郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol6

2014年04月23日 | 乃木殉死と士族反乱

 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol5の続きです。

 前回、司馬遼太郎氏の『殉死』に、ドイツ留学から帰国後の希典の意見書への批判が載っていることは述べましたが、書き忘れたことがあります。
 意見書の前半部分について、司馬氏は以下のように言っているんです。

 論文は論旨からみて二項にわかれているように思われる。第一項にはしきりと「操典」の必要を説いている。かれがこの論文でいう操典という言葉はやや不明で、最初は歩兵操典のようなものかとおもいつつ筆者は読んだが、どうやらそうでもなさそうにおもわれる。

 意見書の全文は、黒木勇吉氏著『乃木希典』(昭和53年 講談社発行)に収録されていまして、読んでみました。
 いったい……、司馬氏の頭の中って、どうなっているんでしょうか。
 この後に続けて司馬氏は、なぜか知りませんけれども、歩兵操典のはずがないと決めつけてしまわれ、「おそらく独逸(ドイツ)留学中、デュフェ大尉が教科書として用い、現地教育のときもそれを携えていたあの小冊子が、乃木にとって不思議なほどの魅力を感じたのであろう」と、想像をひろげておいでなのですが、い、いやー、ちゃんと希典は「歩兵ノ操典」と書いていますのに、なんなんでしょか??? ほんとうに、わけがわかりません。

 
乃木希典 (文春文庫)
福田 和也
文藝春秋


 福田和也氏の『乃木希典』には、はっきりと「(この論文では)まず陸軍における歩兵操典の重要さが論じられ」と書かれています。ただ福田氏は、「冒頭の歩兵操典の部分は、操典をテキストに講義をしてくれたドイツ参謀本部への義理立てから書かれたのだろう」としておられるのですが。

 い、いや、だからー。
 なんでみなさん、普通に読まれないんでしょうか。
 意見書の歩兵操典に関します肝心な部分を意訳しますと。

 わが日本の陸軍は、明治維新に際して、それまでのものをすべて捨てて、新たにヨーロッパの兵式を採用して、まだ20年を越えていない。いろいろな法典も、フランスからとったりドイツからとったり、折衷しようとしているが、木に石を継いだようで、黒白が交錯してしまっている。陸軍の諸学校で、教える方も教えられる方も、フランス式なのかドイツ式なのか、さっぱり定まっていない。ところが去年(明治20年-1887年 )、私がドイツにいる間に、第三回の改正歩兵操典を天皇陛下の勅裁をもって発布している。騎兵、砲兵の操典も、いずれ勅裁をもってされるのだろうが、フランス式とドイツ式がまだらのままでは、近代軍隊のすべては操典が基本なのだから、困ったことになるだろう。

 wiki-歩兵操典をご覧になってみてください。要するに、明治20年の歩兵操典は、明治7年(1874年)に採用されましたフランス歩兵操典翻訳から大きな変化はなく、木に石を継ぐように、部分的にドイツ式を入れただけ、だったようなんですね。
 明治24年(1891年)に出されました日本の歩兵操典は、ほぼ明治21年(1888年)のドイツ歩兵操典翻訳だったそうですから、希典帰国後に、持ち帰ったものが翻訳された、と見るべきではないのでしょうか。
 ただ、翻訳に3年はちょっと長すぎるのではないか、という気がしないでもありませんで、これには、帰国後の希典の左遷がからんでいるかもしれず、それについては後述しますが、とりあえず希典は、フランス式がだめだといっているわけではなく、ドイツ式でいくつもりなのならまず操典をちゃんとそうしろと、言っているだけなのですから、まっとうな上にもまっとうな意見だと、私は思うのですが、なにをどうひねくれば『殉死』の妄想となるのか、さっぱりわかりません。

 黒木勇吉氏の『乃木希典』によりますと、希典と川上操六は、「わが陸軍の統轄および教育の方法を完備するために、ドイツにおける兵制の実理を研究、熟察せよ」という訓令を受けて留学したのだそうでして、川上操六は、希典より一つ年下の薩摩の人ですが、非常な俊才で、帰国後、日清戦争時の陸軍を取り仕切り、参謀総長となった人です。日露戦争前に病没してしまい、後世、あまり一般に名が知られていませんが、「陸軍の統轄のための視察」が期待されていたのは、あきらかに彼でしょう。

 つまり希典には、「陸軍の教育のための視察」が期待されていたわけでして、とすれば、直球の意見書だった、といえます。

 しかし帰国後の希典が、教育畑を歩かなかったにつきましては、どうも、おそらくは山縣有朋と、見解の相違があったのではないか、と私は推測しています。
 陸軍教育総監部(wiki)の前身であります監軍部(wiki)を見てみますと、第一次のそれには、三浦梧楼、谷干城、鳥尾小弥太、曽我佑準が名を連ね、陸軍の教育畑は、山縣有朋と対立していました反主流派(フランス派)の牙城だったように見えます。
 希典がドイツ留学中の明治20年に、その牙城をつぶした上、山縣有朋が監軍におさまり、頻繁に薩摩の大山巌と交代はしているのですが、大山巌は砲兵が専門ですし、最終的に歩兵の教育問題に関しては、トップは山縣有朋だったといえるのではないでしょうか。

 明治21年の6月に帰国しました希典は、留学前のポスト、熊本歩兵第11旅団長にそのまま返り咲きますが、翌明治22年の3月、近衛の歩兵第2旅団長に栄転します。東京勤務ですし、参謀次長に転出した川上操六の後だそうですので、これはあきらかに、希典のドイツ留学の成果を、陸軍の教育改革に生かすためだったと推測できます。
 ところが、わずか1年あまり、翌明治23年の7月に、希典は名古屋の歩兵第5旅団長に左遷されるんです。
 この間の希典の日記が残っていないそうでして、詳しい事情はわからないのですが、黒木勇吉氏は、参謀長でした長州閥の児玉源太郎と希典の仲は悪くはなかったはずで、軋轢があったのはこれまた長州閥の桂太郎とではなかったか、としておられます。

 結局、ドイツ歩兵操典丸ごとコピーを実施しましたのは、児玉源太郎だったみたいですし、教育改革の中心も彼ではなかったのかと思われます。
 実は、黒木氏ご紹介の希典のドイツ語日記の余白メモからしますと、将校教育のあり方をめぐっての軋轢であったようなのですね。
 メモの内容は、「将としての才能のある者が下士官や兵卒と同じ教育であっていいはずはない、という者がいるが、愚かで狂った話だ」といったところで、希典は、将校教育におきます年少時からの特別扱いを、嫌っていたのではなかったでしょうか。とすれば、桂太郎はもちろん、児玉とももめたのではないか、という気がしないでもありません。

 もう一つ、この時期に希典が、出身の長州閥と軋轢を生じた理由があるとしますならば、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol3にも書きましたが、明治22年、憲法発布に伴います大赦で、西郷隆盛が追贈され、名誉回復しましたにもかかわらず、萩の乱の関係者はまったく顧みられてなかったことがあるのではないかと、私は憶測しています。この年、熊本から東京へ赴任の途中、希典は萩によって、萩の乱で戦死しました実弟・玉木正誼の遺児、12歳になりました正之を引き取っているんです。

 希典は以降、陸軍の教育畑にはかかわることなく、大方信念に基づいてのことですが、4度の休職をくりかえし、選ばれてドイツ留学をした経歴からしますと、あまりぱっとしないままに日露戦争を迎えます。

 乃木希典が、日本陸軍を代表します国際的な名士となりましたのは、旅順攻防戦によって、です。

乃木大将と日本人 (講談社学術文庫 455)
クリエーター情報なし
講談社


 スタンレー=ウォシュバン氏は、明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol4ですでに書きましたが、アメリカ人ジャーナリストで、日露戦争時、希典が司令官を務めていました第三軍について取材し、乃木希典に心服して、乃木殉死の翌年、明治2年の2月にこの『乃木大将と日本人 』(英文『NOGI』)を、ニューヨークで出版しました。

 「大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に貢献をする人が、三十年に一度か六十年に一度くらい出現することがある。そうした人物は、死後二,三十年の間は、ただ功績をもって知られているのみであろうが、歳月の経つにしたがって、功績そのものが、その人格に結びついて、ますます光りを放つ時がくる。たとえば軍人であるとすれば、その統率した将士の遺骨が、墳墓の裡(うち)に朽ちてしまい、その蹂躙した都城が、塵土と化してしまった後までも、なおその人格と、人格より発する教訓とが、永遠に生ける力となってゆくからである。乃木大将は実にかくのごとき人であった」 

 上は、その冒頭の文章でして、親しく希典に接しましたスタンレー=ウォシュバン氏は、なによりも希典の人格に傾倒したわけです。

 一兵卒の戦死さえ、乃木大将は肉親の不幸として感ずる人である。ましてこの旅順口攻撃戦によって与えられた苦痛にいたっては、比ぶべきものもなかった。第一回総攻撃のあった八月の一週間、乃木大将は常に前線に出ていた。こなたの丘に立ったかと思えば、また彼方の山に移る。そして部下の師団、聯隊が、露軍の砲火を浴びて、さながら日光の下に消ゆる靄のように、相次いで消えてゆくのを視守った。しかもなお将軍は、毎日彼らに頑張らせて止(や)まなかった。この計画は将軍自らの計画ではない。将軍はただその責任を負うたのだ。 

 ウォシュバン氏は、旅順攻略に際して、日本軍が多大な犠牲を払った最大の責任は、参謀本部にあると見ていました。

 司令官として責任を自覚するもの、幾千の人命を死地に陥らすべき決定の、ゆゆしき大事なることを知悉するもの、何人といえども、その命令執行に伴う損害を悲しまないことはないが、しかし戦争は、勝利をもたらすための犠牲をば、やむをえないものとして、由来これを是認する覚悟を生み出すものである。ただかような命令を下すものとして、はらわたを断たずにいられないのは、問題の誤算に基づく不完全な計画によって、いたずらに部下の命を失うことであって、乃木大将のごとく、その司令官となった人は、ただ本国参謀本部の立案を実行する、いわば道具にすぎなかったからといって、とうてい自ら慰めていられるものではない。


旅順攻防戦の真実 乃木司令部は無能ではなかった (PHP文庫)
別宮 暖朗
PHP研究所


 別宮暖朗氏の『旅順攻防戦の真実』にも、井口省吾と松川敏胤、メッケル(モルトケの推薦で陸軍大学講師として日本が招いたドイツ帝国軍人)の弟子で、参謀本部の首脳だった彼らが、ロシアの要塞防備を過小評価し、乃木司令部に総攻撃をせかしたことが、取り上げられています。
 しかし、希典はいっさいの責任逃れをしようとはしませんで、多くの人命が失われていくことの責めを、引き受けていました。
 最後の最後まで、その希典をかばったのは、大山巌と明治天皇であったといいます。

 日露戦争におきまして、第三軍司令官の希典直属の参謀長は、伊地知幸介でした。
 「坂の上の雲」NHKスペシャルドラマ第3回に書いておりますが、『坂の上の雲』は、希典とともに、といいますか、希典以上に、伊地知幸介を無能者に仕立てていまして、司馬氏へ、ご子孫から抗議があったそうなんですね。
 あって当然の貶め方、と、私は思います。

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 伊地知幸介は薩摩人で、大山巌と同じく砲兵専門ですし、巌の姪婿でもありました。姪といいましても、早くに病没しました長兄の娘で、巌が引き取っていたのだった、と記憶しています。
 大山巌には、手放しと言っていいくらいの賞賛を贈っています司馬氏が、なぜ伊地知幸介を嫌っているのかは、よくはわからないのですが。

 これから、順を追って書いていくつもりなのですが、希典は、そもそも陸軍に入ったときから、長州閥ではなく薩摩閥の引きを受けて、でしたし、望んで薩摩出身の妻を迎え、生涯、薩摩閥との親和性が、非常に高かったように思えます。
 その理由として、私は、薩摩出身者の大多数が、西南戦争に参加した身内をかかえ、肉親を敵にせざるをえなかった痛みを、心中に抱いていたことがあるのではないか、と憶測しています。
 西南戦争にくらべまして、萩の乱は非常に小規模で、陸軍長州閥の中で、身内を敵にした者はほとんどおらず、希典はそういう意味において、孤独でした。

 大山巌は、よく知られておりますように、西郷隆盛の従兄弟で、実弟も、そして実姉の一家も、みな西郷軍の側にいました。明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2に書いていますが、巌は戦中、姉の国子に、「おまんさあ、どげなおつもりで戻ってきやしたか。大恩ある西郷先生に刃向かい、生まれ故郷を攻め立て、血をわけた兄弟に大筒をむけるとは、人間としてできんこつごわんそな。腹切りにもどってきやしたとごわんそな」と、つめよられ、言葉を無くした、といいます。

 そして、明治天皇。
 これもまた、順を追って書いていきたいのですが、明治天皇もまた、士族反乱におきまして、身内を敵にまわさざるをえませんでした大山巌や希典の痛みを、深く理解しておられたと、私は思っています。

 再びウォシュバンにもどりますが、彼は、こう記しています。

 旅順口が陥落して、乃木大将と、その老練な軍勢の解放されたのは、露軍の運命にはこの上ない不利な形勢となった。十年後の今日から見ると、乃木大将のこの成功が、日露戦役の峠の絶頂であったといってよい。

 降伏しました敵将ステッセルおよびロシア守備軍への、希典の礼を尽くした対応もあって、日露戦後、希典は、日本海海戦の東郷平八郎とともに、世界的な名士となります。
 前回書きましたが、明治44年(1911年)、ジョージ5世の戴冠式において、東郷平八郎とともに、東伏見宮殿下、妃殿下に随行しましたのは、イギリスからの要請があったからだと言います。



 前列右端、周子妃殿下(岩倉具視の孫)のお隣が希典で、左端が東郷平八郎です。

 東郷平八郎もまた、兄たちが西郷軍の側にいました。本人はイギリス留学中で、肉親相手に戦うはめには陥っておりませんが、二番目の兄は戦死し、母親の益子は、戦場に仮埋葬された息子の遺体を探し当てて素手で掘り返し、一人で埋葬し直し、丁寧に弔ったといいます。
 日露戦争の英雄は、陸海ともに、士族反乱で肉親を失った痛みをかかえていたんです。

 明治大帝大喪礼に参列されるために来日しておられましたコンノート殿下は、はからずも接伴役だった乃木希典の自刃に遭遇し、9月18日に執り行われました空前の国民葬に、参列されます。接伴役を希典から引き継いだのは、東郷平八郎でした。

 たまたま来日していましたアメリカ海軍士官候補生チェスター・ニミッツは、日本海海戦の祝勝会に招かれて東郷平八郎に感銘を受け、第二次世界大戦後には占領軍の将として日本の土を踏み、戦艦三笠の保存、東郷神社の再建に尽力を惜しみませんでした。
 一方、ダグラス・マッカーサーの父は、日露戦争時、観戦武官として旅順にいて、戦後に日本に招かれた際、息子を副官として伴っていました。ダグラスは、乃木希典に心酔し、占領軍の長として敗戦国日本に君臨しましたときにも、焼け残った乃木邸を守り(神社の方は空襲で焼失していました)、離日にあたっては、ハナミズキを植樹して、希典の思い出にささげています。

 乃木希典は、苦渋を乗り越えて、世界に通用する人格を、身につけていたんです。

 続きます。

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お久しぶりです (green)
2014-04-27 22:59:12
薩摩的こぼれ話 五代 夏著に 「乃木の軍旗と岩切正九郎」という逸話があります。
西南戦争において軍旗を取られた乃木と取った岩切の話です。「乃木の自殺には軍旗を取られたという事実が深く関与していたのでは。」という記述があるのです。
自殺の原因は心理的には多くの要因が複雑に作用して、肉体的には種々の体調の変化、もしかしたら、当事者の隠された健康問題などがあるのかもしれません。真実を知るのは難しい。当事者もわからないことかもしれません。
それにしても、司馬氏の小説は歴史上の人物に対して批判的な点が多々見受けられるようです。私などは、人事ながら、時折不愉快になったりします。それで氏の著作はあまり読んでいません。それで批判するのもおこがましいのですけれど。
氏はやや独断的な傾向もありそうで、御子孫が抗議されるのも納得できそうです。
けれど、NHKアーカイブスで司馬氏の談話をちらっと見て少し司馬氏に同情に似た感情を持ちました。ノモンハン事件で生き残った氏はその体験から、何か深く心を傷つけられたような気がしてなりません。
司馬氏は桐野のことも文盲としています。実は「桐野婦人の談話が見つからないか。」と古い鹿児島新聞を捜していましたら、桐野の筆跡は明治の鹿児島新聞に西郷と並んで提示してあり、文盲という記述は見受けられませんでした。司馬氏の桐野評にも多少は司馬氏自身の思い込みがあったのかもしれません。
それから、五代夏夫氏の同書の中の「原風景薩摩の農家」で引用された古河古松軒の「西遊雑記」では江戸に2度も参勤で行った人は都会風で士風にも見劣りがない。とありますから桐野家でも父の影響からそれなりの文化的な生活が営まれていたと考えられないでしょうか。
もうひとつ「薩摩の大塩平八郎」の中で幕府対して大塩平八郎を名乗った薩摩藩士がいたというのです。
実は「桐野は大塩平八郎の孫という人がいる。」という記述を読んだことがあります。大塩平八郎を名乗った薩摩藩士の孫なのか?と思うと少し面白くないですか。ちょっと変わった人柄は祖父の世代でも同じであって、受け継がれていたと。
海外の事情を含めて複雑な人間関係。郎女様の頭の中で歴史上の出来事はどのように整理されているのでしょう。私の場合は「難しすぎる。真実は日本史で習ったのとちょっと違う?」というところですけれど。
これからも楽しみにしています。
返信する
本当にお久しぶりです! (郎女)
2014-04-28 00:03:12
greenさま。
その軍旗の件は、希典が遺書に書き残しているんです。その軍旗というのが、因縁の軍旗でして、桐野が熊本の鎮西鎮台司令長官だったとき、その配下の小倉第十四聯隊長が前原一誠の弟の山田頴太郎だったことは書きましたが、その後に希典が入ったわけでして、ここの連隊旗なんです。賊として弟を死なせたことが、深い傷となっていたからこそ、希典は西南戦争で死に場所を求めていたのだと、私は思っていまして、連隊旗を自刃の要因として遺書に書き残しましたことは、大庭柯公が言っていますように、おくればせばながら、弟と玉木文之進の後を追ったととれるんです。

 私が司馬氏の書かれることに最初に疑問を持ったのも、桐野に関して、でした。多少ではなく、相当な思い込みで書かれているのですが、桐野に関しては、当初、好ましく思われる部分もあったようでして、一概に感じが悪い描写ばかりでもなく、私の受け止め方もアンビバレントです。

司馬氏は、ノモンハン事件を経験なさったわけではありません。太平洋戦争末期に学徒動員で陸軍の将校となられ、満州の戦車部隊におられたんですが、危なくなる前に本土に配置換えに成り、結局、現実に戦闘は体験されていません。ただ、ノモンハン事件を小説にしたいと、取材をなさったのですが、これは、司馬氏の取材当時、かなりの当事者が生存しておられ、もしも司馬氏が思うがままに筆をふるわれると「坂の上の雲」どころではない抗議がくるだろうということで、執筆を断念なさったと、これも故石浜氏にお聞きしました。

ノモンハン事件は、実はソ連の崩壊後、ソ連軍側の被害は甚大で、日本軍をうわまわった、というような史料が出てまいりまして、がらりと見方がかわってきております。小説になさらなくて、正解だったと思います。

桐野の家庭につきましては、私もgreenさんと同じで、お父さんが江戸詰だった、というところには、結構注目していました。後、母方の別府家のおじいさんは兵頭家(山伏)ですよね。これも、若い頃には、京都などへ修行に行くことが多いですし、他藩人とのつきあいも多く、外へ開けた文化的な背景は、あったと思います。

寄り道が多すぎの私ですが、末永くおつきあいくださいませ。
返信する
これからも楽しみにしています (green)
2014-04-28 22:50:34
司馬氏の語る事を聞きかじったために戦争体験者と勘違いしたようです。基本的なことも知らなくて。
司馬氏の著作がきっかけで御子孫が日記を出す決意をされたように思われます。ですから、司馬氏には感謝すべきでしょうか。
これからも色々なことを書いて下さい。
とても楽しみにしております。
返信する
錦の御旗 (アニエス)
2014-05-15 06:13:46
連隊旗
靖国神社では蛤ご門の慰霊祭を毎年しています。去年縁あって初めて靖国神社の中に入ってこちらに参加しましたが、歴史初学者としては何故長州は京都で朝敵のような立場だったのに、ここから始まるのか?と聞いたら、それはこのときすでに錦の御旗ができていたから。と答えた長州ファンの人がいました。それほど、正統性をもつものなのか。正統性の根拠をそこにおくところに、明治政府の苦しい言い訳があります。
錦の御旗を失って茫然自失した乃木が戦地をさまよい死に場所を探した。というのは有名です。しかし、小倉の大本営で使われた連隊旗だというので初めて合点がいきました。弟と決別するときに、乃木は「自分はこちらに忠誠を誓う」といい、弟とそこで水盃を交わすのですものね。ずっと複雑な思いできましたが、彼にとって、この分岐点がとても苦しいものだったことを感じて、随分評価が変わりました。それにしても司馬さんは、エンタテーメントビジネスとはいえ、国内の人物を描く時にはには沢山の縁者がいることを冷静に理解してほしかったな。
返信する
ようこそ (郎女)
2014-05-15 11:32:36
お越しくださいました。アニエスさま。

私、禁門の変のときに長州側に錦の御旗があったという話は、初めて聞きます。確か、木戸(桂小五郎)が、帝を連れ出す計画を立てていて失敗したことはあったと思いますが、このとき、長州が御所に攻め寄せたことで、長州を朝敵として戦いました薩摩の側からしましたら、まったくもって納得のいかない話かと(笑) その薩摩のプラグマティズムで維新はなったのですから、それは長州の勝手な言い分で、明治新政府の言い訳ではないと思います。新政府で長州のパートナーでした薩閥にしましたら、「靖国で祀りたいというなら、まあそういうことはどーでんよかで、好きにやればよかが」と、あきれて放置かと。

戊辰戦争におきます錦の御旗は、勅命あってのことですから、正統性がありますが、禁門の変の長州は、天皇を手中にしていませんから、例え勝手に錦の御旗を作ったところで、その旗にはなんの意味もありません。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/9bb6c0230b5013f2eff86e828bb39999

上の「革命は死に至るオプティミスムか」で書いておりますが、ある意味、幕末維新の騒動は「勅命」をめぐって起こっておりまして、それは結局、黒船来航で国防力が皆無だったことが露呈し、国防力を持つには中央集権化が必要、となり、そこで、その中心として、それまで権威であって権力ではなかった天皇の意志を発動させ、権力を集中するしかない、となったわけです。しかし、それまで権威でしかなかったわけですから、天皇の意志を発動する仕組みも整っておりませんし、無茶苦茶なことが起こりえた、ということだと、私は認識しております。

連隊旗の話ですが、日本の伝統に連隊旗を死守する、などということはないわけでして、下の前田正名と白山伯シリーズに出てきますが、エミール・ゾラの「壊滅」やアルフォンス・ドーデの「月曜物語」など、普仏戦争のフランス軍を描いた作品で、連隊旗の大切さ、それが象徴する国土を守る戦士としての誇りが描かれています。明治前半の日本陸軍は、フランス陸軍をそっくり見習っていまして、乃木希典も、最初にフランス操典で軍事教育を受けています。舶来思想として、連隊旗を大切にすべきだ、という知識は身につけていたと思われますが、まだ教わってから10年もたっていません。ただ単に連隊旗を敵に奪われたからといって、死に場所を求める理由になろうとは、ちょっと思われないんですね。

http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/0a1252bf1bce4caff58d8d1bb18865ba
エミール・ゾラ「壊滅」より

「俺はもうだめだ。くたばるしかない! 連隊旗を頼むぞ!」
 そして彼は一人取り残され、何時間も苔の上でのたうち回り、この森の甘美な片隅にあって、麻痺する手で草をかきむしりながら、胸からうめき声を上げるのだった。

 上が、西南戦争におきます乃木さんと、ほぼ同時代の普仏戦争の描写です。

 歴史の評価は、時代によって大きく変わりますが、戦後長らく日本の史学会で横行しておりました、民主主義的装いの唯物史観(マルクス史観)が、ソ連の崩壊から20年以上の時が経ち、ようやく消えていこうとしているのだと思います。司馬氏も時代の子ですから、その影響から免れていたわけではありませんで、しかし、脱帽するしかないすばらしい筆力の主ですから、私なども、今なおかなり、気持ちよく騙されていることも多いと思います。
 その登場人物が血縁であったりしますと、「フィクションだから」ではすまされない波紋もあるのだと、この年にして初めてわかりました。

 それにいたしましても、今回、司馬氏がまったく軍事知識がおありではなかったとわかって、以降、肝に銘じてご著書を読もうと思っています。
返信する

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