桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 後編上の続きです。
宝塚『カフェブレイク 礼 真琴・妃海 風』
上のカフェブレイクには、ヒロインの大谷吹優を演じます娘役トップの妃海風さんと、これも架空の主要人物で、遊女になった姫君を慕う会津藩士を演じます礼真琴さんが出演しています。
いや、私、最近、「わかーらない、わかーらない、帰り道がわからない〜♪」という歌がふと、頭の中をかけめぐっていたのですが、これを見るまで、ヒロインが歌った劇中歌だったということを、忘れてしまっておりましたわ。妃海さんは歌唱力がおありですし、ほんと、耳に残る歌です。
次は妻のヒサさんについて。パンフレットにわざわざ「竹下ヒサ」と明記されているのには、呆然。中村さまは即座に「東郷隆氏の小説『九重の雲』を信じて、取り入れたんじゃないでしょうか」とおっしゃいました。
中井桜洲と桐野利秋のコメント欄に、中村さまと私のやりとりがございますが、戸籍では「帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の二女ヒサ」となっていまして、私、まちがった知識がひろまるのも困るな、と、Wiki-桐野利秋に加筆しておきました。
この劇のヒサさんは、実は衣波隼太郎と思い合っていて、桐野もそれを祝福していましたのに、本人たちのあずかり知らない家同士の思惑で、思いもかけず桐野に嫁ぐこととなり、結婚後もお互い遠慮がちだった、という設定でした。
現実のヒサさんは、他所に複数愛人がいた桐野に文句もいわず、気丈に家を守った賢夫人、という感じでして、現代ではちょっと感情移入しづらいですし、劇中、桐野は妻ではなく大谷吹優に淡い思いを抱くわけですから、上手くヒサさんを位置づけたなと、その点は感心しましたので、わざわざパンフに「竹下」と書かなければよかっただけのことなのですが。
最後に、付け加えておきます。
中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほかに書きました、「北海道野幌に屯田入植しました桐野利春と利秋の関係」について、です。実は、コメント欄にいらしてくださいました利春氏の子孫、中島美弥さまが、野幌屯田兵の兵籍簿のコピーを取り寄せられまして、書類上では、利春と利秋はまったく関係ない、とわかりました。ただ、利春氏の娘さん4人が、はるばる北海道から鹿児島まで、利秋の墓参りをした痕跡がありますし、中島さまの実家では、桐野利秋の子孫である旨、言い伝えてこられたんだそうなんです。さらには、ご親族の写真が利秋の写真に似ていたりもしまして、実は利秋の実子で養子に出たのでは?、という可能性も捨てきれません。しかし、入植以前の鹿児島の除籍簿は、すでに処分されていて、これ以上、追求のしようもなかったり、します。
上のように、宝塚ホテルのフロントにも、公演のポスターが飾られていました。
北翔さんは、すばらしい男役トップで、熱心に役柄を研究され、役作りのために鹿児島にまで行かれて演じてくださったのは、感激でした。ひまわりのように明るいところは、桐野にぴったりでいらしたのですが、欲をいえばやさしすぎる感じでして、軍人としての迫力や、民主革命家としての鋭利さには欠けていたかな、と。
単純に顔立ちだけでしたら、花組の柚香光さんが似ている感じですし、星組新人公演で桐野を演じられた天華えまさんも、まだちょっとお若いですが、雰囲気があっているかな、と。
宝塚は、実は体育会系集団だと、今回初めて知ったのですが、中でも星組はその感じが強くて、星組の躍動する一体感は、薩摩士族の紐帯を上手く表現してくれていましたから、また星組にお願いしたいような気もします。
再来年の大河ドラマは「西郷どん」だそうですが、なにしろ、NHKのやることですからねえ。とんでもなく悲惨なことになるのでは、といまから危惧しておりますが、一般に関心は高まるはずです。「桜華に舞え」再演もあるんじゃないのかなあ、と思ったりするのですが、今度は紅さんが桐野、というのも、あったりしませんかねえ。
観劇翌日、朝食時にポケモンgoを立ち上げ、ミニリュウをゲット。
宝塚に栄えあれ!!! また、きっと行きます。
私、一週間もupできないと悩んでおりましたところが、gooサポートの方が、問題を見つけてくださいました!
なんと、HTMLのほんのちょっとした私のミスだったんです!
お待たせいたしました。
クリックのほどを! お願い申し上げます。
宝塚『カフェブレイク 礼 真琴・妃海 風』
上のカフェブレイクには、ヒロインの大谷吹優を演じます娘役トップの妃海風さんと、これも架空の主要人物で、遊女になった姫君を慕う会津藩士を演じます礼真琴さんが出演しています。
いや、私、最近、「わかーらない、わかーらない、帰り道がわからない〜♪」という歌がふと、頭の中をかけめぐっていたのですが、これを見るまで、ヒロインが歌った劇中歌だったということを、忘れてしまっておりましたわ。妃海さんは歌唱力がおありですし、ほんと、耳に残る歌です。
次は妻のヒサさんについて。パンフレットにわざわざ「竹下ヒサ」と明記されているのには、呆然。中村さまは即座に「東郷隆氏の小説『九重の雲』を信じて、取り入れたんじゃないでしょうか」とおっしゃいました。
九重の雲 闘将 桐野利秋 | |
東郷 隆 | |
実業之日本社 |
中井桜洲と桐野利秋のコメント欄に、中村さまと私のやりとりがございますが、戸籍では「帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の二女ヒサ」となっていまして、私、まちがった知識がひろまるのも困るな、と、Wiki-桐野利秋に加筆しておきました。
この劇のヒサさんは、実は衣波隼太郎と思い合っていて、桐野もそれを祝福していましたのに、本人たちのあずかり知らない家同士の思惑で、思いもかけず桐野に嫁ぐこととなり、結婚後もお互い遠慮がちだった、という設定でした。
現実のヒサさんは、他所に複数愛人がいた桐野に文句もいわず、気丈に家を守った賢夫人、という感じでして、現代ではちょっと感情移入しづらいですし、劇中、桐野は妻ではなく大谷吹優に淡い思いを抱くわけですから、上手くヒサさんを位置づけたなと、その点は感心しましたので、わざわざパンフに「竹下」と書かなければよかっただけのことなのですが。
最後に、付け加えておきます。
中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほかに書きました、「北海道野幌に屯田入植しました桐野利春と利秋の関係」について、です。実は、コメント欄にいらしてくださいました利春氏の子孫、中島美弥さまが、野幌屯田兵の兵籍簿のコピーを取り寄せられまして、書類上では、利春と利秋はまったく関係ない、とわかりました。ただ、利春氏の娘さん4人が、はるばる北海道から鹿児島まで、利秋の墓参りをした痕跡がありますし、中島さまの実家では、桐野利秋の子孫である旨、言い伝えてこられたんだそうなんです。さらには、ご親族の写真が利秋の写真に似ていたりもしまして、実は利秋の実子で養子に出たのでは?、という可能性も捨てきれません。しかし、入植以前の鹿児島の除籍簿は、すでに処分されていて、これ以上、追求のしようもなかったり、します。
上のように、宝塚ホテルのフロントにも、公演のポスターが飾られていました。
北翔さんは、すばらしい男役トップで、熱心に役柄を研究され、役作りのために鹿児島にまで行かれて演じてくださったのは、感激でした。ひまわりのように明るいところは、桐野にぴったりでいらしたのですが、欲をいえばやさしすぎる感じでして、軍人としての迫力や、民主革命家としての鋭利さには欠けていたかな、と。
単純に顔立ちだけでしたら、花組の柚香光さんが似ている感じですし、星組新人公演で桐野を演じられた天華えまさんも、まだちょっとお若いですが、雰囲気があっているかな、と。
宝塚は、実は体育会系集団だと、今回初めて知ったのですが、中でも星組はその感じが強くて、星組の躍動する一体感は、薩摩士族の紐帯を上手く表現してくれていましたから、また星組にお願いしたいような気もします。
再来年の大河ドラマは「西郷どん」だそうですが、なにしろ、NHKのやることですからねえ。とんでもなく悲惨なことになるのでは、といまから危惧しておりますが、一般に関心は高まるはずです。「桜華に舞え」再演もあるんじゃないのかなあ、と思ったりするのですが、今度は紅さんが桐野、というのも、あったりしませんかねえ。
観劇翌日、朝食時にポケモンgoを立ち上げ、ミニリュウをゲット。
宝塚に栄えあれ!!! また、きっと行きます。
私、一週間もupできないと悩んでおりましたところが、gooサポートの方が、問題を見つけてくださいました!
なんと、HTMLのほんのちょっとした私のミスだったんです!
お待たせいたしました。
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北海道在住の「桐野の直系」と言われた四姉妹が見え、観光コースの磯庭園には行かずその時間で墓参された。 と書かれたのは湯場崎末次郎の「墓標を縫って」です。
平成16年の湯場崎氏のご子息の加筆によると、「父が死んでからこのホームページと同じ内容で冊子を作り、親戚や父の友人に配りました。」だそうです。
書籍のようなものでないので、鹿児島県立図書館には無いようです。
もしかしたら、西郷南洲顕彰館にあるかもしれません。お尋ねしたら、いかがですか?
私は妹の貞さんの写真が載っていたので、サイトをコピーして残しておいたのですが、全部をコピーしたかどうかは覚えていません。
お墓参りの母娘については「桐野利秋のすべて」に書かれています。P.166
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/e19bd33501b94c7fa94121c4a228c5cf
上のコメント欄に中村さまがコメントされておりますが、南洲墓地の案内人をされていた湯場崎末次郎氏(故人)のサイト「墓標を縫って」の『北海道の子孫達』に書かれていただけだったと、私は思っておりました。現在、サイトは消えておりますが、自費出版みたいな形で、本になっているとお聞きしています。
なお、「桐野利秋のすべて」の「桐野利秋をめぐる女たち」に、桐野と女性の写真のキャプションが「桐野利秋と村田きせるの長女・村田カツ」となっていたにつきまして、中島さまが、村田家のご子孫に問い合わせてくださったのですが、この写真はさとさんである、とのことでした。
私こそ、言いたいことが回りくどくて伝わらないと周りからの指摘され、自覚しているので、そのせいでさっぱり伝わらないのでしょう。
頭が悪いのは私です。
戸籍に関してはちょっと疑問に思う所もあります。明治の頃の心情や状況についてちょっと判然としない点もあります。鹿児島の方言わせると、独特の個性があるとも聞きます。
明治の日本人と現代の私たちとはずいぶん違うような気もしますし、共通する部分もあるように思います。これから考察していくことになるのかもしれません。ブログに書きつつ矛盾がないか検討してみようと思います。北海道から4姉妹が墓参りにいらしたことは「桐野利秋のすべて」でも拝見いたしました。
今後は言い伝えを整合性があるように組み立て見たいと思っています。除籍謄本に関して少し調べてみたい点もあります。
コメント欄の書き込みについて、ご迷惑をかけすみません。当時の桐野家の立場について今、私は想像するしかありません。
今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
おっしゃっていることが、さっぱり理解できませんのは、私の頭が悪いのでしょうか。
まず、何度も申し上げましたように、桐野家の戸籍上には実子として記録されていないにもかかわらず、実子としての伝承があります場合、それは、預けられたのではなく、最初から養子に出されたのであって、現在、鹿児島市では処分されてしまっています古い除籍簿があれば、何々家からの養子、という文字を見ることができます。しかし、戦災で焼けたのか、鹿児島市には古い除籍簿が、現在、残っておりません。
当時、幕末の話ですが、士族の家は、ある意味、公務員株のようなものですから、実子を養子に出し、一方、親戚からの養子をもらって家を継がせる、なんぞということは、あたりまえに行われていました。
また、明治10年当時、連座制はありません。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/72545ebc0124de25ac7efed3c4d3575a
上に、「コルチャークの愛人だった、といいますのは、日本でいいますならば、桐野利秋の愛人だった、といいますのとあまり変わらないと思うのですが、アンナ・ヴァシリエヴナ・チミリョーヴァは、それが理由で長期間ラーゲリー入りしたそうでして、ほんと、共産主義って怖いですねえ」と書いているのですが、ロシア革命のボルシェビキ独裁政権は、反逆者の家族、愛人もラーゲリーに放り込む、という連座制をとっておりまして、明治、西南戦争の時には、完全に連座制が消滅しておりました日本から見れば、とても信じられない、ということです。
西南戦争直後、薩軍への荷担(資金援助含む)は咎められました。呼応しようとしていた陸奥宗光なども、牢獄に放り込まれましたし、京都、大阪におりましても、荷担を疑われるのではと、友人たちが書翰を処分したり、ということはありました。しかし、家族である、というだけのことで、罰せられることがまったくなかったのは、歴史的事実です。
そして、何度も書きましたように、家族が咎められるのでしたら、まず咎められるのは、ひささんです。明治18年まで、桐野家の戸主はひささんなんです。
西郷家を見ましても、妻や実子が咎められた事実はまったくもってありません。例えば肝付家など、桐野家の親戚でも、政府側にいた家はあったわけですし、肉親と戦わざるをえないはめに陥りました政府中枢の薩摩人が、そんなことをするわけがありません。当時は、中央でえらくなればえらくなるほど、故郷鹿児島では憎まれて、帰ることができなくなり、大久保家のように、祖先の墓を東京へ引き上げざるをえなくなった例も多々ありますが、西南戦争の遺族が鹿児島に居れなくなる、なんぞということは、まったくもってありえません。
しかも、利春氏の入植は明治18年年ですし、西南戦争加担者の探索も行われなくなっていました。といいますか、明治11年に大久保利通が暗殺されました時点で、大久保のやり過ぎ路線は修正されたかんがあります。
申しわけございませんが、greenさまのおっしゃることは、私には、さっぱり理解できないんです。
伊東氏の灯籠に「有川」は、もしも有川弥九郎氏だとすると、おもしろいですよねえ。
こちらこそ、来年をどうぞよろしくお願いします。
そうではなく、利春氏につきましては、私が直接、ご子孫の方と連絡を持ち、ご子孫の方のご好意で兵籍簿を拝見し、許可を得て、greenさまにもお見せいたしました。
私がもしも利春氏の子孫だったとしますと、「桐野利秋の評判が悪かったので、隠し子だった利春は、北海道へ逃れた」などと、なんの根拠もなく他人に言われることは、自分の祖先に対する中傷以外のなにものでもない、と感じます。
そうじゃないでしょうか? 隠し子であったことも可能性にすぎませんが、利秋が実の父だったとして、その評判が悪いから逃げるなどと、ありえないことだけに、どうして、そこまで根拠のない悪口を言われなければならないのか、理解に苦しみ、憤りをおぼえます。そういった悪口が、よりにもよって、私のブログのコメント欄に書かれたわけですから、私は泣きたくなったんです。
もちろん、greenさまがご自分の聞き伝えを材料に書かれることは楽しみにしておりますし、それに口をはさむ気は、私にはいっさいございません。ですが。お願いですから、利春氏のことは、書かないでくださいませ。感覚のちがいなのかもしれませんが、私にとりましては、greenさまの書かれたことは、利春氏への侮辱としか受け取れないんです。
どうぞ、よいお年をお過ごしください。ブログの続きを楽しみにしております。
前のコメントの訂正です。
永山盛休→(正)永山盛武又は休二 でした。
「敬天愛人」第11号(平成5年) 西南之役戦没者墓碑銘(二)の記載は次の通りです。
桐野利秋の墓前灯籠には、従僕の奥常次郎と奥静吉の名前
山之内種国の灯籠は、桐野久・同貞に山之内栄熊・武彦
竹下祐徳の灯籠は、竹下 母・妻峯
になっています。
なので、竹下祐徳とヒサさんの関係はわかりません。
妹の貞の夫の伊東祐春(寿)の灯籠には、貞の名前は無く有川氏、野元氏などになっています。
別府景長(晋介)の灯籠は、晋介の娘の益、川上良助・同慶蔵・同岩次郎です。ただ手水鉢の銘が別府彦兵衛なんです。「桐野利秋と海援隊vol.1」の河田小龍の話に出てきた別府彦兵衛と同じ名前でややびっくりです。
本年も大変お世話になりました。来年も宜しくお願い申し上げます。
良いお年をお過ごしください。
実は真田丸を見ていて、伊達家に娘を預けるシーンがありました。夫の先祖も上町から少し離れた場所に隠すように預けられています。土地の有力者と思われ、久夫人はわずかな手土産をもって訪れたといいます。その時、住民は「桐野少将の奥方が来た」と言ったとか。そのエピソードが真実とすれば郎女様の言う通りと思われます。明治18年桐野夫人は戸主として上町に住んでいた。それまでは?あるいはそれまで屯田兵になったご子孫はどうされていたのでしょうか?もしかしたら、どこかに預けられたとかという事はないでしょうか。影と光があるように桐野の評判は人や時代によって異なり、判然としないと思うのです。
私の桐野のイメージは幕末までは地方公務員、単身赴任のお父さん。政変以降は幸村です。ひたすら内乱を避けようとし、避けきれず(不満を押さえきれず)敗戦の将となったと思うのです。桐野の子孫という証拠はないのですけれど、当時生きていた人からの伝承を直接聞いた人が生きているうち、それを組み入れた桐野像を残しておきたいと思うのです。
こちらのブログのお邪魔をしてはいけないと自分のブログを作ったのですが、書く余裕がありませんでした。また、物語を書く力がないこともありますが、少しずつ書いてみようと思います。郎女様は事実と異なる歴史が残されることを懸念され、あってはならないとお考えだと思います。私のブログを読んでいる人はほとんどいないと思いますから、私の説が広まることはないと思いますし、フィクションであること、言い伝えであることははっきり書いていこうと思います。たぶん私の桐野像は恩師や会社の上司、父や兄の様子を参考に作られていくような気がします。一生懸命働く日本のお父さんと今は思っています。さらに知った事実があれば変遷していくと思いますが。新事実があれば郎女様にメールでお知らせします。もし、読んでいただくことができ、違っていると思われたらご教授ください。桐野の評判については私としては全面的に善の人(何しろ、懸命に働く日本のお父さんですから)と思っておりますから、少しでも批判のある点を見つけると逆に大きくとらえて誤解を生む表現になったと思います。桐野のことを悪人としてとらえているのではありません。桐野が北海道に興味を持っていたからの入植という解釈もあります。むしろそちらだったかもしれません。桐野が悪いというのが定説という考えは一方的で誤りだったと反省しています。ご子孫が桐野の子孫であると言い伝えられていると知った経緯などを思えば、やはり西南戦争の責任を擦り付けられた感が否定できないのです。
お墓の豪華さ、大阪の職人が作ったことを考えればあるいはディーン フジオカさんが演じた五代友厚あたりが資金を出したのではと考えたりもします。いずれにしても真田幸村、大阪夏の陣が西南戦争末期の桐野の姿に重なります。幸村も娘のことを気遣った手紙を残していますから。だいたいの桐野像はこんなところです。ネット上に説が残るという事があります。いずれ検証してくださる方がいらしたらと願いつつ伝承を残しておきたいと思うのです。宇戸谷で桐野とともに開墾されていた方のご子孫は多くの歴史研究家が訪れたけれど、自分の話を聞いてくれなかったと嘆いていらしたそうです。彼の話を聞いて書かれたものは戦争好きの桐野だったわけですから。研究者が切り捨てるにはそれなりの理由があったとは思いますが。
泣きたくなるとまで思われた様子、申し訳なく思います。私がもし描くことができたと仮定して、郎女様が違うと思ったときはぜひ教えてくださいませ。時には議論を戦わせて真実に迫っていけたらと思うのです。
全くの素人、しかも日本史ってわからない、と放り出し、文学を娯楽として楽しむ立場でしか見たことのない私に何が書けるかわかりませんし、書けないかもしれません。今はどなたか興味を持っていただければ、そしてもし新事実が出てきたらと思いつつ、無謀な挑戦をしようと思っているところです。
もしも、なのですが、利春氏が利秋の落とし子で、養子に出ていたのだとしますと、養子に行っていた先の一家を飢え死にの窮状から救うため、あえて鹿児島に別れをつげる道を選んだ、ということになりまして、利春氏入植の年と、ひささんが栄熊を養子に迎えた年が不思議に一致しますし、私には、とてもせつない話に思えます。
それをなんで、まったくなんの根拠もなく、「桐野が悪いというのが定説。ご子孫は北海道に逃れた」などとおっしゃることができるのか、理解できません。「桐野が悪いと戦前の鹿児島でも思われていたはず」とgreenさまが、どうしても思われたいのでしたら、それはご自由です。しかし、なんでよりにもよって、利春氏の野幌入植と結びつけ、決めつけてしまわれるのでしょうか。泣きたくなるゆえんです。
greenさまが、いつの、どういった新聞を読まれたのか存じませんが、西南戦争当時の新聞でしたら、意図的に、反薩軍の声がひろいあげられていましたことは事実です。大久保の新聞条例で、反政府の意見を載せれば即、牢屋行きだったわけですから。
もちろん、戦争ですし、薩軍の方が追い詰められていたわけですから、犠牲を強いることもあったのもまた事実だったでしょうけれども、西南戦争後、明治、大正、昭和初期の話ですが、「桐野を恨んだ人が多かった」という話を、私はまったく聞いたことも、読んだことがございません。第二次世界大戦後に書かれたものには、よくでてくる論調でございますわね。
私が新聞記事を上げましたのは、「桐野の遺族は敗戦後もずっと鹿児島に住んでいた」ということが言いたかっただけでして、新聞の論調を問題にしたわけではございません。
利春氏が屯田に北海道へ行きましたのは、まったくもって、桐野の隠し子だったからではありませんで、一家の中で、ただ一人、屯田兵の条件を満たした年齢だったからです。行ってみればとてつもなくきびしい生活だったようですが、屯田入植の条件は、普通の入植よりは恵まれていまして、戦力にならない年齢の者が戸主では、認められなかったわけです。
鹿児島だけではなく、西日本各地の士族が、野幌には屯田入植しております。生活に困ってのことかと。
つまるところ、元士族が恨みましたのは、薩軍ではなく、政府です。だから明治、あれだけ、反政府の自由民権運動が盛り上がったわけです。
ひささんの結婚につきましては、当初、足入れ婚だったのかなあ、という推測は、ひささんの後年の談話から、私もいたしました。
しかし、当時、足入れ婚は普通にありますし、だいたい、「父親に反対されて養子」は、まったくわけがわかりません。ひささんの談話から、身分が高かった様子もうかがえませんし、もしも結婚を反対されたとすれば、桐野が流罪人の子だからで、身分のちがいではないでしょう。それにしまして、兵頭家で、裕福だったという別府家の後ろ盾もありますし、少なくとも黙認されていなければ、足入れ婚もできないかと思います。
なんか、私、泣きたくなっております。といいますか、ほんとうに泣けてきました。
鹿児島、宮崎には当時のことを書いた庶民の逸話が残っていて、西郷札のこと、少年を兵として連れ去られたなど、恨みを持つ発言もあります。戦争で犠牲を強いられた人の怒りの矛先はどこにいくのでしょうか。政府の戦略的なこともあったと思うのですが、長引かなければという思いから桐野を恨んだ人も多いはずです。「勝てば官軍」この心理は現在でも同じだと思うのです。たとえば、落選した時の様子を悲惨だったと語る議員さん。公職についていた夫が亡くなった途端周りのの態度が変わったとか。文献から議論ではなく申し訳ありません。
養女についてもご指摘の通りです。身分の高い女性が低い男性に嫁ぐ、あるいは同程度の身分だとしても女性側の父親が反対したとしたら、と考えたわけです。
戦後没落した我が家のことを思ってのことです。私はあまり、政治や歴史について考えたことがありませんから、戦後の教育に洗脳されているのかもしれません。
専門と言えるのかはわかりませんが、わかり易い生物化学を専門としてきました。事実、あるいは史実を積み上げて真実に近づこうとする姿勢は郎女様と共通しているように思っています。しかし、難しいのは確かです。生物化学の世界の出来事より歴史は難しいものだとつくづく感じております。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/7ad968c6ed9a9f123fd7bca6dd389418
上に書いておりますが、日本の敗戦後、GHQの一員として君臨しましたノーマンが、日本人に植え付けましたウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの妄想に、私たちは、いつまでふりまわされなければならないのでしょうか。
中村さまが調べてくださったのですが、大正5年(1916年)、桐野が正五位を追贈されて名誉回復しましたとき、ひささんも養子も(だったと思います)、鹿児島に住んでいて、インタビューに答えたことが、当時の新聞にありました。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/6afd23b7e35e4ef1fed618907873d944
上に載せておりますが、戦前に鹿児島で作られました絵葉書で、桐野は薩州五偉人の一人とされていますし、南州墓地は、いわば靖国神社に対抗しました西南戦争の顕彰墓地なんです。西郷隆盛の復権は、明治22年贈位と早いですし、鹿児島では早くから、生き残った人々が顕彰運動をくりひろげています。
あと、もう一つ。婚姻のための養子とは、商人や農家の娘が士族に嫁ぐために、ならば、「身分のつり合いをとるため」と考えられますが、同じ下級士族間で、まったくこれは、ありえません。
海音寺潮五郎氏の「二本の銀杏」で、主人公の郷士(兵頭家)が庄屋の娘(庄屋は農民です)と結婚しますが、形の上で郷士の養女になっていたような気がするのですが、なっていたとしても、ほんの形だけです。
戦後70年、GHQの洗脳はここまで根強いものなのかと、ただただ、ため息です。私、いったいどうすればいいのか、途方に暮れております。
竹下家は直進新陰流の方でしょうか?とすれば中井弘とも関連が?などいろんなことを考えます。西南戦争で大損害を与えた薩軍、桐野が悪いというのが定説。ご子孫は北海道に逃れたような気がします。
墓の下の桐野夫妻は彼らの青春の物語をあからさまにしないでと思っているかもしれません(笑)
と申しますのも、2人は許されない恋を貫いたのでは?と妄想しているからです。そう思ってみるとエピソード、文献もそのような見方になり、我ながら困ったものだと思うわけです。時間は自分で作らなければなりませんのに、いろいろ理屈をつけて先に進みません。最近法律関係の本を読む機会があり、間接事実、直接事実という区分があるのを知りました。私は、間接事実を曇った眼で持論に結びつけようとしている傾向が否定できなくて。ご検討ありがとうございます。
「西南記伝」によれば、竹下祐徳は高見馬場の出だそうなので、多分竹下八郎かもう一軒の竹下家に関係あると思います。
竹下祐徳のお墓の場所が場所だけに私も驚きました。
お墓や献灯に何かしら刻まれていると思いますので、ヒサさんとの関係がわかるかもしれません。
「敬天愛人」に南洲墓地の一つ一つの墓の調査結果が記載されたことがあります。現在、自宅外で生活しているので確認できません。
以前、見たときは桐野と関係があるような記述は無かったと思いますが、献灯についても記載されていたかは覚えていません。
もし、南洲墓地に行かれることがございましたら、調べていただければ有り難いのですが。
あと、篠原国幹と帖佐家がお近いとのことですが、「鹿児島城下絵図散歩」でみると、そんなに近いとは思われないのですが。
竹下家、帖佐家は高見馬場で、今のワシントンホテルプラザ裏手の近くだと私は思っています。
このところバタバタしていて。南洲墓地の墓の配置には少し興味があります。とても考えられて作られているように思います。桐野の墓から太郎君の墓が見える。ちょっと切なくなりますが見守ってる感じがしませんか?
竹下家、帖佐家の方で何かご存知の方がいればとおもいます。
歴史、特に明治維新以降の歴史について興味を持たせていただいたのは郎女様のブログです。楽しみにしています。
小桜さんのなぎなたは、ほんとなぎなたにふりまわされておいででした。母の通っていた女学校は、戦後、県立高校になって、私たちの頃はまだ、授業でなぎなたをやってましたけど、いまはどーなんでしょう。私立のお嬢様学校しか教えていない、というような話も聞きます。やっぱり、ちゃんと県立高校で、剣道やなぎなたを教えるべきではなかろうか、と思います。
おいしいものとDVDをありがとうございました! 双方、届いております。BABYMETALも、一度でいいから生で見てみたい、です。ただ、これは、体力がもつのかどうか、もあるんですが。
お二人のお名前の「華」と「桜」で「桜華」になるのは気付いていましたが、「えま」を逆にすると、「まえ(舞え)」になるにはちょっと笑いました。
新人公演の舞台映像、少しだけですが、見られて良かったです。
以前のコメントでも申しておりますが、私どもは、竹下家と帖佐家が、親戚であったかもしれない、とは推測しております。しかし、そのことと、戸籍に、ひささんの父親が帖佐某と明記されておることは、また別の問題でして、「竹下ひさ」はまちがいです。
あと、竹下家と帖佐家は、おそらくは双方小姓与で、大久保、西郷、桐野など、ほとんどの薩摩藩士がそうでした下級藩士です。上級武士でした場合、たとえ屋敷は狭くとも、添地があったりしますが、そういうわけでもありませんし。
ひささんが養女になっていたのではないか、とおっしゃいます推測につきましては、私、おっしゃる意味が、ちょっと理解できておりません。
ヒサさんの実家につきましては、本文に書きましたように、下のコメント欄に、はじめてgreenさまが来られたとき、中村さまと私のやりとりにある通りです。
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/96451e0a3130f35ea5b22afbb9c7dfc2
上で、竹下家と帖佐家が近所だと、地図で調べましたのは私です。見てみましたら、まだgoogleに残っておりました。
https://drive.google.com/open?id=1WU_0PM0hi2UTdHj30RWxaJr1DgQ&usp=sharing
明治の戸籍に帖佐家の二女とあるわけでして、あてになりません当時の探偵(川路の部下で、大方郷士です)報告よりは、戸籍を信用すべき、と思います。桐野の死後、桐野家の家督を継ぎ、女戸主になっておりますから、正確には桐野ヒサですけれども、幕末の風習に従えば、墓などには、実家の名を刻むこともございます。
greenさまのだんなさまのお家につきましては、結局、現在、鹿児島の古い除籍簿は処分されてしまっているわけですから、確証はとりようがないわけですが、言い伝えは、可能性がないわけではないと存じます。
幕末の屋敷は、「鹿児島城下絵図散歩」で、ほぼわかります。図書館でご覧になってみてください。
ちなみに、小松帯刀の兄弟・相良治部(長発)の屋敷は、草牟田2丁目です。戊辰戦争で、鳥羽伏見、黒門口、と転戦していますから、桐野との接点はあります。ただし、西南戦争では官軍にいたようです。
鹿児島の土地の持ち主も、相当に変遷があったようです。
西南戦争直後、夫人は墓の近くで縫物をして細々と暮らしたとか。真田丸でも戦争の止め方は問題です。桐野がいたから長引いたとすれば、やはり、子孫は隠されるでしょう。夫の先祖は2の丸御殿にいたという藩士の養子という形で隠されていました。久武さんも参加しています。久光さんの保護という可能性あり?夫人も墓石の桐野の文字は久光によると言ってますし。当時のことを知る人はもういません。間接的な証拠を積み重ねるしかなさそうです。
竹下久さんが籍を入れる際、帖佐家に養女になったと思います。桐野の墓地の周辺に竹下姓の墓があります。久夫人の親族ではと思います。帖佐家は篠原国幹の家の近く。竹下家もご近所ですがやや大きいお宅のようです。西南戦争前,久夫人の実家竹下家に久光派の探索が入ったということが東郷隆氏の本にでてなかったでしょうか。三味線弾きが出入りしていたとありましたからやや富裕なお宅ではないかと思います。
偶然に今もひっそり竹下家とあるお宅を発見して幕末の頃の地図と同じ位置かなと思います。帖佐家は地図で見る限りやや小さなお宅だったようです。
中島家の方も似ておられますか?大きな口、足、面長な顔、ひげの薄いところなど強く遺伝しています。(笑)
私は中島様は桐野のご子孫と思います。いつか写真や経緯をまとめなければと思いつつ、雑事に紛れ、書くことが苦手ということもあり進みません。竹下家のひささんが何かの理由で姓名を変えて嫁いだと予想しますがいかがでしょうか。
夫の実家は南洲墓地のごく近くでした。上町には戦前だいぶ土地を持っていたようです。土地のことを調べれば関係がわかるかもと思いつつそのままです。一族の中に平成の初めころまでずっと墓守をしていた女性がいるそうで、桐野のひ孫にあたる方のようです。たぶん子孫はすごく増えているように思いますが、何分伝承です。
戸籍はつながりません。篠原家の方も不思議に思っていらしたようですが篠原家も戸籍がつながらないとか。ただし西郷の文書が時折出てきたりするようです。とりとめもないことを書きてすみません。東郷隆氏の言われる通り竹下ひさだ思います。
北翔さんはお父様が海上自衛隊0B、お兄様が現役で、芸名は自衛隊新聞だかで募集して決められたそうで、そんな縁もあってか、男性ファンが多いことでも知られているそうです。
桐野は、西南戦争のとき、最後の城山では、銃撃戦の後、接近戦で刀を使ったように伝わっています。おそらく、普通に右手が利き手だったと思いますので、左手の欠損は、さほどひびかなかったのではないでしょうか。私が聞いたやーさんの噂では、不自由にならないよう、利き手ではない方の指をつめる、ってことだったと思うのですが。
それにしましても、黒門口の戦いで、指を失うって、よほどの接戦、激戦だったのでしょうか。
いままだ、イネさんの本がさっぱり仕上がっていませんで、ブログもいつもというわけにはいかないのですが、少しずつは書いていきたいと思っています。また、心の余裕ができましたらお訪ねしますので、どうぞ、お見捨てなく、おつきあいくださいませ。
ブログ村で最新記事が更新されているので気がつきました。待ってました。
宝塚歌劇って僕が大阪に住んでいる頃より気にはなっていたのですが(特に阪急電車は宝塚のポスターが沢山でしたので・・)、男にはハードルが高い気がして(そんなこと無いと何人かに言われてますが・・)、観てみたいなと思いつつ大阪を離れてしまいました。
桐野は指を失っていたとのことですが、それではそれ以降もう2度と刀は持てなかったのでしょうか?
ヤクザが指を詰める理由は、ドスを持てないようにする為で、1本でも指が無くなったらドスは持てないとか聞いた事があります。
「郎女迷々日録 幕末東西」を読むのを楽しみにしていたので、少々の間更新無く寂しい思いをしていました。
是非ともこれからも続けていただきたいなと思う次第であります。
ヒサさんの一件、ご指摘、有難うございました。
宝塚の影響力は大きいですから、桐野の妻が竹下ヒサになってしまうのではと危惧していました。
作・演出の斎藤吉正氏に手紙を書くべきかと、悩みましたが(笑)、wikiに加筆いただいたので安心いたしました。
これまでいろいろな方が、主役、準主役、脇役で桐野を演じてきましたが、「三姉妹」の米倉斉加年さん以来、良かったと思える北翔さんの桐野でした。
ストーリーとの兼ね合いがありますから、他の役者の桐野を全否定するわけではないですが。
何故なんでしょうかね。舞台だったからか、女性が演じる宝塚だったからか。
紅ゆずるさんの衣波隼太郎も素敵でしたから、何も知らずにこの芝居を見たら、桐野より衣波のファンになっていたかもしれません。
フィクションとはいえ、おかしい点はあるものの、舞台として完成していたので、納得できてしまい、印象的な桐野になったのかも。
郎女さまのおっしゃる鋭さに欠けるというご指摘も、その通りなんですが、観劇前の不安に反して満足できました。
恐るべきは、やはり「西郷どん」です。