またまた唐突ですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2、vol3の補足といいますか、訂正といいますか、再考といいますか、大筋ではちがわないのですが、細かく見直す必要があるようだ、というお話しです。
ともかく、驚きました!1!
きっちり、薩摩藩の幕末外交を評価し、モンブラン伯爵にも言及した、といいますか、モンブランが焦点となった論文が書かれていたんです。
上の本なんですが、前半(一章、二章)は、日本近世社会(江戸時代)の特徴と、その解体(幕末)の全体像が描かれています。この部分に関しては、世界史と関連を持たせたい、という意欲は買うんですが、戦後の日本歴史学界の主流だったマルクス史観のかわりに、アナール学派のマルク・ブロックを据えた手法が、あんまりしっくりときていない感じがあります。封建時代、ということで、西洋の中世と江戸時代を比較検討しているわけなのですが、ちょっとそれはちがうんじゃないのか、と思います。江戸時代も後半になれば、日本は日本なりの近代社会のとばぐちにあった、という見方も出てきていますし、私は、その方が納得がいきます。
しかし、具体的に、越前藩と薩摩藩に幕末の諸相を見ていく後半は、すばらしいんです。わけても「第四章 幕末の国家構想」においては、冒頭から、薩摩藩とモンブランが結んだベルギー商社計画の話になりまして、それが薩摩藩の国家構想の話にまでつながってきますので、もう、ここ数年、私が追っていたテーマそのもの! 感激しました。
なんといっても驚きましたのは、薩摩藩がベルギー、フランスと、独自に通商条約を結ぼう、としていたのではないか、とする推測です。
私、慶応元年、ブリュッセルとパリにおいて、新納刑部・五代友厚がモンブラン伯爵とかわしたベルギー商社計画の仮契約については、これまで、詳しく触れてきませんでした。詳しい解説書がなく、いまひとつよく理解できないでいたんです。五代友厚の日記には、「ヴェルギー政府と和親条約を成して、富国強兵の基石を立てることを欲し、その条約を、一先、モンブランと盟約せんことを談決」とあるんですが、この「和親条約」、これまでの定説では、「商社契約の話であって、モンブラン個人が相手」ということになっていたのですね。
そのわりには、新納・五代は、ベルギーでは皇太子ブラバン公をはじめとする政府高官に面会し、公的な扱いを受けていますし、ベルギーにおける最初の仮契約には、ベルギー政府から証人が立ち会っているんです。
なんだろう? と思いながら、定説を疑ってみることはしなかったのですが、高木不二氏は、和親条約は文字通り和親条約であって、新納・五代のつもりとしては、商社契約と共に、薩摩独自に、ベルギーと和親通商条約を結ぶつもりがあったのだ、となさっているんです!
これは、言われてみれば、その通りです。新納、五代、寺島は、欧州まで外交に出かけたのですし、通商条約を結ばなければ、商社活動も不可能に近いですし。
ただ、ですね。高木氏は、こういった外交から、薩摩藩の幕末、慶応3年春までの国家構想を、ドイツ連邦をモデルとした大名同盟国家、それぞれに主権を持った国家連盟方式、となさっているんですが、これはちょっと、私はちがうと思います。
ベルギーとともに、薩摩が通商条約を生かそうした国として、高木氏はフランスを挙げられ、慶応三年のパリ万博における薩摩藩の活動こそが、モンブランの力を借りてフランスに薩摩が独自国家であることを認めさせ、同時にベルギーとの条約提携をめざしたものであり、幕府の面目はつぶしたものの、ベルギーとの条約提携には失敗した、とされています。
これも盲点だったんですが、すでに1855年、薩摩藩の指導により琉仏修好条約は結ばれていました。ただし、批准されていなかったんです。フランス本国政府は、この条約の存在さえも忘れ去っていて、結局、薩摩の要請を受けて、同じように琉球と条約を結んでいたオランダに問い合わせましたところが、なんとすでに文久2年(1862)、「琉球は日本である」という幕府の宣言を受け、オランダは条約の批准を見送っていたんです。
これによって、岩下方平を団長とするパリ万博薩摩使節団は、結局、フランスにおいて一国の代表としての扱いを受けることができず、それをみていたベルギー政府も、条約提携を見合わせた、ということだったんです。
しかし、そうであってみれば、薩摩がベルギーと結ぼうとしていた条約も、琉球国名義であったことになります。さらに、です。五代がモンブランととりかわした契約によれば、長期的には大阪を中心に、都市開発、瀬戸内海航路の開設、鉄道や電信の設置、といった大規模事業を起こすことになっていまして、ってー、大阪は幕府の直轄地です。
五代の国家構想が、果たして大名連盟、というようなものであったといえるのでしょうか。
琉球国名義にした、ということは、とりもなおさず、薩摩藩に独自の外交権があるとは、認識していなかったことになります。
私は、五代、そして薩摩藩の国家構想は、確かに、高木氏がおっしゃるように、郡県制よりは分権的なものであった、と思いますが、氏がおっしゃるところの「大名の連合体」ではなく、「統一国家元首(天皇)のもとでの連邦国家」をめざしていて、幕府の直轄地である開港地を朝廷のものにし、条約もまた天皇の名のもとに結び直されることを求めていたがために、武力に訴える可能性は、薩長同盟のときから考えられていた、という見解をとります。
生糸の問題もあります。薩摩藩とグラバー(ジャーデン・マセソン)やモンブランとの取り引きが、うまくいかなかった点について、高木氏は、しっかり、生糸・種紙を買い付けることができなかったことを、主要な理由として挙げておられます。もう少し、ここをつっこんでいただけたら、嬉しかったのですが。
一方、オランダとの取り引きは米中心であったとされていまして、これが米を運搬して有利な相場で売り払う、投機的なものであったとは、目から鱗、でした。
なるほど。それで、オランダ商人(アルフォンス・ボードウィン)との取り引きのみはうまくいき、結局、押し詰まった時点での薩摩への出資者は、オランダのみになったわけなのですね。
高木氏に感服いたしましたのは、五代の商取引を、外資導入による拡大路線、としているところでして、これが主には生糸の問題でうまくいかず、五代が藩内で孤立した状況も、玉里史料を主な材料として、克明に述べられています。
慶応三年の初めころ、ですが、五代を支持していたのは桂久武一人であり、小松帯刀を筆頭に、吉井、汾陽(かわみなみ)、伊地知壮之丞 、松岡十太夫といった藩の経済官僚(オランダとの取り引きをメインにしていたと考えられます)が、そろって反発していた、というのは意外でした。
玉里史料ですかあ。読まないといけないですねえ。忠義公史料は、かなり読んだつもりなんですが、玉里史料はまだ、まったく読んでないんですよねえ。
ともかく、です。こういった五代の商業活動の失敗から、慶応三年のモンブランに対する薩摩藩の期待は、外交問題に限られ、結局、その外交活動、つまりはベルギーと条約を結ぶことに失敗したがために、薩摩は当初、モンブランの扱いに困ったのだ、ということなんですね。
しかし、まあ、です。モンブランがかなりの資産家であり、とりあえず薩摩藩の立て替え払いをする資金力があったらしいことは、よくわかりました。
ただ、高木氏、モンブラン家の話は、なにを典拠になさったのか、まちがっておられます。
「モンブラン家は南フランスの出であって、祖父ジャン・バチストの功により伯爵の位を授けられた。父シャルルのときフランス革命に遭遇し、オランダに亡命。西フランドルのインゲルムンステルの男爵領を手に入れた」
って、モンブラン伯爵の父、シャルル・アルベリック・クレマン・デカントン・ド・モンブランは、1785年の生まれです。フランス革命がはじまった時は、わずか4歳。フランス革命に遭遇したのは、祖父の代ですわね。ドイツ人領主オットー・フォン・ブロートからインゲルムンステル男爵領を譲られたのは、父親ですが。
フランスの伯爵位がそれより先か後かはわからないのですが、以前にも書いたのですが、どうも7月王政期にオルレアン家のルイ・フリップより与えられたらしい、という資料もありまして、私は、後ではないか、と思います。
(追記)うわっ!!! ドイツ・オランダ語(?)wikiにモンブラン伯の記事が立ち上がってますね。どうも、日本に留学していたベルギー人・Willy Vande Walle氏の著作などが参考にされているようです。これ、です。オランダ語、といいますか、ドイツ語で翻訳できるのですが、はっきり、1841年6月30日にルイフィリップから伯爵位を受けた、と書かれてますね。後で正解みたいです。
憶測にすぎないんですが、ベルギーの初代国王・レオポルド1世は、モンブランの父親より五つ年下で、1831年に初代ベルギー国王となり、翌年、ルイ・フィリップの娘のルイーズ=マリー・ドルレアンと結婚しているんですね。
ベルギーに男爵領を得たフランス人、それも、おそらくなんですが、南フランスの貴族に近い家柄(ジェントリーだったのでは、と思うのですが)ということで、モンブラン伯爵の父親は、この結婚になんらかの役割を果たした、といますか、マリー・ドルレアンの側近となり、その仲介で伯爵位を得たのでは? と考えたりします。
ベルギー王妃、ルイーズ=マリー・ドルレアンです。1830年代の典型的なロマンティック・スタイルですわね。
(さらに追記)ドイツ語wikiによれば、「モンブラン伯爵の父親・シャルル・アルベリック・クレマン・デカントン・ド・モンブランは、その妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスとともに、子供がいなかったシャルル・ルイス・マリー・ヒスラン・デ・プロート男爵から、インゲルムンステル城を受け継いだ」ということです。宮永氏の論文とプロート家の最後の男爵の名前がちがっていて、典拠がわかりませんし、どこまで正確な情報かは謎なんですが、宮永氏の論文では、「1825年と1835年に二度にわけて、財産のすべてを家来筋にあたるモンブランの父親に渡譲」ということになっていますから、1825年にプロート家の最後の男爵が死去し、モンブランの父親は、1825年に妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスとともに男爵領を受け継ぎ、1835年に妹が死去してすべてを受け継いだ、とも考えられます。あるいは、モンブランの父親の妹は、プロート家の最後の男爵と結婚していたのだけれども子供がなかった、という線もありかと。
(再々追記)ドイツ語wikiで、お聞きしましたところ、プロート家の項目に詳しいとのことで、わかりました! 「1825年にアルベリック・フォン・シャルル・ルイス・マリー・ヒスラン・バロン・デ・プロートが死去したとき、1835年にその兄弟のフェルディナン・マクシミリアン・オーガストが死去したときと、2回にわたってインゲルムンステル男爵領すべてが、モンブランの父親とその妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスに譲られた」とのことです。うーん。やはり、モンブラン伯爵の叔母、スザンヌ・アガタ・フェリックスは、プロート家の兄弟のどちらかと結婚していて、子供がなかったのでは? と思えます。シャルル・フェルディナン・カミーユ・ヒスラン・デカントン・ド・モンブラン( Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc)のヒスラン(Ghislain)の意味もわかりました。インゲルムンステル城主だったプロート家の家名だったんですね。確かに、領土を受け継いだら家名も受けつぎますよね。
最後に、現在私は、高木不二氏にお目にかかって、お話しをうかがいたい気分です。
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きっちり、薩摩藩の幕末外交を評価し、モンブラン伯爵にも言及した、といいますか、モンブランが焦点となった論文が書かれていたんです。
日本近世社会と明治維新高木不二有志舎このアイテムの詳細を見る |
上の本なんですが、前半(一章、二章)は、日本近世社会(江戸時代)の特徴と、その解体(幕末)の全体像が描かれています。この部分に関しては、世界史と関連を持たせたい、という意欲は買うんですが、戦後の日本歴史学界の主流だったマルクス史観のかわりに、アナール学派のマルク・ブロックを据えた手法が、あんまりしっくりときていない感じがあります。封建時代、ということで、西洋の中世と江戸時代を比較検討しているわけなのですが、ちょっとそれはちがうんじゃないのか、と思います。江戸時代も後半になれば、日本は日本なりの近代社会のとばぐちにあった、という見方も出てきていますし、私は、その方が納得がいきます。
しかし、具体的に、越前藩と薩摩藩に幕末の諸相を見ていく後半は、すばらしいんです。わけても「第四章 幕末の国家構想」においては、冒頭から、薩摩藩とモンブランが結んだベルギー商社計画の話になりまして、それが薩摩藩の国家構想の話にまでつながってきますので、もう、ここ数年、私が追っていたテーマそのもの! 感激しました。
なんといっても驚きましたのは、薩摩藩がベルギー、フランスと、独自に通商条約を結ぼう、としていたのではないか、とする推測です。
私、慶応元年、ブリュッセルとパリにおいて、新納刑部・五代友厚がモンブラン伯爵とかわしたベルギー商社計画の仮契約については、これまで、詳しく触れてきませんでした。詳しい解説書がなく、いまひとつよく理解できないでいたんです。五代友厚の日記には、「ヴェルギー政府と和親条約を成して、富国強兵の基石を立てることを欲し、その条約を、一先、モンブランと盟約せんことを談決」とあるんですが、この「和親条約」、これまでの定説では、「商社契約の話であって、モンブラン個人が相手」ということになっていたのですね。
そのわりには、新納・五代は、ベルギーでは皇太子ブラバン公をはじめとする政府高官に面会し、公的な扱いを受けていますし、ベルギーにおける最初の仮契約には、ベルギー政府から証人が立ち会っているんです。
なんだろう? と思いながら、定説を疑ってみることはしなかったのですが、高木不二氏は、和親条約は文字通り和親条約であって、新納・五代のつもりとしては、商社契約と共に、薩摩独自に、ベルギーと和親通商条約を結ぶつもりがあったのだ、となさっているんです!
これは、言われてみれば、その通りです。新納、五代、寺島は、欧州まで外交に出かけたのですし、通商条約を結ばなければ、商社活動も不可能に近いですし。
ただ、ですね。高木氏は、こういった外交から、薩摩藩の幕末、慶応3年春までの国家構想を、ドイツ連邦をモデルとした大名同盟国家、それぞれに主権を持った国家連盟方式、となさっているんですが、これはちょっと、私はちがうと思います。
ベルギーとともに、薩摩が通商条約を生かそうした国として、高木氏はフランスを挙げられ、慶応三年のパリ万博における薩摩藩の活動こそが、モンブランの力を借りてフランスに薩摩が独自国家であることを認めさせ、同時にベルギーとの条約提携をめざしたものであり、幕府の面目はつぶしたものの、ベルギーとの条約提携には失敗した、とされています。
これも盲点だったんですが、すでに1855年、薩摩藩の指導により琉仏修好条約は結ばれていました。ただし、批准されていなかったんです。フランス本国政府は、この条約の存在さえも忘れ去っていて、結局、薩摩の要請を受けて、同じように琉球と条約を結んでいたオランダに問い合わせましたところが、なんとすでに文久2年(1862)、「琉球は日本である」という幕府の宣言を受け、オランダは条約の批准を見送っていたんです。
これによって、岩下方平を団長とするパリ万博薩摩使節団は、結局、フランスにおいて一国の代表としての扱いを受けることができず、それをみていたベルギー政府も、条約提携を見合わせた、ということだったんです。
しかし、そうであってみれば、薩摩がベルギーと結ぼうとしていた条約も、琉球国名義であったことになります。さらに、です。五代がモンブランととりかわした契約によれば、長期的には大阪を中心に、都市開発、瀬戸内海航路の開設、鉄道や電信の設置、といった大規模事業を起こすことになっていまして、ってー、大阪は幕府の直轄地です。
五代の国家構想が、果たして大名連盟、というようなものであったといえるのでしょうか。
琉球国名義にした、ということは、とりもなおさず、薩摩藩に独自の外交権があるとは、認識していなかったことになります。
私は、五代、そして薩摩藩の国家構想は、確かに、高木氏がおっしゃるように、郡県制よりは分権的なものであった、と思いますが、氏がおっしゃるところの「大名の連合体」ではなく、「統一国家元首(天皇)のもとでの連邦国家」をめざしていて、幕府の直轄地である開港地を朝廷のものにし、条約もまた天皇の名のもとに結び直されることを求めていたがために、武力に訴える可能性は、薩長同盟のときから考えられていた、という見解をとります。
生糸の問題もあります。薩摩藩とグラバー(ジャーデン・マセソン)やモンブランとの取り引きが、うまくいかなかった点について、高木氏は、しっかり、生糸・種紙を買い付けることができなかったことを、主要な理由として挙げておられます。もう少し、ここをつっこんでいただけたら、嬉しかったのですが。
一方、オランダとの取り引きは米中心であったとされていまして、これが米を運搬して有利な相場で売り払う、投機的なものであったとは、目から鱗、でした。
なるほど。それで、オランダ商人(アルフォンス・ボードウィン)との取り引きのみはうまくいき、結局、押し詰まった時点での薩摩への出資者は、オランダのみになったわけなのですね。
高木氏に感服いたしましたのは、五代の商取引を、外資導入による拡大路線、としているところでして、これが主には生糸の問題でうまくいかず、五代が藩内で孤立した状況も、玉里史料を主な材料として、克明に述べられています。
慶応三年の初めころ、ですが、五代を支持していたのは桂久武一人であり、小松帯刀を筆頭に、吉井、汾陽(かわみなみ)、伊地知壮之丞 、松岡十太夫といった藩の経済官僚(オランダとの取り引きをメインにしていたと考えられます)が、そろって反発していた、というのは意外でした。
玉里史料ですかあ。読まないといけないですねえ。忠義公史料は、かなり読んだつもりなんですが、玉里史料はまだ、まったく読んでないんですよねえ。
ともかく、です。こういった五代の商業活動の失敗から、慶応三年のモンブランに対する薩摩藩の期待は、外交問題に限られ、結局、その外交活動、つまりはベルギーと条約を結ぶことに失敗したがために、薩摩は当初、モンブランの扱いに困ったのだ、ということなんですね。
しかし、まあ、です。モンブランがかなりの資産家であり、とりあえず薩摩藩の立て替え払いをする資金力があったらしいことは、よくわかりました。
ただ、高木氏、モンブラン家の話は、なにを典拠になさったのか、まちがっておられます。
「モンブラン家は南フランスの出であって、祖父ジャン・バチストの功により伯爵の位を授けられた。父シャルルのときフランス革命に遭遇し、オランダに亡命。西フランドルのインゲルムンステルの男爵領を手に入れた」
って、モンブラン伯爵の父、シャルル・アルベリック・クレマン・デカントン・ド・モンブランは、1785年の生まれです。フランス革命がはじまった時は、わずか4歳。フランス革命に遭遇したのは、祖父の代ですわね。ドイツ人領主オットー・フォン・ブロートからインゲルムンステル男爵領を譲られたのは、父親ですが。
フランスの伯爵位がそれより先か後かはわからないのですが、以前にも書いたのですが、どうも7月王政期にオルレアン家のルイ・フリップより与えられたらしい、という資料もありまして、私は、後ではないか、と思います。
(追記)うわっ!!! ドイツ・オランダ語(?)wikiにモンブラン伯の記事が立ち上がってますね。どうも、日本に留学していたベルギー人・Willy Vande Walle氏の著作などが参考にされているようです。これ、です。オランダ語、といいますか、ドイツ語で翻訳できるのですが、はっきり、1841年6月30日にルイフィリップから伯爵位を受けた、と書かれてますね。後で正解みたいです。
憶測にすぎないんですが、ベルギーの初代国王・レオポルド1世は、モンブランの父親より五つ年下で、1831年に初代ベルギー国王となり、翌年、ルイ・フィリップの娘のルイーズ=マリー・ドルレアンと結婚しているんですね。
ベルギーに男爵領を得たフランス人、それも、おそらくなんですが、南フランスの貴族に近い家柄(ジェントリーだったのでは、と思うのですが)ということで、モンブラン伯爵の父親は、この結婚になんらかの役割を果たした、といますか、マリー・ドルレアンの側近となり、その仲介で伯爵位を得たのでは? と考えたりします。
ベルギー王妃、ルイーズ=マリー・ドルレアンです。1830年代の典型的なロマンティック・スタイルですわね。
(さらに追記)ドイツ語wikiによれば、「モンブラン伯爵の父親・シャルル・アルベリック・クレマン・デカントン・ド・モンブランは、その妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスとともに、子供がいなかったシャルル・ルイス・マリー・ヒスラン・デ・プロート男爵から、インゲルムンステル城を受け継いだ」ということです。宮永氏の論文とプロート家の最後の男爵の名前がちがっていて、典拠がわかりませんし、どこまで正確な情報かは謎なんですが、宮永氏の論文では、「1825年と1835年に二度にわけて、財産のすべてを家来筋にあたるモンブランの父親に渡譲」ということになっていますから、1825年にプロート家の最後の男爵が死去し、モンブランの父親は、1825年に妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスとともに男爵領を受け継ぎ、1835年に妹が死去してすべてを受け継いだ、とも考えられます。あるいは、モンブランの父親の妹は、プロート家の最後の男爵と結婚していたのだけれども子供がなかった、という線もありかと。
(再々追記)ドイツ語wikiで、お聞きしましたところ、プロート家の項目に詳しいとのことで、わかりました! 「1825年にアルベリック・フォン・シャルル・ルイス・マリー・ヒスラン・バロン・デ・プロートが死去したとき、1835年にその兄弟のフェルディナン・マクシミリアン・オーガストが死去したときと、2回にわたってインゲルムンステル男爵領すべてが、モンブランの父親とその妹のスザンヌ・アガタ・フェリックスに譲られた」とのことです。うーん。やはり、モンブラン伯爵の叔母、スザンヌ・アガタ・フェリックスは、プロート家の兄弟のどちらかと結婚していて、子供がなかったのでは? と思えます。シャルル・フェルディナン・カミーユ・ヒスラン・デカントン・ド・モンブラン( Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc)のヒスラン(Ghislain)の意味もわかりました。インゲルムンステル城主だったプロート家の家名だったんですね。確かに、領土を受け継いだら家名も受けつぎますよね。
最後に、現在私は、高木不二氏にお目にかかって、お話しをうかがいたい気分です。
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維新直後、薩摩出身の留学経験者たちが、即、自分たちの手で外債募集に走ったというのも、自国の金融システムが発達していたがために、制度への理解が早かった、ともいえそうですよね。
それから、渋沢栄一ですけど、身内の渋沢成一郎が生糸売込商人ですし、原善三郎とかも、近隣の出身で、妄想どころか、私は関係大アリだと思っています。
後、日本は明治になって郵便制度が出来た訳ですけど、それ以前の飛脚制度も再評価されて良いと思います。郵便に比べて、遅延や不着多かった様なイメージで見られがちですが、為替が正常に機能していたところをみると、バカにできないと思います。料金は高そうですけど。
そう考えると、大塩平八郎が、徳川斉昭宛に出した手紙が箱根の山中に捨てられていたのいうのは、話が出来すぎていますよね。
確かに現在でも郵便配達員が郵便物を大量に捨てる事件が、時々発生しますから、事実なのかもしれないけど。(笑)
最後にヨーロッパの王制はおっしゃる通りですね。 スペイン王はフランス系だし、イギリスや大戦前のバルカン半島の国はドイツ系が多かったですね。私も学者がヨーロッパの事例にアジアをあてはめようとするのには、違和感を感じますね。その様な学者先生は、インテレクチャルは有るでしょうが、インテリジェンスが有るかどうかは疑問ですね。
長々失礼しました。
現在のベルギーについては、ほとんどなにも知らないんですのよ。
欧州の王制というのは、異なる民族を統合するために、よそから王様をひっぱってきたりするわけなんですけど、ベルギーの場合も、王制でなくなれば離婚なんでしょうねえ。EUの成立で、確かに欧州では、近代国民国家の枠組みは、くずれる方向にありますね。
ただ、学者さんがそれを、まったく状況のちがうアジアにもあてはめようとするのには、閉口しますけど(笑)
何かベルギーで問題が持ち上がる度に、分裂が取り沙汰されますよね。
これはもう、今のところまったく、憶測でしかないのですが
幕府の生糸独占は、三井をうまく使ってのことではないか、
と思っているんですのよ。
現在、書かれている研究書の端々からは、そうとしか考えられないんです。
三井が財閥としてのしあがっていく素地は、すでに幕末に出来上がっていたわけでして、井上馨がその三井をとりこめた、といいますのは、やはり渋沢栄一の線なんでしょうか。って、妄想に走りすぎですが、渋沢の故郷は生糸の産地ですし。
オランダは、幕府にも貸していますよね。「どっちに転んでも損はしないようにしてある」というようなことを、ボードウィンだったかが、手紙に書いていたりします。
モンブランの金利は高かったようでして(笑)
担保に米ですか。どうなんでしょう。
オランダに米を売ったわけではなく、オランダ貿易会社の出資を得て、米の投機的商売をした、という話でして。ジャーデン・マセソンは、結局資金を引き揚げたのですが、オランダは引き上げた形跡がないので、米の投機はうまくいったのだろう、というような話でして。
わかり辛い書き方ですみません。
生糸の買い付けについては、五代友厚が日本商人を使っての買い付けが、うまくいかなくなった、ということなんですのよ。越前藩も、慶応末年以前は、長崎へ生糸を売りに出せていたような話なのですが(横浜での幕府のしめつけがきびしかったときです)、その越前も買い付けができなくなったのだそうでして。で、越前との交易で生糸、種紙を買い付けようとして、薩摩は失敗。という話です。
薩摩は、南北戦争時には綿を、藩内の商人に京阪で買い集めて、このときはグラバー(ジャーデン・マセソン)と取り引きしていたのだと思うのですが、長州が攘夷まっさかりのころで、綿をつんだ薩摩の船を攻撃して、もめたこともありましたし、外資を導入して、投機的な商売をずっとやっていた、ということかと。
で、「離婚」ですか? 文字通りの?
宗教によってちがうと思うのですが。カトリックの場合は、一応、離婚はなしではないですか?
(この借金は軍備拡張に使われたようですが。)
後、同じ日本流通似史によると生糸の買い付けが上手くいかなかったのは、日本商人の為替ネットワークの前に外国商人が入り込む余地が無かったとあります。
又輸入品の国内流通から得る利益は悉く日本商人の下に蓄積され、産業革命の原資になったとの事です。
まとまりが無くてすいません。
ところで、ベルギーは「離婚」すろのでしょうか。