えーと、また唐突なんですが、さがしていた資料が見つかりましたので。
尖閣諸島で中国ともめている昨今ですが、尖閣諸島は沖縄の一部でして、大清帝国の主張では「琉球は清朝の朝貢国であるから日本の領土ではない」と、日清戦争の敗戦まで、日本領と認めなかったところに、問題の発端はあります。
あー。もちろん、台湾問題もありますね。結局、現在の中国の主張は、尖閣諸島は台湾の一部、ということですので。
明治6年政変と征韓論 明治4年で書きかけていたことなのですが、「征韓論」というのは、政変の後の事情を知らない世論の受け止めは方は別にしまして、実際に留守政府首脳の懸案になっておりましたのは、草梁倭館に出兵して開国を迫る、ということでして、李王朝が実効支配していました朝鮮半島を征服する、などという、突拍子もない案ではありません。
しかし、同時期の征台論については、あわよくばその半分を征服しようという話でした。なぜならば、アメリカ公使デ・ロングが「台湾には清国の実効支配が及んでおらず、清国も領有を主張していない」という見解を、どうやら明確にしていまして、アモイ駐在アメリカ領事のル・ジャンドルを、征台顧問として日本に世話してもいます。そこらへんの細かな実情は、資料をつみあげていく必要がありまして、やりかかったんですけれど、めんどーになってきまして、中断しています。
ともかく、政変の後に、征台は大久保利通、大隈重信の手で実行に移されますが、そのときはすでに、デ・ロングは在日公使を辞めさせられて、本国に呼び返されています。
デ・ロングは、まったくもって外交官経験のない素人でして、アメリカが得意としますご褒美任命外交官の口です。
で、この当時のアメリカは、アジア外交を牛耳っていましたイギリスに、多大な反発を抱いていました。
アメリカは日本を、清国進出の足がかりにしようと開国させましたのに、その後の南北戦争でろくにアジア外交にかかわることができず、日本への影響力をも維持できず、イギリスどころか、幕府にくいこみましたフランスにも、大きく遅れをとっていたんですね。
明治2年、日本に公使として着任しましたデ・ロングは、日本におけるアメリカの勢力拡大のためならばイギリスとの衝突もかまわず、といった、問題の多い姿勢で、日本の外交をひっかきまわすのです。
そういうわけでして、征台についても、デ・ロングが公使だったときに、兵士、物資の輸送に、米英国籍の民間船が協力するという約束ができていたんですけれども、清国に深く根をはっていますイギリスから横やりが入り、後任のアメリカ公使もそれに同調しまして、大久保利通と大隈重信は、急遽三菱を援助して船を買わせて使う、ということになったんです。
おまけに、ですね。そもそも、ル・ジャンドル案では「春以降、暑くなってくると疫病が蔓延する島なので、冬に」ということでしたのに、なにをとち狂ったのか4月に計画しまして、それが5月にのび、結果、多数の戦病死者を出すことになりました。
結局、イギリスの仲裁で、日本はほどほどの成果を得はしたんですけれども、これで清国が琉球の日本帰属を認めたわけでもなく、逆に清国は領有権の西洋ルールに目覚めまして、この直後、台湾の領有を確定的なものにすべく、出兵して、清に逆らう台湾現地民を徹底的に虐殺し、実質的な台湾領有権を確立したわけです。このときの清の残虐ぶりは、とうてい日本軍がまねできるものではなかったと、アメリカ人の学者さんが言っております。
日本にとって、をいいますならば、ごちゃごちゃ政争をやってないで、予定通り、明治6年の晩秋に、すみやかに台湾出兵すべきでした。そうすれば、イギリスの口出しが遅れ、米英民間船がかかわることによって、もっと日本有利にことが運んだ可能性がなきにしもあらず、ですし、それが無理でも、少なくとも、戦病死者はごく少なくてすんだはずです。
いずれにしましても、明治6年政変において、問題になっていましたのは、朝鮮、台湾、琉球をめぐる清国の宗主権であり、そしてもう一つは、幕末からの最大の懸案、ロシアとの国境線、樺太領有権です。
これは全部、現代にまで尾を引いている問題ですが、とりあえずそれは置いておきまして、誕生間もない明治新政府の対清懸念に首をつっこみましたデ・ロングが、です。対ロシアにも首をつっこまないわけはないのです。
これまでも何度か書きましたが、開拓使は、明治新政府が、樺太をにらんで設立したものでして、北海道に確実な実効支配を打ち立てなければ、ロシアが樺太を征服し、さらに南下する恐れが大きかったからなのです。
このことは、イギリス、フランスも警戒していまして、維新直後に、自国軍艦を千島列島偵察に出しています。
で、幕府は、ロシアとの国境線画定の仲介を、フランスに頼ろうとした経緯がありまして、明治新政府も、当初は、フランスの仲介を期待した節があるんですね。
上の本は、樺太問題と開拓使をあつかい、細かく分析しているのですが、冒頭で、非常に興味深い指摘があります。
明治2年5月、開拓使の前身であります蝦夷開拓御用局が設置されます。6月、その長官(総督)に鍋島閑叟が任命されるのですが、直前の5月、島義勇(佐賀)、桜井慎平(長州)、大久保利通(薩摩)の三人が、開拓御用掛になっているんです。御用掛は他にも数名任命されるのですが、彼らは、もともと蝦夷にかかわりをもった実務官と見ていいようでして、鍋島閑叟が総督になりました時点で、事実上の長官は島義勇であり、佐賀閥がしきろうとしているところへ、大久保が長州人を一人加えて、わりこんだのではないか、と思えます。
ところがです。不思議なことがあればあるもので、明治2年の開拓使日誌、京都で刷ったものには大久保の就任がちゃんと載っているもかかわらず、東京で刷った版からは大久保利通の就任記事がすっぽり消えてしまっている!!!のだそうなんです。大久保の開拓使御用掛就任は、複数の傍証がありまして確かなことなのですが、そんなわけでして、なかったことにされていたりします。
この謎を提示なさった榎本洋介氏は、しかし、なぜなのか?については、回答を見出しておられません。
私、もしかしてこれは、モンブラン伯爵がらみだったからではないのか?と、憶測しているんです。
えーと、ですね。ロシアの南下についてどこかで書いたはず、と思いましたら、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1ですね。金光瑞個人については、wikiをご覧下さい。このシリーズを書いている途中で、確実な情報を見つけまして、wikiに書いております。
ともかく、です。日本の幕末はロシアの南下とともにはじまった、といっても過言ではなく、少年期の森有礼が読んで世界情勢に目覚めた、林子平の「海国兵談」も、ロシアの南下を危惧して書かれたものです。
樺太開拓は、17世紀の終わりから、松前藩によって、はじめられていたのですが、幕府が衝撃を受け、異例にも朝廷に報告しました赤蝦夷騒動(文化露寇・フヴォストフ事件)は、ペリー来航の50年前、文化3年(1806)に起こりました。徳川家斉の時代です。
この当時のロシア人は、ラッコの毛皮を求めて、シベリアからカムチャッカ半島、アリョーシャン列島、千島列島、北米海岸に進出、植民していました。
やがて毛皮商人たちは、宮廷から出資を得て、国策会社露米会社を立ち上げます。会社といいましても、武装通商集団で、ロシア海軍軍人が、そのまま社員だったりします。
露米会社の総支配人、ニコライ・レザノフも、ロシア海軍省に属した人で、露米会社の維持、発展のために海軍を利用し、食料などの物資補給、交易路の開拓に努めます。
その一環として、文化元年(1804)、長崎に来港し、通商を要求しますが、幕府は拒否します。
そのレザノフの部下の海軍士官フヴォストフとダヴィドフが、文化3年(1806)に樺太の松前藩の番所を襲撃、略奪し、翌年にも樺太、千島列島など各所の日本人を襲撃した事件でして、ciniiにいくつか論文があがっていますが、どうも、これまでいわれてきましたような突発的なの海賊行動ではなく、露米会社の命令を受けて、レザノフが受けた扱いの報復と、日本人の樺太千島進出をはばむための軍事行動であったようです。
この事件は、北前船のルートに乗って日本全国にひろがり、京都の朝廷も大騒ぎ。幕府は慌てて、東北諸藩に動員をかけ、蝦夷の防備にあたらせます。
このときのロシアの極東進出は、開拓をともなった本格的なものではなく、結局、1812年のナポレオンのロシア侵攻もありまして、一息つく形でおさまりましたが、以降、蒸気船の発達により、ロシアが極東に鉱物資源や軍事拠点、通商拠点を求める勢いは増し、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1で書きましたように、ペリーに乗じて安政元年(1855)に日露和親条約を結びました後、清国に迫って、沿海州を得るんですね。
こうなりますと、ロシアの勢いはとまりません。樺太にも囚人を送り込み、軍隊を常駐させて、日本人がいた南部へも、どんどん進出してきます。
幕府の樺太開発は、失敗していたといっていい状態でして、維新直前には、雑居といいつつ、圧倒的なロシア優勢状態に陥っていました。
この幕末、なぜか樺太に魅せられてしまった一人の日本人がいました。
阿波(四国徳島)の民間人、岡本監輔です。
そういえば、エトロフ島を開拓した高田屋嘉兵衛が、淡路島の出身でした。赤蝦夷騒動の後遺症ともいえるゴローニン事件でロシア船につかまった人です。司馬遼太郎氏が彼を主人公に「菜の花の沖」を書いておられます。
ともかく、京阪に近い阿波の漁民は、蝦夷の情報に通じていて、岡本監輔も樺太を知ったようです。
なんだか、幕末は不思議な時代です。
四国の片田舎の農村に生まれた監輔が、北に憧れて、京阪、江戸で探求を重ね、北方探検家の松浦武四郎とも知り合いまして、ふらふらと蝦夷へ、そして樺太へ行ってしまうんです。あげく、樺太一周をなしとげ、ロシア人の植民を目の当たりにしまして、このままでは憧れた島がとられてしまう、と危機感を持ちます。
監輔は、樺太全土が日本領だという信念を持っていまして、慶応2年(1866年)、小出大和守が国境談判のためロシアへ向かうのを阻止しようと京都へ行くんですが、失敗します。
その監輔の目の前で、鳥羽伏見の戦いは起こり、チャンス到来!とばかりに監輔は、親しくしていました貧乏なお公家さん、清水谷公考にロシアの脅威と樺太開拓の必要を訴え、すっかりその気にさせてしまうんですね。
証拠はないのですが、監輔はどうも、清水谷だけではなく、薩摩藩士の井上石見をその気にさせたらしいんですね。井上石見は、藤井良節の弟で、神官の血筋だけに、公卿の家に出入りしつけた古くからの京詰め藩士です。どうやら、岩倉具視の側近となっていたようでもあります。
なんといいましても、実質、維新政府をきりまわしていましたのは、薩摩です。井上石見が清水谷をかついだ、ってことなんでしょう。
それで、清水谷は弱冠23歳で箱館裁判所総督、37歳壮年の井上石見は判事に任じられまして、29歳で権判事となりました岡本監輔もともに、蝦夷地鎮撫に向かうのですが、これに大久保利通が噛んでいないわけがありません。
長くなりましたので、続きます。
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尖閣諸島で中国ともめている昨今ですが、尖閣諸島は沖縄の一部でして、大清帝国の主張では「琉球は清朝の朝貢国であるから日本の領土ではない」と、日清戦争の敗戦まで、日本領と認めなかったところに、問題の発端はあります。
あー。もちろん、台湾問題もありますね。結局、現在の中国の主張は、尖閣諸島は台湾の一部、ということですので。
明治6年政変と征韓論 明治4年で書きかけていたことなのですが、「征韓論」というのは、政変の後の事情を知らない世論の受け止めは方は別にしまして、実際に留守政府首脳の懸案になっておりましたのは、草梁倭館に出兵して開国を迫る、ということでして、李王朝が実効支配していました朝鮮半島を征服する、などという、突拍子もない案ではありません。
しかし、同時期の征台論については、あわよくばその半分を征服しようという話でした。なぜならば、アメリカ公使デ・ロングが「台湾には清国の実効支配が及んでおらず、清国も領有を主張していない」という見解を、どうやら明確にしていまして、アモイ駐在アメリカ領事のル・ジャンドルを、征台顧問として日本に世話してもいます。そこらへんの細かな実情は、資料をつみあげていく必要がありまして、やりかかったんですけれど、めんどーになってきまして、中断しています。
ともかく、政変の後に、征台は大久保利通、大隈重信の手で実行に移されますが、そのときはすでに、デ・ロングは在日公使を辞めさせられて、本国に呼び返されています。
デ・ロングは、まったくもって外交官経験のない素人でして、アメリカが得意としますご褒美任命外交官の口です。
で、この当時のアメリカは、アジア外交を牛耳っていましたイギリスに、多大な反発を抱いていました。
アメリカは日本を、清国進出の足がかりにしようと開国させましたのに、その後の南北戦争でろくにアジア外交にかかわることができず、日本への影響力をも維持できず、イギリスどころか、幕府にくいこみましたフランスにも、大きく遅れをとっていたんですね。
明治2年、日本に公使として着任しましたデ・ロングは、日本におけるアメリカの勢力拡大のためならばイギリスとの衝突もかまわず、といった、問題の多い姿勢で、日本の外交をひっかきまわすのです。
そういうわけでして、征台についても、デ・ロングが公使だったときに、兵士、物資の輸送に、米英国籍の民間船が協力するという約束ができていたんですけれども、清国に深く根をはっていますイギリスから横やりが入り、後任のアメリカ公使もそれに同調しまして、大久保利通と大隈重信は、急遽三菱を援助して船を買わせて使う、ということになったんです。
おまけに、ですね。そもそも、ル・ジャンドル案では「春以降、暑くなってくると疫病が蔓延する島なので、冬に」ということでしたのに、なにをとち狂ったのか4月に計画しまして、それが5月にのび、結果、多数の戦病死者を出すことになりました。
結局、イギリスの仲裁で、日本はほどほどの成果を得はしたんですけれども、これで清国が琉球の日本帰属を認めたわけでもなく、逆に清国は領有権の西洋ルールに目覚めまして、この直後、台湾の領有を確定的なものにすべく、出兵して、清に逆らう台湾現地民を徹底的に虐殺し、実質的な台湾領有権を確立したわけです。このときの清の残虐ぶりは、とうてい日本軍がまねできるものではなかったと、アメリカ人の学者さんが言っております。
日本にとって、をいいますならば、ごちゃごちゃ政争をやってないで、予定通り、明治6年の晩秋に、すみやかに台湾出兵すべきでした。そうすれば、イギリスの口出しが遅れ、米英民間船がかかわることによって、もっと日本有利にことが運んだ可能性がなきにしもあらず、ですし、それが無理でも、少なくとも、戦病死者はごく少なくてすんだはずです。
いずれにしましても、明治6年政変において、問題になっていましたのは、朝鮮、台湾、琉球をめぐる清国の宗主権であり、そしてもう一つは、幕末からの最大の懸案、ロシアとの国境線、樺太領有権です。
これは全部、現代にまで尾を引いている問題ですが、とりあえずそれは置いておきまして、誕生間もない明治新政府の対清懸念に首をつっこみましたデ・ロングが、です。対ロシアにも首をつっこまないわけはないのです。
これまでも何度か書きましたが、開拓使は、明治新政府が、樺太をにらんで設立したものでして、北海道に確実な実効支配を打ち立てなければ、ロシアが樺太を征服し、さらに南下する恐れが大きかったからなのです。
このことは、イギリス、フランスも警戒していまして、維新直後に、自国軍艦を千島列島偵察に出しています。
で、幕府は、ロシアとの国境線画定の仲介を、フランスに頼ろうとした経緯がありまして、明治新政府も、当初は、フランスの仲介を期待した節があるんですね。
開拓使と北海道 | |
榎本 洋介 | |
北海道出版企画センター |
上の本は、樺太問題と開拓使をあつかい、細かく分析しているのですが、冒頭で、非常に興味深い指摘があります。
明治2年5月、開拓使の前身であります蝦夷開拓御用局が設置されます。6月、その長官(総督)に鍋島閑叟が任命されるのですが、直前の5月、島義勇(佐賀)、桜井慎平(長州)、大久保利通(薩摩)の三人が、開拓御用掛になっているんです。御用掛は他にも数名任命されるのですが、彼らは、もともと蝦夷にかかわりをもった実務官と見ていいようでして、鍋島閑叟が総督になりました時点で、事実上の長官は島義勇であり、佐賀閥がしきろうとしているところへ、大久保が長州人を一人加えて、わりこんだのではないか、と思えます。
ところがです。不思議なことがあればあるもので、明治2年の開拓使日誌、京都で刷ったものには大久保の就任がちゃんと載っているもかかわらず、東京で刷った版からは大久保利通の就任記事がすっぽり消えてしまっている!!!のだそうなんです。大久保の開拓使御用掛就任は、複数の傍証がありまして確かなことなのですが、そんなわけでして、なかったことにされていたりします。
この謎を提示なさった榎本洋介氏は、しかし、なぜなのか?については、回答を見出しておられません。
私、もしかしてこれは、モンブラン伯爵がらみだったからではないのか?と、憶測しているんです。
えーと、ですね。ロシアの南下についてどこかで書いたはず、と思いましたら、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1ですね。金光瑞個人については、wikiをご覧下さい。このシリーズを書いている途中で、確実な情報を見つけまして、wikiに書いております。
ともかく、です。日本の幕末はロシアの南下とともにはじまった、といっても過言ではなく、少年期の森有礼が読んで世界情勢に目覚めた、林子平の「海国兵談」も、ロシアの南下を危惧して書かれたものです。
樺太開拓は、17世紀の終わりから、松前藩によって、はじめられていたのですが、幕府が衝撃を受け、異例にも朝廷に報告しました赤蝦夷騒動(文化露寇・フヴォストフ事件)は、ペリー来航の50年前、文化3年(1806)に起こりました。徳川家斉の時代です。
この当時のロシア人は、ラッコの毛皮を求めて、シベリアからカムチャッカ半島、アリョーシャン列島、千島列島、北米海岸に進出、植民していました。
やがて毛皮商人たちは、宮廷から出資を得て、国策会社露米会社を立ち上げます。会社といいましても、武装通商集団で、ロシア海軍軍人が、そのまま社員だったりします。
露米会社の総支配人、ニコライ・レザノフも、ロシア海軍省に属した人で、露米会社の維持、発展のために海軍を利用し、食料などの物資補給、交易路の開拓に努めます。
その一環として、文化元年(1804)、長崎に来港し、通商を要求しますが、幕府は拒否します。
そのレザノフの部下の海軍士官フヴォストフとダヴィドフが、文化3年(1806)に樺太の松前藩の番所を襲撃、略奪し、翌年にも樺太、千島列島など各所の日本人を襲撃した事件でして、ciniiにいくつか論文があがっていますが、どうも、これまでいわれてきましたような突発的なの海賊行動ではなく、露米会社の命令を受けて、レザノフが受けた扱いの報復と、日本人の樺太千島進出をはばむための軍事行動であったようです。
この事件は、北前船のルートに乗って日本全国にひろがり、京都の朝廷も大騒ぎ。幕府は慌てて、東北諸藩に動員をかけ、蝦夷の防備にあたらせます。
このときのロシアの極東進出は、開拓をともなった本格的なものではなく、結局、1812年のナポレオンのロシア侵攻もありまして、一息つく形でおさまりましたが、以降、蒸気船の発達により、ロシアが極東に鉱物資源や軍事拠点、通商拠点を求める勢いは増し、伝説の金日成将軍と故国山川 vol1で書きましたように、ペリーに乗じて安政元年(1855)に日露和親条約を結びました後、清国に迫って、沿海州を得るんですね。
こうなりますと、ロシアの勢いはとまりません。樺太にも囚人を送り込み、軍隊を常駐させて、日本人がいた南部へも、どんどん進出してきます。
幕府の樺太開発は、失敗していたといっていい状態でして、維新直前には、雑居といいつつ、圧倒的なロシア優勢状態に陥っていました。
この幕末、なぜか樺太に魅せられてしまった一人の日本人がいました。
阿波(四国徳島)の民間人、岡本監輔です。
そういえば、エトロフ島を開拓した高田屋嘉兵衛が、淡路島の出身でした。赤蝦夷騒動の後遺症ともいえるゴローニン事件でロシア船につかまった人です。司馬遼太郎氏が彼を主人公に「菜の花の沖」を書いておられます。
ともかく、京阪に近い阿波の漁民は、蝦夷の情報に通じていて、岡本監輔も樺太を知ったようです。
なんだか、幕末は不思議な時代です。
四国の片田舎の農村に生まれた監輔が、北に憧れて、京阪、江戸で探求を重ね、北方探検家の松浦武四郎とも知り合いまして、ふらふらと蝦夷へ、そして樺太へ行ってしまうんです。あげく、樺太一周をなしとげ、ロシア人の植民を目の当たりにしまして、このままでは憧れた島がとられてしまう、と危機感を持ちます。
監輔は、樺太全土が日本領だという信念を持っていまして、慶応2年(1866年)、小出大和守が国境談判のためロシアへ向かうのを阻止しようと京都へ行くんですが、失敗します。
その監輔の目の前で、鳥羽伏見の戦いは起こり、チャンス到来!とばかりに監輔は、親しくしていました貧乏なお公家さん、清水谷公考にロシアの脅威と樺太開拓の必要を訴え、すっかりその気にさせてしまうんですね。
証拠はないのですが、監輔はどうも、清水谷だけではなく、薩摩藩士の井上石見をその気にさせたらしいんですね。井上石見は、藤井良節の弟で、神官の血筋だけに、公卿の家に出入りしつけた古くからの京詰め藩士です。どうやら、岩倉具視の側近となっていたようでもあります。
なんといいましても、実質、維新政府をきりまわしていましたのは、薩摩です。井上石見が清水谷をかついだ、ってことなんでしょう。
それで、清水谷は弱冠23歳で箱館裁判所総督、37歳壮年の井上石見は判事に任じられまして、29歳で権判事となりました岡本監輔もともに、蝦夷地鎮撫に向かうのですが、これに大久保利通が噛んでいないわけがありません。
長くなりましたので、続きます。
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