郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟

2008年02月21日 | モンブラン伯爵
えー、別のものを書きかけていたのですが、いつものfhさまが「木戸孝允日記」を調べてくださいまして、おもしろかったので、予定を変えました。

 鳥羽伏見の戦い直後、生まれたばかりの新政府の外交顧問として、フランスのロッシュ公使懐柔に活躍しましたモンブラン伯爵は、慶応4年(明治元年)2月10日(旧暦です)、パリ駐在日本総領事に任じられます。
 幕府がフリューリ・エラールを任じていましたので、それに代えて、ということです。
 モンブランは、公使になりたかったようで、とりあえず欧州どころではなかった新政府は、別に公使に任じてもよかったようなのですが、フランス人が日本を代表する公使となることを、フランス側が認めなかったといいます。

 モンブラン伯爵が、薩摩の前田正名(20歳)を秘書役として伴い、離日しましたのは、翌明治2年11月24日です。
 で、これまでも何度か書いてまいりましたように、正名くんがモンブランと渡仏しましたのは、わりに知られた話であったわけです。
 ところが、宮永孝氏の「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」(CiNNiで読めます)によりますと、1869年12月30日付「ザ・ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メイル」紙のラブールドネ号乗客名簿には、Ch. de Montblanc(シャルル・ド・モンブラン)の名前と共に、以下のマルセーユ行き日本人の名が。

 Mihori Koszke  Maheda  Kohan

 Mahedaはまちがいなく前田正名です。
 Kohanがだれなのかは、さっぱりわかりません。
 いや、私は妄想たくましく、モンブランが伴った女かも、と思ったりします。

追記
 宮永孝氏の論文では、Maheda(マエダ)とKohanを行替えして書いておられたので、別人だと思いこんだのですが、fhさまのご指摘で、Kohanは弘安ではないかと。前田正名の家は医者で、弘安という名をもっています。
 原文がどうなっているのかわからないのですが、続いているなら、ご指摘ごもっともです。

 で、驚いたのはMihori Koszkeです。御堀耕助(大田市之進)じゃありませんか!

 乃木希典の従兄弟です。以下、「明治維新人名辞典」(日本歴史学会編)より、まとめてみました。

 天保12年(1841)生まれです。桐野より三つ年下ですね。しかしこの渡欧のとき、数えでは30歳ですか。
 18歳のとき江戸に出て、斉藤弥九朗に剣を学び、塾長になったそうで、木戸孝允の後輩です。
 長州へ帰国後、世子の小姓になり、40石。中級藩士です。
 文久3年、8.18クーデターにより、大和の天誅組が瓦解するんですが、担がれていた中山忠光卿は逃亡に成功し、長州へ逃れます。(続・倒幕の密勅にかかわった明治大帝の母系一族参照)
 そのとき、大阪の長州藩邸に忠光卿を迎え、長州まで共をして無事逃れさせたのが、御堀です。
 禁門の変では、大垣藩兵と果敢に戦い、部分的勝利。
 帰国後は四国連合艦隊との戦いに参加し、和議がなって後、山田市之丞、品川弥二郎たちとともに御盾隊を編成して、総督となります。
 幕長戦争では、芸州口で活躍し、参政(長州藩)となります。
 参政となったためなのか、体を悪くしていたからなのか、戊辰戦争では戦っていないようです。

 で、fhさまのご厚意による木戸孝允の日記から、御堀さん渡欧の経緯を追います。

明治2年4月19日条
(略)夜半井上聞多山県狂介より書翰来る狂介弥西洋行に決し御堀耕助亦西洋に至ると云(略)

 この日夜になって、京都にいた木戸さんは、井上聞多と山県狂介から手紙をもらってます。
 内容は、山県と御堀耕助が洋行することになったと。
 
明治2年10月7日条
(略)御堀は香港に至得病不得止帰国不日再行の論あり(略)

 御堀耕助は香港まで行ったけれども、病気になって帰国した。もう一度渡欧させたら、という話があったと。
 おそらくは山県といっしょに渡欧しかかったんですけど、途中で病気になって、引き返したんすね。

明治2年10月17日条
(略)十字大久保を訪ひ談論数時二字頃相去る上国への書状を認大久保へは御堀西洋行の事件に付余屡談于彼(略)

 木戸さん、大久保さあに、御堀の洋行を頼んだんですね。
 えーと、そうなれば当然、大久保さあがモンブラン伯爵に御堀の同行を頼んだことになりますが、fhさまによれば、大久保日記には、なあーんにも、まったく、書いてないんだそうです。

明治2年11月6日条
今日御堀別杯の約あり築地より舟を泛へ芳梅と深川平清楼に至る(略)
亦築地に至り一泊す今宵御堀を送るの一巻を認む余長風万里の四大字を題す又其巻中へ戯に口に任せて
欧羅巴洲何物ぞ我只朝寝をしたり睡足今将起少女と小児たもとヽすそにからむ嗚呼
此出たらめを認めり酔中の一興なり(略)

御堀さんとのお別れに、築地から舟で料亭をはしごした、と。
その夜は築地に泊まります。おそらく、築地ホテルですね。
もしかすると、たしか、築地ホテルにはモンブラン伯爵がいたはずです。
御堀さんへ送別の巻物を贈ろうと、えー、どうもみんなでお別れの寄せ書きなんかしたみたいなんですが、木戸さんが、その寄せ書きに、「長風万里」と題を書いたんですね。
 長州の風が万里を渡る、でいいんでしょうか。すみません。笑えます。
 で、その巻物の中には、酔いの戯れにこう書きました。
「ヨーロッパなんぞどれほどのもんだい! ぼくなんか朝寝をして寝足り、いま起きたとこだけど、少女と子供がたもとと裾にからんじゃってさあ」
 あら、「三千世界の鴉を殺し主と朝寝がしてみたい」を意識したみたいな戯れ言ですね。
 三千世界の鴉を殺しでは、長州志士作という仮託だろう、と書いたんですが、そういう仮託は幕末からあったのか、あるいは長州志士が好んで歌ったか、あるいはほんとうにその中のだれかが作ったか、かもしれないですね。
 「やっと三千世界の鴉を殺して朝寝ができたのに、起きてみたら少女や子供がまつわりついてきてさあ、やってられないぜ。その苦労にくらべれば、ヨーロッパへ行くことなんぞ、どれほどのもんだい! がんばれ!」
 ああ、ねえ。ほんとうに木戸さんは、老婆のような。洋行のはなむけに、なにもグチらなくても(笑)
 私以前から、明治維新以降の木戸さんは「青筋たてて一人で苦労しているようなふりをしているお方」と思ってまして。
 で、「少女と子供」って、だれ、あるいはなに、のことなんすかねえ?

 fhさまによれば、老婆のような木戸さんは、11月8日から18日まで横浜に滞在しまして、御堀耕助は、12日に横浜入り。
 木戸さんは連日、御堀耕助に会っているんだそうです。
 そして話はとびまして、翌年。

明治3年8月3日条
伊藤両井上等来訪御堀山県西洋より帰り山県来り泊す彼地の近情を聞(略)

 ヨーロッパから帰ってきた御堀と山県の話を、伊藤博文や井上聞多とともに聞いた、ですね。
 どうやら二人は、普仏戦争が始まる前に、ヨーロッパを発ったようですね。
 大久保日記によれば、西郷従道も、8月2日に大久保に帰朝の挨拶をしているそうです。

明治3年9月14日条
(略)西郷真吾の此度欧洲より帰る其益甚多し余去年山県狂介御堀耕助等を欧洲行せしめんと周旋せし時西郷も亦同此行の事を謀今日不図彼我とも其益不少是又国家に関係せり(略)

 西郷真吾(従道)は、ぼくが山県と御堀をヨーロッパに行かせようとしたとき、いっしょにどうか、と勧めたんだけど、おかげでいい子になってるじゃん。これって、国家の利益だよ。
 って、とこですかね。
 よくこれ、木戸が「攘夷論」の山県、西郷を欧州に送り出して、西洋に目覚めさせた、とかいわれる話じゃないですかね。
 山県は知りませんが、西郷従道に関しては、ありえんですわ。
 ただ、兵制に関して言えば、大久保は海軍重視で陸軍はとりあえず志願兵制で小規模に、って論ですね。
 一方の長州は、陸軍重視で、徴兵制をめざしてます。
 どうも、このときの山県、西郷、御堀の渡欧は、長州藩がフランス兵制を採ったことと関係するみたいで、イギリスを重視してないようなんですね。
 薩摩藩は陸軍もイギリス兵制をとっていて、イギリス陸軍は志願制です。
 西郷従道も、美々しい大陸陸軍を見て、どうやら「長風」になびいたようですね。
 ああ、松島剛蔵が生きていたら! と、明治初年の兵制論争を見るたびに思うんです。
 松島剛蔵が無理なら、高杉晋作でも。(高杉晋作「宇宙の間に生く」と叫んで海軍に挫折参照)
 だいたい、日本は島国なんですから、とりあえず、予算のないときに、大陸陸軍を見習って、徴兵制で陸軍をふくらませて、莫大な金額をかけるって、どうなんでしょ。それよりもまず、海軍でしょう。

 まあ、それはそれとしまして、木戸さんの言っていることが薩長融和ならば、その通りだったかもしれません。
 帰国しました御堀耕助は、薩摩藩で療養したみたいです。
 このときには、すでにイギリス人医師ウィリスが薩摩藩に傭われ、鹿児島で病院を開いていましたから、病気の治療を受けたんでしょうね。
 しかし、そのかいもなく、翌明治4年5月、長州の三田尻に帰り着いてまもなく、病死します。

 幕末の動乱を戦いぬいて、モンブラン伯爵とともに欧州に渡り、死を目前にした日々を薩摩ですごし、故郷で死ぬ。
 御堀耕助へのレクイエムは、趣味で、これを。Sleeping Sun -Night wish(You Tube)


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9 コメント

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なんてお早い仕事ぶり! (しみ)
2008-02-21 21:19:16
使っていただいてありがとうございます!!

「Maheda  Kohan」ですが、ブランクが広いので二人の人名のようですが、一人の人名で前田弘庵(ないしは弘安)ではないでしょうか。「Mihori Koszke  Maheda  Kohan」で、「御堀耕助・前田弘庵」と推測します。

最初に書きそびれましたが、明治2年4月19日は木戸は京都滞在中です。
なお、再渡航の前、木戸と御堀が横浜に滞在中の11月17日に、連れ立って外国商館にショッピングに行っています。客船での旅の最中や向こうに着いてからもそれなりの身だしなみで過ごせるようにという木戸の配慮でしょうかね?御堀は木戸によくなつき木戸も御堀をかわいがっているようです。

ためになるお話を楽しく拝読させていただきました。多謝合掌♪
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↑なんてこと! (fh)
2008-02-21 21:21:23
ハンドルを間違えました。(笑)御宥恕を。
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まあそういえば (郎女)
2008-02-22 00:12:51
正名くんって、弘安でしたねえ。寺島ママンと同じじゃないですか。
いや、宮下先生、Mhheda(マエダ)とKohanで行をわけて書いておられるので、てっきり別人かと。
小半って芸子さんかいな、とか思ってしまっちゃいました。
ご指摘の4月19日の件は、直しておきます。

こちらこそ、ありがとうございます。
私は、調べていただいたことを脚色いたしましただけで(笑)

まあ、それにいたしましても、二人で寄り添ってお買い物を!
長州は、よさげな人ほど、早死にいたしますですねえ。
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御堀耕助 (Agnes)
2015-08-15 12:02:45
フランスに行ったのは知っていましたが、若くして亡くなったの残念ですね。禁門の変でよく戦い尊王攘夷派だったのに開国してから外国に行くところとか、彼らの目まぐるしい人生を思うと、疲弊してしったんでしょうか。木戸さんに気に入られているところも期待できる人物像です。
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尊王攘夷派 (郎女)
2015-08-15 12:54:29
イコール外国嫌いでは、ないんです。よく、誤解する方がおられるのですが。
 西南戦争には、複数、洋行帰りで参加した志士がいます。基本、反乱側は民権派(もちろんちがう勢力もありましたが)、政府軍は専制派であったことだけは、どうぞ、ご理解ください。
 佐土原藩主の三男、島津啓次郎などは、勝海舟の門下となり、明治3年から9年の長きにわたって、アメリカに留学していました。日本に帰って来てみれば、なにもかもが専制的で、彼がアメリカで身につけました自由民権の観念にそぐわず、反乱に参加しています。
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民権派が (Agnes)
2015-08-15 13:16:43
総じて反乱派に入っているとすると、反乱の趣旨がもう少し一般に理解できるようになるといいですね。板垣退助の自由民権運動はその立場をとっているのでしょうか。面白くなってきました。
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わかり辛いかと (郎女)
2015-08-15 13:23:38
思うのですが。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/ca48331ca03200b0ea976732f77b0d71

この猫絵の殿様は、井上薫の妻になった人の父親です。
「幕藩体制から、外圧に対する復古主義的な民族運動の形態をとりながら、天皇制という形をとった近代国民国家への転換期のなかで、鼠をにらむ猫絵は、殿様の権威を求めてきた人々の歴史をもにらんでいたに違いない」

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6cece90dbbca1a960a539e8bfcb51566

「(平田)篤胤が江戸で学んだことは、これまで真実だと思ってきた儒教的“知の体系”が大きく誤っており、ヨーロッパのそれが実証的で科学的だという、恐ろしい真実だったのである。儒学が前提とし、仏教的世界観も当たり前だとしてきた天動説ではなく、地動説が正しいとすれば、この宇宙の起源とはいかなるものでなければならないのか? 1813年に刊行された篤胤の主著『霊能真柱(たまのみはしら)』の第一の問いかけは正にこの問題だったのである」

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/3351b5cab1b0d2f1fc9265f3e74ad7a2

西南戦争では、日本全国、数多い呼応者がありました。大きな動きでは、陸奥宗光が土佐立志社とともに立ち上がろうとしたり、ということもあったのですが、すべて、芽の段階でつまれてしまいました。さすがに、大久保利通ですね。周到です。
東北地方でも、真田太古を中心として、兵を挙げる動きがあったのですが、このとき檄文を書いたのが、小田為綱です。檄文の内容は、有司専制への攻撃です。

以上、雑多でまとまりがありませんが、尊皇攘夷=単純な西洋嫌い、では決してありません。
維新以降の風俗を言いますならば、イギリス公使館の通訳官だったアーネスト・サトウは、急激で、軽薄な日本の洋化を批判していました。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/5ff5b83ae3505ca37d363ba06da697af
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書き込みの前に (郎女)
2015-08-15 13:32:18
書かれておりまして。
土佐立志社は、割れました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%BF%97%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%8D%84

 陸奥宗光も、これに呼応しようとしたのですが、あえなく捕まりました。

 長州が一番、はっきりとしないのですが、前原一誠の弟は、桐野の部下でしたし、福岡の士族反乱も、主流は民権派です。
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御堀が死の直前に (郎女)
2015-08-15 14:19:49
鹿児島で診察を受けましたイギリス人医師、ウィリアム・ウィリスは、反乱が起こったときも鹿児島にいて、彼の教え子の医師たちはほとんどが反乱軍側に従軍しました。

ウィリスは鹿児島人女性を妻にして、子供も生まれ、すっかり落ち着いていましたし、紡績だったかの技師など、反乱前の鹿児島には、他にもイギリス人が住んでいました。
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