とりあえず、生麦事件考 番外2の続きなんですが、真説生麦事件で追記しましたところの長岡さまにご指摘いただいた、鹿児島新聞明治45年の久木村の記事が、ようやく届きまして、再考してみたいと思います。
久木村のインタビュー記事は、上記、鹿児島新聞のものの他、昭和11年に雑誌「話」載ったものと、サンデー毎日に載ったものと、なんとか三つはそろえたのですが、どうも、まだありそうな感じがしないでもなく、ちょっとあれなんですが、それよりなにより、私が、薩藩海軍史の著者が考えたのではないか、と最初に推理した「久木村の不自然なリチャードソンへの二太刀目」は、「名主の書き上げ」と英字新聞に載ったリチャードソンの遺体の損傷から、尾佐竹博士が推理したもので、薩藩海軍史はそれをまるうつしにした!!!にすぎなかったのです。
もちろん、それは、明治45年、久木村の「斬ったぜい! 心臓ころころ」発言があったからこそ、なのですが。
明治大学「尾佐竹猛展」 尾佐竹猛著作リスト
PDF書類でして、4ページ目になるんですけれども、「国際法より観たる幕末外交物語 附、生麦事件の眞相その外」が、文化生活研究会より、大正15年(1926)に発行されていまして、昭和3年から4年(1928-29)にかけて発行された薩藩海軍史よりも、2~3年早いんです。
私が見ておりますのは、昭和19年発行の幕末外交秘史考 (1944年)に収録されたものなのですが、とりあえず、内容にほとんど変化はないものと考えておきます。
「国際法より観たる幕末外交物語」は、昭和5年(1930)にも再版されていて、こちらは近くの図書館にあるようですので、そのうち確かめます。
ともかく、尾佐竹博士は、この「生麦事件の真相」のはしがきにおいて、以下のように述べておられます。
いよいよ(生麦事件の)研究に着手してみると実にすくなからざる幾多の難問題に遭遇したのである。一体とっさの出来事というものは、割合に真相を得難いもので、簡単であるだけ人の見分や記憶は区々であるので、一例を挙げると、私が先年岐阜で板垣伯遭難の事実を研究した際にも、実地にのぞみ、種々の書類なども調べてみたところ、なかなか判らなかった。また往年星亨遭難の際も、都下の新聞記事が区々であった様なものである。
それに生麦の出来事は薩藩にあっては自慢話に花は咲いた様であるが、幕府に対しては事を曖昧にした様の形跡あり、一体にどの事件でも加害者側はなるべく事を自己に利益の方に主張するの傾きあり、被害者側はこれに反してなるべく加害者の暴状を吹聴したがるものであるのに、この事変の様に国際問題となっては、さらに外交のかけひきのため、事実は幾重にも歪曲された様な節も見え、また攘夷説の勢いのよい時代には薩藩士中にも誇張的に盛んに手柄話をしたようであるが、時運一変して薩藩の有力者が廟堂に立ち、今度はあべこべに外人崇拝時代となっては、我邦(わが国)にも左様な野蛮未開な時代がござったか、などという顔をする時勢となっては、ますます事件の真相は解らなくなり、ようやく史学独立の気運が向いたころになると、実歴者もおおむね地下の人となり、史料も散逸するという有様であるから、いよいよ真相を補足することができなくなったのである。
うー、おっしゃる通りなんですが、大正末年にそうであったものが、現在はどうなんですかね。つけ加わった史料はごく少なく、博士が御覧になった生麦村村役人たちの書き上げ書(口述書)、どこにあるものやら、見つけられないんですけど。
ところで、まず、事件の直接の当事者で、最初に事件を振り返って本を出したのは、海江田信義です。
上記の本によれば、その経緯は以下の通りです。
帝国議会の開設により、日本の新しい政治体制は確立されたが、明治維新から早、四半世紀の月日が過ぎ去ろうとしていた。維新前後に際会して国事に奔走した人達も老境に入りつつあった。
このような時代背景の中で、海江田は多年自ら関係し見分した国事について口述し執筆させて、明治24年9月から25年10月にかけて『維新前後・実歴史伝』として出版した。
で、これは、長岡さまに教えていただいたことなのですが、この『維新前後・実歴史伝』、薩藩海軍史の以下の記述からしますと、生麦事件の描き方が、非常に奇妙なのです。
リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であった。
どう奇妙かといいますと、肝心な「介錯をした」がさっぱり出てきませんで、『維新前後・実歴史伝』での海江田は、まるで傍観者のようなのです。
久光の行列が生麦村を過ぎようかとするころ、海江田は駕籠に乗って行列の先導をしていましたところが、女性一人を含む4人の外人が正面から来るのに会い、すれちがってしばらくすると、男女三人が後ろから引き返してきて、男は二人とも血を流していました。
以下、原文を引用します。
その一人はすでに馬上より斬り堕とされ、路傍の土畔に横臥して、手自ら腰間の出血をぬぐいつつあり。
しかして儀仗は這般の変事を見て一時騒然たりしか、久光公は輿上に瞑目して神色自若たり。
海江田が外人に出会って、その外人がひっくりかえして逃げくるまでの描写は、行列の先を行っていた海江田の視点で書かれているんですが、そこからおかしくなり、引き返さなければ見るはずのない、落馬したリチャードソンが描かれて、負傷して腰の血をぬぐっています。そして、その後どうなったのかはさっぱり描かれず、突然話は、「行列が騒然となった中で、久光公は駕籠の中で目を閉じ、悠然としていた」と、飛ぶんです。しかも、これで終わりです。
海江田はもちろん、そのときの久光公の様子など知りようもありません。
ところが、この最後の一文は、そっくり、薩藩海軍史が使っているんですね。
しかして儀仗はこの変事を見て一時騒然たりしが、久光公は輿中に瞑目して神色自若たり。
もちろん、行列のはるか前方にいてリチャードソンを介錯した海江田の話としてではなく、近習番として駕籠のそばにいた「松方正義の直談」として、なのですが。
松方正義の日記は、前後がそろっていながら、なぜか、生麦事件が起こった文久2年が欠けています。
で、薩藩海軍史の著者はなにを見たかといえば、「実談」というのですから、「松方文書」に残る「松方正義の口述した聞取り」ノートなのでしょうけれども、これに残っている該当文は、ちょっと表現がちがいます。
久光公輿中にて刀の鞘止を取るのみ従容自若たり。
いったい文久2年の松方の日記がいつなくなり、聞き取りノートがいつとられたものなのかもわからないのですが、あるいはノートの一部は、松方が日記を見ながら口述した、ということも考えられるのではないでしょうか。
で、『維新前後・実歴史伝』が書かれた明治24~25年には、まだ文久2年の松方日記は、あったはずです。
「口述本」とはいっても、海江田が述べることだけでは、本になりようがありません。通常、こういう丁寧な口述伝記本を作る場合、著者は、口述本人の日記や書簡だけではなく、できれば他の人の記録も見て、全体像をつかみ、口述をあてはめていくものです。
憶測にすぎませんが、幕末のこのあたりの記述にあたって、『維新前後・実歴史伝』の著者は、海江田の紹介で、松方に日記を見せてもらった、という線もありではないか、と思ったりします。
「松方文書」において、文久2年のものは、他に、以前に引きました「沙汰書」が残っておりまして、これは、「松方への沙汰書を編年体で綴ったものを中心として、その間の事情を箇条書で記したもの」なのですが、箇条書きの説明書きについて、これは私ではなく、fhさまが推測してくださったのですが、日記に書かれていたものではないか、ということです。
つまり、文久2年の松方日記がかなり後まで存在した、ということの傍証にならないでしょうか。
で、次回は、市来四郎の史談会速記録を受けて、春山育次郎が描いた「海江田にとっての生麦事件」を再びとりあげ、実は薩藩海軍史が「海江田信義実歴史伝及直話」といっているのは、明治29年、雑誌「太陽」に載った春山のエッセイそのものであったことを、追ってみたいと思います。
なんといいましても、イギリス側が追求した「久光の命令」に、海江田は大きくかかわっていたわけなのですから、この人が生麦事件の実像を攪乱した側面も、あるんです。
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久木村のインタビュー記事は、上記、鹿児島新聞のものの他、昭和11年に雑誌「話」載ったものと、サンデー毎日に載ったものと、なんとか三つはそろえたのですが、どうも、まだありそうな感じがしないでもなく、ちょっとあれなんですが、それよりなにより、私が、薩藩海軍史の著者が考えたのではないか、と最初に推理した「久木村の不自然なリチャードソンへの二太刀目」は、「名主の書き上げ」と英字新聞に載ったリチャードソンの遺体の損傷から、尾佐竹博士が推理したもので、薩藩海軍史はそれをまるうつしにした!!!にすぎなかったのです。
もちろん、それは、明治45年、久木村の「斬ったぜい! 心臓ころころ」発言があったからこそ、なのですが。
明治大学「尾佐竹猛展」 尾佐竹猛著作リスト
PDF書類でして、4ページ目になるんですけれども、「国際法より観たる幕末外交物語 附、生麦事件の眞相その外」が、文化生活研究会より、大正15年(1926)に発行されていまして、昭和3年から4年(1928-29)にかけて発行された薩藩海軍史よりも、2~3年早いんです。
私が見ておりますのは、昭和19年発行の幕末外交秘史考 (1944年)に収録されたものなのですが、とりあえず、内容にほとんど変化はないものと考えておきます。
「国際法より観たる幕末外交物語」は、昭和5年(1930)にも再版されていて、こちらは近くの図書館にあるようですので、そのうち確かめます。
ともかく、尾佐竹博士は、この「生麦事件の真相」のはしがきにおいて、以下のように述べておられます。
いよいよ(生麦事件の)研究に着手してみると実にすくなからざる幾多の難問題に遭遇したのである。一体とっさの出来事というものは、割合に真相を得難いもので、簡単であるだけ人の見分や記憶は区々であるので、一例を挙げると、私が先年岐阜で板垣伯遭難の事実を研究した際にも、実地にのぞみ、種々の書類なども調べてみたところ、なかなか判らなかった。また往年星亨遭難の際も、都下の新聞記事が区々であった様なものである。
それに生麦の出来事は薩藩にあっては自慢話に花は咲いた様であるが、幕府に対しては事を曖昧にした様の形跡あり、一体にどの事件でも加害者側はなるべく事を自己に利益の方に主張するの傾きあり、被害者側はこれに反してなるべく加害者の暴状を吹聴したがるものであるのに、この事変の様に国際問題となっては、さらに外交のかけひきのため、事実は幾重にも歪曲された様な節も見え、また攘夷説の勢いのよい時代には薩藩士中にも誇張的に盛んに手柄話をしたようであるが、時運一変して薩藩の有力者が廟堂に立ち、今度はあべこべに外人崇拝時代となっては、我邦(わが国)にも左様な野蛮未開な時代がござったか、などという顔をする時勢となっては、ますます事件の真相は解らなくなり、ようやく史学独立の気運が向いたころになると、実歴者もおおむね地下の人となり、史料も散逸するという有様であるから、いよいよ真相を補足することができなくなったのである。
うー、おっしゃる通りなんですが、大正末年にそうであったものが、現在はどうなんですかね。つけ加わった史料はごく少なく、博士が御覧になった生麦村村役人たちの書き上げ書(口述書)、どこにあるものやら、見つけられないんですけど。
ところで、まず、事件の直接の当事者で、最初に事件を振り返って本を出したのは、海江田信義です。
海江田信義の幕末維新 (文春新書)東郷 尚武文藝春秋このアイテムの詳細を見る |
上記の本によれば、その経緯は以下の通りです。
帝国議会の開設により、日本の新しい政治体制は確立されたが、明治維新から早、四半世紀の月日が過ぎ去ろうとしていた。維新前後に際会して国事に奔走した人達も老境に入りつつあった。
このような時代背景の中で、海江田は多年自ら関係し見分した国事について口述し執筆させて、明治24年9月から25年10月にかけて『維新前後・実歴史伝』として出版した。
で、これは、長岡さまに教えていただいたことなのですが、この『維新前後・実歴史伝』、薩藩海軍史の以下の記述からしますと、生麦事件の描き方が、非常に奇妙なのです。
リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で、久木村治休が抜き打ちに斬った。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは、海江田信義であった。
どう奇妙かといいますと、肝心な「介錯をした」がさっぱり出てきませんで、『維新前後・実歴史伝』での海江田は、まるで傍観者のようなのです。
久光の行列が生麦村を過ぎようかとするころ、海江田は駕籠に乗って行列の先導をしていましたところが、女性一人を含む4人の外人が正面から来るのに会い、すれちがってしばらくすると、男女三人が後ろから引き返してきて、男は二人とも血を流していました。
以下、原文を引用します。
その一人はすでに馬上より斬り堕とされ、路傍の土畔に横臥して、手自ら腰間の出血をぬぐいつつあり。
しかして儀仗は這般の変事を見て一時騒然たりしか、久光公は輿上に瞑目して神色自若たり。
海江田が外人に出会って、その外人がひっくりかえして逃げくるまでの描写は、行列の先を行っていた海江田の視点で書かれているんですが、そこからおかしくなり、引き返さなければ見るはずのない、落馬したリチャードソンが描かれて、負傷して腰の血をぬぐっています。そして、その後どうなったのかはさっぱり描かれず、突然話は、「行列が騒然となった中で、久光公は駕籠の中で目を閉じ、悠然としていた」と、飛ぶんです。しかも、これで終わりです。
海江田はもちろん、そのときの久光公の様子など知りようもありません。
ところが、この最後の一文は、そっくり、薩藩海軍史が使っているんですね。
しかして儀仗はこの変事を見て一時騒然たりしが、久光公は輿中に瞑目して神色自若たり。
もちろん、行列のはるか前方にいてリチャードソンを介錯した海江田の話としてではなく、近習番として駕籠のそばにいた「松方正義の直談」として、なのですが。
松方正義の日記は、前後がそろっていながら、なぜか、生麦事件が起こった文久2年が欠けています。
で、薩藩海軍史の著者はなにを見たかといえば、「実談」というのですから、「松方文書」に残る「松方正義の口述した聞取り」ノートなのでしょうけれども、これに残っている該当文は、ちょっと表現がちがいます。
久光公輿中にて刀の鞘止を取るのみ従容自若たり。
いったい文久2年の松方の日記がいつなくなり、聞き取りノートがいつとられたものなのかもわからないのですが、あるいはノートの一部は、松方が日記を見ながら口述した、ということも考えられるのではないでしょうか。
で、『維新前後・実歴史伝』が書かれた明治24~25年には、まだ文久2年の松方日記は、あったはずです。
「口述本」とはいっても、海江田が述べることだけでは、本になりようがありません。通常、こういう丁寧な口述伝記本を作る場合、著者は、口述本人の日記や書簡だけではなく、できれば他の人の記録も見て、全体像をつかみ、口述をあてはめていくものです。
憶測にすぎませんが、幕末のこのあたりの記述にあたって、『維新前後・実歴史伝』の著者は、海江田の紹介で、松方に日記を見せてもらった、という線もありではないか、と思ったりします。
「松方文書」において、文久2年のものは、他に、以前に引きました「沙汰書」が残っておりまして、これは、「松方への沙汰書を編年体で綴ったものを中心として、その間の事情を箇条書で記したもの」なのですが、箇条書きの説明書きについて、これは私ではなく、fhさまが推測してくださったのですが、日記に書かれていたものではないか、ということです。
つまり、文久2年の松方日記がかなり後まで存在した、ということの傍証にならないでしょうか。
で、次回は、市来四郎の史談会速記録を受けて、春山育次郎が描いた「海江田にとっての生麦事件」を再びとりあげ、実は薩藩海軍史が「海江田信義実歴史伝及直話」といっているのは、明治29年、雑誌「太陽」に載った春山のエッセイそのものであったことを、追ってみたいと思います。
なんといいましても、イギリス側が追求した「久光の命令」に、海江田は大きくかかわっていたわけなのですから、この人が生麦事件の実像を攪乱した側面も、あるんです。
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