明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2の続きなのですが、主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』の続き、でもあります。
なんといいましても、大庭柯公!です。
柯公全集 (第1-5巻) | |
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柯公全集刊行会 |
全集が復刻されているのですが、なにぶん高価でして、迷っています。
下の本は、比較的手に入れやすく、大庭柯公のロシアに関する革命以降の著作をまとめたもので、柯公がボルシェヴイキ独裁の闇に呑み込まれる直前の大正10年(1921年)、極東共和国の状況を記した記事も収録されています。
露国及び露人研究 (中公文庫) | |
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中央公論社 |
とりあえず、これも絶版なのですが、大庭柯公の唯一の伝記、久米茂氏著の『消えた新聞記者』(雪書房)を手に入れました。
著者は佐賀県出身の産経新聞の記者さんだった方で、大正12年(1923年)生まれですから、司馬遼太郎氏と同じ年で、同僚でいらしたことになります。
『消えた新聞記者』が書かれましたのは、昭和43年(1968年)。司馬氏が産経新聞で『坂の上の雲』を連載し始めた年なのですが、時代の空気なんでしょうか。奇妙なまでにロシア革命は肯定されています。ソ連が崩壊してしまった現在、うへー、と思う記述も多いのですが、そういう時代だったんですよね、当時は。
主人公は松陰の妹!◆NHK大河『花燃ゆ』に書きましたが、大庭柯公は、「長州奇兵隊のスポンサーだった白石正一郎の弟で、長府報国隊の参謀となりました大庭伝七の三男」でした。しかし本人は、「長閥の子」と題された文章に、こう書いているのだそうです。
「いまでは、奇兵隊が編成された馬関(下関)の家に生まれたことを誇りとしていた父も、バリバリの長州軍人で有頂天になって、そのため二度までも休職になった長兄も、勤皇家の後裔を売り物にした次兄も、みないっしょに、青山の墓地の一角に冷くねむっております。散歩のついでに父の墓に立ち寄って、その前に立つと、いつも四十年来の経過がかれこれ思い出されてくるが、その感想の第一には、わずか十数年さきに生まれた二人の兄は、ともかくも長閥謳歌者でその一生を終っているのに、わずか十数年ちがいの私は、防長人(山口県人)の中で故人としてはただ前原一誠一人を慕い、今日の人としては河上肇博士の研究に同一の趣味をもつようになったことの、そのかなり大きな思想上の変遷を、いつもしみじみ感ぜぬわけにはいかぬ」
前原一誠は、民富まずんば仁愛また何くにありやで描きましたが、萩の乱の首謀者でして、高杉晋作がもっとも信頼していた人物であり、その実弟・山田頴太郎は、桐野利秋が熊本鎮台司令長官だったときの直接の部下でして、小倉の連隊長を勤めていました。
明治6年、桐野が下野して鹿児島に帰りました後も、小倉に留まっていたのですが、新政府中枢からは、萩の士族が前原を中心として兵を挙げたとすれば、山田は鎮台兵を引き連れて呼応し、それが鹿児島の桐野への呼び水になりかねない、と危惧されていました。
それがために、なんとか山田頴太郎を辞めさせようと、その後釜に乃木希典をもってきたんです。乃木の実弟は玉木正誼で、これがまた前原一誠と親しかったため、山田が辞めてもその部下の動揺が少ないだろうと見られていたようなのですが、このことはまた、あらためて書きます。
河上肇博士というのは、柯公より七つ年下で、長州の支藩的存在だった岩国の出身。マルクス経済学を研究し、共産主義者となった人です。
治安維持法によって検挙された後、獄中で転向。太平洋戦争終結後まもなく、病没しました。
柯公の父、大庭伝七は、天保3年(1832年)生まれですから、吉田松陰、大久保利通より二つ年下、木戸孝允より一つ年上です。
長府は長州の支藩ですが、その長府にあって、高杉晋作の功山寺挙兵に共鳴した青年たちが中心になって結成され、藩に認められる運びになった隊こそが、報国隊です。
大庭伝七は、実兄の白石正一郎とともに高杉とはごく親しく、功山寺挙兵に際しては、高杉から遺書を託されたほどです。
伝七が参謀となりました報国隊には、嘉永2年(1849年)生まれですから、伝七より17年若い乃木希典が参加していまして、第2次長州征討におきます小倉口では、ともに戦いました。
この戦いにおいて、報国隊は山縣有朋の指揮下にあったように書かれていることが多いのですが、長府藩士は山縣率いる奇兵隊を嫌っていまして、正式には高杉が指揮し、病に倒れた後は前原一誠が高杉の後を引き継いで指揮した、ということであった、と思われます。
報国隊はその後、戊辰に際して北越戦争に従軍するのですが、乃木は参加しておらず、これについてはまた述べたいと思いますが、伝七が従軍しているのかどうかは、ちょっとまだ調べておりません。
ともかく。
長府報国隊にいたといいますことは、戊辰戦争においては勝者の側にいたわけなのですが、戊辰戦争後の奇兵隊脱退騒動にも見られますように、勝者の中の敗者になった者も数多くいまして、下手をしますと、敗者よりも恵まれない勝者もあったりします。
大庭伝七も、幕末の活躍の華々しさにくらべますと、けっして恵まれた方ではなかったようです。
維新後の秩禄処分により、大多数の士族が失業状態に陥ったわけなのですが、経済的に窮地に追い込まれたのは、決して武士だけではありません。
それまでの城下町の経済は、武士の消費によって成り立っていたわけでして、その武士たちの消費が大きく落ち込んだのですから、近郊の農家も収入が目減りしますし、武家相手の商人も、例えば新政府の伝をたどって納入業者になるなど、うまく立ち回ったごく一部を除いては、生活が成り立たなくなっていきました。
大年寄だった大庭家もまた落ちぶれます。
柯公は明治5年、父伝七47歳、母40歳の時に、長府で生まれました。
長兄とは17も年が離れ、次兄も13年上です。
柯公が生まれた頃、すでに長兄は東京へ出て、軍人としての道を歩き始めていた様子なのですが、「山縣有朋宅に書生に住み込んだ」結果、それは得られたことでした。
幕末、高杉晋作の大きな信頼を得ていました伝七にしてみましたら、維新後の山縣と自分の立ち位置の格差に、愕然とせざるをえなかったのではないでしょうか。
明治9年、柯公5歳の年に、伝七は故郷長府を後にせざるをえなくなります。
経済的な行き詰まりも大きかったのでしょうけれども、明治9年といえば、萩の乱が起こった年です。
後年の柯公の前原一誠への傾倒から逆算しての話なのですが、あるいは伝七は、士族反乱への関与を疑われて、故郷に居づらくなったのではなかったでしょうか。
このとき、柯公の母親は長府に残ったもようで、幼い柯公は母と生別。2年後に、母は長府で病没します。
伝七一家が最初に落ち着いたのは大阪です。
伝七がありついた職は、大阪府庁の学務課でした。
幕末の伝七の功績からしますならば、たいした職ではないのですが、上司に日柳燕石の息子・日柳政愬がいて、なにしろ燕石は、高杉晋作を匿って、身代わりに高松藩の牢に囚われた人ですし、やはり高杉と格別な関係にあった伝七にとっては、居心地のいい職場だったのだそうです。
しかし、大阪にいたのは1年ほどで、東京で軍人になっていた長男の勧めがあり、伝七一家は徒歩で東海道を上り、東京へ向かいます。
落ち着いた先は、四谷鮫河橋町88番地。うーん。
四谷鮫河橋も広いのかもしれませんが、鮫河橋谷町は、有名な貧民街です。
まあ、伝七一家が食い詰めて上京したことは確かですので、相当に貧しい生活であったのではないでしょうか。
伝七は、息子二人の勧めでなけなしの持ち金をはたいて洋服をあつらえ、長州閥の縁をたどって就職活動。
結局、佐久間良一という人物が口をきいてくれて、太政官文部省の末端役人にひろわれます。
柯公は四谷小学校へ通うこととなりましたが、伝七は上方から愛人を連れてきて家事を任せており、その愛人の母親も同居しているところへ、柯公の姉が身ごもって出戻ってきます。愛人の母親は、柯公に親切だったそうなんですが、女たちは三つどもえの不和で、柯公は家庭の愛情とは無縁に育ちました。
そして伝七は、明治18年(1885年)、柯公が満13歳のころに、幕末の活躍、その教養の高さと引き比べるならば、不遇ともいえる境涯のまま、病没します。
とはいえ、柯公の長兄は軍人に、次兄は役人になっていて、それはやはり長閥のおかげだったわけなのですが、末弟・柯公のめんどうをみるほどの出世ができていたわけでもなく、柯公は小学校を卒業後、13歳にして太政官の給仕となり、やがて書紀に取り立てられて、独学にはげむこととなりました。
柯公をジャーナリズムの道へ導いたのは、ロシア語でした。
教師は、佐賀藩出身の古川常一郎です。佐賀藩の留学生として、明治初年にロシアに渡った人のようでして、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編に書きましたように、佐賀藩は北方防備に積極的でして、明治2年、開拓使の前身であります蝦夷開拓御用局が設置されたときには、その長官(総督)に元佐賀藩主の鍋島閑叟がなっていますので、先々を考え、ロシアへ藩費留学生を送り出したらしいんですね。鍋島閑叟に見込まれた佐賀藩士ですから、古川常一郎は相当な秀才だったとみえ、帰国後、日本におきますロシア語の第一人者となり、二葉亭四迷のロシア語師匠として知られています。
柯公がロシア語を習い始めたのは、明治24年(1891年)だそうでして、なぜロシア語を? という動機に関して、久米茂氏はなにも書いていないのですが、私は、この年のロシアの皇太子(ニコライ2世)来日によるところが大きかったのでは、と思います。
実は、ですね。後に革命で惨殺されることになりますニコライ2世は、このときの軍艦による来日におきまして、最初の寄港地は長崎、次いで鹿児島に足を運んでいるんですね。
江戸時代からの開港地で、ロシアとの交易関係が深い長崎はともかくとしまして、なぜ鹿児島? という疑問は普通に浮かびますし、あるいはこの事実から生まれたとも思えるのですが、「西郷隆盛は実は生きていて、ロシアの軍艦で帰国する!」という記事が、新聞を賑わせたんです。
大津事件 ~ロシア皇太子遭難をめぐって~(アジ歴)
上のアジ歴のページでも、ニコライを襲った津田巡査の思惑を同僚が証言して、「露国の皇太子が日本に御出なら先ず東京に御出になるべきに鹿児島に一番に行かるるは西郷あるがためなるべし」 と述べています。
この2年前、憲法発布に伴います大赦で、士族反乱で賊とされた人々のうち西郷隆盛のみは、薩閥の強い働きかけで赦され、正三位を追贈されました。
西郷隆盛一人は、賞賛することも明治政府のお墨付きになりました中で、自由民権運動の火は消え、政治的変革を求める青年たちの間では、閉塞感がただよっていたといえるでしょう。
後年、柯公が前原一誠に傾倒していたにつきましては、憶測にすぎないのですが、父伝七の影響も大きかったように感じます。前原と、伝七はともに戦ったのですし、前原こそが高杉の維新変革の志を継ぐ人物、と考えていた可能性は高いのです。
その前原を、長州閥は賊のままに放置していたのですが、もしも西郷が生きていて、ロシアの軍艦で帰ってくるのならば、中央でのさばる長州閥は退けられ、前原の敵討ちもかなうはずです。
「西郷隆盛は生きていて、ロシアの軍艦で帰国する!」といいます、日本国民が見た夢に青年柯公は共鳴し、文化露寇以来の日本の宿敵でありながら、そんな夢を育んでくれたロシアという国を、知りたくなったのではないでしょうか。
ともかく。
5年後の明治29年、柯公はロシア極東ウラジオストクの商社に、通訳として職を得ます。
この時代に、柯公はさまざまな人物と知り合いました。
ロシア人で筆頭にあげられるのは、最初に函館で生まれたロシア人、ニコライ・ペトローヴィチ・マトヴェーエフ。
函館-ウラジオストク交流の諸相 特別寄稿 まるで現代そっくり(日露交流史研究会)
上のページによれば、大正8年(1919年)、柯公が最後にロシア入りする2年前に日本へ亡命してきているのですし、どれほどにボルシェヴィキ独裁政権が非情なものか、じっくりと聞いておけばよかったのではないかと思うのですけれども。
日本人で特筆すべきなのは、内田良平です。この人の叔父の平岡浩太郎は、福岡藩士として戊辰戦争に従軍し、明治6年政変後、土佐立志社に応じて自由民権運動に邁進し、西南戦争に呼応して福岡の変を起こし、敗れた後も単身、西郷軍に参加した人です。叔父の影響を強く受けました内田良平は、アジア主義者であり、中国の孫文、インドのラス・ビハリ・ボース、フィリピンのエミリオ・アギナルドなど、アジアの革命独立運動を支援しますが、また黒龍会を主催し、叔父が参加した西南戦争の記録を残しもしました。
つまり、ですね。柯公が内田良平と意気投合したにつきましては、自由民権運動とつながっていました士族反乱に共感し、前原一誠を尊敬していたことと、無縁ではなかったでしょう。
柯公は、ウラジオストク滞在2年の後、福岡の炭鉱に職を得ているのだそうなのですが、久米茂氏は、内田良平の紹介で、平岡浩太郎が経営する炭鉱に就職したのではないか、と推測しておられます。
その後まもない明治31年(1898年)の暮れ、柯公は讃岐善通寺の陸軍第十一師団に招かれ、将校たちにロシア語を教えることとなりますが、これはあきらかに、乃木希典に呼ばれたものと思われます。
乃木希典 (講談社学術文庫) | |
大濱 徹也 | |
講談社 |
大濱徹也氏の『乃木希典』は、手に入りやすく、なお良質の伝記です。
希典は、明治31年10月、第十一師団長に就任し、香川の善通寺へ単身赴任しますが、明治33年に起こりました義和団の乱に際して、連合軍として鎮圧に参加するため、乃木配下からも臨時派遣隊が出ます。このときの列強連合軍は、派手に略奪をくりひろげたことで有名ですが、規律正しかった日本軍も、まったくの例外とは言えず、私的といいますよりは組織ぐるみなのですが、指揮官レベルでの略奪はありました。天津での日本軍は、大量の馬蹄銀をぶんどり、それに部下の指揮官がかかわっていたらしいことを恥じまして、翌明治34年、希典は辞表を書き、依願休職します。
どうやらこのとき、希典は柯公を推挙したらしく、柯公は参謀本部つきになりましたが、一年で辞職し、満州の大連やハルピンを放浪したのだそうです。
休職中の希典は、那須の別邸で農業に励みます。
これは、少年の頃の玉木文之進の教えに従ったものなのでしょうけれども、 那須の開拓地は大きく、実質的には実弟・大館集作が農園を取り仕切り、妻・静子も手伝って、人を雇っていたそうでして、希典が思い描いていたのは、ドイツのユンカーやイギリスのジェントリの日本的あり方であった、といえるでしょう。
明治35年、その那須の希典のもとを、柯公が二葉亭四迷を連れて訪れています。
二葉亭四迷といえば、文学者として高名ですから、大濱徹也氏も「農人故に乃木は注視の的となり、軍人以外の多様な人々の訪問をうけるようにもなった」ことの一環として、二葉亭四迷の訪問を記しておられるのですが、さすがは大濱氏です。二葉亭四迷の訪問が二度におよび、そして、二度目はハルビンへ出発のいとまごいであったことから、「あるいは風雲急をつげるロシア問題につき、日清戦争で旅順を陥した乃木の意見を聴するためのものであったかもしれない」 とも記しておられます。
日露戦争の2年前です。
このとき、柯公もともに満州へわたった、ということになるようなのですが、二葉亭四迷の方は、ハルピンに新しくできる日本の商社の顧問になるための渡航だった、といいます。満州のハルピンは当時、東清鉄道の付属地で、ロシアによって開発され、ロシア人の自治が行われていた都市です。
内田魯庵著「二葉亭四迷の一生」(青空文庫)
内田魯庵著の「二葉亭四迷の一生」によりますと、ハルピンの商店の顧問に招かれただけではなく、「ある筋からの使命を受けていた」 、つまり、「軍部から探索の使命をおびていたのではないか」という噂があったそうなのですが、結局魯庵は、以下のように否定しています。
二葉亭は早くから国際的興味を有して或る場合には随分熱狂していた。が、秘密の使命を果すに適当な人物では決してなかった。二葉亭の人物を見立ててそんな使命を托する人もあるまいし、托せられて軽率に応ずる二葉亭でもなかった。
これはおっしゃる通りで、二葉亭だけではなく、柯公にしましても、決してスパイが務まるような性格ではないのですが、二人して乃木希典を訪ねての渡航だったとしますと、二人の目的としましては、憂国の情に駆り立てられ、ロシア語がたっしゃな自分たちならば、なにか日本にとって有益な情報をさぐりえるはず、ということだったのではないでしょうか。
ちなみに、「二葉亭の伯父で今なお名古屋に健在する後藤老人は西南の役に招集されて、後に内相として辣腕らつわんを揮ふるった大浦兼武(当時軍曹)の配下となって戦った人だが、西郷贔負(びいき)の二葉亭はこの伯父さんが官軍だというのが気に喰くわないで、度々たびたび伯父さんを捉つかまえては大議論をしたそうだ」 ということでして、前原一誠びいきの柯公と、ここでもぴったり気があっていたのでしょう。
長くなりましたので、次回へ続きます。
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お元気でいらっしゃしますか。
NHK大河はもちろん、桐野作人氏のご著書にも、言いたいことはたくさんあるんですけれども。
なんとか、少しでも書かなくてはと、気ばかり焦るこのころです。
Agnesさまもぜひ、ご考察をおまとめください。心より、楽しみにいたしております。