「王政復古―慶応3年12月9日の政変」 (中公新書)井上 勲中央公論社このアイテムの詳細を見る |
中村太郎さまから、昭和10年に発行されました赤松小三郎の伝記「幕末の先覚者 赤松小三郎」のコピーをいただきました。著者は、千野紫々男氏です。
まだ、まったく他の史料を読み込んでないのですが、とりあえず、桐野が赤松小三郎を斬った理由について、考察してみようと思います。
王政復古直前、慶応三年の政治状況につきましては、井上勲氏著の「王政復古―慶応3年12月9日の政変」を主に参考にさせていただきまして、赤松小三郎暗殺について、克明に記されました桐野の「京在日記」については、栗原智久氏著「桐野利秋日記」を、参考にさせていただきます。
薩摩藩首脳部の討幕派が、はっきりと討幕を決意したのは、慶応三年五月、京での四侯(松平春嶽、島津久光、伊達宗城、山内容堂)会議が決裂したからです。
井上勲氏は、そもそもこの四侯会議の前に、薩摩の策謀で、佐幕派の公卿が退けられた、と推察されています。
といいますのも、この一月前、イギリス公使ハリー・パークスが、京都への旅行を望み、幕府はそれを拒みましたが、洛中には入らない、という約束で、大阪から伏見を通り、日本海側の敦賀(現福井県)へぬける旅行を許可しました。
これが尊攘檄派を刺激し、公家たちも多く、怒ったわけですね。
京都の近くまで、夷人を入れるとは! ということです。
薩摩藩討幕派はもちろん、積極的開国論でして、幕府を困らせるためにパークスをそそのかした可能性が高いのですが、これを利用します。
親幕派の廷臣(公家)たちを、罷免させたのですね。
徳川慶喜は、これに抗議しますが、なにしろ朝廷には攘夷派が多いですし、また前年の暮れの孝明天皇の崩御を受けて、二条斉敬が関白となり、新帝はお若いですし、専横が目立つと、近衛、一条、九条という、かならずしも反幕府ではない摂家の当主たちも、親幕派の廷臣罷免に賛成で、抗議は退けられます。
それで、いよいよ本格的に四侯会議なのですが、議題は兵庫(神戸)開港と長州処分です。
四侯はみな、神戸開港には賛成です。その点について、慶喜と、つまりこの場合、幕府と、ということになりますが、意見の相違はありませんでした。
問題は長州処分です。
長州藩の全面的な復権を認めるかどうか、なんですが、これで、薩摩藩と慶喜は対立しました。
薩摩藩は、幕府がただちに長州復権を認めることを求め、慶喜は、長州が許しを請う必要がある、としたわけです。
結局、会議は決裂し、京の薩摩藩首脳部は討幕を決意します。
そこへ、土佐の後藤象二郎が持ち込んだのが、大政奉還案です。
とりあえず薩摩側はそれを承認して、土佐と同盟を結びますが、この時点では、幕府が大政奉還案を呑まないだろうと見込んでのことです。呑まないことで、倒幕の兵を挙げる絶好の機会が生まれると。
ところが、幕閣の一部が、この案に関心を持ちます。慶喜の信頼が厚い永井尚志です。
野口武彦氏をして、「永井尚志という武士は、三島由紀夫の曾祖父にあたるので何となく言いにくいのだが、有能な外交官だったせいか責任転嫁の名人であった」といわしめたお方です。(彼らのいない靖国でも参照)
まあ、それはいいんですが、さて、島津久光は京都藩邸にいます。
もしも幕府が大政奉還案を呑むならば、久光が討幕の必要を認めるかどうかは未知数です。
大政奉還が実現され、薩摩藩内に討幕反対の声が高まれば、討幕を承認しない可能性がありました。
土佐の山内容堂は、国許に帰っていました。
7月2日、後藤象二郎は、小松帯刀、大久保利通と会合し、国許へ帰り、容堂候に訴えて、土佐の藩論を大政奉還論に統一し、10日後には、兵力を率いて再び上京することを約束します。大政奉還を幕府に呑ませるために、兵力による圧力が必要となるだろう、ということです。
これが予定通りにいっていたならば、あるいは、状況は少々変わったものになったかもしれません。
しかし、後藤象二郎は約束を果たすことができませんでした。
イカルス号事件の折衝に追われることになってしまったのです。長崎で英国船の水夫が殺され、殺害の疑いが、海援隊にかかったんです。このころの海援隊は、すでに薩摩の手を離れ、土佐藩の組織ですから、それは土佐藩士に嫌疑がかかったことになるわけです。
どうも、このあたりで、赤松小三郎が活発に動いていたようなのです。
赤松小三郎は信州上田藩の下級士族の次男に生まれました。
18歳で江戸へ出て蘭学を学び、帰藩後、赤松家の養子となって、藩の兵制改革に携わります。
安政2年、長崎でオランダ海軍伝習が行われることとなり、勝海舟、矢田堀鴻に随行して長崎へ行った、というのですが。
つまり第1期生だということになり、それなら幕臣以外も学んでいますので、私、デジタルライブラリーでオランダ海軍伝習生の名簿を見てみたのですが、赤松小三郎の名はありません。
だいたい、ほとんどが西日本、九州の雄藩で、上田藩は一人も出してないのです。甲賀源吾と回天丸、そしてwikiでちらりと書いていますが、東日本で伝習生を出しているのは、掛川藩の甲賀源吾の兄さんだけです。
wiki 甲賀源吾で、これ、私が推測しているんですが、2期以降、他藩からの受け入れはなかったので、甲賀源吾は矢田堀鴻の個人的弟子として、伝習を受けたのではないだろうか、と思うんです。それと同じように、赤松小三郎も、勝海舟か矢田堀鴻あたりの個人的な弟子として、オランダ伝習を受けた可能性はあると思います。
そうでなければ、まさかこの伝記の筆者、幕臣の赤松大三郎(則良)とまちがえているわけじゃあ、ないですよねえ。勝海日記や伝習所報告書に名前が見える、としているんですけど、いや、たしかめてませんが、少なくともこれは、赤松大三郎のまちがいなのではないかと。
信州松代藩の佐久間象山とは親交があったようで、勝海舟とのつながりは、こちらから考えた方がよさそうな気がするのですが。
元治元年、赤松は藩主の共で江戸へ出て、その機会に横浜を訪れ、英語を学んだようです。
そのときの学友でしょうか、金沢藩士・浅津富之助(南郷茂光)と共同で「英国歩兵練兵」を訳したことで名を挙げました。
しかし、どうやら藩での待遇が不満で、慶応2年、京都へ出て塾を開きました。
越前、薩摩、会津、大垣、岡山など、在京の藩が競って藩士を塾へ通わせたようで、条件がよかったのでしょう、私塾はそのままに、赤松は薩摩藩の講師として迎えられます。
この年の暮れ、赤松には幕府からの誘いがかかるのですが、これを上田藩が拒んで、赤松に帰郷を命じます。藩としては、惜しくなった程度のことだったようなのですが、ここで赤松が幕臣になっていれば、薩摩藩との縁は切れたでしょうし、赤松の功名心もおさまり、悲劇は起こらなかったでしょう。
赤松は帰藩を拒み、幕府から福井藩、会津藩、薩摩藩と、はばびろく人脈があることを活用し、政治活動に乗り出します。
慶応3年、なぜか会津藩は、赤松の帰藩を止めようと工作していたようです。以下、赤松の兄への書簡から。
慶応3年7月16日
会藩にてはしきりに止め候て、今諸藩の間に入り一和を謀り候人(赤松自身)を、用もなき国(上田藩)に帰し候てはあいならずと申し候て、幕府へもこの節周旋いたし、また赤座(上田藩京都留守居役)を説き、上田へも公用人より説得書差出候はずにござ候。
帰藩をうながす兄への言い訳ともとれるのですが、会津藩が、赤松を「一和を謀り候人」と見ていたことがわかります。
会津藩もけっして一枚岩ではないのですが、この春、長らく蝦夷へ左遷されていた秋月悌次郎が、京へ復帰しています。いうまでもなく秋月悌次郎は、薩摩の高崎正風とともに、8・18クーデターをなしとげた人です。
つまり、会津藩の中にも、薩摩と「一和を謀る」勢力ができていたことになります。
しかも、時期が時期です。
後藤象二郎が約束した10日間は過ぎ、土佐の大政奉還案がどうなったものか、関係者が気をもみはじめたころでしょう。もちろん、永井尚志も。
続いて、また兄への手紙から。
8月17日
この節、小生は薩幕一和の端を開候事につき、薩西郷吉之助え談合し、幕の方は会津公用人にて談じ始め居申候。小生は梅澤孫太郎、永井玄蕃(尚志)え説く、少しは成りもうすべく見込に候。
会津公用人と西郷隆盛に、なにを話したんでしょうか。
後藤象二郎の約束からすでに一ヶ月。
薩摩藩討幕派(中心は西郷、大久保、小松帯刀です)にとっては、困った存在になってきていたはずです。
といいますのも、いくどか書きましたが、薩摩藩も一枚岩ではないからです。
当時、京都にいた討幕反対派としては、高崎正風をあげることができるでしょう。
高崎正風は歌人ですから、公卿たちのもとへ個人的に出入りできますし、久光公のお気に入りでもあります。そして、会津の秋月悌次郎との縁もあり、もしも高崎正風が、赤松小三郎を久光公に面会させて、薩摩が挙兵することの不利を並べて、薩幕一和を説かせたとしたら、兵術家としての信頼を得ているだけに、耳を傾ける可能性は高いでしょう。
慶応3年9月2日、後藤象二郎は大阪へ着きました。
翌日、西郷と会います。
後藤象二郎は、兵を連れてきていませんでした。容堂公が許さなかったのです。
土佐の兵が上京していたならば、幕府が大政奉還案を呑む前に薩長が挙兵すれば、その勢いで土佐も引きずりこめる可能性は高いのです。土佐もまた一枚岩ではなく、討幕派も多いのですから。
しかし、兵を連れてきていないとなると。
桐野が赤松小三郎を斬ったのは、この日、9月3日です。
単独ではありません。田代五郎左ェ門とともに、ですが、あと三人を饅頭屋に待たせておいて、ということで、あるいは、桐野と田代が失敗した場合の控え、と考えることができます。
桐野の日記で、暗殺理由は「探索におよんだところ佐幕派奸賊で、将軍にも拝謁している」、つまり、工作をしている、ということです。
しかし奸賊状には、「西洋を旨とし、皇国の御趣意を失い」とのみしたため、攘夷派の仕業に見せかけています。
これは、どう考えてみても、薩摩藩討幕派首脳部との連携でしょう。
この3日後の朝彦親王日記に、赤松暗殺のことが見えます。
朝彦親王とは、青蓮院宮。8.18クーデターの中心人物で、佐幕派です。
もともとは、薩摩藩と良好な関係だったのですが、薩摩が長州よりに大きく舵をきって以降、一会桑政権との連携を深めてきたお方です。
慶応3年9月6日
深井半右衛門参る。過日東洞院通五条付近にて薩人キリ死これあり候風聞のところ、右人体は信州上田藩洋学者赤松小三郎と申す者のよし、右人体天誅をくわえ候よし書きつけこれあり候。
もっとも○十印、よほどこのころなにか計これあるべくか内情難斗よし、よほど苦心の次第仍摂公へもって封中申入る。もっとも秋月悌次郎へ申し入る。
やはり、どうも、秋月悌次郎がかかわっていた可能性が高まります。
そして、高崎正風の日記。(fhさまのご厚意です)
9月29日条。
朝、小松を叩、秋月(会)堀(柳河)を訪、後、大野と村山に行。
やはり、秋月悌次郎に会っています。
ふう、びっくりしたー白虎隊でも書きましたが、後年、秋月が熊本の第五高等中学校で漢文を教えていたところへ、高崎正風がたずねて来ます。8.18クーデターから30年数年の後、二人は終夜酒を酌み交わし、秋月は翌日の授業の準備も忘れるのです。
私、なにかこう、ですね、中村彰彦氏の小説に出てくるように、慶応三年の高崎が、秋月に冷たくて、居留守を使うような状態であれば、このときの会合が、それほど秋月にとって、心に響くものとはならなかったと思うのです。
クーデターを成功させた二人が、時勢の変化をかみしめ、それでもなんとかならないものかとあがいてみた、そんな共通の体験があったのではないでしょうか。
美少年と香水は桐野のお友達でご紹介しましたfhさまのブログ。
11月17日、高崎正風は「赤松某の碑文」を手配しています。「薩摩受業門生謹識」、つまり薩摩藩受講生一同の名義で、赤松小三郎を悼んだのは、反討幕派の高崎正風だったのです。
そして、一夕夢迷、東海の雲に出てきました、秋月悌次郎がその晩年、西郷隆盛の墓に参った時の詩。
生きて相逢わず、死して相弔す 足音よく九泉に達するや否や
鞭を挙げて一笑す、敗余の兵 亦これ行軍、薩州に入る
8.18クーデターのとき、西郷は島流しの憂き目にあっていました。
西郷が京に復帰し、秋月は蝦夷に左遷。
そして慶応三年、久しぶりに京へ復帰した秋月の前に、薩摩藩討幕派の中心人物として、西郷が影を落としたのです。
秋月は、西郷に会おうとしたのではないでしょうか。
西郷隆盛を動かすことができれば、薩会の和合はなると。赤松もそう思ったのですから。
しかし、西郷は拒んだでしょう。もはや、遅すぎたのです。
そう考えたとき、「生きて相逢わず」の言葉は、より深い響きをもつのではないでしょうか。
幕末、人はそれぞれの信念を持って、それぞれに命をかけて、生きていました。
桐野利秋は、元治元年の春、薩摩藩が汽船を沈められて長州と敵対していたころから、長州よりの志士と気心をかよわせていた筋金入りの討幕派です。
高杉晋作とともに、中岡慎太郎が久光公暗殺を考えていたころ、その中岡と会って、中岡たちから「正義の趣」といわれているんです。
翌慶応元年には、やはり土佐の土方久元をして、「この人真に正論家。討幕之義を唱る事最烈なり」と言わしめています。
そして桐野は、同志の多くの死を、見つめてきました。
自らの信念に基づき、薩摩藩討幕派首脳部と連携して行ったこの暗殺を、桐野が後悔することはなかったと、私は思います。
レクイエムは再びこれを。SleepingSun Live-Nightwish(YouTuve)
人気blogランキングへ
私、そういう伝説のたぐいは全部とばしまして、赤松小三郎の書簡とか朝彦親王日記とかの引用文ばかりを、見ておりましたです。
どうも、あんまり正確な伝記では、なさげですわ。
いただきました小松帯刀の大久保宛書簡は、wikiの方で、活用させていただきました。気になっていた桐野の幕末期の部分、書き直しておきましたです。「長州へ入り込み」というのは、禁門の変の前で、第一次征長じゃありませんから、あの部分、書き直したいと思いつつ、なかなか取りかかれないでいたんです。
ありがとうございました。
今回のおふざけは、どうぞお叱りにならないでくださいませ(笑)
最後の利秋さまが「うなされた」のところだけは読んだのですが。
この話もよく目にしますが、ホントなのかしらと。私としては疑わしいというか信じたくないと。
嗣子の利儀さんの臨終の話も・・・。おかしいですよね。
掲示板のしみさまとのお話、もう楽しいです。