郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2

2007年03月06日 | モンブラン伯爵
モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1 の続きです。

モンブラン伯爵は、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きましたように、安政5年(1858年)、フランス全権使節団の一員として、来日します。学術調査(おそらくは地理学)員でした。このときの在日期間は、40日間ほどだったのですが、文久2年(1862)、今度は一旅行者として、横浜を訪れました。
宮永孝氏の論文では、同年のうちにフランスへ帰国、となっているのですが、これは、帰国時にモンブランが伴った日本人、斉藤健次郎(ジラール・ド・ケン)が、文久2年にフランスへ来たと話していたと、記録に残ったりしているからでしょう。
斉藤健次郎の写真は、東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像 幕末の遣欧使節団 4.幕府オランダ留学生 で見ることができます。
って、オランダ留学生じゃあ、ないんですけどね。ほかに分類できなかったので、ここに入ったみたいです。

ただ、これはどうなんでしょう。密航ですし、かならずしも、ケンが正確なところをしゃべったとも思えないんですね。
といいますのも、文久2年(1862)3月(陽暦4月)、フランス入りした日本初の遣欧使節団の前に、モンブラン伯もケンも、姿を現していないのです。奇書生ロニーはフリーメーソンだった!で書きましたように、モンブラン伯と親交の深かったロニーが、接待役を務めていたにもかかわらず、です。
したがって、モンブラン伯がケンを伴って帰国したのは、もし文久2年だったにしても、使節団が欧州を離れた9月以降のことではないか、と考えられます。

さて、モンブラン伯とケンが日本人の前に姿を現すのは、元治元年(1864)3月、池田使節団がフランスを訪れたときです。
この池田使節団、そもそもの渡欧目的が、横浜鎖港を交渉する、という実現不可能なものでして、幕府の役人にもそれくらいのことはわかっておりましたので、一応交渉はしました、と、朝廷に言い訳するための生け贄のような、気の毒な使節団でした。
さらに、前年に横浜でフランス士官が浪人に斬り殺された事件や、長州藩が下関でフランス船を砲撃して水兵4人を殺した事件や、ともかくそんな、言い訳もしづらい事件を謝罪しつつ………、なのですから、気の毒もいいところ、です。

で、この池田使節団なのですが、フランスで「秘密条約」なるものを結んでいまして、それが「下関における長州の外国船砲撃を防ぐため、幕府が航路を警備するのであれば、フランス海軍はそれを助ける」というものでした。これを後世、尾佐竹猛氏が「フランス海軍の指揮下に幕府が長州征伐をする」というような文脈で解釈なさり、昭和初期の排外思想の中で、「外国軍隊を引き入れて植民地化の道をひらく危険な条約だった」ということになったのですが、どんなものでしょう。

現実問題、この時期、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊が、報復のため下関を攻撃する、という話が持ち上がっていました。池田使節団帰国後、現実にそうなるのですが。
長州藩が勝手に外国艦船を攻撃したこと自体、対外的な幕府の威信が地に落ちた事件でしたが、その報復のために、外国艦船が勝手に長州藩を攻撃するとなりますと、今度は国内的に、幕府の威信は底をつくわけです。
長州藩は、外国艦船だけではなく、外国と交易しているという理由で、薩摩の交易船、長崎丸、加徳丸も攻撃して、乗組員を殺傷していたのですから、日本が統一国家だというのならば、瀬戸内海航路の安全確保は、時の政府である幕府の役目です。
したがって、むしろフランスの提案は、「日本政府に役目を果たす気があるのならば、顔を立てて、われわれは支援にまわりますよ」というものであって、植民地化がどうの、という話ではありません。
むしろ、幕府が動かないのならばと、四国連合艦隊が下関を攻撃した結果、伊藤博文の後年の談話では、ですが、イギリスが彦島租借を持ち出した、というような話にもなっているのです。

筋道から言うならば、幕府は四国連合艦隊の出動を押さえて、自ら長州を攻撃するべきだったでしょう。
ただ、日本国中で攘夷気分が盛り上がっていましたし、長州の宣伝工作は巧みでもありましたので、実際問題としては、幕府がコーストガードにせいを出すにしても、フランスのいうように外国船の力を借りたのでは、反幕気分を高める材料にしかなりません。
そんなわけで、帰国した使節団の主立った面々は、蟄居、閉門、免職などの処分を受け、幕府は使節団がパリで結んできた条約を破棄しました。
それまで、下関攻撃参加を見合わせていたフランスも、これによって、イギリスの主導に従い、攻撃に参加することを決めたのです。

で、ですね、昭和初期の講談では、大筋、日本の植民地化をねらったフランスの野望に従い、モンブラン伯爵が横浜で暗躍して幕府の役人をたらしこんだ、というようなことなのですが。
池田使節団を送り出すについては、ときの駐日フランス公使ベルクールが幕府に助言したようですし、モンブラン伯は、このベルクールとは関係がよかったのではないか、という感じがするにはするのですが、当時、モンブラン伯は日本にいません。
あるいは、書簡でベルクールからの依頼を受けて、「秘密条約」提携を、説得したのかもしれないんですけれども、統一国家の政府として幕府が果たすべき義務を説いたのだとしましたら、「暗躍」というようなものなんでしょうか。

さて、あきらかにモンブラン伯の「暗躍」があったのが、翌慶応元年(1865)7月、フランスに現れた柴田使節団にからんで、です。
柴田使節団渡仏の目的は、モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol1において書きましたように、前年の暮れに横須賀製鉄所の建設が決まりましたので、これに必要な技術者を雇い入れ、必要な機材を購入すること、でした。
その柴田使節団がリヨンに到着したとき、オランダから駆けつけた肥田浜五郎が出迎えたのですが、そのそばには、ジラール・ド・ケンがいました。
これは、です。肥田浜五郎は、使節団を出迎える前に、モンブラン伯爵と会っていたのではないか、と、考える方が自然でしょう。

肥田浜五郎は、石川島造船所のために、オランダで機械類の買い付けをしていたわけなのですが、石川島造船所整備計画が中止となったことを知らされ、さらに、すでに買った機械類を持ってフランスへ行き、柴田使節団を補佐するよう、幕府からの命令を受け取っていたのです。
これが、肥田浜五郎にとって、不満でなかったはずがないでしょう。
横須賀製鉄所の所長は、すでにフランス人のヴェルニーに決まっていましたし、その下の技師たちも、みなフランス人を雇う予定です。この大がかりな横須賀製鉄所計画において、オランダ人から学んだ肥田は、よそ者になるのが目に見えています。
石川島のこじんまりとした造船所で、肥田は所長として、すべてを取り仕切る予定だったのです。
そして、滞在先のオランダ政府も、フランスのこの計画に反発しています。
当時オランダは、榎本武揚を中心とする海軍関係者のほか、モンブラン伯爵はフリーメーソンか?に出てきます、政治学を志した西周や津田真道など、幕臣の留学を受け入れていました。
このときのオランダの海軍大臣は、海軍伝習の教授として来日した経験のある、カッテンディーケで、彼は一時、外務大臣もかねていました。つまり彼は、教え子たちと日本に、親近感と期待を持っていたと察せられるのです。

この時点で、そんなことが可能だったかどうかはわかりませんが、フランスの提案を変更させ、日本人を所長にし、フランスからの技術提供は部分的なものにできないか、というような画策を、オランダが考え、肥田に持ちかけた、あるいは肥田からカッテンディーケに持ちかけた、としたら、どうでしょうか。
その画策のために、肥田をモンブランに紹介したのは、オランダ海軍関係者であったのではないか、と思うのです。おそらくはモンブラン伯爵はフリーメーソンか? で書きましたような、フリーメーソンのネットワークを使って、です。

ところで、柴田使節団がフランスに姿を現す2ヶ月ほど前、イギリスのロンドンに、薩摩藩密航留学生の一行が、到着していました。そして1ヶ月後、ロニーとケンが、一行に会うため、ロンドンへ姿を現します。これは従来、モンブラン伯爵の方から、薩摩藩への接近を試みて派遣したもの、とされているのですが、果たしてどうでしょうか。
一行の中心にいたのは、五代友厚と寺島宗則(松木弘安)でした。
そして、五代は長崎のオランダ海軍伝習に参加していて、肥田浜五郎や幕府のオランダ留学生とも知り合いでしたし、寺島は、幕府の蕃書調所教授でしたので、やはり蕃書調所にいた西周、津田真道と知り合いですし、文久2年の幕府最初の遣欧使節団に参加していて、ロニーとはすでに懇意だった上、柴田使節団のメンバーにも、けっこう知己がいたのです。といいますか、柴田日向守自身、文久2年の使節団に加わっていた人です。
オランダとともに、フランスの横須賀製鉄所計画を快く思っていなかったイギリス。
薩摩藩密航留学は、イギリス商人グラバーの手助けでなされているわけでして、これまで、幕府に武器や中古蒸気船を売っていたグラバーにとっても、当然、快くはなかったわけでしょう。
それではいったい、五代友厚と薩摩藩はなにを考えていたのか………。

ということで、また、明日に続きます。


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