郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol5

2014年04月16日 | 乃木殉死と士族反乱


 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol4の続きです。

 どうも、ですね。二回にわたりまして大庭柯公の目で乃木希典を見て参りまして、私の乃木将軍像は、がらりと変わりました。
 あらためて、司馬遼太郎氏の『殉死』を読んでいるのですが、ひどいですね。ここまで、つい百年前に実在した人物(うちの高祖父とあまり違わない年です)をゆがめて語るって、ゆるされることなのでしょうか。

 
殉死 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 司馬氏は、『殉死』の冒頭で「以下、筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめてみるといったふうの、そういうつもりで書く」としておられるのですが、「思考って、ね。なにを材料に思考を?」と、思わずつっこまないではいられないんです。
 「自分自身の思考」といいますよりは、「乃木希典という、生涯洞窟のなかで灯をともしていたような、そういう数奇なにおいの人物」とか、 「このひとが自分の伯父かなにかであれば、閉口してその家は敬遠したにちがいない」とか、根拠のない「自分自身のイメージ」をもとに、巧みに物語=フィクションをつづられた、としか、私には受け取れません。

人間乃木と妻静子 (1971年) (太平選書)
菊池 又祐
太平観光出版局


 菊池又祐氏の『人間乃木と妻静子』は、出版年が1971年なので、1967年に出版されました『殉死』への反論、という面もあったのでしょうか。

 追記 私、菊池又祐氏の文章は、黒木勇吉氏の『乃木希典』(昭和53年 講談社発行)から孫引きしておりました。本日、『人間乃木と妻静子』が届いたのですが、これ、昭和8年に出版されました『乃木夫妻の生活の中から』の再版なのだそうです。菊池氏は、若くして両親を亡くし、乃木将軍夫妻に関する三冊の著作と一冊の戯曲を残して、独身のままで昭和15年(1940年)に45歳で亡くなられました。早稲田大学のロシア文学科(!)を卒業なさっていたとか。少々、書き直します。

 菊池又祐氏は、静子夫人の実姉の孫にあたられ、日露戦争の凱旋帰国の日、10歳でおられましたが、一族と共に乃木邸で将軍を迎えました。

 夫人が玄関の石段に一段下りた。それにむかって将軍はつかつかと進んだ。帽子をとって、それを左の小脇にはさんだ将軍は、右手で今しも頭を垂れた夫人の右手をとりあげた。そしてその上に軽く左の掌をかさねた。
「ただいま帰りました。るす中は、ご苦労でした」
 夫人は何か言いたげであったが、何とも言わないで、ただ黙って、頭を下げたままでいた。多分、胸がいっぱいで、何の言葉も出されなかったのであろう。
 ―叔父様、へんなまねをするなア―
 この光景を、ちょうど将軍と夫人との側面から、偶然にも、一番はっきりと見もし、この言葉を耳にもした私は、目を丸くせずにはいられなかった。
 私にとっては、「武士が戦場にのぞんだ以上、家を忘れ、親を忘れ、まして妻子などの女々しい愛におぼれるのは、卑怯未練な一番恥ずべき行為である。かりそめにもかかることはなすべからざることである」というのが、武人に対するほとんど絶対の信条だった。実際それが物心ついてから、誰からも言い聞かされ、教えさとされていた環境の中には、武門の血が流れ、武士のたしなみが生きていた。
 だから私には、武人の心がけという点ではかなりやかましい、そして又、それを自分自身にも実践している、この叔父―すなわち乃木将軍が、戦争から還るとすぐに、誰にも何とも言わぬ先に、まずわが妻に言葉をかけ、しかもその手をとるに至っては、全然予期していなかっただけ、大いなる驚きだった。


 10歳の頃の思い出を、大切に暖めておられた菊池氏が、もしも生きておられたとすれば、やさしかった「叔父様」が、有名作家の小説の中で化け物のように描かれておりますのは、耐えがたいことだったのではないでしょうか。公的な面での批判ならばともかく、司馬氏が貶めておられますのは、乃木将軍の私的な像も、なのです。
 『人間乃木と妻静子』が再版されましたのは、やはり『殉死』が出されたころ、乃木希典に対します否定的評価があまりに多かったことが、要因の一つではあったようです。

 菊池氏は、続けて、その凱旋帰国の日の祝宴におきますエピソードも、いくつかつづっておられます。

 希典の幼友達に、実業家になっていた人物から、シャンパンかなにか、とても高価な洋酒が届いたことが、希典の気に入りません。
 それで希典は、菊池氏の父親をはじめ、身内をつかまえては、「シロウマを買ってこい」 と言いつのっておりました。シロウマとは濁り酒(どぶろく)のことなんだそうでして、つまるところが安酒です。希典は、さらに「きっと自分で行くんだぞ。他人を買いにやっちゃあいかんぞ」と、フロックコートで正装した身内を困らせ、楽しんでいたそうでして、菊池氏は決意し、話しかけます。

「叔父様! 叔父様!」
 呼びかけたが、その声などは耳にも入れず、前を行きすぎようとした。ここだ! といきなり私は将軍の上衣の裾をおさえた。
「叔父様!」
「う?」
 おさえられて、私を見おろした。
「シロウマは、買いにいかないでも、厩にいけばおります」
「う? 厩に、シロウマがいる? む、さようか!」
 将軍は、しばらく私の顔を見ていたが、破顔した。
「それに、ちがいないなァ!」
と、いいながら行ってしまった。
 

 縁戚の少年から見ました乃木将軍は、当時の軍人にすれば、むしろ破格なほどに女子供への思いやりを持ち、茶目っ気もあって、司馬氏の描写からはほど遠い感じを受けます。

 もう一つ、菊池氏の著述から、わかったことがあります。
 大庭柯公がロシアで粛正されました理由の一つに、シベリア出兵の第三師団長だった大庭二郎中将が親戚だったから、という噂があった旨、久米茂氏の『消えた新聞記者』に出てくるのですが、しかし久米氏は、親族関係を確かめられないままに、書いておられたんですね。
 菊池氏によれば、大庭二郎中将は乃木家の遠い親戚なのだそうです。日露戦争時は中佐で、希典配下の参謀副長だったそうですし、希典の紹介で、柯公からロシア語を教わった可能性は、高そうに思います。

 ともかく。
 『殉死』のなにがもっとも信用できないかと申しますと、実は、以下の部分です。

 戦術にはETAPPE(兵站)の問題が出てくる。食料、弾薬、器財の輸送と集積のことである。日本陸軍はこのことばの意味を創設以来知らなかった。 

 「一個師団を日本から大陸派遣するとしてその兵站はどうするか」
 という意味の応用問題も、当然デュフェ(ドイツ留学中の乃木希典と川上操六にモルトケがつけてくれた付属教官)は出したであろう。その言葉の意味は、この前々年、日本陸軍が陸軍大学校開設にあたり、独逸(ドイツ)参謀本部から招聘したメッケル少佐によって川上操六は聞き知っていた。しかしメッケルの薫陶をうけなかった乃木希典は知っていたかどうか。


 司馬遼太郎氏は、近代戦といえば、自らも末端将校として満州に渡りました太平洋戦争を想起して、どうも、兵站といえば海上輸送とばかり考えておられるようなのですが、前回書きましたように、モルトケの兵站は、整備された鉄道網を前提として、いかにそれを効率よく使うか、ということなんですね。プロイセン(ドイツ)は日本のような島国ではありませんで、仮想敵国はすべて地続きだったんですから。

 普仏戦争と前田正名 Vol7を見ていただければと思うのですが、モルトケが指導して、プロイセンが戦った1864年(元治元年)の第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、1866年(慶応2年)の普墺戦争、1870年(明治2年)の普仏戦争において、海戦はまったく戦争の勝敗に影響していませんで、フランスは制海権を握ったままで、負けています。陸の劣勢に、フランスは、海軍陸戦隊をほとんどすべて陸揚げして、内陸で戦わせる始末です。
 日本と同じ島国で、海軍強国のイギリスを除きまして、欧州の大陸諸国が、19世紀後半あたりから、イギリスにはかなわないまでもそれなりに、海軍に力を入れはじめたのはなぜか、といえば、アジア、太平洋、アフリカとの通商交易に結びつきました植民地獲得の必要が大きく、欧州の中の戦争では、海上封鎖も試みなかったわけではないのですが、少なくともモルトケの時代には、たいしたことはできていませんし、だいたいそれは、陸軍ではなく海軍の担当です。

 司馬氏は、ものすごい勘違いの上に、帰国後の意見書の内容を並べて、乃木希典は兵站に関心を持たなかった、と決めつけておられるんですが、だいたい、希典のドイツ留学は明治20年(1887年)のことでして、シベリア鉄道もまだ起工してはおりません。前々回、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol3で書きました、明治24年(1891年)のロシア皇太子・ニコライ来日が、そもそもはウラジオストクでのシベリア鉄道起工式に出席するついで、でしたので、それ以降ならばまだわかるのですが(尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2参照)、仮想敵をロシアとして兵站を考えるにしましても、まだモルトケ流が役立つ段階ではないんですね。
 私は、前々回、前回に書きましたように、希典はモルトケ流兵站を理解し、大庭柯公と二葉亭四迷という、当時の日本で最大のロシア通の協力を得まして、ロシアの兵站調査をした、と思っています。

 さらに希典の意見書について、司馬氏は、以下のように決めつけておられます。

 第二項は、おもに服装・容儀に関するものである。乃木希典は独逸(ドイツ)留学後、独逸軍人における「外形美」ともいうべきものに傾倒し、その美の信徒といったようなものになりはじめており、これがこの論文の最大の力点であろう。

 これではまるで、異様な制服マニアのようなのですが、司馬氏が引用しておられます意見書原文を読めば、要するに、こういうことです。
「ドイツでは、将校が出入りするレストランや酒場は、下品だったり猥雑だったりしてはならない。ところがわが国では、高級武官が寝間着のままで任務の話や訓戒を部下にしたり、制服を着たままで売春宿へ出入りすることをはばからないなど、どちらも、礼節、徳義を捨ててしまった行いだ。将校の制服は、将校であることの名誉と責任を表しているのであって、それを忘れて、平気で売春宿へ出入りするのは、もってのほかだ」

 司馬氏は、ここでも大きな勘違いをしておられるのですが、ドイツに限りませんで、この当時の将校の軍服は、決して機能性のみを追求したものではないんです。
 たいぶん以前の記事ですが、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編に書いておりますが、儀礼服的な要素も相当に強く、華やかなものでした。
 そして、キリスト教道徳を基本としています当時の欧米では、まっとうな人間は娼館に出入りするべきではなかったんです。
 まして、ですね。将校ともあろう者は、部下の手本となって徳義を示すべきでして、名誉と責任を表象する軍服で娼館に出入りするなぞもってのほか、でした。
 こっそり娼婦を買いますのは、また別の話です。ここらへんが偽善的といえば偽善的でして、従軍慰安婦に対します受け止めが、アメリカと日本で大きくちがってきます原因だったりします。
 日本を愛しましたアーネスト・サトウも、奇妙な日本人の洋装にうんざりすると同時に、酒盛りの席で、突然、露骨な猥談が出たりすることにも、相当な抵抗があったようです。

 つまり、希典は、ですね。
 ドイツに行って、江戸時代の士族が普通に共有しておりました礼儀や道徳は、決して特殊なものではなく、欧州には欧州なりのそういったものがあり、それを無視した軍隊は、決して欧州列強に認められることがないだろう、と悟ったんですね。
 なにしろ海軍は、遠洋航海をしますので、国際的なつきあいが多く、明治海軍はイギリスを見習い、将校の身だしなみ、礼儀にはずいぶんとうるさかったのですが、陸軍はなにしろ、山縣有朋が中枢に腰を据えていますようなうち籠もり、でしたのでねえ。なってなかったんでしょう。
 希典は、いわば陸軍の国際化を提言していたのであって、それがなんで、まるで偏執狂みたいな描写になるのでしょうか。

 この司馬氏の思い込みの元凶は、芥川龍之介だったのかな、と思われる話が、このシリーズを書く最初のきっかけとなりました長山靖生氏の『大帝没後―大正という時代を考える―』に出てまいります。

大帝没後―大正という時代を考える―(新潮新書)
長山 靖生
新潮社


 芥川龍之介は大正11年(1922年)、『将軍』(青空文庫『将軍』)という、乃木希典の殉死を題材にした短編を書きました。
 以下、作中、陸軍少々の父親と、文化系大学生の息子がかわす会話です。

 「閣下のお前がたに遠いと云うのは?」
「何と云えば好いですか?――まあ、こんな点ですね、たとえば今日追悼会のあった、河合と云う男などは、やはり自殺しているのです。が、自殺する前に――」
 青年は真面目に父の顔を見た。
「写真をとる余裕はなかったようです。」
 今度は機嫌の好い少将の眼に、ちらりと当惑の色が浮んだ。
「写真をとっても好いじゃないか? 最後の記念と云う意味もあるし、――」
「誰のためにですか?」
「誰と云う事もないが、――我々始めN閣下の最後の顔は見たいじゃないか?」
「それは少くともN将軍は、考うべき事ではないと思うのです。僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします。しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られる事を、――」
 少将はほとんど、憤然と、青年の言葉を遮さえぎった。
「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない。徹頭徹尾至誠の人だ。」
 しかし青年はあいかわらず、顔色も声も落着いていた。
「無論俗人じゃなかったでしょう。至誠の人だった事も想像出来ます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、なおさら通じるとは思われません。……」
 

 「N閣下」が乃木希典なのですが、自刃する当日に撮った写真の件には、芥川龍之介の大きな誤解があると、長山靖生氏は言います。




 上の3枚の写真なのですが、大正元年(明治45年ー1912年)9月13日、明治天皇大葬の日の朝、写真師を呼んで撮られたものです。
 この日の午前中、宮中において行われます殯宮祭に列席するため、希典は陸軍大将の正装、静子夫人は喪の礼装でした。
 長山靖生氏は、このときの秋尾写真師の談話を、大正元年の新聞で見つけられたそうなのですが、最初は、希典一人の写真を撮る予定でしたが、「奥様の写真もご一緒にいかがか」と、写真師が勧め、残りの2枚も撮ったのだといいます。

 希典一人の写真をご覧ください。
 胸に大きな勲章をつけていますが、これは、バス勲章(グランド・クロス)ほか、イギリス王室から授けられました勲章なんです。
 明治大帝大喪礼に参列されるために、同盟国のイギリスから、ヴィクトリア女王の三男で、エドワード7世の弟にあたりますコンノート殿下が来日されていて、希典は、海軍中将坂本俊篤とともに、接伴役を務めていたんですね。
 そのコンノート殿下が、希典の写真を所望されていたんです。


 
 自刃の2日前、コンノート殿下とともに馬車に乗っている希典です。
 コンノート殿下は、イギリス陸軍に所属されていたこともあり、旅順の名将・乃木希典のファンでおられて、ぜひにと求められたものですから、希典は公式行事の前の慌ただしい中で、バス勲章を着用して写真を撮ったんです。

 その夜、自刃しました希典は、接伴役を務め終えないまま世を去ることについて、コンノート殿下へのおわびの言葉も残しています。

 前年の明治44年(1911年)、ジョージ5世の戴冠式に東伏見宮殿下、妃殿下が列席されるに際し、希典は海軍の東郷平八郎とともに随行し、イギリスにおいてはもちろん、歴訪した欧州各国で熱烈な歓迎を受け、勲章をもらっていました。

 芥川龍之介は、別に乃木将軍を貶めているわけではありませんで、世代の感覚のちがいをうまく短編に仕立てているのですが、コンノート殿下に求められたがために写真師を呼んでいたのだと、もしもそれを知っていたとすれば、とても書けない小説ですし、実像ではなく、イメージが先行しています点では、司馬遼太郎氏の先達だったわけです。

 続きます。

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