えーと、昨日の革命は死に至るオプティミズムか の続きです。とはいえ、本日は松蔭を離れて、明治大帝をめぐるお話ですし、どの本を基本に語るべきか、いろいろ考えたのですが、一長一短で、とりあえず適宜ご紹介、という形で。
以前にも幾度か書きましたが、私は、孝明天皇の毒殺を、ありえたことではないか、と疑っています。
笠原秀彦氏の『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』は、コンパクトにまとめすぎたため、でしょうか、いろいろと不満もあるのですが、とりあえず、幕末から明治へかけての天皇制問題のアウトラインは、つかめるかな、という記述になっています。
で、そのコンパクトな中にも、孝明天皇毒殺の疑いは、登場します。そして、笠原氏のおっしゃるように、毒殺を証拠立てる決定的な史料がないのですから、結局、そういう噂があった、という以上のことは、言えないのです。
だから、これは私の妄想なのですが、笠原氏も書いておられるように、『朝彦親王日記』によれば、「孝明天皇の御異例にまつわり、異形物が鍾馗の形で夜ごと現れ、新帝を悩ます」とあり、新帝の祖父である中山忠能の日記や岩倉具視関係文書にも、新帝の周囲の奇怪現象の噂は、あげられているのです。
さらに、明治になってからですが、昨日書きました白峰神社の造営。孝明天皇の遺志だった、という話なのですが、なぜ、伝説によれば「革命」を志して果たせず、恨みを呑んだまま崩御された崇徳上皇の霊を、明治初年に慰める必要があったのでしょうか。これが、後鳥羽、後醍醐の両帝ならば、王政復古がなって、武家政権に戦いを挑んで果たせなかった両帝の霊を祀る、というのは自然な感じがするのですが、崇徳上皇の戦いの相手は、時の帝で、それも実の弟である白河天皇だったのです。
私にはどうにも、崇徳上皇にたくして、慰めたのは孝明天皇の霊だったのではないか、というような思いが、捨てられないのです。
それはさておき。実は、『天皇と華族』を持っているはずなのですが、出てきませんで、うろ覚えになるんですが、お許しください。
明治初年に、大久保利通が、天皇のあり方について述べた文書があります。そこで大久保が心配していることは、「これまで雲の上の人として、人前にお姿を見せなかったから崇拝されていた帝が、人前に立たれてなお、権威を保たれるにはどうすればいいか」ということなんですね。
昨日の松蔭も、「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得る」と現状を認識していたわけなのですが、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理 に出てきますフランス貴族の認識のように、「人の目には見えにくい半神」のようであればこそ、天子さまは尊かったのです。
しかし、そもそも王政復古とは、帝に政治主権と決断を仮託して成り立ったものですし、それよりなにより、緊急な外交上の必要からも、帝を「御簾の中の半神」にしておくわけには、いきません。だいたい、徳川将軍慶喜公がすでに、西洋君主並の外交を披露しているのですから、帝が主権を握っていることを諸外国に認めさせるためにも、西洋的な君主に近づける必要があったのです。
公家社会の猛烈な抵抗を押し切って、帝を京都から切り離し、大阪へ、そして東京へとお移り願うことで、それは、徐々に形になっていきました。
西洋の君主とは、今でもイギリス王室の王子たちがみな軍人となりますように、そもそも武人ですし、将軍や大名の方に近いものです。したがって、そういう意味では君主としてあるべき姿を描きやすかったことになりますが、では、政治的に天皇をどう位置づけるのか、となれば、問題は山積みでした。
私は、明治6年政変は、究極のところ、天皇制の問題であったのではないか、と思っています。
『征韓論政変 明治六年の権力闘争』という本があります。
著者は姜範錫氏。早稲田大学を出た後、韓国で政治部の新聞記者を務め、駐日韓国公使も経験した、という韓国人です。
専門の学者ではおられないため、たしかに、史料の扱いが恣意的になるような面もあるのですが、しかしそもそも政治史とは、史料の字面を一字一句額面通りに受け取って、成り立つものでもないでしょう。
少なくとも、維新後の日韓の外交交渉で、対馬藩士の存在をクローズアップされた点は大いに頷けますし、さらには、この政変の本質を権力闘争とされ、権力闘争の理念の面で、憲法をめぐる確執があったのではないか、という指摘は、もっと注目されてしかるべき、なのではないんでしょうか。
しかしまあ、この本も見事に品切れですね。
明治6年の段階で憲法? と思われるかもしれません。しかし、それを指摘する史料があるのです。
宮島誠一郎の『国憲編纂起源』です。
関心がおありの方は、国会図書館のHPのギャラリー、史料に見る日本の近代、第1章立憲国家への始動 立憲政治への試み 1-5 憲法制定の建議に、デジタルで公開されていますので、ご覧になってみてください。
時期は明治5年の4月。いわゆる岩倉使節団で、岩倉具視をはじめ、大久保利通、木戸孝允といった維新の中心人物の半数が、欧米に出かけていた留守です。宮島誠一郎が、左院(いわば、立法機関です)に、立国憲議を建言するんですね。
これがどんなものだったかというと、結論は「君主独裁に君民同治の中を参酌して至当の国憲を定むるを当然の順序とす」というもので、簡単に言ってしまえば、「我が国の歴史からいえば、古来からの君主独裁であるべきなのだが、しかしそれだけでは人民を抑圧し開化をさまたげることになりかねないので、皇国古来の君主独裁と君民同治の中間で、憲法を作ろう」というものだったんですが、大賛成をしたのが、当時左院大議官だった薩摩の伊地知正治です。
ところが、左院副議長だった江藤新平が、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」「国憲なるはフランスの五法の如く広く人民に闊歩せしものにて、その性質帝王自家の憲法に非ず」といって、つまり国憲は国体論ではない、フランスの法のように人民の権利を重視すべきだ、と、正院への提出を拒むんです。国体論とは、「万世一系」というようなことですから、天皇については、もっと欧米の君主に近い規定にすべき、ということでしょう。
ところが、です。この時期というのは、大久保利通が米国との交渉の必要から、一時帰国しているんです。姜氏は、宮島が個人的にこういう建言をするという従来の説はおかしいのではないか、と疑問をはさみ、大久保利通の意向だったのではないか、と推測されるのです。
大久保には、明治6年、政変直後に成立したとされる「立憲政体に関する意見書」があるのですが、突然、政変があったからふってわいたわけではなく、江戸は極楽である で登場しました吉田清成をブレーンに、かねてから構想をねっていたもので、内容を見てみますと、姜氏の推測に、大きく頷けます。
その内容とは、宮島が提出した「君主独裁に君民同治の中を参酌して」に近く、さらに「みだりに欧州各国君民共治の制に擬すべからず。わが国自ら皇統一系の法典あり」と最後に念押ししてあって、江藤に答えた形でもあるのですね。
しかも、なぜ国体論が必要かと言えば、ひらたくいって、「天皇はこれまで政治にかかわらないでおられたので神と仰がれたのだけれども、天皇が政治にかかわれば、天皇もまた人であると知れて、その権威は半減する。しかし、それは必要なことであるのだから、国体論を憲法の主柱として、新たに権威を確立すべきだ」というのですね。
天皇制をめぐって、これは、相当深刻な理念対立ではないでしょうか?
明治六年政変の詳細は後回しにして、とりあえず、政変によって下野した参議のうち、江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎の4人が、ただちに「民選議員設立建白書」を出し、有司専制を攻撃し、自由民権運動をはじめたことは、それ以前から理念対立があった証拠には、ならないでしょうか。
西郷隆盛はどうなのか、ということなのですが、西郷がなにも言っていない以上、実際のところはわかりません。ただ、妄想にすぎない、といわれればそうなのですが、傍証はあります。
一つは、司法省にいた有馬藤太の後年の回想で、江藤新平を司法省の長官にかつぐとき、西郷が後援してくれた、と言っていることです。なにしろ後年の回想ですので、他の事柄についても細かな思い違いはあるのですけれども、大筋でまちがいはないでしょう。有馬が同じ司法省で、江藤と同じ佐賀出身の今泉利春と仲が良く、志を同じくしていたことは、利春の妻、今泉みねの回想にもあります。
もうひとつは、『西南記伝』に収録されています『桐陰仙譚』、明治7年に、石川県士族の二人が、鹿児島で桐野利秋から聞き取ったとされる談話なのですが、この中に、なぜ西郷をはじめとする参議が下野したか、という理由が、出てくるのです。
その理由を述べる前に、政変の概略を語る必要があるでしょう。
一応、政変は、西郷の遣韓使節の可否をめぐって起こったのですが、昔からこれには、留守政府内で、井上馨、山県有朋などの汚職を材料に、江藤新平を筆頭とする肥前、土佐閥が、長州閥の追い落としをはかっていたのを、帰国した岩倉、大久保、木戸などが巻き返しをはかったのではないか、という、権力闘争が指摘されています。
私も、そう思うのです。西郷は、山県有朋はかばいましたが、井上馨については「三井の番頭さん」と呼んでいたという伝説もあり、現実に、まったくかばっていません。軍事面ではまだまだ、薩長の協力関係が重要であっても、政治面ではくずれてもかまわないと、西郷は踏んでいたのではなかったでしょうか。
しかし、大久保はそうは思わなかったでしょうし、伊地知正治、黒田清隆など、薩摩閥の中にも、それを危ぶむ思いはあったでしょう。
なにしろ、肝心な時期の大久保の日記が残っていませんで、………事件の核心時期だけですので、これは姜氏の推測されているように、破棄されたのではないか、という疑いもわいてくるのですが………、まあ、ないだけに、憶測にすぎないことも多くなってしまいますが、肥土参議の追い落としに、大久保が相当な策略を使ったことは、事実でしょう。
さて、政変大詰めの経過を述べますと、大久保をも含めた参議たちの閣議で、西郷が遣韓使節となることは決定するんです。ところが、それを天皇に上奏すべき三条太政大臣が急病で倒れ、………姜氏はこれが仮病だったのではないかと言うのですが………、ともかく、宮内省にいた薩摩の吉井の工作で、岩倉が三条の代理となります。そして岩倉は、閣議の決定を無視して、「私は西郷が遣韓使節に反対なので、その旨を申し上げ、天皇のご決断を仰ぐ」と宣言したのですね。
なにしろ、維新からこの方、まだ年若い天皇に政治的な決断を求めていたわけではないのに、突然、「天皇のご決断」が出てくるのです。
『桐陰仙譚』によれば、副島種臣は「これまで主上の独断専決におまかせしたことがないのに、突然そうするというのは、責任を主上に押しつけるということで不忠ではないのか」とつめよったと言いますが、つまるところ、参議たちの決定を無視するために、「主上のご政断」を錦の御旗にしている、つまり天皇を玉として使っていることが明白だ、と難詰しているわけですね。
それで桐野は、「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」、西郷と自分は下野したのだと、言っているのです。
これは、薩長閥による恣意的な「天皇のご決断」利用の危険性が、露呈した事件ではなかったでしょうか。
冒頭の笠原氏の『明治天皇』にも出てくるのですが、西南戦争において、明治天皇は引きこもられ、あきらかにサボタージュをされます。西郷隆盛への親愛の情を抱いておられたことには、さまざまな傍証があり、それはもちろん大きな理由でしょうけれども、もう一つ、これもまた憶測にすぎませんが、明治6年、心ならずもご自身が政変で果たさせられた役割に、納得のいかないものを感じておられたのではないか、と思うのです。
天皇が西洋的な君主であることは、果たして、大久保が主張するほどに難しいことだったのでしょうか。当時、藩主や将軍の明君像というのは確実に存在し、実質、明治天皇もそれに近いものをめざされたのです。
だとするならば、果たして憲法に国体論が必要だったのかどうか、疑問です。
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以前にも幾度か書きましたが、私は、孝明天皇の毒殺を、ありえたことではないか、と疑っています。
笠原秀彦氏の『明治天皇 苦悩する「理想的君主」』は、コンパクトにまとめすぎたため、でしょうか、いろいろと不満もあるのですが、とりあえず、幕末から明治へかけての天皇制問題のアウトラインは、つかめるかな、という記述になっています。
で、そのコンパクトな中にも、孝明天皇毒殺の疑いは、登場します。そして、笠原氏のおっしゃるように、毒殺を証拠立てる決定的な史料がないのですから、結局、そういう噂があった、という以上のことは、言えないのです。
だから、これは私の妄想なのですが、笠原氏も書いておられるように、『朝彦親王日記』によれば、「孝明天皇の御異例にまつわり、異形物が鍾馗の形で夜ごと現れ、新帝を悩ます」とあり、新帝の祖父である中山忠能の日記や岩倉具視関係文書にも、新帝の周囲の奇怪現象の噂は、あげられているのです。
さらに、明治になってからですが、昨日書きました白峰神社の造営。孝明天皇の遺志だった、という話なのですが、なぜ、伝説によれば「革命」を志して果たせず、恨みを呑んだまま崩御された崇徳上皇の霊を、明治初年に慰める必要があったのでしょうか。これが、後鳥羽、後醍醐の両帝ならば、王政復古がなって、武家政権に戦いを挑んで果たせなかった両帝の霊を祀る、というのは自然な感じがするのですが、崇徳上皇の戦いの相手は、時の帝で、それも実の弟である白河天皇だったのです。
私にはどうにも、崇徳上皇にたくして、慰めたのは孝明天皇の霊だったのではないか、というような思いが、捨てられないのです。
それはさておき。実は、『天皇と華族』を持っているはずなのですが、出てきませんで、うろ覚えになるんですが、お許しください。
明治初年に、大久保利通が、天皇のあり方について述べた文書があります。そこで大久保が心配していることは、「これまで雲の上の人として、人前にお姿を見せなかったから崇拝されていた帝が、人前に立たれてなお、権威を保たれるにはどうすればいいか」ということなんですね。
昨日の松蔭も、「天子は誠の雲上人にて、人間の種にはあらぬ如く心得る」と現状を認識していたわけなのですが、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理 に出てきますフランス貴族の認識のように、「人の目には見えにくい半神」のようであればこそ、天子さまは尊かったのです。
しかし、そもそも王政復古とは、帝に政治主権と決断を仮託して成り立ったものですし、それよりなにより、緊急な外交上の必要からも、帝を「御簾の中の半神」にしておくわけには、いきません。だいたい、徳川将軍慶喜公がすでに、西洋君主並の外交を披露しているのですから、帝が主権を握っていることを諸外国に認めさせるためにも、西洋的な君主に近づける必要があったのです。
公家社会の猛烈な抵抗を押し切って、帝を京都から切り離し、大阪へ、そして東京へとお移り願うことで、それは、徐々に形になっていきました。
西洋の君主とは、今でもイギリス王室の王子たちがみな軍人となりますように、そもそも武人ですし、将軍や大名の方に近いものです。したがって、そういう意味では君主としてあるべき姿を描きやすかったことになりますが、では、政治的に天皇をどう位置づけるのか、となれば、問題は山積みでした。
私は、明治6年政変は、究極のところ、天皇制の問題であったのではないか、と思っています。
『征韓論政変 明治六年の権力闘争』という本があります。
著者は姜範錫氏。早稲田大学を出た後、韓国で政治部の新聞記者を務め、駐日韓国公使も経験した、という韓国人です。
専門の学者ではおられないため、たしかに、史料の扱いが恣意的になるような面もあるのですが、しかしそもそも政治史とは、史料の字面を一字一句額面通りに受け取って、成り立つものでもないでしょう。
少なくとも、維新後の日韓の外交交渉で、対馬藩士の存在をクローズアップされた点は大いに頷けますし、さらには、この政変の本質を権力闘争とされ、権力闘争の理念の面で、憲法をめぐる確執があったのではないか、という指摘は、もっと注目されてしかるべき、なのではないんでしょうか。
しかしまあ、この本も見事に品切れですね。
明治6年の段階で憲法? と思われるかもしれません。しかし、それを指摘する史料があるのです。
宮島誠一郎の『国憲編纂起源』です。
関心がおありの方は、国会図書館のHPのギャラリー、史料に見る日本の近代、第1章立憲国家への始動 立憲政治への試み 1-5 憲法制定の建議に、デジタルで公開されていますので、ご覧になってみてください。
時期は明治5年の4月。いわゆる岩倉使節団で、岩倉具視をはじめ、大久保利通、木戸孝允といった維新の中心人物の半数が、欧米に出かけていた留守です。宮島誠一郎が、左院(いわば、立法機関です)に、立国憲議を建言するんですね。
これがどんなものだったかというと、結論は「君主独裁に君民同治の中を参酌して至当の国憲を定むるを当然の順序とす」というもので、簡単に言ってしまえば、「我が国の歴史からいえば、古来からの君主独裁であるべきなのだが、しかしそれだけでは人民を抑圧し開化をさまたげることになりかねないので、皇国古来の君主独裁と君民同治の中間で、憲法を作ろう」というものだったんですが、大賛成をしたのが、当時左院大議官だった薩摩の伊地知正治です。
ところが、左院副議長だった江藤新平が、「国憲は右等国体論の如きものにあらず」「国憲なるはフランスの五法の如く広く人民に闊歩せしものにて、その性質帝王自家の憲法に非ず」といって、つまり国憲は国体論ではない、フランスの法のように人民の権利を重視すべきだ、と、正院への提出を拒むんです。国体論とは、「万世一系」というようなことですから、天皇については、もっと欧米の君主に近い規定にすべき、ということでしょう。
ところが、です。この時期というのは、大久保利通が米国との交渉の必要から、一時帰国しているんです。姜氏は、宮島が個人的にこういう建言をするという従来の説はおかしいのではないか、と疑問をはさみ、大久保利通の意向だったのではないか、と推測されるのです。
大久保には、明治6年、政変直後に成立したとされる「立憲政体に関する意見書」があるのですが、突然、政変があったからふってわいたわけではなく、江戸は極楽である で登場しました吉田清成をブレーンに、かねてから構想をねっていたもので、内容を見てみますと、姜氏の推測に、大きく頷けます。
その内容とは、宮島が提出した「君主独裁に君民同治の中を参酌して」に近く、さらに「みだりに欧州各国君民共治の制に擬すべからず。わが国自ら皇統一系の法典あり」と最後に念押ししてあって、江藤に答えた形でもあるのですね。
しかも、なぜ国体論が必要かと言えば、ひらたくいって、「天皇はこれまで政治にかかわらないでおられたので神と仰がれたのだけれども、天皇が政治にかかわれば、天皇もまた人であると知れて、その権威は半減する。しかし、それは必要なことであるのだから、国体論を憲法の主柱として、新たに権威を確立すべきだ」というのですね。
天皇制をめぐって、これは、相当深刻な理念対立ではないでしょうか?
明治六年政変の詳細は後回しにして、とりあえず、政変によって下野した参議のうち、江藤新平、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎の4人が、ただちに「民選議員設立建白書」を出し、有司専制を攻撃し、自由民権運動をはじめたことは、それ以前から理念対立があった証拠には、ならないでしょうか。
西郷隆盛はどうなのか、ということなのですが、西郷がなにも言っていない以上、実際のところはわかりません。ただ、妄想にすぎない、といわれればそうなのですが、傍証はあります。
一つは、司法省にいた有馬藤太の後年の回想で、江藤新平を司法省の長官にかつぐとき、西郷が後援してくれた、と言っていることです。なにしろ後年の回想ですので、他の事柄についても細かな思い違いはあるのですけれども、大筋でまちがいはないでしょう。有馬が同じ司法省で、江藤と同じ佐賀出身の今泉利春と仲が良く、志を同じくしていたことは、利春の妻、今泉みねの回想にもあります。
もうひとつは、『西南記伝』に収録されています『桐陰仙譚』、明治7年に、石川県士族の二人が、鹿児島で桐野利秋から聞き取ったとされる談話なのですが、この中に、なぜ西郷をはじめとする参議が下野したか、という理由が、出てくるのです。
その理由を述べる前に、政変の概略を語る必要があるでしょう。
一応、政変は、西郷の遣韓使節の可否をめぐって起こったのですが、昔からこれには、留守政府内で、井上馨、山県有朋などの汚職を材料に、江藤新平を筆頭とする肥前、土佐閥が、長州閥の追い落としをはかっていたのを、帰国した岩倉、大久保、木戸などが巻き返しをはかったのではないか、という、権力闘争が指摘されています。
私も、そう思うのです。西郷は、山県有朋はかばいましたが、井上馨については「三井の番頭さん」と呼んでいたという伝説もあり、現実に、まったくかばっていません。軍事面ではまだまだ、薩長の協力関係が重要であっても、政治面ではくずれてもかまわないと、西郷は踏んでいたのではなかったでしょうか。
しかし、大久保はそうは思わなかったでしょうし、伊地知正治、黒田清隆など、薩摩閥の中にも、それを危ぶむ思いはあったでしょう。
なにしろ、肝心な時期の大久保の日記が残っていませんで、………事件の核心時期だけですので、これは姜氏の推測されているように、破棄されたのではないか、という疑いもわいてくるのですが………、まあ、ないだけに、憶測にすぎないことも多くなってしまいますが、肥土参議の追い落としに、大久保が相当な策略を使ったことは、事実でしょう。
さて、政変大詰めの経過を述べますと、大久保をも含めた参議たちの閣議で、西郷が遣韓使節となることは決定するんです。ところが、それを天皇に上奏すべき三条太政大臣が急病で倒れ、………姜氏はこれが仮病だったのではないかと言うのですが………、ともかく、宮内省にいた薩摩の吉井の工作で、岩倉が三条の代理となります。そして岩倉は、閣議の決定を無視して、「私は西郷が遣韓使節に反対なので、その旨を申し上げ、天皇のご決断を仰ぐ」と宣言したのですね。
なにしろ、維新からこの方、まだ年若い天皇に政治的な決断を求めていたわけではないのに、突然、「天皇のご決断」が出てくるのです。
『桐陰仙譚』によれば、副島種臣は「これまで主上の独断専決におまかせしたことがないのに、突然そうするというのは、責任を主上に押しつけるということで不忠ではないのか」とつめよったと言いますが、つまるところ、参議たちの決定を無視するために、「主上のご政断」を錦の御旗にしている、つまり天皇を玉として使っていることが明白だ、と難詰しているわけですね。
それで桐野は、「公議を尽くさず、聖旨を矯むるを怒り」、西郷と自分は下野したのだと、言っているのです。
これは、薩長閥による恣意的な「天皇のご決断」利用の危険性が、露呈した事件ではなかったでしょうか。
冒頭の笠原氏の『明治天皇』にも出てくるのですが、西南戦争において、明治天皇は引きこもられ、あきらかにサボタージュをされます。西郷隆盛への親愛の情を抱いておられたことには、さまざまな傍証があり、それはもちろん大きな理由でしょうけれども、もう一つ、これもまた憶測にすぎませんが、明治6年、心ならずもご自身が政変で果たさせられた役割に、納得のいかないものを感じておられたのではないか、と思うのです。
天皇が西洋的な君主であることは、果たして、大久保が主張するほどに難しいことだったのでしょうか。当時、藩主や将軍の明君像というのは確実に存在し、実質、明治天皇もそれに近いものをめざされたのです。
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