近事変々

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※表題の「変々」は字面の遊びです。(念のため)

六郷神社のこども流鏑馬(やぶさめ)

2012-01-11 14:55:08 | 民俗・行事

毎年1月7日に大田区の六郷神社で行われている「こども流鏑馬」の行事を初めて見に行ってきた。
23区内とはいえ品川から先には滅多に行ったことがないのだが、京浜急行の雑色駅から第一京浜沿いに10分ほど、大田区東六郷三丁目に目指す六郷神社はあった。
六郷の総鎮守と称するだけあって、境内も広く立派なお社である。

[六郷神社由緒]

伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられます。  

文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営しました。 現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る浄水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものといわれております。

天正19年(1591)徳川家康は、神領として十八石を寄進する朱印状を発給し、慶長5年(1600)には六郷大橋の竣功を祈って願文を奉り、また当社の神輿をもって渡初式を行ったと史書にみえます。当社が八幡宮の巴紋と併せて葵紋を用いているゆえんは、ここにあります。


六郷の総鎮守 六郷神社
http://www.rokugo.or.jp/index2.html

  

[六郷神社 こども流鏑馬]

六郷神社のこども流鏑馬は、毎年正月7日に行われ東京都の無形文化財の指定を受けている古式ゆかしい行事です。
流鏑馬とは、もとは源平時代から創められ、鎌倉時代になって神前の行事として盛んになったものであります。
この質実剛健の精神を男の子に取り入れ、射士となり鬼の目を射らせてその年の邪気を祓い、健康、開運、出世を祈る行事です。
また新たに、平成十年より小笠原流の馬装具にて装飾した木馬に跨り弓を射る方式も取り入れています。(六郷神社配布文書)


子供やぶさめ/近藤英一郎「東京の祭り」
http://members2.jcom.home.ne.jp/ichikondo/01%20kodomoyabusame.html

境内左手には葵紋の幕で仕切られた流鏑馬の射場があり、木馬と竹矢来の的が設置されていたが、始まるまで1時間ちょっと、その場で待っていた。
お天気はよかったのだが、風があって、あまり日の当らない西側では少し寒かった。

  

流鏑馬の的は直径1m80cmほどの輪の中に「八方白眼(はっぽうにらみ)」という4対の目玉を墨で描いてある。
上から順に内、上、外、下をにらみ、上2対はつりあげ眉、下2対はさがり眉である。
(説明文は、六郷神社配布文書によるものである)



射士は3歳~12歳までの男子で、狩衣姿で腰に刀、襟に御幣を挿している。
神社役員の介添えで、二人一組で的に向かうが、順番はくじ引きである。

  

最初に1番と2番の射士が「山越し」といって、ふたりの矢を交差させ、的の上を越すように高く射る。 (弓引きは、すべて神社役員の介添えで行われる)



次いで、3番と4番が同じように矢を交差させ1の目玉を射る。
以下2人1組で「ヤー!」と掛け声もろとも目玉を射る。
9番・10番までの射士で八つの目玉全部を射抜く。      

矢を射るといっても、弓に矢をつがえたままで、神社役員の介添えで的を突くのである。
的を突きさした矢は、矢抜き役員が抜きとって射士に渡す。

 
       

1番~10番の5組が行う「歩射(ぶしゃ)」が東京都指定無形民俗文化財に指定されているのだが、平成十年より木馬に跨り弓を射る方式も取り入れられている。
こちらは、竹筒の上に載せられた杉板の的を、木馬の上から実際に射るという様式になっている。

 

 

東京都指定の無形民俗文化財ということなので、どんなものかという期待もあって出掛けたのだが、当然のことながら本来の流鏑馬を模したものに過ぎなかった。

木馬方式では得意満面のお子さんと、わが子の晴れ姿を写真に収めようとする親御さんが多数見られたが、同じことの繰り返しなので途中で帰る観客も多々あった。
かくいう私も、そのうちの一人であったことはいうまでもない。