郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

生麦事件考 番外

2009年02月10日 | 生麦事件
 ほんとにもう、最初にこれを見ていれば!!!
 自分のうかつさが、信じられません。尾佐竹博士………、すでに昭和19年に、私が今回考えてみたと同じようなことを、ほぼ同じような材料で、考察なさっているじゃないですか!!!

 (追記)
 fhさまからのご指摘で、この本の中の「生麦事件の真相」は、大正15年に書かれていたものではないか、ということです。それならば、薩藩海軍史が書かれるより以前の話でして、この考察は、久木村の二太刀目とともに、改めまして。

幕末外交秘史考 (1944年)
尾佐竹 猛
邦光堂書店

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 最初、史料の名前が変わっているので、ちょっととまどったのですが、わたしがこの一連の推論の中心に使いました弁之助の話は「生麦村騒擾記」となっていまして、明治40年から42年の間に「横浜貿易新報」に載った後、おそらく評判がよかったので、弁之助の話だけが、こういう名前で一冊の本になったんじゃないんでしょうか。
 そして、もちろん薩藩海軍史の中の神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書もありますし、市来四郎の史談会速記録、春山育次郎の「生麦駅」、宮里書簡、そして生麦事件 余録でご紹介しましたボーヴォワール伯爵の日本滞在記「ジャポン1867年」の「スペイン美人」まで登場します。

 ちがうのは、イギリス側資料として、博士は英字新聞を主に使われていて、私は宣誓口述書にしぼっている、ことです。
 そして………、私が消えたとばかり思いこんでいた、リチャードソン落馬後を目撃した二人の女性の口述書!!!! いったいどこにっ??? えー、博士はどこにあるとも書いておられないのですが。
 また博士は、二人の女性のものは全文引用なさってますが、ごく部分的に、関口東右衛門の口述書も引用なさっていて、い、い、い、いったいどこにっ???あるんでしょう。
 ともかく、これで、吉村氏が「生麦事件」に書かれているなかで、典拠のわからなかった部分が、あきらかになりました。

 あー、それとどうも尾佐竹博士は、久木村治休の実歴談は、明治45年鹿児島新聞に載ったものを引いておいでのようなのですが、これはまだ、鹿児島県立図書館に頼んだコピーが届いておりませんで、私、見てません。

 博士が見ておられないで、私が見たものといえば、大久保利通、松方正義関係の文書と、関口日記と真説生麦事件 補足2でご紹介しました関口文書・慶応元年「生麦村往還軒並間数畳数書上帖」から作製されました、生麦村の集落図、ですね。これがあるために、戦前の博士よりも、平成21年にいる私の方が、事件当時の生麦村は、よくわかっている、と思います。

 もちろん、これだけ読んだ資料が共通しているのですから、博士と私の推論は、非常に似た部分も多いのです。
 特に、春山育次郎による海江田信義の聞き書きエッセイについては、「リチャードソン一行の方向をちがえているから、海江田が行列の後方としているが、先に行っていたとすれば話がわかる」としている点や、それと「スペイン美人」が、ですね、海江田にリチャードソンのいる場所を教えた茶屋の女と同じ人物ではないか、という点も、です。
 まあ、普通、そう考えますよねえ。

 ただ、博士は、です。だとすればこの「スペイン美人」、相手によって言うことを変える「不徳漢」ではないか、と憤っておいでなのですが、いえ、ねえ、博士、茶屋の経営者のおしゃべりは、客をもてなす仕事の一部、ですからねえ。
 それと、スペイン美人のために一言、弁護させていただければ、スペイン美人はなにも、海江田がリチャードソンを殺すと思って、居場所を教えたわけではないと思うんですのよ。だって、それまでに、宮里など、おそらく複数の藩士が、リチャードソンが生きていることに気づきながら、どうしていいかわからず、なにもしないで去っているのですから。

 あと、このスペイン美人の茶屋について、なのですが、私はこの女性の素性について、博士と推測を異にします。
 実は、リチャードソン落馬後を目撃し、神奈川奉行所の役人に聞き取りを受けた二人の女性とは、落馬現場のそばに住む茶屋のおかみさんと、大工のおかみさんだったんです。

 武州橘樹郡生麦村東作地借勘五郎女房ふじ、申し上げ奉り候。私儀農間字並木にて、水茶屋渡世まかりあり候につき、異人異変儀のお訪ねに付き申し上げ候。

 というわけで、関口日記に出てきます「甚五郎女房」(真説生麦事件 補足)とは、リチャードソン落馬現場近くの水茶屋のおかみさん、だったわけなのですが、このふじさん、以下のようなことしか語ってません。

「外国人がうちのそばで落馬したから、もう驚いてしまいまして、怖いので茶屋の裏に隠れたんです。そしたら、大工の女房のよしが来て、うちの人、そこの街中へ仕事に出かけているのよ。怖いから呼んできてくれない? というので、じゃあそうしようと出かけまして、後のことはなにも見ていませんの」


 それで、尾佐竹博士、このふじさんは、スペイン美人とは関係ない、とおっしゃるのですが、どうでしょうか。
 これは博士が書いておられますが、この茶屋より神奈川よりは並木になっていて、もう生麦の人家はなかったんですね。
 そして、マーシャルの口述書とか薩藩海軍史収録の神奈川奉行所役人の覚書などから判断すると、この茶屋のあった場所は、住宅が建て込んだ生麦市中からは、数百メートル離れていたんです。
 ぽつんと一軒離れた茶屋だったわけでして、海江田にリチャードソンの居場所を教えた茶屋が、別にあったとは思えません。
 ボーヴォワール伯爵は、年のいった母親とともに年増美人がやっていた水茶屋、といっているわけなのですから、スペイン美人はふじさんの娘か、姪かなにかで、大工の女房よしじゃないんでしょうか。

 「ねえ、かあさん、亭主を呼んできておくれな。私が店番しているからさ」というような会話も、それなら自然だと思うのです。奉行所へ提出した口述書ですから、「大工の女房よし」となっていますけれど、「そうだね、およし、じゃあ呼んでこようか。女だけじゃぶっそうだからねえ」というような感じでは、なかったんでしょうか。

 武州橘樹郡生麦村繁次郎地借徳太朗他行につき、女房よし異人異変左に申し上げ奉り候。

 このよしさんが、関口日記の「松原徳次郎女房」だったわけでして、母だか親類だかが経営する茶屋の隣にすみ、手伝っていたんじゃないでしょうか。そう考えれば、スペイン美人の茶屋が、桐屋である、という推論も成り立ちます。

 まず、茶屋が「東作地借」となっていますが、東作とは、関口東右衛門の父親でして、この事件の起こったときには病にふせっていて、年の暮れに死去した人です。
 つまり、ふじの亭主は、関口家の小作です。生麦村の商業は、江戸時代後期に東海道の交通が活発になるにしたがい、急速に発達したものでして、従事している全員が農民なんです。
 関口家は、奉行所役人が桐屋に泊まりに来ているからと布団を貸し出したりしていますし、桐屋に仕出し料理を頼んでいた時期もあったようでして、小作人が経営する水茶屋とすれば、話がよくわかるわけなのです。
 で、fhさまが借してくださいました関口日記に、東右衛門が「松原桐屋」と書いていたんです。よしさんは、「松原徳次郎女房」です。女二人、いっしょに経営しているようなものだったのではないでしょうか。
 そりゃあ奉行所のお役人も、年増美人のいる水茶屋は、宿泊場所として、好ましかったでしょうしい……。

 
 で、スペイン美人と思える、このよしさんも、肝心な部分への言及はさけています。

「異人の男女4人が引き返して来まして、うち男女二人は神奈川方向へ走っていきましたが、男二人は馬を止めましたの。どうというつもりもなかったんですけど、私、家から街道に出てみますと、一人は走って行き、一人が落馬して、馬だけが走っていきましたわ。落馬した異人は、並木の縁に倒れていたんですけどね、脇腹に深手を負っていて、苦しんでいる様子でしたわねえ。で、そのうち、士分のもの(武士)が五,六人やってまいりましてね、異人の手をとって、畑の中へ引き込んだんですわ。武士の一人が剣をぬいたので、あーら怖い!とものかげに隠れましたのでね、あとのことは、なーんにも知りませんの。後で、島津候の御駕籠が通りすぎられましてからね、また外へ出てみましたところ、もう異人は死んでいる様子で、上に古い蘆のすのこがかけてありましたわ。ほどなく、お役人さまがおいででございましたわね」

 よしさん………。でも、ほんとうは、全部、見てたんですよねえ。
 時は幕末、公開処刑もありますし、さらし首などざらで、血みどろ芝居が流行っていたんですから、見るべきものはぜひ、見ておきませんとねえ。

 まあ、そんなわけでして、尾佐竹博士は、落馬後の斬殺を、奈良原繁と海江田信義を含む薩摩藩士数名によるもの、と断定しておられます。
 ただ、博士はやはり、久木村がリチャードソンに二太刀目をあびせたことを信じておられまして、これが致命傷で、斬殺といっても結局は介錯程度のものだった、というわけですから、あまり、このことが脚光をあびないできたんでしょうね。
 しかし、ですね、だれの話を見ても、落馬したときのリチャードソンは、一撃しか受けてない様子なんですよね。「リチャードソンの真っ赤な心臓がころころ転げ落ちてなあ!」みたいな久木村の大ぼらを、なんで信じられるんですかね。
 その点に関しましては、鹿児島新聞のコピーが届いてから、再度、検証してみます。

 もう一つ、尾佐竹博士ってばあ!!!と、思ったことがあります。
 博士は、弁之助が語っている、「リチャードソンたち一行は久光の行列の正面からつっこんで、久光の駕籠近くまで行った」ってことが、お信じになれなかったんです。その理由というのが、以下です。

 「正面から駆け込んで来たのならば、とてもそんなに通らぬ先に殺されているのは当然で、事態ありうべからざる事である」

 これには、笑いました。真説生麦事件 上で、以下のように推測した通りだったからです。

「まあ、行列の正面から久光の駕籠近くまで馬を乗り入れられて、薩摩藩士がそれまで我慢した、というのも、ちょっと信じられない話ですし、当の元薩摩藩士たちも、我慢したことが恰好がいいこととはとても思えず、あえて否定しなかったにちがいありません」

 尾佐竹博士、おわかりいただきたいのですが、久光の本隊はすっぽり、生麦の住宅が密集した市中にいまして、細い路地ならばともかく、街道に交差して乗馬で通れるような道は、なさげなんですのよ。正面以外のどこからも、つっこみようがないんです。

 ともかく、です。神奈川奉行所の聞き取り書が残っていたことには、私、もうどびっくりしたのですが、もう一つ、博士に教えていただいたことがあります。
 当時の英字新聞が、リチャードソン落馬後の斬殺も久光の指揮だ、と書き立てていたらしいことです。目撃者と称する日本人の少年が「駕籠に乗ったえらい人が指図してた」みたいなことを言ったらしいんですが、これが久光だってことは、ありえんですわね。
 海江田は駕籠に乗っていたんです。「駕籠に乗ったえらい人」に見えたとしても、おかしくないですわね。
 博士は、薩摩藩がよほどお嫌いみたいだったようで、これに関しては、ちょっと勘ぐりすぎでおられます。

 しかし、それにしても、です。現在の著者がイギリス側にばかり思い入れて公平を欠くぶんには、「どういう西洋コンプレックスなの」としか思いませんが、尾佐竹博士のリチャードソンたちへの思いやりに満ちたこの本は、昭和19年、日本が「鬼畜米英」をスローガンに、米英と戦っている最中に出版されたものです。
 この博士のバランス感覚には脱帽ですし、この本、古書として値段が安いということは、かなりな数刷られた、ということになります。敗戦の一年前、この本を読んでいた多くの無名の日本人たちにも、敬意を表したいと思います。


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