じいじのひとりごと

高齢者の悲哀と愚痴を綴っています
唯一の相棒、mシュナウザーのベルが残り人生を伴走してくれます

ケセラセラ

2017年11月24日 | 日々のこと

この数年にも身近な人や知人が相次いで亡くなった。

いずれもがんであった。肝臓がん、すい臓がん、食道がん

知る限り、いずれも診断されてからほぼ一年前後であった。

妻もまた同様でしたから・・・・身につまされる。

 

人はいずれ必ず死ぬ、死亡率100%なのだけれど、誰も普段はそんなことは考えない。

私自身も一時の深刻な時期を過ぎて、今ではそのことはほとんど考えなくなっている。

私はいつでもいいと思っている。心つもりは出来ているが・・・

なのに物理的準備が出来ていないのだ、身の回り整理、、先延ばしし続けているね。

エンディングノートなるものも、持ってはいるものの全く白紙のまま・・・・

 

誰が言ったか、死の受け入れ方には、3つのパターンがあるという。

1つは 「自然に還る」というもの。自分も木や草と同じく自然の一部で、死ぬのは自然の中に還ることなのだという考え。

2つ目は、「命は子供に伝わっていく」という考え。希望を次世代に託して安心するという人。

3つ目は自分の選んだ治療とその結果に納得しており、「わが人生に後悔なし」という満足感により受け入れられる人。

 

私は宇宙を想像するのが好きである。何億年、何億個、銀河、ビッグバン・・・、

自然の営みを考えるのも好きである。微生物の世界、未知の果てしない自然界の広がり・・・

宇宙の星も草も木も微生物も、小さな虫も動物たちも、人間もその中では同じではないか。

 

その意味では1つ目に近いかもしれない。

だがどれに当たるかなどとは言えないね、どれもそれぞれに思いがあるあるから。

 

 

それよりも、現実問題としてはそれまでの経過過程が心配事

ケセラセラで行くしかない

同じだと思って撮ってきた看板、先日のと微妙に違っていました。

でも赤文字のところは同じはず・・・?

 

 

コメント (14)
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