父はほぼ3週間おきあたりのペースで化学療法を行っており、思いの外に「普通」。薬が上手いこと効いてくれた様で、癌は減り続けているらしい。
でまぁ、3回目だかの化学療法の最中なので入院しているのだけれど、相変わらず食事が取れなくなっている。例の「におい」に敏感になる副作用なのだが、病院で出される食事に変化はあまり無いそうなので、売店で食べられる物を買って食べている。
家族としては、体力を付ける為にも食べて貰いたいのだけれど、消化される前に戻してしまうのでは意味が無い。おかゆでさえ、においが強くて駄目だと言うので、困っているのだが、栄養剤も点滴されているので、まぁ何とか持ちこたえているんだと思う。
以前に、同じ様な事を書いた。病人に合わせた食事を提供するのも病院として勤めるべき事ではないかと。未だにそうは思うのだが、病院としては必要とされるカロリーを満たしている食事を出しているワケであって、それが食えるか食えないかは関係ないって事なんだと思う。ごはんが駄目ならパンで…なんて事は素人でも考えられるワケで、研究機関ならでは…なんて考えは毛頭無いらしい。
消耗する体力を補うための食事を家族が考えないといけないとは…。栄養士でも身内にいればたやすいかもしれないけれど、なかなかねぇ…。
まぁ、化学療法の終わりの頃には、においで食えないって事も無くなるみたいなので、退院後に美味しく食べて貰う他に無いんだけれど、入院中が気の毒でなぁ…。製薬会社とか、食品メーカーはこうした研究して食事と成りうる商品を出すと売れるかもしれない。栄養価はあって、味もそこそこ。だけれど「におい」は無い…なんて物があれば、とりあえずうちの親父は喜ぶと思うが、同じ副作用で苦しんでいる人も少なくは無いと思うしねぇ。
ちなみに、家族に向けての症状に対する病院側の説明は入院した時以外に無い。
「だいぶ、調子よく薬が効いている…」
的な事は本人を通して聞いてはいるが、それだけでしかない。実際に、化学療法を終えて、家に数週間帰ってくると、普通の人に見えるし、本人も痛いだとか苦しいだとかは無いそうで、青白いのと幾分こけたかなぁ…としか感じないので、そうなんだろうとは思う。
「あれから薬でここがこーなって、血液中のこれがこーんなにこうで…」
なんて事があるのかと思っていたのだが、無い。無くて普通なのかどうなのか知らないが、入院時にはあれやこれやの説明があっただけに、片手落ち…な感じもしないではない。次に見舞いにでも行った時に、医者でも看護師でも脅してくるかなぁ。それとも、まだ「区切り」ってモノが来ていないのかもしれないなぁ。
区切りって言うのは、ある程度の目安で、一応の事はやるだけやって、こんな感じ…って事だと思うが、そのスタンスが患者にも家族にも判らない。だからこそ不安でもあるし、不信にも変わる。病院任せ…って事では決していないつもりではあるのだけれど、病院から何かなければ全く判らないのも実情だ。
そう言った、患者と家族と病院をバラバラにしないための部署がある病院もある。「総合相談部」なんて看板が出ていれば恐らくそれ。私が以前に勤務していた病院では、ここに病院の顔とも言えそうな「重鎮」が鎮座していた。医者にも看護師にも一言も二言も言える、プロの看護師が相談に乗ってくれるのである。表向きには病院の顔では無いけれど、裏に回れば知らなきゃモグリとさえ言われる程の「重鎮」だから、頼もしいのは見るだけで判る。
そうであっても、患者や家族、病院や医師を絡めたトラブルは無くならない事も知っている。全ての意思の疎通を図るのは至難の業って所じゃないだろうか。「重鎮」であっても苦悩の日々は続いていた。コメディカルの私の前で、涙を流して悔しがる重鎮の姿を知っている。誰もが納得できる医療は、完成されてはいないのである。完成を夢見て努力を続ける人はいても…だ。
病棟や病室、科で区切られた病院は、利用する我々にだって細分化されている事が一目で判る。それらをひっくるめて「病院」ではあるのだけれど、個々に置かれた患者や家族は閉鎖的なモノをそこに感じてしまう。それも区切られた狭い所、狭い考え。そうでなければイケナイ所、そうでなくてもイイ所、それらが混在するのも確かな事だけれど、病や怪我に倒れた人の回復を願う所には違いがあってはイケナイ。だからこそ、見えてこない不満や不信を取り除いて治療に専念するための部署がわざわざ作られたりしている。それが機能しているのかいないのかは、相談窓口が暇かそうでないかの違いで判るだろう。窓口があっても利用する人がいないのは全てが円満か、そうでないかのどちらかだろうねぇ。
まぁ、あまりにも…って事があれば、ここで書けばいいか。書いてる時には遅いって事もあるだろうけど、患者は自分じゃない。患者である父が家族に訴えるほどのあまりにも…な状況だけは避けたいが、それもこれも「意思の疎通」なんだと思う。
でまぁ、3回目だかの化学療法の最中なので入院しているのだけれど、相変わらず食事が取れなくなっている。例の「におい」に敏感になる副作用なのだが、病院で出される食事に変化はあまり無いそうなので、売店で食べられる物を買って食べている。
家族としては、体力を付ける為にも食べて貰いたいのだけれど、消化される前に戻してしまうのでは意味が無い。おかゆでさえ、においが強くて駄目だと言うので、困っているのだが、栄養剤も点滴されているので、まぁ何とか持ちこたえているんだと思う。
以前に、同じ様な事を書いた。病人に合わせた食事を提供するのも病院として勤めるべき事ではないかと。未だにそうは思うのだが、病院としては必要とされるカロリーを満たしている食事を出しているワケであって、それが食えるか食えないかは関係ないって事なんだと思う。ごはんが駄目ならパンで…なんて事は素人でも考えられるワケで、研究機関ならでは…なんて考えは毛頭無いらしい。
消耗する体力を補うための食事を家族が考えないといけないとは…。栄養士でも身内にいればたやすいかもしれないけれど、なかなかねぇ…。
まぁ、化学療法の終わりの頃には、においで食えないって事も無くなるみたいなので、退院後に美味しく食べて貰う他に無いんだけれど、入院中が気の毒でなぁ…。製薬会社とか、食品メーカーはこうした研究して食事と成りうる商品を出すと売れるかもしれない。栄養価はあって、味もそこそこ。だけれど「におい」は無い…なんて物があれば、とりあえずうちの親父は喜ぶと思うが、同じ副作用で苦しんでいる人も少なくは無いと思うしねぇ。
ちなみに、家族に向けての症状に対する病院側の説明は入院した時以外に無い。
「だいぶ、調子よく薬が効いている…」
的な事は本人を通して聞いてはいるが、それだけでしかない。実際に、化学療法を終えて、家に数週間帰ってくると、普通の人に見えるし、本人も痛いだとか苦しいだとかは無いそうで、青白いのと幾分こけたかなぁ…としか感じないので、そうなんだろうとは思う。
「あれから薬でここがこーなって、血液中のこれがこーんなにこうで…」
なんて事があるのかと思っていたのだが、無い。無くて普通なのかどうなのか知らないが、入院時にはあれやこれやの説明があっただけに、片手落ち…な感じもしないではない。次に見舞いにでも行った時に、医者でも看護師でも脅してくるかなぁ。それとも、まだ「区切り」ってモノが来ていないのかもしれないなぁ。
区切りって言うのは、ある程度の目安で、一応の事はやるだけやって、こんな感じ…って事だと思うが、そのスタンスが患者にも家族にも判らない。だからこそ不安でもあるし、不信にも変わる。病院任せ…って事では決していないつもりではあるのだけれど、病院から何かなければ全く判らないのも実情だ。
そう言った、患者と家族と病院をバラバラにしないための部署がある病院もある。「総合相談部」なんて看板が出ていれば恐らくそれ。私が以前に勤務していた病院では、ここに病院の顔とも言えそうな「重鎮」が鎮座していた。医者にも看護師にも一言も二言も言える、プロの看護師が相談に乗ってくれるのである。表向きには病院の顔では無いけれど、裏に回れば知らなきゃモグリとさえ言われる程の「重鎮」だから、頼もしいのは見るだけで判る。
そうであっても、患者や家族、病院や医師を絡めたトラブルは無くならない事も知っている。全ての意思の疎通を図るのは至難の業って所じゃないだろうか。「重鎮」であっても苦悩の日々は続いていた。コメディカルの私の前で、涙を流して悔しがる重鎮の姿を知っている。誰もが納得できる医療は、完成されてはいないのである。完成を夢見て努力を続ける人はいても…だ。
病棟や病室、科で区切られた病院は、利用する我々にだって細分化されている事が一目で判る。それらをひっくるめて「病院」ではあるのだけれど、個々に置かれた患者や家族は閉鎖的なモノをそこに感じてしまう。それも区切られた狭い所、狭い考え。そうでなければイケナイ所、そうでなくてもイイ所、それらが混在するのも確かな事だけれど、病や怪我に倒れた人の回復を願う所には違いがあってはイケナイ。だからこそ、見えてこない不満や不信を取り除いて治療に専念するための部署がわざわざ作られたりしている。それが機能しているのかいないのかは、相談窓口が暇かそうでないかの違いで判るだろう。窓口があっても利用する人がいないのは全てが円満か、そうでないかのどちらかだろうねぇ。
まぁ、あまりにも…って事があれば、ここで書けばいいか。書いてる時には遅いって事もあるだろうけど、患者は自分じゃない。患者である父が家族に訴えるほどのあまりにも…な状況だけは避けたいが、それもこれも「意思の疎通」なんだと思う。