きょうの空はどんよりと雲に覆われ、かなり冷え込んでいるが、こう寒くては用事が無ければ外に出る気力も失せるというものである。
さて、きのうに引き続き、「志村城址」を辿ってみよう。
「志村城址」の象徴、二の丸跡にある熊野神社の境内、社殿の少し手前の左手には、熊野神社の由緒が記された説明板が建っている。
これによると、熊野神社は、長久3年(1042)にこの地の豪族志村将監が紀州熊野から勧請したもので、康正2年(1456)、志村城主千葉隠岐守信胤が城砦を築くとともに、城内鎮守として崇敬してきたものだということである。
社殿左手の、一段低くなった場所には土塁と空堀の跡がしっかり残されている。
これは、本丸と二の丸の境界にあったものだということだが、ここを見なければ、城跡だとはいわれてみなければ全く分からないことだろう。
熊野神社を出て左側には志村小学校があるが、ここと、隣に建つマンション(ヴィオスガーデン城山)の敷地が、志村城の本丸跡である。
この写真を撮るときはちょうど児童の下校時だったので、見送りの職員にちょっととがめられたが、頼み込んで1枚だけ写して来た。
志村小学校の正門前から左手はこんな急坂になっていて、志村城が自然の要塞だった面影を感じさせてくれる。
坂道を下って、下の方から見上げたマンション(ヴィオスガーデン城山)は、いかにも聳え立つといった感じであった。
ここからすぐ先には、首都高5号線の志村料金所がある。
次は三の丸跡へ行くのだが、次回に乞う、ご期待・・・。
さて、きのうに引き続き、「志村城址」を辿ってみよう。
「志村城址」の象徴、二の丸跡にある熊野神社の境内、社殿の少し手前の左手には、熊野神社の由緒が記された説明板が建っている。
これによると、熊野神社は、長久3年(1042)にこの地の豪族志村将監が紀州熊野から勧請したもので、康正2年(1456)、志村城主千葉隠岐守信胤が城砦を築くとともに、城内鎮守として崇敬してきたものだということである。
社殿左手の、一段低くなった場所には土塁と空堀の跡がしっかり残されている。
これは、本丸と二の丸の境界にあったものだということだが、ここを見なければ、城跡だとはいわれてみなければ全く分からないことだろう。
熊野神社を出て左側には志村小学校があるが、ここと、隣に建つマンション(ヴィオスガーデン城山)の敷地が、志村城の本丸跡である。
この写真を撮るときはちょうど児童の下校時だったので、見送りの職員にちょっととがめられたが、頼み込んで1枚だけ写して来た。
志村小学校の正門前から左手はこんな急坂になっていて、志村城が自然の要塞だった面影を感じさせてくれる。
坂道を下って、下の方から見上げたマンション(ヴィオスガーデン城山)は、いかにも聳え立つといった感じであった。
ここからすぐ先には、首都高5号線の志村料金所がある。
次は三の丸跡へ行くのだが、次回に乞う、ご期待・・・。