函館戦争のフランス人vol2
において、函館戦争に参加したフランス陸軍伝習隊教師たちのお話をしたわけなんですが、今回は、伝習隊に属していなくて、個々に函館に駆けつけた残りのフランス人たちのお話です。
まずはフランス海軍の見習い士官であった、アンリ・ポール・イポリット・ド・ニコールと、フェリックス・ウージェーヌ・コラッシュです。
この二人は、軍艦ミネルバ号に乗り組んでいて、明治元年五月に横浜に到着し、十月までいたのですが、その間にブリュネ大尉と知り合ったものか、十月十八日に一日だけの上陸許可をもらい、脱走して、商船を乗り継ぎ、函館に至りました。
二人とも二十歳そこそこで、日本語を学んでいたそうなのですが、戦いのロマンを求めたんでしょうね。
宮古湾海戦におけるアポルタージュ作戦は、ニコールの発案でした。
写真は、このとき旧幕軍が奪おうとした甲鉄艦、ストーン・ウォール・ジャクソン号の後の姿です。
ストーン・ウォール・ジャクソン号は、鉄壁のジャクソン、という意味でして、アメリカ南軍の名将の名を冠して、南軍がフランスに発注していた最新の軍艦でした。
しかし、南北戦争終結で不要になり、幕府がアメリカと買いとり契約を結んで、半分だったかは支払ってあったんです。
ところが、日本に到着したころには、戊辰戦争の最中でして、当初、アメリカは局外中立を盾に新政府への引き渡しを拒んでいたのですが、旧幕府軍に引き渡すわけにもいかず、ついに、新政府に渡しました。
アポルタージュ・ボールディング、接舷攻撃は、砲が発達していない帆船時代の海戦では、もっとも一般的なものだったんだそうです。以下、個人サイトの掲示板でお教えていただいたことです。
その伝統から、かならず欧米の艦船には、軍艦乗っ取りのための斬り込み戦闘専門の海兵隊がいて、これが、現在のアメリカ海兵隊の前身なのだとか。
旧幕海軍には、海兵隊がいなかったのでしょう。臨時の海兵隊として、神木隊・彰義隊を、三艦に乗り込ませ、その検分役、つまりは海兵隊の総指揮官として土方歳三、その側近として新選組相馬主計、同役野村利三郎が、旗艦回天に乗り込んだわけですね。
ニコールはその回天に、コラッシュは高雄丸に、そして蟠龍には、後で述べますが、一般から参加したフランス人のクラトー、と、それぞれ、フランス人が一人づつ乗り込みます。
結果的に、この作戦は失敗します。
回天艦長、甲賀源吾は戦死し、ニコールも砲弾を受けて負傷。
高雄丸は座礁し、コラッシュは、上陸した他の日本人たちとともに降伏して、南部藩の捕虜となるのですが、このコラシュが、後にフランスで、このときのリアルな挿絵入りの手記を出版して残しています。
内容は、簡略ながら、鈴木明氏の『追跡』に載せられているのですが、挿絵は一枚しかなく、残念だったのですが、それが、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光』に、おそらくは全部、載っていたのです。買ってよかった本でした。
ニコールは、ブリュネ大尉たちとともに降伏寸前の五稜郭から抜け出し、コラッシュも結局、フランス公使に引き渡されて、二人は海軍を首になり、フランスへ帰されます。ところがその翌年、普仏戦争が勃発。
二人とも、一兵卒としてフランス陸軍に志願し、セダンの戦いでニコールは戦死。コラッシュは負傷しますが生き残り、明治4年、手記を出版したわけです。
セダンの戦いは、フランス軍にとっては無惨なものでした。
蟠龍に乗り込んだクラトーは、水兵だったといわれます。ただ、フランス海軍を脱走して函館戦争に参加したわけではなく、横浜に住み着いていて、だったようで、五稜郭脱出後、そのまま日本に居残り、明治になってからですが、築地の居留地でホテル・メトロポールを経営しました。
銀座の木村屋は、このホテルでパン作りを習ったと、いわれています。
後二人、函館戦争にフランス人が参加しています。
一人はトリポー。元フランス陸軍にいた人だといわれますが、経歴もその後のことも、まったくわかっていません。
もう一人のオーギュスト・ブラディエは、横浜の商人でした。函館戦争に参加したときには30歳です。脱出後は元の商人に返り、日本女性と結婚して、明治4年に男の子が生まれ、その二年後には死去し、横浜の外人墓地に葬られました。
残された息子は、日本国籍で育てられ、リヨン郊外のモンテリマールという父の故郷へ、何通かの手紙を書きました。フランス片田舎の村の親族は、その手紙を大切に長く保存していて、鈴木明氏がそれを発見します。
氏の『追跡』は、日本とフランスにまたがって、函館戦争に参加したフランス人のその後を克明に追っていて、読み応えのある本です。
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まずはフランス海軍の見習い士官であった、アンリ・ポール・イポリット・ド・ニコールと、フェリックス・ウージェーヌ・コラッシュです。
この二人は、軍艦ミネルバ号に乗り組んでいて、明治元年五月に横浜に到着し、十月までいたのですが、その間にブリュネ大尉と知り合ったものか、十月十八日に一日だけの上陸許可をもらい、脱走して、商船を乗り継ぎ、函館に至りました。
二人とも二十歳そこそこで、日本語を学んでいたそうなのですが、戦いのロマンを求めたんでしょうね。
宮古湾海戦におけるアポルタージュ作戦は、ニコールの発案でした。
写真は、このとき旧幕軍が奪おうとした甲鉄艦、ストーン・ウォール・ジャクソン号の後の姿です。
ストーン・ウォール・ジャクソン号は、鉄壁のジャクソン、という意味でして、アメリカ南軍の名将の名を冠して、南軍がフランスに発注していた最新の軍艦でした。
しかし、南北戦争終結で不要になり、幕府がアメリカと買いとり契約を結んで、半分だったかは支払ってあったんです。
ところが、日本に到着したころには、戊辰戦争の最中でして、当初、アメリカは局外中立を盾に新政府への引き渡しを拒んでいたのですが、旧幕府軍に引き渡すわけにもいかず、ついに、新政府に渡しました。
アポルタージュ・ボールディング、接舷攻撃は、砲が発達していない帆船時代の海戦では、もっとも一般的なものだったんだそうです。以下、個人サイトの掲示板でお教えていただいたことです。
その伝統から、かならず欧米の艦船には、軍艦乗っ取りのための斬り込み戦闘専門の海兵隊がいて、これが、現在のアメリカ海兵隊の前身なのだとか。
旧幕海軍には、海兵隊がいなかったのでしょう。臨時の海兵隊として、神木隊・彰義隊を、三艦に乗り込ませ、その検分役、つまりは海兵隊の総指揮官として土方歳三、その側近として新選組相馬主計、同役野村利三郎が、旗艦回天に乗り込んだわけですね。
ニコールはその回天に、コラッシュは高雄丸に、そして蟠龍には、後で述べますが、一般から参加したフランス人のクラトー、と、それぞれ、フランス人が一人づつ乗り込みます。
結果的に、この作戦は失敗します。
回天艦長、甲賀源吾は戦死し、ニコールも砲弾を受けて負傷。
高雄丸は座礁し、コラッシュは、上陸した他の日本人たちとともに降伏して、南部藩の捕虜となるのですが、このコラシュが、後にフランスで、このときのリアルな挿絵入りの手記を出版して残しています。
内容は、簡略ながら、鈴木明氏の『追跡』に載せられているのですが、挿絵は一枚しかなく、残念だったのですが、それが、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光』に、おそらくは全部、載っていたのです。買ってよかった本でした。
ニコールは、ブリュネ大尉たちとともに降伏寸前の五稜郭から抜け出し、コラッシュも結局、フランス公使に引き渡されて、二人は海軍を首になり、フランスへ帰されます。ところがその翌年、普仏戦争が勃発。
二人とも、一兵卒としてフランス陸軍に志願し、セダンの戦いでニコールは戦死。コラッシュは負傷しますが生き残り、明治4年、手記を出版したわけです。
セダンの戦いは、フランス軍にとっては無惨なものでした。
蟠龍に乗り込んだクラトーは、水兵だったといわれます。ただ、フランス海軍を脱走して函館戦争に参加したわけではなく、横浜に住み着いていて、だったようで、五稜郭脱出後、そのまま日本に居残り、明治になってからですが、築地の居留地でホテル・メトロポールを経営しました。
銀座の木村屋は、このホテルでパン作りを習ったと、いわれています。
後二人、函館戦争にフランス人が参加しています。
一人はトリポー。元フランス陸軍にいた人だといわれますが、経歴もその後のことも、まったくわかっていません。
もう一人のオーギュスト・ブラディエは、横浜の商人でした。函館戦争に参加したときには30歳です。脱出後は元の商人に返り、日本女性と結婚して、明治4年に男の子が生まれ、その二年後には死去し、横浜の外人墓地に葬られました。
残された息子は、日本国籍で育てられ、リヨン郊外のモンテリマールという父の故郷へ、何通かの手紙を書きました。フランス片田舎の村の親族は、その手紙を大切に長く保存していて、鈴木明氏がそれを発見します。
氏の『追跡』は、日本とフランスにまたがって、函館戦争に参加したフランス人のその後を克明に追っていて、読み応えのある本です。
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幕末日本と欧米 |
フランス語の教師をなさったということは、幕府伝習隊にいたしたんですね。法雲寺とは、古三津のお寺でしょうか。奇縁です。
釈放後は、加賀藩にフランス語の教師として勤めたこともあったそうです。
東京新宿に住居を構えたそうですが、最後は旅先の四国松山市の法雲寺で亡くなりました。
遺骨は松山ですが、お墓は東京の『円通寺』に
もあります。