いけません。昨日書きました美少年と香水は桐野のお友達 のような次第で、妄想がとまりません。
ほんとうは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1 vol2 vol3に続けまして、順をおって書こうと思っていたのですが、がまんできなくなりました。
モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
実のところ、薩摩も藩論がまとまっていたわけではなく、藩主の弟・島津図書を筆頭として、討幕反対派が多数いました。
そりゃあ、そうでしょう。薩摩はなにも朝敵ではありませんし、薩摩内のことのみを考えるならば、なにも危ない橋を渡ることはなかったのです。
討幕の密勅は、薩摩にとっては藩内むけ、つまりは久光公説得のためであったという説に、私は賛成です。密勅は、世間に公表できないから密勅なんですから。
朝敵とされていた長州は、なにがなんでも討幕を、と必死でしたが、それでも大村益次郎は、即時挙兵に反対でした。
薩摩内にも反対派がいることから薩摩の出せる軍勢もかぎられていましたし、長州はといえば、とりあえず朝敵ですから、堂々と軍勢を出すことはむつかしいですし、幕府軍の兵力がはるかにまさっていましたので、勝ち目はないと踏んでいたのです。
それで私は、久光に影響力を持ちかけていた赤松小三郎が、薩摩藩討幕派にとっては、邪魔だったんだろうと憶測するのですが。
モンブランは、ちょうど大久保が長州と討幕挙兵の相談をしているころに長崎に着きまして、どのくらいの期間かよくはわからないのですが、長崎に滞在しました。
そこはそれ、転んでもただでは起きないのが、五代友厚です。
長崎には、薩摩藩だけではなく、西日本各地から、蘭学や英学を学ぶ洋学生が集まってきています。
モンブランに講義をさせて、「天皇を頂く西洋式統一国家」とは、どのように運営されるものか、宣伝しようとしたらしいのですね。
尾佐竹猛氏が「維新前後に於ける立憲思想」というご著書に、「佐々木老僕昔日談」から、以下の一文を引いておられます。
白川の紹介で仏人のモンブランに面会して、薩の朝倉省吾の通訳で、種々議論を聞いた。同人は岩下と同船して来朝したのだ。仏国の貴族で勤王論を主張して居る。一体仏国は佐幕論であるが、同人は反対の主義であるところからして、薩人とも昵懇にした。松の森の千秋亭、吉田屋などで會宴したり、或は直接往来して、色々と談話を聞き、大に新知識を得た。彼の書物の講義も聞き、著述ももらい、またその談話を筆記して之を聞き書きと命名して、四冊ばかりのものを揃えた。この聞書は当時にあっては非常に有益なものとして珍重せられ、自分は国許にも送ってやるし、また前田に託して太宰府にも送るし、それから君公が御覧になりたいからと云うて渡辺から希望されてやったり、芸藩の石津大蔵からも懇願されてやった。大分方々にひろがった。モンブランの紹介で、他に同国人三人とも交際して事情等を聞いたけれども、名前は忘れて了った。
「佐々木老僕」とは、土佐藩士・佐々木高行です。渡辺とは渡辺清のことと思われ、君公とは大村藩主でしょう。
最初に出てくる白川は、モンブランがフランスへ連れていっていた日本人で、薩摩藩にやとわれたジェラールド・ケンだと思われますが、ときの長崎奉行は河津伊豆守で、文久三年幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使なんです。ジェラールド・ケンは、モンブランのもとで、この使節団の随員とは懇意にしていました。
それで、河津伊豆守がモンブランを幕府側に誘った、というような話もあり、どうもその仲買を、ケンがしようとしたらしいのですね。白川ことジェラールド・ケンは、この後、薩摩藩士に殺された、といわれています。
松の森の千秋亭・吉田屋は、現在、富貴楼という名の卓袱料理店になっていますが、建物は当時のままです。
諏訪神社や長崎奉行所も近く、一等地です。
モンブランはおそらく、五代友厚が越前藩士に吹き込んだようなこと、つまり「上下両院の制を設け、上院は公卿諸大名、下院は諸大名の家臣集会して国事を議定し」といったような議会制度をもっと詳しく説明し、おそらくは憲法制定にまで話はおよんだのでしょう。なにしろ聞書が四冊なんですから。
もちろん、おそらく、この立憲政体講義のプロデュースは五代友厚でしょう。
追記
「続再夢紀事」を見て確かめなければいないのですが、赤松小三郎が、慶応3年(1867年)5月、松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書」というのは、五代友厚の宣伝工作の一環であったと、私は思っています。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、すでに慶応元年のパリで、五代は、オランダ留学をしていた幕臣・津田真道と西周の知識を乞い、モンブラン伯爵、レオン・ド・ロニーとともに、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない」という、ヨーロッパの現状にあてはめて、近代的日本を築くべき理論を構築しているんです。イギリス公使官員・アーネスト・サトウの「英国策」は、モンブラン伯爵がパリの地理学会で発表したこの理論を、五代が筆記して持ち帰り、それを下敷きにして書かれていた可能性が高いんです。
ヨーロッパの政治制度を、じっくりと勉強していた日本人は、この時点では、津田真道と西周しかいませんし、この二人が話に加わっていた以上、議会制から憲法まで、出てこないはずはありません。
ちなみに、モンブラン伯爵はベルギーの男爵でもありますが、ベルギーは新しい国で、初代国王はヴィクトリア女王の母方の親族であり、イギリスに領地を持っていた人で、政治的にはイギリスの影響が強いんです。イギリスには成文憲法がありませんから、このベルギーの憲法は、当時のヨーロッパでは、理想的な立憲君主国憲法と見られていました。
なお、五代友厚が討幕をどう思っていたか、ですが、この人はまず通商ありき、ですから、戦争状態が長引くことを望んではいなかったでしょう。しかし、寺島宗則のような学者ではありませんし、根本的な変革には戦いが必要であることは、十分に呑み込んでいたと私は思います。当時のヨーロッパで、現在進行形だったドイツ、イタリアの統一運動がそうでしたしね。
通訳が朝倉省吾。
朝倉は、中村博愛とともに、薩摩密航イギリス留学生仲間の中の蘭方医で、長崎でオランダ人ボードウィンに学んでいたのですが、イギリスでは入学可能な適当な学校がなく、二人してフランスに渡って、モンブランの世話になっていました。中村博愛は、博覧会の始末をつけるため、フランスに残りましたが、朝倉は帰国し、モンブラン一行の通訳をしていたのです。
ええ、もうこうなりますと、ぜひとも、私の愛する町田清蔵くんを登場させたいものです。
この当時、日本にいた薩摩藩フランス留学経験者は、朝倉と清蔵くんのみですし、清蔵くんはモンブランの世話になっていますから、長崎へ顔を出さない方が不思議なくらいじゃないでしょうか。
そして、佐々木は言っていますよね。「また前田に託して太宰府にも送る」と。
当時太宰府には、薩会の8.18クーデターで長州に落ちた七卿のうち、五卿がいました。
こうなってくるともう、まるで討幕後の準備のようなんですが、モンブラン講義録を、太宰府に運んだ前田とは、当然、正名くんでしょう。
薩摩藩長崎留学生で、洋行を宿願としている正名くんが、突然、薩摩藩が目の前につれてきたフランス人を、見逃すはずがありません。
どうも私、正名くんをフランスに連れていってくれるよう、モンブランに紹介したのが大久保利通だって話、あやしいと思うんです。いつものお方が調べてくださった話では、正名くんの渡航費用は、どうやらモンブランが出したようなのです。数年の後、モンブランを嫌っていた英国留学生の鮫島が、フランス公使として赴任してきたとき、モンブランは鮫島に、正名くんの渡航費用を請求しているんだそうなんです。
正名くんは、このとき長崎で、五代友厚に紹介してもらって、モンブランに気に入られたんじゃないでしょうか。
しかし、ここから昨日の続きなんですが、桐野と正名くんがいつ知り合ったのかは、さっぱりわかりません。
桐野が京都へ出る前、正名くんがまだ子供で、鹿児島の蘭学者・八木称平の住み込み弟子になっていたころから知り合いだった、と考えた方が、自然ではあるでしょう。
桐野が京都へ出てからとなると、一度はたしかに帰郷していますし、他にも帰郷した可能性は高いんですが、そうゆっくり故郷に止まったわけではなく、そのうち正名くんも長崎へ行ってますし、ゆっくり知り合う機会がなかったように感じます。
桐野も正名くんも貧しい育ちです。
想像をたくましくすれば、です。10歳に満たない正名くんが、住み込み弟子、つまりは学僕をしていて、その日、忙しくて、か、あるいは兄弟子に意地悪をされて、か、ご飯を食べるひまもなく、なにか失敗をして、城下の道端でしょんぼりしているところへ、たまたま桐野が歩いてきて、「おい、どうした?」と聞き、「ま、これでも食ってがんばれ」と、懐から食べかけの芋を出してなぐさめる、なんていうのはどうでしょう?(笑)
それで、話はとびまして、明治2年の初めころの鹿児島です。
会津へ行く前に、桐野は横浜の病院で静養していまして、イギリス、フランスの駐日陸軍や海軍をゆっくりと見ています。おそらくは中井桜州から、たっぷりとパリ万博の話なんぞも聞いています。あるいは横浜を案内してもらって、香水なんかを買ったかもしれません。靴は中井にもらったでしょうか(笑)
で、会津から帰ってきたころの桐野は、すでに大隊長級。
「フランス軍服の方がよか。士官のサーベルもフランスもんはよかな」なんぞと横浜の見聞を思いだしておりましたところが、鹿児島城下にフランスの伯爵が降ってわきます。
「田中(中井)どんより、あん人の話の方がおもしろいんじゃなかとか」と、好奇心をたぎらせていたところへ、「半次郎さあ!」と、訪ねてきたのが正名くん。
正名くんの案内で、太郎くんをお供に、モンブラン伯爵の宿舎を訪ねましたら、モンブランのそばには、朝倉と清蔵くんが。
モンブラン伯爵はご機嫌で、桐野にいろいろとアドバイスをしてくれます。
えー、なにしろ、桐野は大隊長級ですし、フランスで士官といえば、もともとは貴族が多く、当時でも士官学校に入れるのは中の上の階層で、下士官以下とは、あきらかにクラスがちがいます。
まさか桐野が、武士とはいえども百姓より貧しく、近所のお百姓に土地を借りて農業にはげみ、芋ばかり食べて育ったなぞとは夢にも思わず、清蔵くんと同じようなもんだと、美しい誤解をしてのアドバイスです。
「おお、サーベル。日本の刀も美しいが、サーベルも名職人にやらせれば、美しいものですよ。どうだろう、日本刀をサーベル風に仕立てては。ああ、あなたがフランスの軍服を着て、金銀装の日本刀サーベルを持てば、似合いますとも!」
「それは、いい思いつきですねえ、伯爵。僕は海軍がいいかなあ、と思っているんだけど、中村さんは陸軍だし、陸軍はフランス式が一番ですよ。中村さんのフランス式軍服姿、ぼくも早く見たいなあ」
と、清蔵くん。
太郎くんも、うっとりと桐野を見上げます。
「半次郎さあ! ぼくが責任もって、日本刀をお預かりしますよ。モンブラン伯爵は、日本の総領事(パリ駐在)になられたんで、ぼくを秘書として、パリにつれていってくれるとおっしゃるんです!」
と、正名くん。
朝倉は一人あきれて、「なんかおかしくないか?」と首をかしげていたり。
で、その年の暮、正名くんは本当に、モンブランに連れられて、パリへ出発するんですが、その手にはしっかりと桐野から預かった綾小路定利が。
って、桐野の綾小路は、たしか庄内の殿様からもらった、っていうのが定説なので、このときはまだないですかね(笑)
まあ、そういった疑問はちょっと置いておきまして、妄想をたくましくしますと、です。
桐野の綾小路は、パリで金銀装の華麗なサーベルとなり、例えば新納少年とか、帰国した薩摩人の手で、桐野に届けられます。ああ、西郷従道の線もありですし、大久保さあかも、しれないですね。
正名くんは、明治10年、翌年に開かれるパリ万博の準備のために帰国するのですが、すでにそのときには、西南戦争がはじまっていました。
おそらくは、明治2年に桐野と別れてから、二度と会っていなかったはずです。
昨日のこのくだり。
この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。
桐野の孫を見て、桐野をなつかしむ後年の正名に、桐野の息子が、大切に保管してあった金銀装の綾小路定利を見せた、という光景が、あんまりにもじんときましたので、ついあらぬ妄想を(笑)
追記
上、妄想は妄想なのですが、もしかすると勘違いされる方がおられるかもと、付け加えます。
桐野が綾小路定利であった、といわれる名刀を、金銀装の完璧なサーベル仕立てにしていたことは、史実です。
西南戦争後の懲役人質問でも、西南戦争に参加して、桐野のそばにいた人が、それを認めていますから。
これは、もしかしたら、日本刀をサーベル仕立てにして、将校の儀礼刀にした最初ではないかと思うのですが、日本の工芸職人は器用ですから、私は、舶来のサーベルを手本に、日本でしたものだと思っていました。
もちろん、その可能性もあるのですが、フランスまで加工に出した可能性も、なくはありません。
鞘が日本刀のもので、例えば漆に金細工をからませたもの、などであれば、日本製の可能性が高いのですが、桐野の綾小路は、どうも鞘が金属製であったのではないかと、うけとれるような描写なんです。
これは確かな話ではないのですが、以前に、土佐史談会のおじさまからお聞きした話で、戦後、桐野の綾小路は、有名な横綱の手に渡っていて、土俵入りに使われていた、というのですが、もし、なにかご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
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ほんとうは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1 vol2 vol3に続けまして、順をおって書こうと思っていたのですが、がまんできなくなりました。
モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
実のところ、薩摩も藩論がまとまっていたわけではなく、藩主の弟・島津図書を筆頭として、討幕反対派が多数いました。
そりゃあ、そうでしょう。薩摩はなにも朝敵ではありませんし、薩摩内のことのみを考えるならば、なにも危ない橋を渡ることはなかったのです。
討幕の密勅は、薩摩にとっては藩内むけ、つまりは久光公説得のためであったという説に、私は賛成です。密勅は、世間に公表できないから密勅なんですから。
朝敵とされていた長州は、なにがなんでも討幕を、と必死でしたが、それでも大村益次郎は、即時挙兵に反対でした。
薩摩内にも反対派がいることから薩摩の出せる軍勢もかぎられていましたし、長州はといえば、とりあえず朝敵ですから、堂々と軍勢を出すことはむつかしいですし、幕府軍の兵力がはるかにまさっていましたので、勝ち目はないと踏んでいたのです。
それで私は、久光に影響力を持ちかけていた赤松小三郎が、薩摩藩討幕派にとっては、邪魔だったんだろうと憶測するのですが。
モンブランは、ちょうど大久保が長州と討幕挙兵の相談をしているころに長崎に着きまして、どのくらいの期間かよくはわからないのですが、長崎に滞在しました。
そこはそれ、転んでもただでは起きないのが、五代友厚です。
長崎には、薩摩藩だけではなく、西日本各地から、蘭学や英学を学ぶ洋学生が集まってきています。
モンブランに講義をさせて、「天皇を頂く西洋式統一国家」とは、どのように運営されるものか、宣伝しようとしたらしいのですね。
尾佐竹猛氏が「維新前後に於ける立憲思想」というご著書に、「佐々木老僕昔日談」から、以下の一文を引いておられます。
白川の紹介で仏人のモンブランに面会して、薩の朝倉省吾の通訳で、種々議論を聞いた。同人は岩下と同船して来朝したのだ。仏国の貴族で勤王論を主張して居る。一体仏国は佐幕論であるが、同人は反対の主義であるところからして、薩人とも昵懇にした。松の森の千秋亭、吉田屋などで會宴したり、或は直接往来して、色々と談話を聞き、大に新知識を得た。彼の書物の講義も聞き、著述ももらい、またその談話を筆記して之を聞き書きと命名して、四冊ばかりのものを揃えた。この聞書は当時にあっては非常に有益なものとして珍重せられ、自分は国許にも送ってやるし、また前田に託して太宰府にも送るし、それから君公が御覧になりたいからと云うて渡辺から希望されてやったり、芸藩の石津大蔵からも懇願されてやった。大分方々にひろがった。モンブランの紹介で、他に同国人三人とも交際して事情等を聞いたけれども、名前は忘れて了った。
「佐々木老僕」とは、土佐藩士・佐々木高行です。渡辺とは渡辺清のことと思われ、君公とは大村藩主でしょう。
最初に出てくる白川は、モンブランがフランスへ連れていっていた日本人で、薩摩藩にやとわれたジェラールド・ケンだと思われますが、ときの長崎奉行は河津伊豆守で、文久三年幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使なんです。ジェラールド・ケンは、モンブランのもとで、この使節団の随員とは懇意にしていました。
それで、河津伊豆守がモンブランを幕府側に誘った、というような話もあり、どうもその仲買を、ケンがしようとしたらしいのですね。白川ことジェラールド・ケンは、この後、薩摩藩士に殺された、といわれています。
松の森の千秋亭・吉田屋は、現在、富貴楼という名の卓袱料理店になっていますが、建物は当時のままです。
諏訪神社や長崎奉行所も近く、一等地です。
モンブランはおそらく、五代友厚が越前藩士に吹き込んだようなこと、つまり「上下両院の制を設け、上院は公卿諸大名、下院は諸大名の家臣集会して国事を議定し」といったような議会制度をもっと詳しく説明し、おそらくは憲法制定にまで話はおよんだのでしょう。なにしろ聞書が四冊なんですから。
もちろん、おそらく、この立憲政体講義のプロデュースは五代友厚でしょう。
追記
「続再夢紀事」を見て確かめなければいないのですが、赤松小三郎が、慶応3年(1867年)5月、松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書」というのは、五代友厚の宣伝工作の一環であったと、私は思っています。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、すでに慶応元年のパリで、五代は、オランダ留学をしていた幕臣・津田真道と西周の知識を乞い、モンブラン伯爵、レオン・ド・ロニーとともに、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない」という、ヨーロッパの現状にあてはめて、近代的日本を築くべき理論を構築しているんです。イギリス公使官員・アーネスト・サトウの「英国策」は、モンブラン伯爵がパリの地理学会で発表したこの理論を、五代が筆記して持ち帰り、それを下敷きにして書かれていた可能性が高いんです。
ヨーロッパの政治制度を、じっくりと勉強していた日本人は、この時点では、津田真道と西周しかいませんし、この二人が話に加わっていた以上、議会制から憲法まで、出てこないはずはありません。
ちなみに、モンブラン伯爵はベルギーの男爵でもありますが、ベルギーは新しい国で、初代国王はヴィクトリア女王の母方の親族であり、イギリスに領地を持っていた人で、政治的にはイギリスの影響が強いんです。イギリスには成文憲法がありませんから、このベルギーの憲法は、当時のヨーロッパでは、理想的な立憲君主国憲法と見られていました。
なお、五代友厚が討幕をどう思っていたか、ですが、この人はまず通商ありき、ですから、戦争状態が長引くことを望んではいなかったでしょう。しかし、寺島宗則のような学者ではありませんし、根本的な変革には戦いが必要であることは、十分に呑み込んでいたと私は思います。当時のヨーロッパで、現在進行形だったドイツ、イタリアの統一運動がそうでしたしね。
通訳が朝倉省吾。
朝倉は、中村博愛とともに、薩摩密航イギリス留学生仲間の中の蘭方医で、長崎でオランダ人ボードウィンに学んでいたのですが、イギリスでは入学可能な適当な学校がなく、二人してフランスに渡って、モンブランの世話になっていました。中村博愛は、博覧会の始末をつけるため、フランスに残りましたが、朝倉は帰国し、モンブラン一行の通訳をしていたのです。
ええ、もうこうなりますと、ぜひとも、私の愛する町田清蔵くんを登場させたいものです。
この当時、日本にいた薩摩藩フランス留学経験者は、朝倉と清蔵くんのみですし、清蔵くんはモンブランの世話になっていますから、長崎へ顔を出さない方が不思議なくらいじゃないでしょうか。
そして、佐々木は言っていますよね。「また前田に託して太宰府にも送る」と。
当時太宰府には、薩会の8.18クーデターで長州に落ちた七卿のうち、五卿がいました。
こうなってくるともう、まるで討幕後の準備のようなんですが、モンブラン講義録を、太宰府に運んだ前田とは、当然、正名くんでしょう。
薩摩藩長崎留学生で、洋行を宿願としている正名くんが、突然、薩摩藩が目の前につれてきたフランス人を、見逃すはずがありません。
どうも私、正名くんをフランスに連れていってくれるよう、モンブランに紹介したのが大久保利通だって話、あやしいと思うんです。いつものお方が調べてくださった話では、正名くんの渡航費用は、どうやらモンブランが出したようなのです。数年の後、モンブランを嫌っていた英国留学生の鮫島が、フランス公使として赴任してきたとき、モンブランは鮫島に、正名くんの渡航費用を請求しているんだそうなんです。
正名くんは、このとき長崎で、五代友厚に紹介してもらって、モンブランに気に入られたんじゃないでしょうか。
しかし、ここから昨日の続きなんですが、桐野と正名くんがいつ知り合ったのかは、さっぱりわかりません。
桐野が京都へ出る前、正名くんがまだ子供で、鹿児島の蘭学者・八木称平の住み込み弟子になっていたころから知り合いだった、と考えた方が、自然ではあるでしょう。
桐野が京都へ出てからとなると、一度はたしかに帰郷していますし、他にも帰郷した可能性は高いんですが、そうゆっくり故郷に止まったわけではなく、そのうち正名くんも長崎へ行ってますし、ゆっくり知り合う機会がなかったように感じます。
桐野も正名くんも貧しい育ちです。
想像をたくましくすれば、です。10歳に満たない正名くんが、住み込み弟子、つまりは学僕をしていて、その日、忙しくて、か、あるいは兄弟子に意地悪をされて、か、ご飯を食べるひまもなく、なにか失敗をして、城下の道端でしょんぼりしているところへ、たまたま桐野が歩いてきて、「おい、どうした?」と聞き、「ま、これでも食ってがんばれ」と、懐から食べかけの芋を出してなぐさめる、なんていうのはどうでしょう?(笑)
それで、話はとびまして、明治2年の初めころの鹿児島です。
会津へ行く前に、桐野は横浜の病院で静養していまして、イギリス、フランスの駐日陸軍や海軍をゆっくりと見ています。おそらくは中井桜州から、たっぷりとパリ万博の話なんぞも聞いています。あるいは横浜を案内してもらって、香水なんかを買ったかもしれません。靴は中井にもらったでしょうか(笑)
で、会津から帰ってきたころの桐野は、すでに大隊長級。
「フランス軍服の方がよか。士官のサーベルもフランスもんはよかな」なんぞと横浜の見聞を思いだしておりましたところが、鹿児島城下にフランスの伯爵が降ってわきます。
「田中(中井)どんより、あん人の話の方がおもしろいんじゃなかとか」と、好奇心をたぎらせていたところへ、「半次郎さあ!」と、訪ねてきたのが正名くん。
正名くんの案内で、太郎くんをお供に、モンブラン伯爵の宿舎を訪ねましたら、モンブランのそばには、朝倉と清蔵くんが。
モンブラン伯爵はご機嫌で、桐野にいろいろとアドバイスをしてくれます。
えー、なにしろ、桐野は大隊長級ですし、フランスで士官といえば、もともとは貴族が多く、当時でも士官学校に入れるのは中の上の階層で、下士官以下とは、あきらかにクラスがちがいます。
まさか桐野が、武士とはいえども百姓より貧しく、近所のお百姓に土地を借りて農業にはげみ、芋ばかり食べて育ったなぞとは夢にも思わず、清蔵くんと同じようなもんだと、美しい誤解をしてのアドバイスです。
「おお、サーベル。日本の刀も美しいが、サーベルも名職人にやらせれば、美しいものですよ。どうだろう、日本刀をサーベル風に仕立てては。ああ、あなたがフランスの軍服を着て、金銀装の日本刀サーベルを持てば、似合いますとも!」
「それは、いい思いつきですねえ、伯爵。僕は海軍がいいかなあ、と思っているんだけど、中村さんは陸軍だし、陸軍はフランス式が一番ですよ。中村さんのフランス式軍服姿、ぼくも早く見たいなあ」
と、清蔵くん。
太郎くんも、うっとりと桐野を見上げます。
「半次郎さあ! ぼくが責任もって、日本刀をお預かりしますよ。モンブラン伯爵は、日本の総領事(パリ駐在)になられたんで、ぼくを秘書として、パリにつれていってくれるとおっしゃるんです!」
と、正名くん。
朝倉は一人あきれて、「なんかおかしくないか?」と首をかしげていたり。
で、その年の暮、正名くんは本当に、モンブランに連れられて、パリへ出発するんですが、その手にはしっかりと桐野から預かった綾小路定利が。
って、桐野の綾小路は、たしか庄内の殿様からもらった、っていうのが定説なので、このときはまだないですかね(笑)
まあ、そういった疑問はちょっと置いておきまして、妄想をたくましくしますと、です。
桐野の綾小路は、パリで金銀装の華麗なサーベルとなり、例えば新納少年とか、帰国した薩摩人の手で、桐野に届けられます。ああ、西郷従道の線もありですし、大久保さあかも、しれないですね。
正名くんは、明治10年、翌年に開かれるパリ万博の準備のために帰国するのですが、すでにそのときには、西南戦争がはじまっていました。
おそらくは、明治2年に桐野と別れてから、二度と会っていなかったはずです。
昨日のこのくだり。
この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。
桐野の孫を見て、桐野をなつかしむ後年の正名に、桐野の息子が、大切に保管してあった金銀装の綾小路定利を見せた、という光景が、あんまりにもじんときましたので、ついあらぬ妄想を(笑)
追記
上、妄想は妄想なのですが、もしかすると勘違いされる方がおられるかもと、付け加えます。
桐野が綾小路定利であった、といわれる名刀を、金銀装の完璧なサーベル仕立てにしていたことは、史実です。
西南戦争後の懲役人質問でも、西南戦争に参加して、桐野のそばにいた人が、それを認めていますから。
これは、もしかしたら、日本刀をサーベル仕立てにして、将校の儀礼刀にした最初ではないかと思うのですが、日本の工芸職人は器用ですから、私は、舶来のサーベルを手本に、日本でしたものだと思っていました。
もちろん、その可能性もあるのですが、フランスまで加工に出した可能性も、なくはありません。
鞘が日本刀のもので、例えば漆に金細工をからませたもの、などであれば、日本製の可能性が高いのですが、桐野の綾小路は、どうも鞘が金属製であったのではないかと、うけとれるような描写なんです。
これは確かな話ではないのですが、以前に、土佐史談会のおじさまからお聞きした話で、戦後、桐野の綾小路は、有名な横綱の手に渡っていて、土俵入りに使われていた、というのですが、もし、なにかご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。
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「町田久成略伝」のコメントは、たしかに私のものです。
URLは入れたつもりでいたのですが、自分のブログ以外で、あまりコメントを入れるのに慣れておりませず、失礼いたしました。
検索から入ることが多いのですが、時々、ブログを拝見し、勉強させていただいております。
ただ、長くブログを休んでいたようなこともありまして、町田久成の弟の件は、ばんないさんといわれる方がコメントをくださるまで、取り上げておられることを存じませんでした。
桐野のご子孫に会われるとのこと、ぜひ、お願いいたします。これからそれを楽しみに、ブログを見せていただきます。あつかましいお願いですが、留学生のお話で、清蔵くんと正名くんもぜひ、取り上げてあげてくださいませ。
はじめまして。
もしかして私の勘違いかもしれないのですが、その節はお許し下さい。
小生のブログで、「町田久成略伝」を紹介するコメントを下さったのはこちらの郎女さんでしょうか?
ブログを拝読しておそらくそうだろうなと思って書いております。
いただいたコメントにメルアドもURLもなかったので、お礼のしようがありませんでした。
改めて御礼申し上げます。
桐野利秋の綾小路定利がフランスで銀装されたのではという推定はなかなか興味深いですね。
じつは、桐野の子孫に会う予定になっておりますので、お尋ねしてみようと思っております。
失礼しました。
人違いでしたら、ひらにお許しを。
中村太郎さま、fhさま、ありがとうございました。
そして、乱読おばさんさま、見せていただいた、あの桐野の華麗なイラストで、私は、超派手なフランス軍服を、桐野は着こなせたのだと、確信いたしましたです!(笑)
どうぞまたまた、金銀装の儀礼刀、綾小路を持った桐野を、描いてやってくださいませ!
妄想してみたいです~♪ 妄想してそういうものを描いてみたいですね~♪
ブリュネの刀も面白いですが、桐野さんのサーベルもステキですね。昔読んだ、山田風太郎の小説で、フロックコートにシルクハットという怪盗ルパンのようないでたちで、仕込みステッキを持ったフランス帰りの剣客が登場しましたが、それもなかなかにカッコいいですけど、桐野さんならなおいい!♪
待ったかいがありますわ~~~。
東西の刀装についておめめをキラキラさせて語り合う男子たち………。
ぜひガラドリエルさまにに心の声で突っ込みを入れていただきたい~。(←殴)
郎女様、サイコー!!!!!
もう、楽しいです。
コピーの件、有難うございます。
すいません。私、まだです。
今日の国会の分も合わせてお送りしますので、しばらくお時間を。