本日また、昨日の幕末維新の天皇と憲法のはざま、の続きです。
昨日、大久保利通と江藤新平の理念対立、と書きましたが、江藤新平のほかの政変で下野した参議の顔ぶれを見渡してみますと、西郷隆盛、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎。
この4人が、江藤と理念を同じくして、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」と考えていたのか、というと、ちょっとおかしい気がしますよね。
そうなんです。必ずしも最初から、理念を同じくしていたわけではないのです。宮島誠一郎が立国憲議を建言したときには、左院の江藤とちがって、参議だった板垣退助は、大賛成をしたのだと、宮島は言っています。
ですから当初は、大蔵省で予算編成を握っていた井上馨が、非常に恣意的な予算配分をしながら、汚職にからんでいたことから、長州閥への反感をこのメンバーが共有したことが、大きかったでしょう。
しかし、明治6年政変にいたって、大久保利通を中心とした薩長のまきかえしが、「主上のご政断」を政治利用して、閣議決定を反古にするという暴挙に出たとき、あらためて、いかにそういった「有司専制」をふせぐか、ということで、民選議員の設立や、憲法による歯止めの問題が、浮上してきたのではないでしょうか。
それは必ずしも、「万世一系」の言葉を憲法に組み込むかどうかの問題ではなく、組み込むにしても、そのことで当代の天皇を祭り上げるという大久保の意見書が、その神聖な玉をおさえたものの独裁につながりかねない、という現実をふまえて、それをどう防ぐか、という方向の理念の一致だったでしょう。
だとするならば、「民選議員設立建白書」に加わらなかった西郷隆盛の理念はどうだったのか、ということになります。
桐野利秋については、自由民権を唱えたという証言もありますが、かならずしも、西郷と桐野の理念が一致していたわけでもないでしょう。
西郷が天皇制についてどう考えていたかは、傍証から想像するしかありません。
ただ、下野の理由については、桐野のようにはっきりと「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」とまでは言っていませんが、やはり岩倉具視の「閣議結論を無視して上奏する」という暴言が原因だったと、西郷は庄内藩士に語っています。「主上のご政断」の政治利用について、あきらかに大久保への怒りを抱いた、と考えられるでしょう。大久保の手の内を誰よりも熟知しているのは、西郷だったはずです。
西郷が明治天皇によせた期待は、明治4年(1871)、西郷がもっとも信頼していたのではないか、と思える、村田新八を宮内大丞にしたことに、あらわれてはいないでしょうか。しかもその新八を、岩倉使節団とともに欧米へ送り出したということは、新八ならば、軽佻に流れることなく、守るべきものは守って欧米の文化を吸収し、新しい皇室を築くにふさわしいと、見込んだからでしょう。
西郷の思想の根底には、もちろん儒教武家道徳があるわけなのですが、それが、かならずしも君主独裁を是認するものではないとは、まず西郷の島津久光に対する評価で想像がつきます。
では、西郷が明治天皇に、半神ではなく、人間的な武家的明君像を期待していたと仮定して、それが憲法に置ける天皇の位置づけと、どう結びつきえるのか。
これは、一つの例にすぎないのですが、小西豊治氏の以下のような著作があります。
小田為綱は、盛岡藩の藩校の教授だった人で、原敬もその教え子です。
西南戦争では、日本全国、数多い呼応者がありました。大きな動きでは、陸奥宗光が土佐立志社とともに立ち上がろうとしたり、ということもあったのですが、すべて、芽の段階でつまれてしまいました。さすがに、大久保利通ですね。周到です。
東北地方でも、真田太古を中心として、兵を挙げる動きがあったのですが、このとき檄文を書いたのが、小田為綱です。檄文の内容は、有司専制への攻撃です。為綱は禁固刑となるのですが、出所の後の明治13年から14年ころ、元老院の国憲第三次草案に、論評を加えているのですね。
検索をかけていたら、なんと憲法草稿評林が、ありました。便利な世の中になったものです。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室 招待席・主権在民史料 小田為綱 憲法草稿評林
見ていただければわかるのですが、為綱は「万世一系」を否定はしていません。といいますか、数多い自由民権派の私擬憲法でも、「万世一系」を最初に入れていないものは、まったくない、といっても過言ではないんです。
しかし、それぞれに「有司専制」に歯止めをかけ、「万世一系」が独裁の飾りとしての権威とはならないように、考えてはいるのですね。
憲法草稿評林における為綱の独自性は、最初に「万世一系」を認めておいて、第2条で「然ラバ則チ天皇陛下ト雖(いへども)、自ラ責ヲ負フノ法則ヲ立(たて)、后来(こうらい)無道ノ君ナカランコトヲ要スべシ」と、廃帝の規定を考えていることです。
これは、「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」と言明している大久保利通の意見書とは、大きくちがう考え方です。
帝もまた人であられるならば、自らのなすことに「責ヲ負フ」必要がある、というのですから。
つまり、儒教的な武家道徳と自由民権は、十分に調和しうるものなのです。
明治大帝の西郷好きは、西郷の帝への期待が、生身の人間としての明君であったことを、感じられてのものだったのでは、なかったでしょうか。
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昨日、大久保利通と江藤新平の理念対立、と書きましたが、江藤新平のほかの政変で下野した参議の顔ぶれを見渡してみますと、西郷隆盛、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎。
この4人が、江藤と理念を同じくして、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」と考えていたのか、というと、ちょっとおかしい気がしますよね。
そうなんです。必ずしも最初から、理念を同じくしていたわけではないのです。宮島誠一郎が立国憲議を建言したときには、左院の江藤とちがって、参議だった板垣退助は、大賛成をしたのだと、宮島は言っています。
ですから当初は、大蔵省で予算編成を握っていた井上馨が、非常に恣意的な予算配分をしながら、汚職にからんでいたことから、長州閥への反感をこのメンバーが共有したことが、大きかったでしょう。
しかし、明治6年政変にいたって、大久保利通を中心とした薩長のまきかえしが、「主上のご政断」を政治利用して、閣議決定を反古にするという暴挙に出たとき、あらためて、いかにそういった「有司専制」をふせぐか、ということで、民選議員の設立や、憲法による歯止めの問題が、浮上してきたのではないでしょうか。
それは必ずしも、「万世一系」の言葉を憲法に組み込むかどうかの問題ではなく、組み込むにしても、そのことで当代の天皇を祭り上げるという大久保の意見書が、その神聖な玉をおさえたものの独裁につながりかねない、という現実をふまえて、それをどう防ぐか、という方向の理念の一致だったでしょう。
だとするならば、「民選議員設立建白書」に加わらなかった西郷隆盛の理念はどうだったのか、ということになります。
桐野利秋については、自由民権を唱えたという証言もありますが、かならずしも、西郷と桐野の理念が一致していたわけでもないでしょう。
西郷が天皇制についてどう考えていたかは、傍証から想像するしかありません。
ただ、下野の理由については、桐野のようにはっきりと「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」とまでは言っていませんが、やはり岩倉具視の「閣議結論を無視して上奏する」という暴言が原因だったと、西郷は庄内藩士に語っています。「主上のご政断」の政治利用について、あきらかに大久保への怒りを抱いた、と考えられるでしょう。大久保の手の内を誰よりも熟知しているのは、西郷だったはずです。
西郷が明治天皇によせた期待は、明治4年(1871)、西郷がもっとも信頼していたのではないか、と思える、村田新八を宮内大丞にしたことに、あらわれてはいないでしょうか。しかもその新八を、岩倉使節団とともに欧米へ送り出したということは、新八ならば、軽佻に流れることなく、守るべきものは守って欧米の文化を吸収し、新しい皇室を築くにふさわしいと、見込んだからでしょう。
西郷の思想の根底には、もちろん儒教武家道徳があるわけなのですが、それが、かならずしも君主独裁を是認するものではないとは、まず西郷の島津久光に対する評価で想像がつきます。
では、西郷が明治天皇に、半神ではなく、人間的な武家的明君像を期待していたと仮定して、それが憲法に置ける天皇の位置づけと、どう結びつきえるのか。
これは、一つの例にすぎないのですが、小西豊治氏の以下のような著作があります。
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小田為綱は、盛岡藩の藩校の教授だった人で、原敬もその教え子です。
西南戦争では、日本全国、数多い呼応者がありました。大きな動きでは、陸奥宗光が土佐立志社とともに立ち上がろうとしたり、ということもあったのですが、すべて、芽の段階でつまれてしまいました。さすがに、大久保利通ですね。周到です。
東北地方でも、真田太古を中心として、兵を挙げる動きがあったのですが、このとき檄文を書いたのが、小田為綱です。檄文の内容は、有司専制への攻撃です。為綱は禁固刑となるのですが、出所の後の明治13年から14年ころ、元老院の国憲第三次草案に、論評を加えているのですね。
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日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室 招待席・主権在民史料 小田為綱 憲法草稿評林
見ていただければわかるのですが、為綱は「万世一系」を否定はしていません。といいますか、数多い自由民権派の私擬憲法でも、「万世一系」を最初に入れていないものは、まったくない、といっても過言ではないんです。
しかし、それぞれに「有司専制」に歯止めをかけ、「万世一系」が独裁の飾りとしての権威とはならないように、考えてはいるのですね。
憲法草稿評林における為綱の独自性は、最初に「万世一系」を認めておいて、第2条で「然ラバ則チ天皇陛下ト雖(いへども)、自ラ責ヲ負フノ法則ヲ立(たて)、后来(こうらい)無道ノ君ナカランコトヲ要スべシ」と、廃帝の規定を考えていることです。
これは、「天皇陛下の大権を軽重するや、曰く否」と言明している大久保利通の意見書とは、大きくちがう考え方です。
帝もまた人であられるならば、自らのなすことに「責ヲ負フ」必要がある、というのですから。
つまり、儒教的な武家道徳と自由民権は、十分に調和しうるものなのです。
明治大帝の西郷好きは、西郷の帝への期待が、生身の人間としての明君であったことを、感じられてのものだったのでは、なかったでしょうか。
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