『オランダおいね』と戦後民主主義の続きです。
みなもと太郎氏の「風雲児たち」に、おイネさんが出てくることは、オランダおイネと楠本イネで書きました。
風雲児たち 幕末編 (8) (SPコミックス) | |
みなもと 太郎 | |
リイド社 |
上の8巻は宇和島の話でして、イネはオランダ語解読を深く教わるために、大村益次郎と同居しておりましたところが、あらぬ噂がたつんですね。これは、大村益次郎の伝記でそんなことを書いているものもありますので、まあ、いいんですが、その対策として大村はイネに、「卯之町の二宮敬作のところに住まわせてもらって、宇和島まで通ってこい。卯之町は近い」と言い、イネは毎日通った、というんです。
「卯之町から宇和島まで毎日通ったなんて、ありえん!!!」と、私、のけぞりました。
よくは知らないのですが、旧道でいえば片道20数キロ、あるはずです。しかも、法華津峠というとんでもない難所を通ります。私、車でですが、旧道の峠の展望台に行ったことがあります。
西村清雄という松山藩士の息子が、クリスチャンになっていまして、明治37年、宇和島へ宣教に行った帰り道、この法華津峠を通って、日も暮れかかり、あまりの心細さに、自分を励まそうと、「山路こえて、ひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし」という賛美歌を作ったことで、有名な峠です。
法華津峠パノラマビユ-
往復すれば、十分マラソンの距離。しかも、狼でもでかねない山道です。毎日通うって、はあ。
いや、これにあきれたあとで、吉村昭氏の「「ふぉん・しいほるとの娘」を読みかえしていましたら、すっかり忘れていたのですが、実はこれに、卯之町から宇和島まで毎日通った、というようなことが書いてあったので、どびっくりです。ただ、吉村氏は、イネ一人ではなく、三瀬周三を用心棒にして二人で通ったような書き方で、まあ、昔の人ならば、十分に歩ける距離ではあるのでしょうけれども、それにしても、毎日というのは、ねえ。ありえません。
吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」(長崎県観光)
まあ、ですね。そういった創作部分は置いておきましても、現在、吉村昭氏のイネ像も、相当な変更を迫られているように思います。
実は、ですね。ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト関係文書、という史料群がドイツにあります。
シーボルトの男系の血筋は、ドイツでは絶えているのですが、シーボルトの末娘がグスタフ・フォン・ブランデンシュタインと結婚しまして、その息子のアレキサンダーが、ヘレネ-・フォン・ツェッペリン伯爵令嬢と結婚し、子孫を残しました。結局、シーボルト家の多くの史料が、この末娘の血筋に引き継がれ、残っているのですが、長く未整理のままに置かれ、現在まだ、研究者の方々が解読中、なんですね。
ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト書簡の調査解読研究
上のリンクにもありますように、シーボルトがフリーメーソンだったことがはっきりしましたし、まあ、私としましては、モンブラン伯爵とシーボルトの接点はそれなのではないかな、と興味が尽きませんが、この史料の中には、滝さんの手紙など、イネさんに関する情報も含まれ、これまで伝えられてきたことが、ちがっていたり、するんですね。
楠本イネの卯之町滞在裏付け 新史料の手紙発 2016年01月17日(愛媛新聞オンライン)
愛媛県西予市などは16日、日本初の産科女医、楠本イネ(1827~1903年)が、18歳の時に同市宇和町卯之町に約7カ月間滞在していたことを示す新史料が見つかったと発表した。イネの母タキがシーボルトへ送った手紙をシーボルト研究者の石山禎一さん(79)=相模原市=が読み解いた。イネは13~18歳の5年間、医学を志して卯之町にいたとされてきたが、公文書などの記録はなかった。西予市は「(新史料は)定説を大きく改める」としている。
市などによると、手紙は1845年11月1日付。オランダ語で表記され、タキが口答したものを通訳者が記述したとみられる。手紙には「45年2月におイネは伊予国へ1人で旅立ちました。その国はあなた様の門人二宮敬作がおります」とあり、続けて「備前国の(産科医師の)石井宗謙に会いに行き、確か60日滞在している」と書かれていることから、45年2月ごろから約7カ月間、卯之町にいたことがうかがえるとしている。
まあ、そんなこんなで、来月、宇卯之町と宇和島に、史料さがしに出かける予定です。
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すごく楽しみです。
オイネさんは石井宗兼の子供を産んだけれど最後まで大村益二郎を思っていて最期をみとったのでしたね。あの時代の女性として輝いていたと記憶してます。
区切り遍路でその内に宇和島に行けるのが楽しみです。
現在、イネと大村益次郎の恋愛関係は、司馬遼太郎氏の創作であったと、大方の研究者の方々の一致した見解であろうかと存じます。宇和島時代に噂になったといいますのは、村田峰治郎(村田清風の孫だか)著の大村益次郎の伝記に出てくるのですが、スタンスとしては、「噂は嘘だった」です。それを司馬氏が上手くふくらませて、恋愛関係にしたみたいです。
最期を看取った件は、要するに、娘婿の三瀬周三が、当時、ボードウィンの通訳兼助手として、大阪医学校兼病院に勤務していて、そこに益次郎が運び込まれます。おイネさんはどうやら、娘夫妻のそば(あるいはいっしょ)、ということか、神戸に住んでいたようなんです。宇和島時代、三瀬周三とともに、大村の助手を務め、親交はあったわけですから、当然、見舞いはしたでしょうけれども、ずっと看病していたわけでは、ありません。
司馬氏の描くおイネさんは、とても魅力的なのですが、実像とはかなりちがうようです。
宇和島は、とてもいいところで、最近、イギリスの豪華客船の寄港地になったりしています。これも最近なのですが、「オランダおいねの三角屋敷跡」という立て札も立てられているそうでして、宇和島まで問い合わせてみましたところ、かなり、ちゃんとした根拠に基づいて立てられたみたいです。
http://seikou38.com/uwajima/2015/05/08/
どうぞ、楽しんでくださいませ。