ましたように、落馬したリチャードソンを見かけながら、どうしていいかわからずにそのままにした宮里たちが、「俺たち不覚をとったんだ!!!」と記していることでも、わかります。
その理由、なんですが、薩摩藩としては、リチャードソンは喜左衛門の一撃で命を落とした、という見解だったのではないでしょうか。
見届け役は、黒田清隆と本多源五だったでしょう。
宮里書簡によれば、リチャードソン落馬地点を見届けた直後に宮里たちに出会った二人は、「奈良原喜左衛門が供目付だったので、外国人を一人斬り殺し、一人に傷を負わせた」と言った、というのですね。
実際、落馬した直後のリチャードソンは、マーシャルから見ても、事切れた様子でした。以下は、クラークとマーシャルの宣誓口述書から、です。
4人が駕籠前の中小姓集団に突入し、喜左衛門がリチャードソンとマーシャルを斬ったとき、真っ先に逃げ出したのは、クラークです。その後にリチャードソンが続き、マーシャルとボロデール夫人は、少し遅れたようです。
クラークによれば、生麦の市中をぬけてスピードをゆるめると、リチャードソンが追いついてきて、「馬をとめてくれ」と言い、さらに「クラーク君、私は彼らにやられた」と続けるので、クラークは、「私も負傷した。落馬しないように注意して、できるだけ早く走れ」といっているうちに、マーシャルとボロデール夫人が追いついてきたので、ボロデール夫人を先にして馬を走らせたが、マーシャルは、リチャードソンのそばで、ちょっと馬を止めたようだった、ということです。
一方、マーシャルは、こう述べています。並木道の入り口のすぐ前にある茶店のところまで来たところ、リチャードソンの馬が元気をなくしているのに気づき、クラークとボロデール夫人に「先へいってくれ。私はリチャードソンを介抱する」と言って、リチャードソンのそばにより、「君は負傷したね」と声をかけたが、すでに彼は瀕死の状態で、ほどなく落馬した。リチャードソンの腸は飛び出し、彼はすでに死んでいて、どうすることもできなかった。
しかし、それはおそらく落馬のショックによるものであり、宮里たちが見たときには、しゃべることができる状態で、海江田が見たときには、さらに自ら身体を動かして、移動していたのです。
重傷であったことは確かでしょうけれども、あきらかに、死んだのは落馬後の斬殺です。
とはいえ、見届け役の黒田たちが死んでいる、と見たわけですし、奈良原繁が兄の助太刀だと飛び出していったにしましても、虫の息だったのを介錯をしたのだと受け取って、問題にはしなかったのではないでしょうか。
さらに、海江田と奈良原繁が、「二人斬り殺した」と言っている話なのですが、宮里書簡にも、以下のようにあります。
しかれども、一人手を負ひ候異人、ほどなく神奈川の辺にて落命いたし申し候よし
つまり、喜左衛門が傷を負わせたもう一人の異人も、神奈川で落命したように聞いた、というのですね。
これは、クラークが、神奈川のアメリカ領事館そばまで逃げ延びて気を失った、といっていますので、目撃した住民の間で、異人が一人死んだようだ、という噂がひろまり、黒田と本多がそれを聞き込んだ、ということではないでしょうか。
この時点で、久木村の一撃は、まったく話題にものぼっていませんので、薩摩藩は、これも喜左衛門の一撃によるものととらえていたわけです。
では、いつからこの落馬後の斬殺が、薩摩藩内で、問題になったのでしょうか。
ここから先は、あくまでも憶測の域を出ませんが、やはり、薩英戦争後の和平交渉において、でしょう。
マーシャルは、落馬直後にリチャードソンは死んだ、と証言しているわけなのですが、検死したウィリス医師は、それを疑っていたでしょう。だからこそ、事件の3日後に、神奈川奉行所の役人が、リチャードソン落馬後の様子を聞きに、生麦村に現れたのです。
実際、クラークもマーシャルも、リチャードソンは脇腹に一撃をうけただけだと見ていた様子で、他の負傷は証言していません。
さらに、おそらく、なんですが、桐屋とみられる茶屋のスペイン美人が、英字新聞記者に、リチャードソン斬殺の様子を、自分が最後を看取ったというような脚色をして、語ったようなのです。
和平交渉にかかわった薩摩藩側のメンバーが、「実はリチャードソンは落馬後に、よってたかって斬殺された」と、イギリス側から聞かされたとしましたら、これを薩摩藩にとっての恥辱と思う者も、出てきたのではないでしょうか。例えば市来四郎のように、です。
とすれば、こんな助太刀を藩として認められるのか、という声が、あがった可能性も、あるのではないでしょうか。
もしもそうであったとすれば、兄の喜左衛門が、弟の繁と、友人である海江田のために、「いや、斬り留め損なった自分が悪いのだから」と、自ら切腹して、事をおさめた可能性も、ありはしないでしょうか。
しかし、そうであったとして、これはあくまでも、喜左衛門が自ら買って出た切腹であり、イギリス側の「犯人」を出せ、という要求とは、別次元の話です。藩として、喜左衛門の無礼討ちはいったん正当と認めたのであり、イギリスに屈してそれを覆すことは、とてもできないこと、だったのです。
(追記)
大先輩が、昭和11年11月のサンデー毎日、久木村治休94歳のインタビュー記事を送ってくださいました。
同じ昭和11年の雑誌「話」にも、久木村のインタビュー記事があり、この年、生麦事件から75年にあたったことで、こういう企画が続いたようなのですが、なにしろこの二つの記事、大幅に事実関係がくいちがっていまして、大方、インタビュアーが調べたことを、久木村が肯定するか否定するか、というような事情であったのではないか、と推測できます。
したがって、信頼できないことが前提ですが、サンデー毎日においては、薩英戦争以前の話として「問題が大きくなり、一部の者たちは、奈良原や久木村がよけいなことをするからだと非難の声をあげるようになり、昨日の英雄が今日の馬鹿者になった。久木村は奈良原に自決を申し出たが、奈良原は、問題を大きくするだけだからお前たち若輩の者はひっこんでいろ、と答え、奈良原が単独で自決すると申し出たが、重役たちが否決した」としています。話は、それで薩摩藩は「架空の犯人を幕府に届け出た」と続きますが、薩摩藩は事件直後にそうしていますので、事実には反します。しかし、あるいは、「喜左衛門が自決を申し出た」という噂を久木村が聞いた、といようなことは、ほんとうにあったのではないでしょうか。
そして、これもまだ憶測にすぎないのですが、治外法権が引き起こしたこの悲劇によって、薩摩藩は諸外国との条約の結び直しを真剣に検討するようになり、そしてそのことは、大きな維新の原動力となったでしょう。
最初にこの事件について書きました生麦事件と攘夷において、中村正直の碑文をご紹介しました。
石碑は、落馬後のリチャードソンの斬殺を知っていた、生麦村の住人によって建てられたものなのですが、元幕臣だった中村正直は、リチャードソンを悼みながらも、「この事件こそが維新の原動力となったのだから、許してくれ」と、歴史を俯瞰してみせたのです。
この碑が建って2、3年の後、春山育次郎は、碑のそばのさびれた茶屋を訪れ、スペイン美人に会います。新橋・横浜間の鉄道開通以来、生麦の街道はさびれ、スペイン美人は60を数える老女となり、しかしまだ、店を守っていました。
そして、春山に問われるままに、リチャードソンの悲劇を語ったのです。
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宮永氏によれば、原文は昭和19年発行、尾佐竹猛の「幕末外交秘史考」に収録されているそうでして、尾佐竹先生、どういう経緯で手に入れられたものか、この本、けっこう安価に古書店にありますから、原本を手に入れてからまたご報告しますが、とりあえず、抜き書きです。
落馬いたし候異人儀は並木縁りへ倒候を見受候処、左の脇腹に深手これあり、苦しみまかりあり候様子に見受け候処、士分の者五六人ほどにて、右異人の手を取り、畑中へひきこみ候うち、一人の士、剣をぬき候につき、驚入り陰へ入り居候に付き、其余の始末一切相弁じ申さず候。………最早異人相果候様子にて、右死骸へ古蘆すのこ打かけこれあり候。
うわっ!!! 女性二人が、数人の藩士がよってたかってリチャードソンを「斬りきざんだ」部分を、けっして語ろうとしなかったことをのぞけば、真説生麦事件 下で書きました、弁之助の話とまったく同じです。
結局のところ、市来四郎が語り、春山育次郎もまた、「英人の記する所」としながら、直接、海江田の談話を聞いた上で、それを否定していないのですから、リチャードソンが、落馬後に、奈良原繁を中心として、海江田信義をふくむ、複数の藩士にめった斬りにされたことは、事実であったと断言できるでしょう。
この斬殺が、薩摩藩内において、事件直後には、まったく問題にされていなかったことは、真説生麦事件 上で書きましたように、海江田と奈良原繁が、那須信吾に、「俺たち、二人も斬り倒したんだぞ!」と自慢していたらしいこと、さらに、生麦事件考 vol2で見ましたように、落馬したリチャードソンを見かけながら、どうしていいかわからずにそのままにした宮里たちが、「俺たち不覚をとったんだ!!!」と記していることでも、わかります。
その理由、なんですが、薩摩藩としては、リチャードソンは喜左衛門の一撃で命を落とした、という見解だったのではないでしょうか。
見届け役は、黒田清隆と本多源五だったでしょう。
宮里書簡によれば、リチャードソン落馬地点を見届けた直後に宮里たちに出会った二人は、「奈良原喜左衛門が供目付だったので、外国人を一人斬り殺し、一人に傷を負わせた」と言った、というのですね。
実際、落馬した直後のリチャードソンは、マーシャルから見ても、事切れた様子でした。以下は、クラークとマーシャルの宣誓口述書から、です。
4人が駕籠前の中小姓集団に突入し、喜左衛門がリチャードソンとマーシャルを斬ったとき、真っ先に逃げ出したのは、クラークです。その後にリチャードソンが続き、マーシャルとボロデール夫人は、少し遅れたようです。
クラークによれば、生麦の市中をぬけてスピードをゆるめると、リチャードソンが追いついてきて、「馬をとめてくれ」と言い、さらに「クラーク君、私は彼らにやられた」と続けるので、クラークは、「私も負傷した。落馬しないように注意して、できるだけ早く走れ」といっているうちに、マーシャルとボロデール夫人が追いついてきたので、ボロデール夫人を先にして馬を走らせたが、マーシャルは、リチャードソンのそばで、ちょっと馬を止めたようだった、ということです。
一方、マーシャルは、こう述べています。並木道の入り口のすぐ前にある茶店のところまで来たところ、リチャードソンの馬が元気をなくしているのに気づき、クラークとボロデール夫人に「先へいってくれ。私はリチャードソンを介抱する」と言って、リチャードソンのそばにより、「君は負傷したね」と声をかけたが、すでに彼は瀕死の状態で、ほどなく落馬した。リチャードソンの腸は飛び出し、彼はすでに死んでいて、どうすることもできなかった。
しかし、それはおそらく落馬のショックによるものであり、宮里たちが見たときには、しゃべることができる状態で、海江田が見たときには、さらに自ら身体を動かして、移動していたのです。
重傷であったことは確かでしょうけれども、あきらかに、死んだのは落馬後の斬殺です。
とはいえ、見届け役の黒田たちが死んでいる、と見たわけですし、奈良原繁が兄の助太刀だと飛び出していったにしましても、虫の息だったのを介錯をしたのだと受け取って、問題にはしなかったのではないでしょうか。
さらに、海江田と奈良原繁が、「二人斬り殺した」と言っている話なのですが、宮里書簡にも、以下のようにあります。
しかれども、一人手を負ひ候異人、ほどなく神奈川の辺にて落命いたし申し候よし
つまり、喜左衛門が傷を負わせたもう一人の異人も、神奈川で落命したように聞いた、というのですね。
これは、クラークが、神奈川のアメリカ領事館そばまで逃げ延びて気を失った、といっていますので、目撃した住民の間で、異人が一人死んだようだ、という噂がひろまり、黒田と本多がそれを聞き込んだ、ということではないでしょうか。
この時点で、久木村の一撃は、まったく話題にものぼっていませんので、薩摩藩は、これも喜左衛門の一撃によるものととらえていたわけです。
では、いつからこの落馬後の斬殺が、薩摩藩内で、問題になったのでしょうか。
ここから先は、あくまでも憶測の域を出ませんが、やはり、薩英戦争後の和平交渉において、でしょう。
マーシャルは、落馬直後にリチャードソンは死んだ、と証言しているわけなのですが、検死したウィリス医師は、それを疑っていたでしょう。だからこそ、事件の3日後に、神奈川奉行所の役人が、リチャードソン落馬後の様子を聞きに、生麦村に現れたのです。
実際、クラークもマーシャルも、リチャードソンは脇腹に一撃をうけただけだと見ていた様子で、他の負傷は証言していません。
さらに、おそらく、なんですが、桐屋とみられる茶屋のスペイン美人が、英字新聞記者に、リチャードソン斬殺の様子を、自分が最後を看取ったというような脚色をして、語ったようなのです。
和平交渉にかかわった薩摩藩側のメンバーが、「実はリチャードソンは落馬後に、よってたかって斬殺された」と、イギリス側から聞かされたとしましたら、これを薩摩藩にとっての恥辱と思う者も、出てきたのではないでしょうか。例えば市来四郎のように、です。
とすれば、こんな助太刀を藩として認められるのか、という声が、あがった可能性も、あるのではないでしょうか。
もしもそうであったとすれば、兄の喜左衛門が、弟の繁と、友人である海江田のために、「いや、斬り留め損なった自分が悪いのだから」と、自ら切腹して、事をおさめた可能性も、ありはしないでしょうか。
しかし、そうであったとして、これはあくまでも、喜左衛門が自ら買って出た切腹であり、イギリス側の「犯人」を出せ、という要求とは、別次元の話です。藩として、喜左衛門の無礼討ちはいったん正当と認めたのであり、イギリスに屈してそれを覆すことは、とてもできないこと、だったのです。
(追記)
大先輩が、昭和11年11月のサンデー毎日、久木村治休94歳のインタビュー記事を送ってくださいました。
同じ昭和11年の雑誌「話」にも、久木村のインタビュー記事があり、この年、生麦事件から75年にあたったことで、こういう企画が続いたようなのですが、なにしろこの二つの記事、大幅に事実関係がくいちがっていまして、大方、インタビュアーが調べたことを、久木村が肯定するか否定するか、というような事情であったのではないか、と推測できます。
したがって、信頼できないことが前提ですが、サンデー毎日においては、薩英戦争以前の話として「問題が大きくなり、一部の者たちは、奈良原や久木村がよけいなことをするからだと非難の声をあげるようになり、昨日の英雄が今日の馬鹿者になった。久木村は奈良原に自決を申し出たが、奈良原は、問題を大きくするだけだからお前たち若輩の者はひっこんでいろ、と答え、奈良原が単独で自決すると申し出たが、重役たちが否決した」としています。話は、それで薩摩藩は「架空の犯人を幕府に届け出た」と続きますが、薩摩藩は事件直後にそうしていますので、事実には反します。しかし、あるいは、「喜左衛門が自決を申し出た」という噂を久木村が聞いた、といようなことは、ほんとうにあったのではないでしょうか。
そして、これもまだ憶測にすぎないのですが、治外法権が引き起こしたこの悲劇によって、薩摩藩は諸外国との条約の結び直しを真剣に検討するようになり、そしてそのことは、大きな維新の原動力となったでしょう。
最初にこの事件について書きました生麦事件と攘夷において、中村正直の碑文をご紹介しました。
石碑は、落馬後のリチャードソンの斬殺を知っていた、生麦村の住人によって建てられたものなのですが、元幕臣だった中村正直は、リチャードソンを悼みながらも、「この事件こそが維新の原動力となったのだから、許してくれ」と、歴史を俯瞰してみせたのです。
この碑が建って2、3年の後、春山育次郎は、碑のそばのさびれた茶屋を訪れ、スペイン美人に会います。新橋・横浜間の鉄道開通以来、生麦の街道はさびれ、スペイン美人は60を数える老女となり、しかしまだ、店を守っていました。
そして、春山に問われるままに、リチャードソンの悲劇を語ったのです。
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