真説生麦事件 上の続きです。主な参考書は、今回もこれです。
まず確認しておきたいのは、久光の行列は、事件現場から300メートルほど先にある、料理茶屋藤屋よりは、先にいっていなかったんです。おそらくは、なんですが、宿泊先に先送りしてしまう荷物とか、その管理者とか、宿泊先で準備をする藩士とかは、もちろん先へ行っていたのでしょうけれども、それは、大名行列の一部、というような、整然としたものでは、なかったのです。ですから、外国人が突入して問題となるのは、前回に構成を述べました、藤屋へ向かっていた久光の本隊、のみなのです。
さて、その突入した外国人の側です。
神奈川県史資料編15のマーシャルとクラークの口述書を、fhさまがコピーして送ってくださいまして、これから(1月25日)、そちらも参考に、一部書き換えます。
クラークは横浜でアメリカ人経営の商社に務めるイギリス人で、事件後、肩に後遺症が残ったそうですが、横浜に住み続け、横浜で死去しました。事件からだいぶんたって後に、「やめた方がいい」と忠告を受けていたにもかかわらず、遠乗りに出かけたのだと、告白したそうです。
残りの3人もイギリス人です。マーシャルは横浜在住の生糸商人、ボロデール夫人はその親戚であり、香港から遊びに来ていました。リチャードソンは上海の商人で、イギリスへ帰国する前に、横浜へ観光に来ていたものです。
藤屋の周辺は、先に到着していた先共の人々の駕籠が並び、その従者たちもたむろし、相当に混雑していたはずです。
馬上の4人は、そんなことは気にもかけず、まっすぐ前方をめざしていました。
弁之助の話によれば、行列の前駆に突入したとき、4人は馬の頭を並べるようにして駆けていたのだそうです。徒歩の前駆の人々は、仕方なく左右に分かれ、言葉が通じないため、身振り手振りで停止するよう求めましたが、4人はまったく気にもかけない様子で、藩士たちは怒りもあらわに拳をにぎっていましたが、禁制が出ていて、刀をぬくことはできなかったんだそうです。
4人はそのまま、「人なき巷を行くがごとく」鉄砲隊に突入していきました。
鉄砲隊といっても、駕籠前のきらびやかな伊逹道具の代わりの、いわば儀仗兵です。弁之助は描写していないのですが、威風堂々たるべき鉄砲隊が左右に分かれたとは思えないので、クラーク供述の「百名ほどの二列の先導隊」とは、どうも、この鉄砲儀仗隊のことのようです。弁之助の話では、「人なき巷を行くがごとく」ですが、クラークの主観では、「道路の左はじを通行」です。
弁之助の話にもどります。
4人の前に、駕籠直前を固めた最後の侍衆の集団(数十名)が立ちふさがりました。藩士たちは口々に、「無礼者!」と叫びましたが、さっぱり応じるふうもなく、4人は集団に突入して、先頭のリチャードソンは、久光の駕籠を蹄にかける勢いです。
4人が駕籠前の集団に突入したとき、それまで無礼のはなはだしきに耐えていた久光が、「ソレッ」と命令を出しました。………って、これはどうなんでしょう。
当日の当番御供目付は奈良原兄だったとされていて、駕籠脇にいた供目付の命令だったとも、考えられます。
ともかく、命令一下、駕籠前の藩士たちは、いっせいに抜刀しました。その中から、壮年の小柄な一人(20歳ばかり)が前へ出て、かけ声をあげて、駆けてくるリチャードソンに斬りつけましたが、藩士がひしめく雑踏の中、自由に身動きできず、浅手を負わせただけだったんですが、今度は飛び上がり、二の太刀鋭く、脇腹から腰へかけて斬りさげました。
これは相当な深手で、落馬して当然のところを、リチャードソンは耐えて馬首をめぐらし、一目散に逃げ去ります。
リチャードソンのそばにはマーシャルがいて、いち早く向きをかえ、逃げようとしますが、藩士の一人が後ろから斬りつけ、腰に浅手をおわせます。
駕籠直前の侍集団が傷を負わせたのはこれだけです。
浅手を負ったマーシャルは100メートルばかり、鉄砲隊を蹴散らして逃げましたが、前駆の一人が、太刀をぬき放って待っていました。マーシャルは、洋酒の入った小瓶を逆さまに持って、拳銃を発砲するように装いましたが、これはその藩士を怒らせただけで、飛び上がってマーシャルに斬りかかり、肩先4、5寸を斬り下げました。かなりの深手でしたが、これも落馬することなく、一目散に逃げます。
洋酒の小瓶!!!です。私、この人たち、遠乗りしながら酒を飲んでよっぱらっていたのではないか、と、ふと思います。今でいうならば、通行規制を犯した上のよっぱらい運転、ですね。
クラークとボロデール夫人は、リチャードソンとマーシャルが駕籠前の侍集団に斬られるのを見て、先に引き返しはじめました。前駆の人々が待ちかまえていて斬りかかりますが、クラークは馬を傷つけられただけで無傷。ボロデール夫人は帽子の金具を斬られ、馬の尻をやられただけで、無傷でした。
以上が弁之助の話なのですが、マーシャルとクラークの話とそれほど、くいちがうわけではありません。
二人の話を総合しますと、先を行っていたのは、リチャードソンとボロデール夫人です。その後に、マーシャルとクラークが続いていました。
4人は、鉄砲儀仗隊をぬけ、駕籠直前の侍集団に突入します。先頭を行くリチャードソンの前に誰かが立ちふさがり、集団の真ん中から一人、長身の侍が飛び出してきてリチャードソンに斬りかかりました。
マーシャルは逃げろ、と叫びましたが、馬が駆け出す前にリチャードソンは左脇腹を斬られ、マーシャルも同じ男に、同じく左腕下の脇腹をやられました。
クラークはいち早く馬首をめぐらし逃げ出しましたが、先導隊(鉄砲儀仗隊)の一部、30名ほどが抜刀して斬りかかってきて、肩を斬られ、馬も斬られました。
一方のマーシャルの記憶では、逃げる自分たちに前方からむかってきたのは、約6名なんですが、斬りつけてくる男たちを乗り越え、踏みにじって、無事逃れた、ということになります。
このマーシャルの口述というのは、宣誓口述であるにもかかわらず、相当にいいかげんで、わけのわからないものでして、クラークのものの方が、まだ的確です。しかし、クラークはマーシャルがだれに斬られたかまで見ていませんで、マーシャルが、「自分はリチャードソンを斬ったのと同じ人物に斬られた」といっていることは、パニックに陥っての勘違い、とも考えられます。ただ、リチャードソンの近くで斬られた、ということは、確かでしょう。弁之助の話とも一致しますので。
マーシャルとクラークの口述と、弁之助の話を総合しますと、4人が侍集団に突入したのち、抜刀命令が出て、リチャードソンが深手、マーシャルが浅手を負ったわけです。おそらく、ボロデール夫人は、ここでは女だったので見逃され、クラークは、マーシャルより後ろにいたのでしょう。
クラークの口述では、「自分はマーシャルとともに、先を行くリチャードソンとボロデール夫人より10ヤード後ろにいた」となっているんですが、起こったことから考えますと、侍集団突入の後は、クラークにはためらいがあって、一人後ろにいたとしか、推測できないのです。
ただ、この後、弁之助がいうところの前駆に肩を斬られたのは、マーシャルではなく、クラークでした。
こうして見てきますと、薩藩海軍史が、リチャードソンに深手を負わせた凄腕の剣士を、奈良原兄だとしていることは、わかります。じゃあ、なぜ、弁之助の話には、「久木村治休の抜き打ち」がないんでしょうか。
私は、久木村治休が斬ったのは、クラークだったのではないか、と思います。
弁之助の話の中で、深手を負わせた描写はほかにないですし、「肩をやられた」というところで一致します。
久木村のあてにならない回顧談では、「お咎めを覚悟していたら、主君からお褒めにあずかり金子をもらった」ということでして、少なくとも、彼がめざましい働きをしたことは確かなようです。
そして、弁之助が前駆の集団に斬られた、としているのは弁之助いわくのマーシャル、実のところはクラーク、だけなのです。
だいたい、薩藩海軍史本文が描写する「久木村がリチャードソンにあびせた二太刀目」は、非常に不自然なものです。
なにしろ、リチャードソンは奈良原兄によって腹部に重傷を負わされ、左手でその傷口を押さえながら、右手で手綱をとって100メートルばかり(弁之助がマーシャルが逃げた、といっているのと同じ距離です)逃げましたが、そこで久木村によって、その傷口を、左手ごと斬られた、というのですから。
普通、腹部の傷口を手で押さえたら前屈みになります。リチャードソンが静止しているならともかく、馬で走って逃げているんです。それを飛び上がって斬って、前屈みになって隠れているはずの傷口を、えぐれるものでしょうか?
それにだいたい、昭和3年に発刊された薩藩海軍史は、どこから、こんな詳しい描写をひっぱってきたのでしょう。神奈川奉行所の役人の覚書にも、弁之助の語りにも、ないというのに、です。
薩藩海軍史は、久木村が斬った相手を、クラークではなく、リチャードソンとする必要があった!のです。なぜか?
薩藩海軍史の著者は、リチャードソンの遺体の惨状を、知っていたのです。「英人の検屍に心臓部に槍創一個とあるはこれなり」と、海江田が介錯したことを述べた後で書いているんですから。
追記(1月31日)
長岡さまから、明治45年7月2日付の新聞インタビューで、久木村がすでに「自分がリチャードソンを斬った」と述べているとのご指摘をいただきました。ただいま、久木村のいいかげんな自叙伝と思われるものを書店に注文中でして、それが届き、また長岡さまにお願いできるならば新聞記事もあわせて読ませていただきまして、あらためて、薩藩海軍史ができあがるまでに、すでにストーリーが出来上がっていた可能性につきまして、書きたいと存じます。
リチャードソンは5カ所に傷を受けていた。腹部は切り裂かれ、右手は切り落とされ、左手に傷あとがあり、心臓部に槍で突かれたあとがあり、首はふかくえぐられていた。
上は、アーネスト・サトウの日記からです。次は検死したウィリスアム・ウィリスの宣誓口述書。
死体を調べましたところ、数か所にきわめて長い傷があり、そのいずれもが、致命的な性質のものであることがわかりました。故人の死亡は、これらの傷によるものであります。ー中略ー 故人を死にせしめた傷は、鋭利な武器によるもののようであります。ただし腹部の二か所の傷は、やりのような武器によって生じたものでありましょう。
奈良原兄が深手を負わせ、海江田が一人で介錯をしただけでは、こうはならないでしょう。
なぜ、これほどの惨状だったのか。
それも、弁之助が語ってくれます。
リチャードソンたち4人は、夢中で逃げていました。
藤屋の前に並んだ駕籠や従者たちの雑踏も、行きは、うまくよけていたのでしょうけれども、逃げている身に、そんな余裕はありません。馬上で血を流しながら、次々と駕籠はひっくりかえすは、従者を蹄にかけて怪我をさせるはの大騒動でしたが、怒り心頭に発したのは、駕籠の中で久光の到着を待っていた先供の人々です。
この中に、海江田も奈良原弟もいたのではないか、という推測は、主に、後年の史談会速記録における、市来四郎の証言によるものです。他にも、傍証はあるのですが。
弁之助はもちろん、このとき駕籠の中にだれがいたか、ということは知りません。
ともかく、です。弁之助によれば、ひっくり返された駕籠からはい出した藩士たちは、満面に朱をさして怒り狂いました。おのれ! と4人を追いかけ、落馬したリチャードソンを発見します。
リチャードソンは、すでに息も絶え絶えで、伐木をしていた里人を手招きし、なにかを求める様子でしたが、言葉は通じませんし、怖れた里人は、近づこうとしません。
そこへ、数人の薩摩藩士(おそらくは海江田、奈良原弟を含む)がやって来たのです。
もの乞いたげなリチャードソンに、藩士の一人が、「さだめし末期の水を乞うならん。水よりこれがよろしからん」と目の前に刃をつきだし、次いで、全員でリチャードソンの手取足取り、畑の中へ運び込んで、切り刻んだのです。
ものかげから、これを見ていた里人たちは、身の毛がよだち、体がふるえて、ものを言うこともできなかった、といいます。
奈良原兄の一太刀目は、主君を警護する供目付として当然のものであったでしょう。結果的には、リチャードソンたちは武器をもっていなかったようですが、拳銃を撃つ可能性はあったわけですし、しかも相手は馬上。戦闘状態と考えれば、久木村もまた、りっぱに戦った、といえます。
しかし、重傷を負って落馬し、戦闘能力を失ったリチャードソンを、よってたかってめった斬りにする、という行為は、いわば捕虜の虐待であり、武士道にも反するのではないでしょうか。
しかも海江田たちは非番で、主君警護の職務としてやった、というよりは、自分の駕籠がひっくり返された私憤で、市来四郎にいわせれば「楽み半分に切試した」のです。
薩藩海軍史本文の著者は、あきらかに、弁之助の話を読んでいた、と思います。史談会速記録も読んでいた、でしょう。当然、当時の英字新聞などにも目を通したでしょう。
遺体の右手が無かったことが、左手とあやまって書かれていた可能性もあります。新聞って、そんなものですから。
そして、ウィリスの口述書によれば、リチャードソンは、脇腹を二度斬られていたのです。
こんな不名誉な残虐行為を、そのまま載せるわけにもいかず、久木村が、クラークではなくリチャードソンに二太刀目をあびせたことにし、海江田が一人で、りっぱに介錯したことにしたのだと、いま、私は思っています。
海江田たちの駕籠が並んでいた藤屋は、事件現場から300メートルほど先です。リチャードソンが落馬したのは、事件現場から1キロ先。ということは、怒り心頭に発した彼らは、藤屋から700メートル先まで、追いかけたのです。
先にお断りしましたように、久光は藤屋で休憩する予定で、それより先には、しばらく、進む必要はありませんでした。
行列を外国人に傍若無人に犯されたことが、島津家の権威を傷つけるわけですから、暴漢が行列の外へ逃げてしまえば、それ以上追いかける必要は、まったくないわけです。
そのままを正直に話したとすれば、だれも誉めはしなかったでしょう。
宿場町でも京でも、久光は英雄あつかい。海江田と奈良原弟は、自分たちが勇ましく切り倒したのだと、詳しい事情がわからない那須信吾たちに、自慢をしたのではなかったでしょうか。
そして……、たしかに落馬した場所の200メートルほど手前、桐屋という茶屋の前で、リチャードソンの脇腹から臓腑のようなものが出ていたとか、臓腑のようなものが落ちて犬がくわえていった、というような目撃談もあるわけなのですが、それが、ほんとうに臓腑であったとはかぎらないでしょう。手袋とかハンカチとかで傷口を押さえていたのが血に染まって落ちて、犬がくわえていったのかもしれません。
最初の一太刀目が深手であったのは事実でしょうけれども、あるいは………、ということも考えられます。
弁之助の話といい、クラークとマーシャルの口述といい、馬上の人物を斬るのは、相当にむつかしいことのようです。だとすれば、ウィリスがいうような数か所もの致命傷を、馬で逃げている間に負うわけはないでしょうし、最初の一太刀が致命傷だった、という証拠もないのです。
リチャードソンを殺したのは一太刀目ではなく、落馬後の不必要な残虐行為であり、そういう意味では海江田たちの自慢は真実であった、かもしれません。
ありがとうございました、冤罪事件追及者さま。
おっしゃるように、生麦事件には、隠さなければいけないことが、あったんですね。
そして、「一太刀目」は奈良原兄であっても、「犯人」は弟であった可能性も。
wikiだからと、そこまでしなかったのですが、クラークとマーシャルの宣誓口述書を読みましたら、弁之助の語りの正確さが裏付けられました。
死体を検死したウィリスの怒りが、いまはわかります。
ウィリスは、「リチャードソンは落馬した後になぶり殺され、それも久光の命令だった」と思ったんでしょう。
後に戊辰戦争で、敵味方の区別なく治療しながら、ウィリスは「双方が捕虜を殺しているが、わけても会津は捕虜のあつかいが残虐だ」というようなことを訴えています。
そのウィリスが、薩摩の人となろうとしていたことは、歴史の不思議といいますか………、感慨深いですね。
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まず確認しておきたいのは、久光の行列は、事件現場から300メートルほど先にある、料理茶屋藤屋よりは、先にいっていなかったんです。おそらくは、なんですが、宿泊先に先送りしてしまう荷物とか、その管理者とか、宿泊先で準備をする藩士とかは、もちろん先へ行っていたのでしょうけれども、それは、大名行列の一部、というような、整然としたものでは、なかったのです。ですから、外国人が突入して問題となるのは、前回に構成を述べました、藤屋へ向かっていた久光の本隊、のみなのです。
さて、その突入した外国人の側です。
神奈川県史資料編15のマーシャルとクラークの口述書を、fhさまがコピーして送ってくださいまして、これから(1月25日)、そちらも参考に、一部書き換えます。
クラークは横浜でアメリカ人経営の商社に務めるイギリス人で、事件後、肩に後遺症が残ったそうですが、横浜に住み続け、横浜で死去しました。事件からだいぶんたって後に、「やめた方がいい」と忠告を受けていたにもかかわらず、遠乗りに出かけたのだと、告白したそうです。
残りの3人もイギリス人です。マーシャルは横浜在住の生糸商人、ボロデール夫人はその親戚であり、香港から遊びに来ていました。リチャードソンは上海の商人で、イギリスへ帰国する前に、横浜へ観光に来ていたものです。
藤屋の周辺は、先に到着していた先共の人々の駕籠が並び、その従者たちもたむろし、相当に混雑していたはずです。
馬上の4人は、そんなことは気にもかけず、まっすぐ前方をめざしていました。
弁之助の話によれば、行列の前駆に突入したとき、4人は馬の頭を並べるようにして駆けていたのだそうです。徒歩の前駆の人々は、仕方なく左右に分かれ、言葉が通じないため、身振り手振りで停止するよう求めましたが、4人はまったく気にもかけない様子で、藩士たちは怒りもあらわに拳をにぎっていましたが、禁制が出ていて、刀をぬくことはできなかったんだそうです。
4人はそのまま、「人なき巷を行くがごとく」鉄砲隊に突入していきました。
鉄砲隊といっても、駕籠前のきらびやかな伊逹道具の代わりの、いわば儀仗兵です。弁之助は描写していないのですが、威風堂々たるべき鉄砲隊が左右に分かれたとは思えないので、クラーク供述の「百名ほどの二列の先導隊」とは、どうも、この鉄砲儀仗隊のことのようです。弁之助の話では、「人なき巷を行くがごとく」ですが、クラークの主観では、「道路の左はじを通行」です。
弁之助の話にもどります。
4人の前に、駕籠直前を固めた最後の侍衆の集団(数十名)が立ちふさがりました。藩士たちは口々に、「無礼者!」と叫びましたが、さっぱり応じるふうもなく、4人は集団に突入して、先頭のリチャードソンは、久光の駕籠を蹄にかける勢いです。
4人が駕籠前の集団に突入したとき、それまで無礼のはなはだしきに耐えていた久光が、「ソレッ」と命令を出しました。………って、これはどうなんでしょう。
当日の当番御供目付は奈良原兄だったとされていて、駕籠脇にいた供目付の命令だったとも、考えられます。
ともかく、命令一下、駕籠前の藩士たちは、いっせいに抜刀しました。その中から、壮年の小柄な一人(20歳ばかり)が前へ出て、かけ声をあげて、駆けてくるリチャードソンに斬りつけましたが、藩士がひしめく雑踏の中、自由に身動きできず、浅手を負わせただけだったんですが、今度は飛び上がり、二の太刀鋭く、脇腹から腰へかけて斬りさげました。
これは相当な深手で、落馬して当然のところを、リチャードソンは耐えて馬首をめぐらし、一目散に逃げ去ります。
リチャードソンのそばにはマーシャルがいて、いち早く向きをかえ、逃げようとしますが、藩士の一人が後ろから斬りつけ、腰に浅手をおわせます。
駕籠直前の侍集団が傷を負わせたのはこれだけです。
浅手を負ったマーシャルは100メートルばかり、鉄砲隊を蹴散らして逃げましたが、前駆の一人が、太刀をぬき放って待っていました。マーシャルは、洋酒の入った小瓶を逆さまに持って、拳銃を発砲するように装いましたが、これはその藩士を怒らせただけで、飛び上がってマーシャルに斬りかかり、肩先4、5寸を斬り下げました。かなりの深手でしたが、これも落馬することなく、一目散に逃げます。
洋酒の小瓶!!!です。私、この人たち、遠乗りしながら酒を飲んでよっぱらっていたのではないか、と、ふと思います。今でいうならば、通行規制を犯した上のよっぱらい運転、ですね。
クラークとボロデール夫人は、リチャードソンとマーシャルが駕籠前の侍集団に斬られるのを見て、先に引き返しはじめました。前駆の人々が待ちかまえていて斬りかかりますが、クラークは馬を傷つけられただけで無傷。ボロデール夫人は帽子の金具を斬られ、馬の尻をやられただけで、無傷でした。
以上が弁之助の話なのですが、マーシャルとクラークの話とそれほど、くいちがうわけではありません。
二人の話を総合しますと、先を行っていたのは、リチャードソンとボロデール夫人です。その後に、マーシャルとクラークが続いていました。
4人は、鉄砲儀仗隊をぬけ、駕籠直前の侍集団に突入します。先頭を行くリチャードソンの前に誰かが立ちふさがり、集団の真ん中から一人、長身の侍が飛び出してきてリチャードソンに斬りかかりました。
マーシャルは逃げろ、と叫びましたが、馬が駆け出す前にリチャードソンは左脇腹を斬られ、マーシャルも同じ男に、同じく左腕下の脇腹をやられました。
クラークはいち早く馬首をめぐらし逃げ出しましたが、先導隊(鉄砲儀仗隊)の一部、30名ほどが抜刀して斬りかかってきて、肩を斬られ、馬も斬られました。
一方のマーシャルの記憶では、逃げる自分たちに前方からむかってきたのは、約6名なんですが、斬りつけてくる男たちを乗り越え、踏みにじって、無事逃れた、ということになります。
このマーシャルの口述というのは、宣誓口述であるにもかかわらず、相当にいいかげんで、わけのわからないものでして、クラークのものの方が、まだ的確です。しかし、クラークはマーシャルがだれに斬られたかまで見ていませんで、マーシャルが、「自分はリチャードソンを斬ったのと同じ人物に斬られた」といっていることは、パニックに陥っての勘違い、とも考えられます。ただ、リチャードソンの近くで斬られた、ということは、確かでしょう。弁之助の話とも一致しますので。
マーシャルとクラークの口述と、弁之助の話を総合しますと、4人が侍集団に突入したのち、抜刀命令が出て、リチャードソンが深手、マーシャルが浅手を負ったわけです。おそらく、ボロデール夫人は、ここでは女だったので見逃され、クラークは、マーシャルより後ろにいたのでしょう。
クラークの口述では、「自分はマーシャルとともに、先を行くリチャードソンとボロデール夫人より10ヤード後ろにいた」となっているんですが、起こったことから考えますと、侍集団突入の後は、クラークにはためらいがあって、一人後ろにいたとしか、推測できないのです。
ただ、この後、弁之助がいうところの前駆に肩を斬られたのは、マーシャルではなく、クラークでした。
こうして見てきますと、薩藩海軍史が、リチャードソンに深手を負わせた凄腕の剣士を、奈良原兄だとしていることは、わかります。じゃあ、なぜ、弁之助の話には、「久木村治休の抜き打ち」がないんでしょうか。
私は、久木村治休が斬ったのは、クラークだったのではないか、と思います。
弁之助の話の中で、深手を負わせた描写はほかにないですし、「肩をやられた」というところで一致します。
久木村のあてにならない回顧談では、「お咎めを覚悟していたら、主君からお褒めにあずかり金子をもらった」ということでして、少なくとも、彼がめざましい働きをしたことは確かなようです。
そして、弁之助が前駆の集団に斬られた、としているのは弁之助いわくのマーシャル、実のところはクラーク、だけなのです。
だいたい、薩藩海軍史本文が描写する「久木村がリチャードソンにあびせた二太刀目」は、非常に不自然なものです。
なにしろ、リチャードソンは奈良原兄によって腹部に重傷を負わされ、左手でその傷口を押さえながら、右手で手綱をとって100メートルばかり(弁之助がマーシャルが逃げた、といっているのと同じ距離です)逃げましたが、そこで久木村によって、その傷口を、左手ごと斬られた、というのですから。
普通、腹部の傷口を手で押さえたら前屈みになります。リチャードソンが静止しているならともかく、馬で走って逃げているんです。それを飛び上がって斬って、前屈みになって隠れているはずの傷口を、えぐれるものでしょうか?
それにだいたい、昭和3年に発刊された薩藩海軍史は、どこから、こんな詳しい描写をひっぱってきたのでしょう。神奈川奉行所の役人の覚書にも、弁之助の語りにも、ないというのに、です。
薩藩海軍史は、久木村が斬った相手を、クラークではなく、リチャードソンとする必要があった!のです。なぜか?
薩藩海軍史の著者は、リチャードソンの遺体の惨状を、知っていたのです。「英人の検屍に心臓部に槍創一個とあるはこれなり」と、海江田が介錯したことを述べた後で書いているんですから。
追記(1月31日)
長岡さまから、明治45年7月2日付の新聞インタビューで、久木村がすでに「自分がリチャードソンを斬った」と述べているとのご指摘をいただきました。ただいま、久木村のいいかげんな自叙伝と思われるものを書店に注文中でして、それが届き、また長岡さまにお願いできるならば新聞記事もあわせて読ませていただきまして、あらためて、薩藩海軍史ができあがるまでに、すでにストーリーが出来上がっていた可能性につきまして、書きたいと存じます。
リチャードソンは5カ所に傷を受けていた。腹部は切り裂かれ、右手は切り落とされ、左手に傷あとがあり、心臓部に槍で突かれたあとがあり、首はふかくえぐられていた。
上は、アーネスト・サトウの日記からです。次は検死したウィリスアム・ウィリスの宣誓口述書。
死体を調べましたところ、数か所にきわめて長い傷があり、そのいずれもが、致命的な性質のものであることがわかりました。故人の死亡は、これらの傷によるものであります。ー中略ー 故人を死にせしめた傷は、鋭利な武器によるもののようであります。ただし腹部の二か所の傷は、やりのような武器によって生じたものでありましょう。
奈良原兄が深手を負わせ、海江田が一人で介錯をしただけでは、こうはならないでしょう。
なぜ、これほどの惨状だったのか。
それも、弁之助が語ってくれます。
リチャードソンたち4人は、夢中で逃げていました。
藤屋の前に並んだ駕籠や従者たちの雑踏も、行きは、うまくよけていたのでしょうけれども、逃げている身に、そんな余裕はありません。馬上で血を流しながら、次々と駕籠はひっくりかえすは、従者を蹄にかけて怪我をさせるはの大騒動でしたが、怒り心頭に発したのは、駕籠の中で久光の到着を待っていた先供の人々です。
この中に、海江田も奈良原弟もいたのではないか、という推測は、主に、後年の史談会速記録における、市来四郎の証言によるものです。他にも、傍証はあるのですが。
弁之助はもちろん、このとき駕籠の中にだれがいたか、ということは知りません。
ともかく、です。弁之助によれば、ひっくり返された駕籠からはい出した藩士たちは、満面に朱をさして怒り狂いました。おのれ! と4人を追いかけ、落馬したリチャードソンを発見します。
リチャードソンは、すでに息も絶え絶えで、伐木をしていた里人を手招きし、なにかを求める様子でしたが、言葉は通じませんし、怖れた里人は、近づこうとしません。
そこへ、数人の薩摩藩士(おそらくは海江田、奈良原弟を含む)がやって来たのです。
もの乞いたげなリチャードソンに、藩士の一人が、「さだめし末期の水を乞うならん。水よりこれがよろしからん」と目の前に刃をつきだし、次いで、全員でリチャードソンの手取足取り、畑の中へ運び込んで、切り刻んだのです。
ものかげから、これを見ていた里人たちは、身の毛がよだち、体がふるえて、ものを言うこともできなかった、といいます。
奈良原兄の一太刀目は、主君を警護する供目付として当然のものであったでしょう。結果的には、リチャードソンたちは武器をもっていなかったようですが、拳銃を撃つ可能性はあったわけですし、しかも相手は馬上。戦闘状態と考えれば、久木村もまた、りっぱに戦った、といえます。
しかし、重傷を負って落馬し、戦闘能力を失ったリチャードソンを、よってたかってめった斬りにする、という行為は、いわば捕虜の虐待であり、武士道にも反するのではないでしょうか。
しかも海江田たちは非番で、主君警護の職務としてやった、というよりは、自分の駕籠がひっくり返された私憤で、市来四郎にいわせれば「楽み半分に切試した」のです。
薩藩海軍史本文の著者は、あきらかに、弁之助の話を読んでいた、と思います。史談会速記録も読んでいた、でしょう。当然、当時の英字新聞などにも目を通したでしょう。
遺体の右手が無かったことが、左手とあやまって書かれていた可能性もあります。新聞って、そんなものですから。
そして、ウィリスの口述書によれば、リチャードソンは、脇腹を二度斬られていたのです。
こんな不名誉な残虐行為を、そのまま載せるわけにもいかず、久木村が、クラークではなくリチャードソンに二太刀目をあびせたことにし、海江田が一人で、りっぱに介錯したことにしたのだと、いま、私は思っています。
海江田たちの駕籠が並んでいた藤屋は、事件現場から300メートルほど先です。リチャードソンが落馬したのは、事件現場から1キロ先。ということは、怒り心頭に発した彼らは、藤屋から700メートル先まで、追いかけたのです。
先にお断りしましたように、久光は藤屋で休憩する予定で、それより先には、しばらく、進む必要はありませんでした。
行列を外国人に傍若無人に犯されたことが、島津家の権威を傷つけるわけですから、暴漢が行列の外へ逃げてしまえば、それ以上追いかける必要は、まったくないわけです。
そのままを正直に話したとすれば、だれも誉めはしなかったでしょう。
宿場町でも京でも、久光は英雄あつかい。海江田と奈良原弟は、自分たちが勇ましく切り倒したのだと、詳しい事情がわからない那須信吾たちに、自慢をしたのではなかったでしょうか。
そして……、たしかに落馬した場所の200メートルほど手前、桐屋という茶屋の前で、リチャードソンの脇腹から臓腑のようなものが出ていたとか、臓腑のようなものが落ちて犬がくわえていった、というような目撃談もあるわけなのですが、それが、ほんとうに臓腑であったとはかぎらないでしょう。手袋とかハンカチとかで傷口を押さえていたのが血に染まって落ちて、犬がくわえていったのかもしれません。
最初の一太刀目が深手であったのは事実でしょうけれども、あるいは………、ということも考えられます。
弁之助の話といい、クラークとマーシャルの口述といい、馬上の人物を斬るのは、相当にむつかしいことのようです。だとすれば、ウィリスがいうような数か所もの致命傷を、馬で逃げている間に負うわけはないでしょうし、最初の一太刀が致命傷だった、という証拠もないのです。
リチャードソンを殺したのは一太刀目ではなく、落馬後の不必要な残虐行為であり、そういう意味では海江田たちの自慢は真実であった、かもしれません。
ありがとうございました、冤罪事件追及者さま。
おっしゃるように、生麦事件には、隠さなければいけないことが、あったんですね。
そして、「一太刀目」は奈良原兄であっても、「犯人」は弟であった可能性も。
wikiだからと、そこまでしなかったのですが、クラークとマーシャルの宣誓口述書を読みましたら、弁之助の語りの正確さが裏付けられました。
死体を検死したウィリスの怒りが、いまはわかります。
ウィリスは、「リチャードソンは落馬した後になぶり殺され、それも久光の命令だった」と思ったんでしょう。
後に戊辰戦争で、敵味方の区別なく治療しながら、ウィリスは「双方が捕虜を殺しているが、わけても会津は捕虜のあつかいが残虐だ」というようなことを訴えています。
そのウィリスが、薩摩の人となろうとしていたことは、歴史の不思議といいますか………、感慨深いですね。
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ところが、郎女さんがクラークやマーシャルの陳述と照らし合わせ再現すると、全く活きてくるのには驚きです。最初にこれらを読まずに宮澤氏のみを頼って記述したのは失敗だったなあ(笑)、と思っております。
<20歳ばかり>のと断り書きがなければ、「薩摩のこじっくいー短駆」である繁に間違いないなどと我田引水風に読んでしまいました。
いや言いたいのはこんなことではなく、久木村のことでした。私は拙著でも<注>でしか、かれについて言及しませんでした。理由は話の展開上かれを書き込むとゴタゴタするし、「(リチャードソンを斬りつけたら)心の臓らしいものが落ちてきて、それでも逃げて行く奴を追って云々」と語っているところがあったからです。いくら明治の新聞とはいえ、あまりにもひどすぎて本文で言及する気にもなれなかったのです。ですから、久木村のことなど考えもしなかったのですが、リチャードソンではなくクラークを斬ったということは大いにありうると思います。ただ、『薩藩海軍史』(昭和3年刊)の著者が、郎女さんの言うように「久木村が、クラークではなくリチャードソンに二太刀目をあびせたことにし」というのは矛盾です。なぜなら、久木村は明治45年7月2日付の新聞インタビューで答えているのですから。
もう一つ気になったのは、(どこかのコメントでも書きましたが)先供の位置の解釈です。まあ、こっちもかってに思い込んでいるのかも知れませんが、どうも郎女さんとイメージしている場所とはちがっているようです。この辺も自分なりに検討し直さなければならないと考えております。
どちらにしても、私もあの行列のイメージがずい分すっきりしてきました。たとえ、私の想像とかなり違っていたとしても、郎女さんは繁が関わったことを言及してくれた最初の人であることは間違いありません。ありがとうございました。
久木村の新聞インタビュー、ぜひ! 読みたいです。
私、これを書いているうちに、その凄腕に惚れてしまいまして(笑)すごい勢いで、逃げている人物にヒットさせたのは、久木村だけですわ。
とんでもなくおおざっぱで、いいかげんに武勇を語るところが、薩摩隼人ですわねえ。
もうお手紙を書いてしまって、あれなんですが、あー、追伸で入れますわ。できるものなら、いただきたいです。コピー。
久木村との出合いは、今回の私の最高の収穫です(笑)
19歳で、この凄腕。かわいいですわ♪
駕籠の中にいた人たちを「先共」としていたのは弁之助で、私が勝手に位置を想像したわけじゃありませんです。
かわいい桃太郎ですわ♪
書かせてもらったんですけど、明治45年に久木村がインタビューに答えているということは、弁之助の話が「横浜貿易新報」に載って、波紋がひろがったから、なんじゃないんですの? で、久木村が人を煙にまくような変な武勇談で、薩摩の恥隠しを買ってでた、と。
まあー、いい男ですわ。もう私、惚れ込みますと、あばたもえくぼです。
弁之助の語りでは「朱に染みし綿のごときもの鮮血とともに迸り出て地上に落ちしを」犬がくわえていった、というのが、はっきりどこらあたりと書いていなくて、藤屋より手前としか思えないもので、私、最初はそう書いていたのですが、後で薩藩海軍史収録の奉行所役人覚書で確かめると、「臓腑の様成もの出、桐屋と申料理屋の前にて落、夫より貳町程逃退、落馬いたし候處を」と書いてあったので、あわてて、直した、ですわ。
久木村は、この覚書を読まないで、弁之助の話のみ読んで、話した、としか思えないんですけど、いかがですか?
ところで、残念ですが、久木村の新聞記事見当たりません。引越しでいくつか紛失したものがあるのですが、これもその一つかもしれません。申し訳ありません。ただご存知のように、鹿児島県立図書館に問い合わせれば、コピーは送ってもらえるはずです。薩英戦争50年の記念祭か慰霊祭のときのもので、7月2日を含む前後2、3日の関連記事があったかもしれません。これも、司書の方に問い合わせれば、合わせて送ってくれるはずです。もしそれが無理なら、しばらく時間がかかりそうですが、知人に頼んでみます。
最後の、久木村が弁之助さんの記事を読んでいたかどうかですが、可能性はあるでしょう。久木村は軍人でしたので、そのころどこにいたかにもよりますが、のちに読むことも可能ですから。ただ、覚書を読まないで、弁之助の話のみ読んで、話したかどうか私にはわかりかねますね。
最近、小山作之助 の「国歌君が代の由来」を読みまして、大山巌歌詞制定説が定説になるまでの経緯がやっとわかったんですが、よその新聞雑誌で、それも鹿児島にかかわることで、誰かがなにかを載せ、それが評判になると、鹿児島の新聞、あるいは鹿児島の人間は、それに反論するんです。当時は情報が伝わるのが遅いですから、2、3年後に反論って、ざらだったみたいです。君が代の歌詞設定は、結局、生存している関係者の中で、一番地位が高かった大山巌から聞き書きながら「自分だ」という話を引き出せた者の勝利、だったみたいですね。ただ、生存者の中で初代海軍軍楽長となり、現行君が代作曲の主導者になった中村祐輔はそれに納得していませんで、海軍軍楽史関係の資料だけは、ちょっとちがった記述になっています。
それにしてもー、久木村って、あんまり恵まれた履歴じゃないですねえ。アジ歴で調べましたら、明治になって巡査をしていて、7年7月、英国公使館の警備兵がなにか悪さをしたのか、これを屯所に引っ張って拘束した、というので免職。これには笑いましたが、いつのまにか巡査長にかえりざいていて、明治14年にどうやら陸軍歩兵中尉に配置転換。その後、憲兵中尉になって、大尉まで昇進したのはわかったのですが、そのまま後備。
で、なんでも図書館の方の話では、鹿児島新聞には「海軍少佐」として載っているそうで、「へっ? 海軍。。。 日露戦争で召集を受け。。。はわかるけど、海軍???」と、いまのところ謎いっぱいです。どうやら、城下士ではなさげな気がするんですが。
「国歌君が代の由来」の話も面白いですね。しばらくして、それに反論する鹿児島人云々には思わず笑ってしまいました。全くだ、と思ったからです。こういうことを言うと鹿児島人から嫌われますが、今そこに住んでいるわけでも商売をしているわけではないので、言いましょう。どうも、鹿児島人はプライドが高すぎて、批判的な言辞を許さないところがあるのです。
最後の久木村の履歴、初めて知りました。私も新聞記事にあった海軍少佐で終わった人だとばかり思っておりました。
ところで、いつも鋭い洞察には舌を巻いておりますが、久木村は城下士ではありません。確か、久光が居た重冨か姶良あたりの出だったと思います。
やっぱり、鹿児島新聞っていいかげんでして、久木村は海軍少佐ではなく、陸軍少佐でした。今度、コピーをお送りするつもりですが、昭和11年の久木村の回顧談が載った本が届きまして、それに、履歴が書いてあったんです。
やはり日露戦争時に後備役招集で従軍しまして、62歳で前線実戦部隊の中隊長を勤めて奮戦した、という話だったので、びっくりしましたら、友人が調べてくれまして、国会図書館のデジタルライブラリーにありますが、「明治三十七八年第六師団殊勲賞」という本に、その奮戦ぶりが詳しく載っていました。抜群の武功で、金鵄勲章を受けたんですわ。
養子の久木村十郎次は、陸士を出てまもなく従軍、って感じで、中尉でしょうか。親子ともに戦ったわけです。十郎次は陸大に行き、そののち中将にまでなっています。
久木村の「愛甥」が、海軍の竹下勇で、日露戦争当時は在米武官。ポーツマス講和会議の海軍メンバーです。
なんか久光の私領地出身みたいだ、と思ったら、やっぱりそうだったんですね。どうも鉄砲儀仗隊は、久光の領地から選んで編成したみたいですね。
ご著書で読ませていただいた、奈良原繁の情けない晩年にくらべ、久木村って、なんて幸せな人生を送ったのだろう、と感心します。戊辰戦争では、ずいぶん転戦したようですのに、城下士とくらべて恵まれず、平巡査にしかしてもらえなかったみたいですし、西南戦争は辛かったのかあんまり活躍しなかったみたいで、巡査長に返り咲いたくらいだったようですが、陸軍に配置転換してもらい、大尉で後備役。で、田舎に帰ったらしく、どうせ、たいして出世したいとも思ってなかったんでしょうから、「最後のご奉公」で、62歳にして実践部隊の中隊長として奮戦。養子は東京で出世していますから、自分は安心して故郷で暮らし、94まで頭もしっかりと元気に長生き。
いい男、です。
太陽の記事は、また友人に相談してみます。