今朝も寒いには寒いのだが、うっすらと陽が射しているので、お昼頃には少しは暖かくなってくるのだろうか。
私の「志村城址」探訪記も三の丸跡を残すのみとなったが、もう少しお付き合いを願いたい。
では、三の丸跡へご案内・・・。
志村城の三の丸跡は熊野神社の境内とこの路地で区切られている東側一帯に広がっていたそうである。
ふと見ると、思いもかけず右手の建物のフェンスの中に「志村役場跡」の説明板が建っていた。
それによれば、当地には大正2年(1913)から昭和7年(1932)に板橋区ができるまでの20年間、志村役場が置かれていた。
当初の役場は志村延命寺内に置かれていたが、明治36年(1903)の火災で焼失して移転後、さらに大正2年に当地に洋館2階建の庁舎を新築し移転したとのことである。
ここは、東京都聴覚障害者支援センターの敷地でもある。
支援センターの先の路地を左に入ると、斜め正面に日本電産コパルの社屋が見える。
現在、マンション(ヴィオスガーデン城山)が建っている本丸跡にも、昔はコパルの工場が建っていたのだが・・・。
この路地を挟んだ両側の敷地が三の丸の跡だといわれている。
コパルの社屋の裏側に回ると志村城山公園との境の道路になる。
ここから眼下に志村城山公園を見下ろすと、志村城が自然の要塞だった頃が偲ばれる。
志村城山公園に戻り、公園の中を歩いてマンション(ヴィオスガーデン城山)の玄関先まで行ってみたが、さすがに見上げるような高さである。
さながら、現代の要塞といった感がなきにしもあらずといったところである。
往時の志村城も、こんな具合に聳え立っていたのだろうか。
ここの左手に志村城址に登っていく坂道がある。
この坂道を登りきると熊野神社の裏手に出ることができるのだが、ちょうど年配の方がゆっくりゆっくりと登っていく姿が印象的であった。
ちょっと駆け足で回ってきたようにも思うが、これで、私のつたない「志村城址」探訪記は終りである。
また折を見て、近くの城跡にも足を運んでみたいと思っている。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。