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この本、『フランス人の幕末維新』を買ったのは、実は、函館戦争に参加したフランス人、ウージェヌ・コラシュの手記が収録されていると、最近知ったからです。
函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)で書いたのですが、コラシュの手記は、鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』に要約が、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光 知られざる日仏交流一〇〇年の歴史』に挿絵が載っています。
しかし、この本を買うまで、1860年にパリで創刊された旅行専門誌『世界周遊』の28号(明治7年・1874年発行)に載せられたものだとは、知りませんでした。
この本には、コラシュの手記だけではなく、『世界周遊』に載せられた他の二編の日本旅行記も収録されています。
最後の一編は、明治7年の富士登山記で、現在の私の関心から少しはずれるのですが、嬉しかったのは、最初の一編です。
安政5年(1858年)、ペリー来航からおよそ3年の後、国交を求めてやってきたフランス全権使節団の一員だった、M・ド・モージュ侯爵のものだったんです。
私がこのブログでモンブラン伯爵のことを書かなくなったのには、わけがあります。
検索をかけていて、法政大学が出している『社会志林』という雑誌に、宮永孝氏がモンブラン伯爵のことを書いているらしい、とはわかっていたのですが、近くの大学の図書館にはその号がなく、どこにあるものやらと思いまどっているうちに、ご親切に、コピーを送ってくださった方がいたんです。
これがもう、予想もしていなかったほどに詳しく、調べることもなくなりました。
それでわかったのですが、モンブラン伯爵が、グロ男爵を団長とするこのフランス全権使節団に加わっていたということは、本当だったんですね。
つまり、この旅行記の著者、M・ド・モージュ侯爵は、モンブラン伯とまったく同じ経験をしているのです。解説によりますと、侯爵の経歴はまったくわかっていないそうで、まさか、とは思うのですが、モンブラン伯の変名か? と勘ぐりたくなるほど、深く日本について勉強した旅行記です。例えば、以下のような部分。
日本には俗界的皇帝と宗教的皇帝、つまり大君とミカドが存在する。ヨーロッパ人が日本の皇帝と誤って命名する大君はミカドの代表、代理人にすぎず、ミカドが日本の真の主権者、昔の王朝の代表者であって神々の子孫である。ミカドはあまりの高位にあるので現世の所業に従事したり国事を規制したりせずに、それらを配下の者に任せて雑用から免除されている。
大君は最初は宰相、つまり、失墜したので生来の力を剥奪された王朝の一等役人にすぎなかった。日本のメロヴィンガ朝ともいえる、その末裔を断髪した後も僧院に閉じこめないで豪奢な寺院に幽閉し、この半神(ミカド)および全国民にこの境遇こそが神々しい出自に一段とふさわしいと説得し、この半神を偶像にしあげたのだ。したがって、新王朝は玉座の上に樹立され、かつての支配者への尊敬を主張し、古の支配者のうちに日本列島の絶対的主権者を認め続けながら、政権を簒奪したのだ。日本の政治構造の全体系はこのようなフィクションの上に依存しているのだ。
ええっ!!! どびっくりしました。
アラゴルンは明治大帝かで、私はこう書きました。「このカロリング朝というのは、メロビング朝の宰相が、王国を乗っ取って成立しているんですね。メロビング朝の王は、祭祀王の趣が強く、もしも宰相が宰相のまま、王を祭り上げて実権を握っていたら、日本の天皇制に近かったのでは、と思ったりします」
百数十年も前に、はじめて日本を訪れたフランス貴族が、同じようなことを考えていたなんて!!!
かなり歴史を省略してはいますが、外国人の解釈として、驚くほど的確ではないでしょうか。洞察がまた、すぐれています。
そもそも、江戸の住民は将軍の存在に煩わされることはめったにないのだ。彼は年に五、六回、宮廷の敷地から乗り物で外出するだけで、町から一里に位置する寺院へ祖先の御霊を崇めに行くからだ。彼は礼儀作法に縛られ、生活はいろいろな祭儀でがんじがらめになっているので、人の目にはますます見えにくい半神のようなものになり、あまりにも高位に奉られているので現世の所業に手を染めることもない。したがって、政体を司るのは宰相、つまり大老と摂政会議なのだ。(中略)今日では大君はしだいに第二のミカドになっているのだ。
あー、よくおわかりで。
ただ、例えば日本の身分制度については、非常に強固なカースト制度のように書いてあったり、モンブラン伯の日本観と幕末版『明日は舞踏会』で書きましたように、『モンブランの日本見聞録』が「階級は区別されてはいるが、カースト制度を作っているのではない」というような理解に至っているのにはかなわないところがあるのですが、モンブラン伯はその後も日本を訪れ、日本人と深くつきあって後に見聞録を書いたわけでして、モージュ侯のものは初来日の印象記なのですから、それにしては出色です。
最後に、フランス貴族ってみんな、お料理の描写が細かいですねえ。宮廷料理と装飾菓子で、明治維新の直前、リュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵が記した日本式「ピエスモンテ」のことを書きましたが、それと似たような話がありました。
がいして、日本料理は中国料理によく似ているが、料理の出し方、盛りつけや清潔さの点では、はるかにまさっているようだ。給仕人自身も大小を差しており、新たな料理を出すたびに、驚きや豪奢や品のよさのうちにも中国人の文官の食卓ではついぞお目にかかれないちょっとした洗練されたものが感じられた。そこに配されたものといえば、まずは花々や動物の姿に刈り込んだ盆栽であり、海や海藻を模した皿に盛られたばかでかい魚や、伊勢えびやかぶを切り刻んでつくった目を見張るような花々だった。これらの花々は外国奉行の手になるものだ、と奉行は自慢げに、ほほえみながら説明した。この点で役人たちのお手並みがいかに高度なものかを知らしめてくれはしたが、彼らの仕事の中身と重要性については、それほどのものではないと納得させるものでもあった。すべてがこのようにうまく秩序だっており、社会機構がこのように簡単に機能していて、主たる役人たちが、かぶ、人参や伊勢えびの切り身で素敵な花束をつくるのに日々を費やすことができるような国民とは幸せなるかな! というものだ。
いや、もう、笑いました。笑ったんですけど、いくらなんでも、ほんとうに下田のお奉行さまが、日本式ピエスモンテを作っていたんでしょうか。
その部屋に飾られていた盆栽か生け花を、お奉行さまが作った、飾ったと説明されたのを聞きまちがえたんじゃないんでしょうかしらん。盆栽ならば作ってそうですし、生け花は武士のたしなみです。
あー、料理にしましても、氏家幹人氏の『小石川御家人物語』を見ていますと、幕府の御家人が日記に南蛮漬(ピクルスです)のレシピを書いていたりしまして、漬け物は男が漬けるもののようでしたけど、いくらなんでも手の込んだ細工料理をねえ。ペリーのときと同じく、料亭の仕出し料理のはずです。
お奉行さまは、中村出羽守となっているんですが、ちょっとフランス人をからかってみたのでしょうか。それとも、やはり盆栽か生け花か。なんにしても、フランス人もあきれるのんきなことではあるんですが。
なお、デザートはカステラで、「えもいえぬほどおいしく、見事な切り口で出されたサヴォア菓子」と記され、昔スペインから伝わったもの、と、ちゃんと説明されています。
忘れていました。書き加えます。
幕府には、ちゃんと料理人がいて、彼らももちろん武士ですよねえ。
「幕府料理方頭取・石井治兵衛家」というのがあって、明治維新後、代々宮中の御厨子所預だった高橋家が、石井家に職をゆずったって、ありました。慶応義塾図書館の貴重書、『中原忠兼料理式伝書』の解説です。検索をかければpdf書類で出てきます。
手持ちの『江戸幕府役職集成』を見てみたんですが、石井治兵衛家が務めていたという料理方がどの役職なんだか、よくわかりません。しかし、御膳奉行というのがあって、御膳所御台所頭、なんていうのもあります。ここらあたりなんでしょうか。
場所が下田なので、江戸の料亭の仕出しを頼むのも不便で、江戸城から料理方が出張したとか、なんでしょうか。それで、料理方の役人が調理した、というのを、もてなされたグロ男爵、モージュ侯爵たちフランス人は、下田の外国奉行が調理した、と勘違いした、とか。
それが一番、可能性が高そうですね。
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この本、『フランス人の幕末維新』を買ったのは、実は、函館戦争に参加したフランス人、ウージェヌ・コラシュの手記が収録されていると、最近知ったからです。
函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)で書いたのですが、コラシュの手記は、鈴木明氏の『追跡 一枚の幕末写真』に要約が、クリスチャン・ポラック氏の『絹と光 知られざる日仏交流一〇〇年の歴史』に挿絵が載っています。
しかし、この本を買うまで、1860年にパリで創刊された旅行専門誌『世界周遊』の28号(明治7年・1874年発行)に載せられたものだとは、知りませんでした。
この本には、コラシュの手記だけではなく、『世界周遊』に載せられた他の二編の日本旅行記も収録されています。
最後の一編は、明治7年の富士登山記で、現在の私の関心から少しはずれるのですが、嬉しかったのは、最初の一編です。
安政5年(1858年)、ペリー来航からおよそ3年の後、国交を求めてやってきたフランス全権使節団の一員だった、M・ド・モージュ侯爵のものだったんです。
私がこのブログでモンブラン伯爵のことを書かなくなったのには、わけがあります。
検索をかけていて、法政大学が出している『社会志林』という雑誌に、宮永孝氏がモンブラン伯爵のことを書いているらしい、とはわかっていたのですが、近くの大学の図書館にはその号がなく、どこにあるものやらと思いまどっているうちに、ご親切に、コピーを送ってくださった方がいたんです。
これがもう、予想もしていなかったほどに詳しく、調べることもなくなりました。
それでわかったのですが、モンブラン伯爵が、グロ男爵を団長とするこのフランス全権使節団に加わっていたということは、本当だったんですね。
つまり、この旅行記の著者、M・ド・モージュ侯爵は、モンブラン伯とまったく同じ経験をしているのです。解説によりますと、侯爵の経歴はまったくわかっていないそうで、まさか、とは思うのですが、モンブラン伯の変名か? と勘ぐりたくなるほど、深く日本について勉強した旅行記です。例えば、以下のような部分。
日本には俗界的皇帝と宗教的皇帝、つまり大君とミカドが存在する。ヨーロッパ人が日本の皇帝と誤って命名する大君はミカドの代表、代理人にすぎず、ミカドが日本の真の主権者、昔の王朝の代表者であって神々の子孫である。ミカドはあまりの高位にあるので現世の所業に従事したり国事を規制したりせずに、それらを配下の者に任せて雑用から免除されている。
大君は最初は宰相、つまり、失墜したので生来の力を剥奪された王朝の一等役人にすぎなかった。日本のメロヴィンガ朝ともいえる、その末裔を断髪した後も僧院に閉じこめないで豪奢な寺院に幽閉し、この半神(ミカド)および全国民にこの境遇こそが神々しい出自に一段とふさわしいと説得し、この半神を偶像にしあげたのだ。したがって、新王朝は玉座の上に樹立され、かつての支配者への尊敬を主張し、古の支配者のうちに日本列島の絶対的主権者を認め続けながら、政権を簒奪したのだ。日本の政治構造の全体系はこのようなフィクションの上に依存しているのだ。
ええっ!!! どびっくりしました。
アラゴルンは明治大帝かで、私はこう書きました。「このカロリング朝というのは、メロビング朝の宰相が、王国を乗っ取って成立しているんですね。メロビング朝の王は、祭祀王の趣が強く、もしも宰相が宰相のまま、王を祭り上げて実権を握っていたら、日本の天皇制に近かったのでは、と思ったりします」
百数十年も前に、はじめて日本を訪れたフランス貴族が、同じようなことを考えていたなんて!!!
かなり歴史を省略してはいますが、外国人の解釈として、驚くほど的確ではないでしょうか。洞察がまた、すぐれています。
そもそも、江戸の住民は将軍の存在に煩わされることはめったにないのだ。彼は年に五、六回、宮廷の敷地から乗り物で外出するだけで、町から一里に位置する寺院へ祖先の御霊を崇めに行くからだ。彼は礼儀作法に縛られ、生活はいろいろな祭儀でがんじがらめになっているので、人の目にはますます見えにくい半神のようなものになり、あまりにも高位に奉られているので現世の所業に手を染めることもない。したがって、政体を司るのは宰相、つまり大老と摂政会議なのだ。(中略)今日では大君はしだいに第二のミカドになっているのだ。
あー、よくおわかりで。
ただ、例えば日本の身分制度については、非常に強固なカースト制度のように書いてあったり、モンブラン伯の日本観と幕末版『明日は舞踏会』で書きましたように、『モンブランの日本見聞録』が「階級は区別されてはいるが、カースト制度を作っているのではない」というような理解に至っているのにはかなわないところがあるのですが、モンブラン伯はその後も日本を訪れ、日本人と深くつきあって後に見聞録を書いたわけでして、モージュ侯のものは初来日の印象記なのですから、それにしては出色です。
最後に、フランス貴族ってみんな、お料理の描写が細かいですねえ。宮廷料理と装飾菓子で、明治維新の直前、リュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵が記した日本式「ピエスモンテ」のことを書きましたが、それと似たような話がありました。
がいして、日本料理は中国料理によく似ているが、料理の出し方、盛りつけや清潔さの点では、はるかにまさっているようだ。給仕人自身も大小を差しており、新たな料理を出すたびに、驚きや豪奢や品のよさのうちにも中国人の文官の食卓ではついぞお目にかかれないちょっとした洗練されたものが感じられた。そこに配されたものといえば、まずは花々や動物の姿に刈り込んだ盆栽であり、海や海藻を模した皿に盛られたばかでかい魚や、伊勢えびやかぶを切り刻んでつくった目を見張るような花々だった。これらの花々は外国奉行の手になるものだ、と奉行は自慢げに、ほほえみながら説明した。この点で役人たちのお手並みがいかに高度なものかを知らしめてくれはしたが、彼らの仕事の中身と重要性については、それほどのものではないと納得させるものでもあった。すべてがこのようにうまく秩序だっており、社会機構がこのように簡単に機能していて、主たる役人たちが、かぶ、人参や伊勢えびの切り身で素敵な花束をつくるのに日々を費やすことができるような国民とは幸せなるかな! というものだ。
いや、もう、笑いました。笑ったんですけど、いくらなんでも、ほんとうに下田のお奉行さまが、日本式ピエスモンテを作っていたんでしょうか。
その部屋に飾られていた盆栽か生け花を、お奉行さまが作った、飾ったと説明されたのを聞きまちがえたんじゃないんでしょうかしらん。盆栽ならば作ってそうですし、生け花は武士のたしなみです。
あー、料理にしましても、氏家幹人氏の『小石川御家人物語』を見ていますと、幕府の御家人が日記に南蛮漬(ピクルスです)のレシピを書いていたりしまして、漬け物は男が漬けるもののようでしたけど、いくらなんでも手の込んだ細工料理をねえ。ペリーのときと同じく、料亭の仕出し料理のはずです。
お奉行さまは、中村出羽守となっているんですが、ちょっとフランス人をからかってみたのでしょうか。それとも、やはり盆栽か生け花か。なんにしても、フランス人もあきれるのんきなことではあるんですが。
なお、デザートはカステラで、「えもいえぬほどおいしく、見事な切り口で出されたサヴォア菓子」と記され、昔スペインから伝わったもの、と、ちゃんと説明されています。
忘れていました。書き加えます。
幕府には、ちゃんと料理人がいて、彼らももちろん武士ですよねえ。
「幕府料理方頭取・石井治兵衛家」というのがあって、明治維新後、代々宮中の御厨子所預だった高橋家が、石井家に職をゆずったって、ありました。慶応義塾図書館の貴重書、『中原忠兼料理式伝書』の解説です。検索をかければpdf書類で出てきます。
手持ちの『江戸幕府役職集成』を見てみたんですが、石井治兵衛家が務めていたという料理方がどの役職なんだか、よくわかりません。しかし、御膳奉行というのがあって、御膳所御台所頭、なんていうのもあります。ここらあたりなんでしょうか。
場所が下田なので、江戸の料亭の仕出しを頼むのも不便で、江戸城から料理方が出張したとか、なんでしょうか。それで、料理方の役人が調理した、というのを、もてなされたグロ男爵、モージュ侯爵たちフランス人は、下田の外国奉行が調理した、と勘違いした、とか。
それが一番、可能性が高そうですね。
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