ちょっと今回は、補足といいますか、覚え書きなんですが、また生麦です。
あいもかわらずうかつなんですが、見落としてました。
前回の生麦事件考 番外で書きました「落馬後のリチャードソン斬殺をえらい人(久光)が指揮した」件です。
尾佐竹氏は、英字紙(日本で発行されていたもの)が書いている、としていたんですが、なんと事件の翌日、イギリスのニール代理公使が、すでに本国にも書き送ってますし、幕府にも訴えていますわ。
なるほど、それで、3日後、神奈川奉行所の三橋さまが、お茶屋のふじさんとよしさんから、話を聞き取ることになったんですね。
四名の者は無法にも後退することを命ぜられたのでありますが、貴人従者の乱暴をさけるために、彼らは命ぜられた通りにしました。しかるに、彼らはそのとき野蛮にも襲撃され、婦人のみは、刺客に切りつけられ、追跡されながら、奇跡的に難を免れましたが、二名の紳士、マーシャル、クラーク両氏は重傷を負い、リチャードソン氏は残忍にめった切りにされ、瀕死の状態で、あるいはすでに絶命して、地上に横たわっていたところ、乗り物に乗っていた上官の命令で、従者にのどを切られたのであります。行列は、その残酷なる主君を取り囲んで、去っていきました。
「彼らは命ぜられた通りにしました」は、マーシャルとクラークの宣誓口述書を読めば、ありえない話とわかるんですが、それより、えっー! 「後退することを命ぜられた」って、わかってたんですか………。
そして、これではたしかに、「乗り物に乗っていた上官」が、久光だと誤解されるような表現ですね。
要するに、久光が、リチャードソン落馬地点の手前の藤屋で、お茶休憩したことを知らないものですから、行列はずんずん進んでいて、リチャードソンが落馬した直後に、久光の駕籠がそばを通りかかって、斬殺を命令したように誤解したんですね。
事件の翌日にニール公使がこう書いているってことは、ウィリス医師たちが、生麦村の茶屋のそばまで出かけ、リチャードソンの遺体を引き取ったとき、すでに一行のだれかが、生麦の住人から「駕籠に乗ったえらい人が命令していた」と聞いたんでしょう。
「乗り物に乗っていた上官」とは、海江田信義のことですわね。非番ながら、供目付だったわけですから。
市来四郎が、奈良原兄弟が一体であったかのように誤解した経緯が、わかる気がします。
本日、長岡さまに史談会速記録のコピーを届けていただきまして、ありがとうございました。
これにおいて市来は、久光は後年、こう語っていたとしています。
「生麦の立場近く行列を立ててやって行くところに、供頭の奈良原喜左衛門という者が、駕籠側におりましたが、異人かという一声かけて、先供の方に駆け出して行ったから、定めて外国人がやって来るから、行列を縮めるかどうかであろうと、何心なく聞いていた」
そのまま駕籠が止まって、あまりに長いので、近習に「なにごとか」と聞いてもわからない。しばらくすると駕籠が動き出したので、駕籠から顔を出して見ると、行列先で騒いでいる。駕籠側の供頭に「喧嘩でもしたか」と聞くと、「異国人を切りましたそうです」との答え。
そのまま進んで、駕籠の中から路上を見ると、血は流れていたが、死骸なんかなかった。死骸がないから、斬られてどこかへ逃げたのだろうと思っていた。
ほどなく藤屋に着いて、茶を飲んでいると、「異国人が行列に踏み込みましたから、奈良原喜左衛門など、三,四名の者が斬り捨てました」と報告があった。
ごく簡単にまとめると、以上なんですが、「先供」といいますのは、これまで見てきましたように、久光の行列の本隊、というわけでは、ないんです。
市来四郎は、大きな勘違いをしています。どういう勘違いかといいますと、奈良原兄が異人を斬って、斬り留め損なったので後を追いかけ、弟たち先供数人の助力を得て、リチャードソン落馬地点でとめをさした、と思いこんでいたんです。
おそらく、なんですが、ニール代理公使が語っているような、イギリス側の見解を聞いて、斬殺現場の「乗り物に乗っていた上官」が、喜左衛門だと断定したんでしょう。先に行っていて引き返してきた海江田信義だとは、思いもよらなかったようです。
で、久光は藤屋につくまでに遺体は見ておらず、斬られた異人たちは逃げたと思って、藤屋でお茶休憩をし、そのときにリチャードソン斬殺の報告を聞いたのであって、まったく斬殺は知らなかったのだ、命令などしたわけがない、と言いたかったわけです。
実は、私がニール代理公使が事件の翌日すでに、「乗り物に乗っていた上官」に言及していたと気づいたのは、「横浜市史 資料編5」収録のE・H・ハウス著「日本史」よりの「鹿児島賞金事件」を読んだからです。
E.H.ハウス 「全国宅配小新聞えんじゅ1号」掲載 不動武志著
上のサイトさんに詳しいのですが、 E・H・ハウスはアメリカの記者で、万延元年の遣米使節団との出会いで日本に興味を持ち、明治2年に渡日し、結局は日本に永住することとなった人です。
「鹿児島賞金事件」は明治8年4月に東京で書かれたもので、古風な日本語訳ですから、かなり古くから訳されていたのでは、と思うのですが、生麦事件の研究において、あまり顧みられてないみたいですね。
これにおいて、ですね、「9月15日のイギリスの第一報は、短い文なのに、事実にあわないことを三箇条、あたかも本当のことであったかのように書いている」といって、その一つとして、「乗り物に乗っていた上官」の件を挙げていたんです。しかし、まあこれは、単なる「上官」だとすれば、その場に海江田が駕籠でいたことは事実ですから、根も葉もないこととも、いえないですね。
ハウスの著述でおもしろいのは、これが書かれた当時、行列に参加していた薩摩藩士が、複数、新政府にいたわけでして、彼らから聞き取りをしていることです。
真説生麦事件 下で、弁之助の話をもとに再現しました様子が、裏付けられます。
リチャードソンたちが前駆を押しのけて通り、次に、久木村が猩々緋の羅紗でおおわれた鉄砲を担いでいた、駕籠前の鉄砲儀仗隊です。
百名が2列縦隊になって、整然と進んでいて、この儀仗隊が左右に分かれるわけがありませんから、クラークいわく「道路の左はじを通行」、弁之助いわく「人なき巷を行くがごとく」で、いったい、狭い道でどんな感じだったのだろう、と思いましたら、鉄砲儀仗隊の先頭の指揮者が、とっさに、真ん中を通っていた2列縦隊を左によせたんだそうです。
この隊列の先頭に立ちたる一士(今はこの人政府中の高官に昇れり)、外人の来たるを見て自ら左傍に避け、かつ隊列をして、ことごとく路の一側にかたよって進ましむ。
そして、おそらくこれは、駕籠前の中小姓たち(数十名)の一人だったのではないか、と思うのですが、「憤りを押さえて道端によけたのに、リチャードソンは傲然と道の真ん中を進んだ」と証言したそうです。
で、この後が問題です。ハリスは、リチャードソン横殺にかかわりたり薩摩新衛兵の指揮官が、こう語ったというのですね。
リチャードソンの道を譲らざること分明となり、その勢いついに三郎の乗與をも避けしめんとするに至れり。
「リチャードソンが道を譲らないことが明らかになり、久光公のお駕籠までも、横へよれという勢いだった」とその指揮官は語り、ハウスは、アメリカ公使の書簡にも、以下の文があると言います。
その同行中の一人、その馬を曲げ、乗與とこれを警護する従士との間に割り入れたり。
つまり、「リチャードソンは、馬の方向を転換しようとして、中小姓集団をつきぬけ、久光の駕籠の前の空間まで行った」というのですが、アーネスト・サトウも後年、友人への書簡にこう書いていますので、ありえた話でしょう。
当時私が耳にしたのは、彼(リチャードソン)が馬の向きを変えたとき、島津三郎の駕籠に近過ぎ、どうかしてそれに触れたか、おそらく棒の先端に触れたかしたということです。
しかし、それにしても、ハウスがいうリチャードソン横殺にかかわりたり薩摩新衛兵の指揮官って、いったい、だれなんでしょう。
もちろん、日本びいきのハウスは、落馬後の斬殺など語ってはいないのですが、奈良原喜左衛門は、慶応二年にすでに死去していますし、海江田か、奈良原弟か、なんですかね。
次回は、資料もそろいましたので、いよいよ久木村の二太刀目を再考し、生麦事件の基本文献とされてきた薩藩海軍史の記述について、推理してみたいと思います。なにしろ、fhさまのご指摘で、尾佐竹猛博士の「生麦事件の真相」が、薩藩海軍史に先だって書かれたことがわかりましたので、お口あーんぐり、あきれつつ、なんですけれども。
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あいもかわらずうかつなんですが、見落としてました。
前回の生麦事件考 番外で書きました「落馬後のリチャードソン斬殺をえらい人(久光)が指揮した」件です。
尾佐竹氏は、英字紙(日本で発行されていたもの)が書いている、としていたんですが、なんと事件の翌日、イギリスのニール代理公使が、すでに本国にも書き送ってますし、幕府にも訴えていますわ。
なるほど、それで、3日後、神奈川奉行所の三橋さまが、お茶屋のふじさんとよしさんから、話を聞き取ることになったんですね。
四名の者は無法にも後退することを命ぜられたのでありますが、貴人従者の乱暴をさけるために、彼らは命ぜられた通りにしました。しかるに、彼らはそのとき野蛮にも襲撃され、婦人のみは、刺客に切りつけられ、追跡されながら、奇跡的に難を免れましたが、二名の紳士、マーシャル、クラーク両氏は重傷を負い、リチャードソン氏は残忍にめった切りにされ、瀕死の状態で、あるいはすでに絶命して、地上に横たわっていたところ、乗り物に乗っていた上官の命令で、従者にのどを切られたのであります。行列は、その残酷なる主君を取り囲んで、去っていきました。
「彼らは命ぜられた通りにしました」は、マーシャルとクラークの宣誓口述書を読めば、ありえない話とわかるんですが、それより、えっー! 「後退することを命ぜられた」って、わかってたんですか………。
そして、これではたしかに、「乗り物に乗っていた上官」が、久光だと誤解されるような表現ですね。
要するに、久光が、リチャードソン落馬地点の手前の藤屋で、お茶休憩したことを知らないものですから、行列はずんずん進んでいて、リチャードソンが落馬した直後に、久光の駕籠がそばを通りかかって、斬殺を命令したように誤解したんですね。
事件の翌日にニール公使がこう書いているってことは、ウィリス医師たちが、生麦村の茶屋のそばまで出かけ、リチャードソンの遺体を引き取ったとき、すでに一行のだれかが、生麦の住人から「駕籠に乗ったえらい人が命令していた」と聞いたんでしょう。
「乗り物に乗っていた上官」とは、海江田信義のことですわね。非番ながら、供目付だったわけですから。
市来四郎が、奈良原兄弟が一体であったかのように誤解した経緯が、わかる気がします。
本日、長岡さまに史談会速記録のコピーを届けていただきまして、ありがとうございました。
これにおいて市来は、久光は後年、こう語っていたとしています。
「生麦の立場近く行列を立ててやって行くところに、供頭の奈良原喜左衛門という者が、駕籠側におりましたが、異人かという一声かけて、先供の方に駆け出して行ったから、定めて外国人がやって来るから、行列を縮めるかどうかであろうと、何心なく聞いていた」
そのまま駕籠が止まって、あまりに長いので、近習に「なにごとか」と聞いてもわからない。しばらくすると駕籠が動き出したので、駕籠から顔を出して見ると、行列先で騒いでいる。駕籠側の供頭に「喧嘩でもしたか」と聞くと、「異国人を切りましたそうです」との答え。
そのまま進んで、駕籠の中から路上を見ると、血は流れていたが、死骸なんかなかった。死骸がないから、斬られてどこかへ逃げたのだろうと思っていた。
ほどなく藤屋に着いて、茶を飲んでいると、「異国人が行列に踏み込みましたから、奈良原喜左衛門など、三,四名の者が斬り捨てました」と報告があった。
ごく簡単にまとめると、以上なんですが、「先供」といいますのは、これまで見てきましたように、久光の行列の本隊、というわけでは、ないんです。
市来四郎は、大きな勘違いをしています。どういう勘違いかといいますと、奈良原兄が異人を斬って、斬り留め損なったので後を追いかけ、弟たち先供数人の助力を得て、リチャードソン落馬地点でとめをさした、と思いこんでいたんです。
おそらく、なんですが、ニール代理公使が語っているような、イギリス側の見解を聞いて、斬殺現場の「乗り物に乗っていた上官」が、喜左衛門だと断定したんでしょう。先に行っていて引き返してきた海江田信義だとは、思いもよらなかったようです。
で、久光は藤屋につくまでに遺体は見ておらず、斬られた異人たちは逃げたと思って、藤屋でお茶休憩をし、そのときにリチャードソン斬殺の報告を聞いたのであって、まったく斬殺は知らなかったのだ、命令などしたわけがない、と言いたかったわけです。
実は、私がニール代理公使が事件の翌日すでに、「乗り物に乗っていた上官」に言及していたと気づいたのは、「横浜市史 資料編5」収録のE・H・ハウス著「日本史」よりの「鹿児島賞金事件」を読んだからです。
E.H.ハウス 「全国宅配小新聞えんじゅ1号」掲載 不動武志著
上のサイトさんに詳しいのですが、 E・H・ハウスはアメリカの記者で、万延元年の遣米使節団との出会いで日本に興味を持ち、明治2年に渡日し、結局は日本に永住することとなった人です。
「鹿児島賞金事件」は明治8年4月に東京で書かれたもので、古風な日本語訳ですから、かなり古くから訳されていたのでは、と思うのですが、生麦事件の研究において、あまり顧みられてないみたいですね。
これにおいて、ですね、「9月15日のイギリスの第一報は、短い文なのに、事実にあわないことを三箇条、あたかも本当のことであったかのように書いている」といって、その一つとして、「乗り物に乗っていた上官」の件を挙げていたんです。しかし、まあこれは、単なる「上官」だとすれば、その場に海江田が駕籠でいたことは事実ですから、根も葉もないこととも、いえないですね。
ハウスの著述でおもしろいのは、これが書かれた当時、行列に参加していた薩摩藩士が、複数、新政府にいたわけでして、彼らから聞き取りをしていることです。
真説生麦事件 下で、弁之助の話をもとに再現しました様子が、裏付けられます。
リチャードソンたちが前駆を押しのけて通り、次に、久木村が猩々緋の羅紗でおおわれた鉄砲を担いでいた、駕籠前の鉄砲儀仗隊です。
百名が2列縦隊になって、整然と進んでいて、この儀仗隊が左右に分かれるわけがありませんから、クラークいわく「道路の左はじを通行」、弁之助いわく「人なき巷を行くがごとく」で、いったい、狭い道でどんな感じだったのだろう、と思いましたら、鉄砲儀仗隊の先頭の指揮者が、とっさに、真ん中を通っていた2列縦隊を左によせたんだそうです。
この隊列の先頭に立ちたる一士(今はこの人政府中の高官に昇れり)、外人の来たるを見て自ら左傍に避け、かつ隊列をして、ことごとく路の一側にかたよって進ましむ。
そして、おそらくこれは、駕籠前の中小姓たち(数十名)の一人だったのではないか、と思うのですが、「憤りを押さえて道端によけたのに、リチャードソンは傲然と道の真ん中を進んだ」と証言したそうです。
で、この後が問題です。ハリスは、リチャードソン横殺にかかわりたり薩摩新衛兵の指揮官が、こう語ったというのですね。
リチャードソンの道を譲らざること分明となり、その勢いついに三郎の乗與をも避けしめんとするに至れり。
「リチャードソンが道を譲らないことが明らかになり、久光公のお駕籠までも、横へよれという勢いだった」とその指揮官は語り、ハウスは、アメリカ公使の書簡にも、以下の文があると言います。
その同行中の一人、その馬を曲げ、乗與とこれを警護する従士との間に割り入れたり。
つまり、「リチャードソンは、馬の方向を転換しようとして、中小姓集団をつきぬけ、久光の駕籠の前の空間まで行った」というのですが、アーネスト・サトウも後年、友人への書簡にこう書いていますので、ありえた話でしょう。
当時私が耳にしたのは、彼(リチャードソン)が馬の向きを変えたとき、島津三郎の駕籠に近過ぎ、どうかしてそれに触れたか、おそらく棒の先端に触れたかしたということです。
しかし、それにしても、ハウスがいうリチャードソン横殺にかかわりたり薩摩新衛兵の指揮官って、いったい、だれなんでしょう。
もちろん、日本びいきのハウスは、落馬後の斬殺など語ってはいないのですが、奈良原喜左衛門は、慶応二年にすでに死去していますし、海江田か、奈良原弟か、なんですかね。
次回は、資料もそろいましたので、いよいよ久木村の二太刀目を再考し、生麦事件の基本文献とされてきた薩藩海軍史の記述について、推理してみたいと思います。なにしろ、fhさまのご指摘で、尾佐竹猛博士の「生麦事件の真相」が、薩藩海軍史に先だって書かれたことがわかりましたので、お口あーんぐり、あきれつつ、なんですけれども。
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