薩摩旅行の最中に、なんと、Wikiにモンブラン伯爵の記事が立ち上がりました!!! 書きたい、という気はあったのですが、Wikiともなれば、楽しい推測、といいますか、妄想は書けませんし、とってもめんどうなので、敬遠していたんです。ありがとうございました、トホホ川さま。えーと、さっそく、私も執筆に参加させていただきました。
いや、もう、ほんとうに立ち上げはめんどうで、実は、ミットフォードの記事を立ち上げようと、下書きをしかけているのですが、半分ほどで長いこと放ってます。
今回の旅行、初日の指宿では、なによりも、モンブランが作りました薩摩伝承館所蔵の薩摩琉球国勲章が、見たかったんです。
この薩摩伝承館は、維新資料も少々は置いてあるのですが、それより陶磁器のコレクションがすごくて、中国陶磁器の超一級骨董品も多いのですが、ずらりと並ぶきらびやかな里帰りSATUMA、つまり、幕末明治の薩摩焼コレクションは圧巻です。
で、ミュージアムグッズも、沈寿官氏が特別に焼いたという白薩摩の紅茶カップや、1922年のイギリス皇太子(後のエドワード8世、ウィンザー公)の来日記念に焼かれた白薩摩フリーカップの復元品とか、とても欲しかったのですが、ちょっと手が出ませんで、買いましたのはもちろんこれ、薩摩琉球国勲章の携帯ストラップです。
組紐部分が、赤、青、黒の三色があります。三色とも買って、私は黒。青はいつもお世話になるfhさまへのお土産。そして、写真左端の赤をプレゼントしたいんです。モンブラン伯爵ファンの方に。どこかにおられませんか? モンブランを愛してやまない、という方! ぜひ、このページのコメント欄で、お申し出ください。伝承館と磯にしか置いていないという(本当かどうかは知りません)このストラップを、差し上げたいのです。愛の記念に(笑) 早い者勝ち、お一人だけですが、ぜひ!!!
モンブラン伯爵は、指宿に滞在していた、という伝承があります。慶応3年の秋、長崎から薩摩に入ったものの、鹿児島ではモンブランに反感を持つ勢力があって、一時、五代友厚とともに、指宿の浜崎家にいたのだ、というのです。
浜崎家は、海運と造船で、薩摩の繁栄をささえた豪商で、文久3年(1863)に死去した8代浜崎太平次は、海外交易にも乗り出していて、上の碑の場所が屋敷跡だったという話なので、モンブランが滞在したのもここであったはずです。
太平次の像は、海岸沿いの公園にあります。もっとも、モンブランが浜崎家に滞在した、というのは、太平次の死後なのですけれども。
実は、薩摩伝承館のSATUMAコレクションには、薩摩ボタンもありまして、さらには平佐焼の資料が手に入ったりもしたことから、薩摩ボタンはだれが考えたのか???の続きが書けそうなんです。
慶応3年の秋、モンブラン伯爵が平佐窯を訪れて指導していたことは、ほぼ確実でして、指宿にモンブランが滞在したにしても、どうも、それほど長い期間ではなさそうなのです。
次回(できれば明日)、ちょっと旅の写真シリーズを離れまして、平佐窯とモンブランについて書きたいと思っています。
で、なんの関係もありませんが、最後に、お土産に買いました薩摩切子のグッズを。
リングホルダーは、切子ではないので安いのですが、薩摩切子工房の手作りです。これと、真ん中の藍のキーホールダーは自分用。左右のキーホールダーは妹たちへのお土産です。
母のために買った花瓶は、本格的な切子で、とてもきれいなのですが、品切れ予約注文のため、届くのは三ヶ月先で、残念ながらお見せできません。
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いや、もう、ほんとうに立ち上げはめんどうで、実は、ミットフォードの記事を立ち上げようと、下書きをしかけているのですが、半分ほどで長いこと放ってます。
今回の旅行、初日の指宿では、なによりも、モンブランが作りました薩摩伝承館所蔵の薩摩琉球国勲章が、見たかったんです。
この薩摩伝承館は、維新資料も少々は置いてあるのですが、それより陶磁器のコレクションがすごくて、中国陶磁器の超一級骨董品も多いのですが、ずらりと並ぶきらびやかな里帰りSATUMA、つまり、幕末明治の薩摩焼コレクションは圧巻です。
で、ミュージアムグッズも、沈寿官氏が特別に焼いたという白薩摩の紅茶カップや、1922年のイギリス皇太子(後のエドワード8世、ウィンザー公)の来日記念に焼かれた白薩摩フリーカップの復元品とか、とても欲しかったのですが、ちょっと手が出ませんで、買いましたのはもちろんこれ、薩摩琉球国勲章の携帯ストラップです。
組紐部分が、赤、青、黒の三色があります。三色とも買って、私は黒。青はいつもお世話になるfhさまへのお土産。そして、写真左端の赤をプレゼントしたいんです。モンブラン伯爵ファンの方に。どこかにおられませんか? モンブランを愛してやまない、という方! ぜひ、このページのコメント欄で、お申し出ください。伝承館と磯にしか置いていないという(本当かどうかは知りません)このストラップを、差し上げたいのです。愛の記念に(笑) 早い者勝ち、お一人だけですが、ぜひ!!!
モンブラン伯爵は、指宿に滞在していた、という伝承があります。慶応3年の秋、長崎から薩摩に入ったものの、鹿児島ではモンブランに反感を持つ勢力があって、一時、五代友厚とともに、指宿の浜崎家にいたのだ、というのです。
浜崎家は、海運と造船で、薩摩の繁栄をささえた豪商で、文久3年(1863)に死去した8代浜崎太平次は、海外交易にも乗り出していて、上の碑の場所が屋敷跡だったという話なので、モンブランが滞在したのもここであったはずです。
太平次の像は、海岸沿いの公園にあります。もっとも、モンブランが浜崎家に滞在した、というのは、太平次の死後なのですけれども。
実は、薩摩伝承館のSATUMAコレクションには、薩摩ボタンもありまして、さらには平佐焼の資料が手に入ったりもしたことから、薩摩ボタンはだれが考えたのか???の続きが書けそうなんです。
慶応3年の秋、モンブラン伯爵が平佐窯を訪れて指導していたことは、ほぼ確実でして、指宿にモンブランが滞在したにしても、どうも、それほど長い期間ではなさそうなのです。
次回(できれば明日)、ちょっと旅の写真シリーズを離れまして、平佐窯とモンブランについて書きたいと思っています。
で、なんの関係もありませんが、最後に、お土産に買いました薩摩切子のグッズを。
リングホルダーは、切子ではないので安いのですが、薩摩切子工房の手作りです。これと、真ん中の藍のキーホールダーは自分用。左右のキーホールダーは妹たちへのお土産です。
母のために買った花瓶は、本格的な切子で、とてもきれいなのですが、品切れ予約注文のため、届くのは三ヶ月先で、残念ながらお見せできません。
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モンブランの記事は、原則として主に宮永氏の論文を元に執筆いたしましたが、半ば書きながら疑問に思う点もあり(特に赴任前のロッシュやカションとの交流についてなど)、適宜修正いただけて幸いです。特に写真などはこちらでは手が回らない貴重な素材なので大変助かります。
当方、Wikipediaにおいて「結構重要そうなんだけどあんまり知られてないなー」的事象/人物を立項することをモットーにしておりますので、モンブラン伯などはその点格好の素材でありました。なので、僭越ながら浅学にして新規項目として執筆させていただきました。郎女様にもおかれましても今後も有益な加筆いただければ幸いです。目指せ、月間新記事賞!?
ではでは。
顔写真がぜひとも欲しいですよね。「プリンス昭武の欧州紀行―慶応3年パリ万博使節」の中の写真ならばきれいにスキャンできそうなので、だめもとで山川出版社に願い出てみます。ミットフォードの肖像は、文庫本の出版社に電話しましたら、「図版はうちに著作権ないから関係ないよ」といわれ、著作権協会に電話したら「いいのではないか」ということで、スキャンしてwikiにすでにあげています。ちょっと時間はかかるかもしれませんが、宮永先生にご連絡してみることも視野にいれて、がんばってみるつもりです。
ただ岩下方平と長十郎は1867年にフランスにいたことは前から分かっているのですがネットを検索していると時々その前に既に長十郎がフランスに留学していたというニュアンスの文章が見つかります。
それと薩摩勲章は3年くらい前に宿の主が800万円弱でオークションで落札したそうですね~。まったくうちのご先祖さんはいったいどこでこんな重要なものを手放してしまったのか・・・。