諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

121 幸福の種 #16 まとめ 🈡

2021年02月14日 | 幸福の種
八ケ岳🈡 横岳~硫黄岳の稜線 ここでたくさんの高山植物がみられます。

幸福の種⑦
「絶対諦めない」という言葉

シリーズ最終回は、困難な状況にある子ども達のことについて考えます。


「幸福の種」というシリーズではあるが、幸福を一般論であてはめにくい子がある。
幸福は、結局その子の背負っている条件によることが多い。
大まかだが、一般論がある程度あてはまるケースと、条件がシビアでそんな枠組み自体をかぶせるべきでないと思われるケースがある。

教師としての一定のキャリアがあると、いろいろな子ども達がいろいろな条件下で生きているケースを見てきている。
その中には、私達自身の想像力でも届かない状況になっているものも少なからずある。

幸福論を考えている時、それらのケースを思い出しつつ、自分の考えが通用するものか、それぞれのケースにあてはめて検証してみる。
それは避けられない作業だが、ハードである。
考えているうちにかなりの体力が消耗するような感じがある。
(あの子に、「幸福」だなんて‥)

でも実際、そういう状況の子を「想定外」などとできない。
しかも、その子ども達は、その状況を自ら主体的に招いてしまったわけではない場合が多いから、「私だって…」と言われた時、大変せつない。

もちろん、それを解決するのは教育によるものとは限らない。児童福祉の分野だったり、将来の危機はその時の社会システムが対応する問題なのだろう。

しかし、子どもたちの届かない現実を感じながらも、教育には(教師には)彼らに道をつける方法がある。
まったくシンプルな方法だが、

「絶対諦めない!」

と、言葉でいうことではないか。

幸福を希求する力を呼び起こすための言葉の力ともいえよう。
その子を知り、共に生きてきた教師にできることである。

そして、その担保になるものが、本テキストにある。
困難な状況にある方々が、どう生きがいを求めて行ったかを綴った記録である。

彼らは極限とも思われる状況でも“変革体験”を経て生きがいを得て行く。
生命が、もともともつ底力を証明するかのように。
そして、その「変革」の中身への注意そのものより、「諦めない力」も強く働き得るということも分かるのである。
「絶対諦めない」ことは、絶対何らかの生きがい(幸福)へとつながっていく。

そんな個々の記録の辻々に神谷さんのキーセンテンスがある。

・生きていて出会う、いろいろの場面を味わい、その中から生きがいを見つけ出すこと
・生きがいは、「生きがい感」という感覚なので、人に理屈で説明できなくていいこと
・「生きがい感」は人のそれとは比較できない
・生きがいが奪われた時こそ、生きがいが、もともとあるものとして、再度発見する
 機会になる
・生きがいは動的なもので、形がない。働きとして感じる精神性の感性こそ、これに気づく
・絶望の弦楽器は自分で鳴らすものとして、絶望した時に作られるが、その楽器は他人の絶
 望にも共鳴し、共感しうる
・そもそも生きていることは、大きなものの上に成り立っている
・孤独な悲しみの底で、その自分をそれでも支えているものに気がつく、返って孤独でない
 ことに気づく。
・生きてるだけで、生きがいはそなわっている


これらは、どんな重篤な場面でも希望を失わなかった方々の至った貴重な境地といってもいいだろう。
それは手の届かな子(人)の魂を救う言葉になりうるのかもしれない。

そして、私達(ことに特別支援学校の)教師にとって大きいのは、重篤な病をもった人に真摯にむきあい、彼らの視線を慎重に、そして謙虚に追いながら自らの視線もあわせようとした人があったことである。

神谷美恵子さんは別の本で、自ら病で倒れ看取られる側に立った時、こんな詩を書いたという。

こころとからだを病んで
やっとあなたたちの列に加わった気がする
島の人たちよ、精神病の人たちよ
どうぞ 同志として うけ入れてください
あなたと私のあいだに
もう壁はないものとして

凄い人がいるものである。

        (シリーズ 了)


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120 幸福の種 番外

2021年02月07日 | 幸福の種
八ケ岳 北八ケ岳から南八ケ岳をみています。一面のカラマツ紅葉

まとめが長くなってます。
私たちは子ども達の幸福のついて意識的に、あるいは無意識に考えつつ、日々の指導に当たっています。

だけど、こんな根源的な問題を意識レベルで、過ぎ去る日々の中で立ち止まって考えるのは難しいものです。

私自身、幸福論を考えとき、息をつめて、海底の真珠をとりに、素潜りで挑むような感じがしています。
なかなか、日常の諸事に追われて息が持たないというの実感です。

でも実際。日々の指導の根底には「どう係ったら、この子の将来に有用だろうと」無意識に思っているはずです。
そこには個々の先生なりの子どもの関係者としての「幸福論」が働いているはずです。

そんな想いによって、日々の指導は成り立ってします。
こんなことは「学習指導要領」にはなく、みな自前の良心によっているのです。

そんな感覚。

そんな自前の良心を発揚?しあうシステムが仲間なんだろうと思ったりします。
手弁当?であつまるような仲間たちこそ、幸福論の答えをもったいるのかな、と思ったりします。

今日は、まとめはできませんでしが、もう少し、海底に潜って真珠をさがしたいと思います。

Coming Soon.


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119 幸福の種 #15 まとめ④

2021年01月31日 | 幸福の種
コマクサ 八ケ岳 硫黄岳付近

幸福の種⑥
「示す幸福」から「探す幸福」へ

神谷さんは50年前に予言的なことを述べている。

生活を陳腐なものにする一つの強大な力はいわゆる習俗である。生活のしかた、ことばの使いかた、発想のしかたまでマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されて行くおそれが多分にある。かりに平和がつづき、オートメーションが発達し、休日がふえるならば、よほどの工夫をしないかぎり、「退屈病」が人類の中にはびこるのではなかろうか。

「よほどの工夫」が必要といっている。
そのこととつながっているかどうか。テレビ番組の中で磯田道文さんがコメントする。

社会の行き先(西洋化とか、軍事化とか、経済大国化とか)がはっきり決まっている場合には、仔馬がどうであろうが、連れて行っても(そこの)水を飲ませればいい。でもこの社会が仔馬に飲ませる水場の位置を知らない場合はどうしよう。仔馬の鼻の感覚に任せる他ない。つまり子どもの自主性に任せつつ、これまで経験で「あっちかもね」とか言いながら一緒に歩くしかない。水は1か所ではないかもしれない。馬ごとにあるのかもしない。(ないのかもしれない。)
(英雄たちの選択「100年前の教育改革 大正新教育の挑戦と挫折」)

磯田さんの話は幸福に特化した話ではないが、決まった形のものとして「幸福」を提供できない状況に「この社会」はあると言いことでもあるだろう。
馬をつれながら水場をさがすことには「よほどの工夫」がいる。

磯田さんのコメントの最後に「(ないのかもしれない)」と付け加えた高橋源一郎さんは、著作の中で「探す」ことについて、

社会は、子どもたちを「隷従」させようとしているのかもしれない。けれども、その代償として、「やるべきこと」だけは教えてくれるのである。
自由の風は冷たく厳しい。社会が与えてくれる「保護」の衣を脱ぎ捨てた時、わたしたちは、初めて、自分がそんなにも弱かったことを思い知る。だが、そこからはじめるしかないのだ。

(高橋源一郎、辻真一『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』大月書店)

それは新しい社会の可能性でもあるという。

テレビのコメントは口語のため少し校正しました。


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118 幸福の種 #14 まとめ③

2021年01月24日 | 幸福の種
八ケ岳 最高峰の赤岳 権現岳から 八ケ岳南側はかなり険しいです。

幸福の種⑤
「起伏」知

徳川家康は、

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。


という。
昔の人は、人生は起伏あって、その道のりを歩かざるを得ないことをはじめから覚悟をもって知っていたに違いない。
大きな社会環境の変化の少ない江戸時代にあって、この言葉は真理に近いものだったと思われる。

すでに触れたように今日は変化が激しく前世代の教訓が生かしにくい状況にある。
そうすると目前の坂の次にどんな坂があるのかが見えにくく、遠くに向かって歩くイメージが持ちにくい。
前世代としても具体的なアドバイスができないから躊躇がある。
だが、実際には重荷の量や背負い具合が変わることはあっても、家康のいう「重荷を負うて遠き道を行く」ことは変わらないのである。

これまでも起伏を経験してきたし、これからも起伏を上り下りすることを覚悟して歩むことが、一つの幸福の条件なのではないか。

 元和田中学校長の藤原和博さんの実践に、
「人生エネルギーカーブを描こう」
というのがある。
横軸に幼少期、幼稚園、小学校1年生…と時間軸とり、縦軸はその時々のエネルギーをとっていく。そうして、現在のエネルギーに至るカーブを描きその起伏の要因(出来事)を一緒に書き込んでいく。上がり調子の時は、算数の成績が上がったとか、〇〇さんと遊ぶのが楽しかったとか、下がり基調の時は、健康面だったり、いじめがあったり、転校したりとか、いろいろである。
そういうリアリティが起伏形成していることを見える化して意識にのぼらせるらしい。その先に将来を展望するという前提である。

子ども達の幸福感はその時々カーブの接線方向に向きがちだ。時々で一喜一憂するのではく、長いスパンで着実に歩むことで大きな起伏も乗り越えられだろうということは教えるべき内容である。

神谷さんは、
今を深く生きることは、過去の意味さえ変える
という。
過去はカーブ変わらないものではなく、今の生き方にによってその価値を変えながら変化しうるということだろう。



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117 幸福の種 #13 まとめ②

2021年01月17日 | 幸福の種
北八ケ岳 大河原峠付近で

幸福の種③
小さな企画と跳躍


幼児がおもちゃでも時計でも、なかに何がはいっているかをしらべようとして、容赦なくこわしてしまう姿を思い浮かべれば、これが人間に備わっている基本的な欲求のひとつであることがわかる。これが人間を内外の冒険と探究にかりたてる原動力であろう。

のちに出てくるキーワドは「歩みを止めない」ということだ。
歩みを止めないといった場合、明日の状況の変容を期待しつつ努力するいわば「静的な歩み」と、人間にもともと備わてる冒険と探求の心によって後押しされるような「動的な歩み」があるのではないか。

特に子ども時代の冒険心と探求心から小さな企てを行うことは、その後のいろいろな状況でのふるまい方の選択肢を増やすことを可能にする。

先日、コロナに対応する小学校の様子がテレビでレポートされ、子ども達にも細かくルールがあることを取り上げていた。これに対しコメントして尾木直樹さんは、
「(子ども達は)ルールも遊びに変えているでしょ。子ども達は逞しいんですよ。」(正確か不明です)
という。
こういう機転が子どもにはある。

理屈抜きに思いついてやってみる。もちろんその跳躍の方向性はその時にはなじまないものであっても、何度もやることでいろいろな跳び方を知る。

おもちゃや時計を容赦なくこわしてしまうことで、単にその物の構造を知るというのではなく、跳躍力を養っているとも言える。
その跳躍のコツはいろいろ状況を乗り越える、あるいは楽しむ力となる。

幸福の種④
「石の上にも3年」力


現状から跳躍することと同時に、そこにとどまり続ける経験も大切だ。

重度の生徒の摂食指導でも、ずっと続けることで少しづつ上手に食べられるようになる。
歩行の練習も、日々続けることで、適切な部分の筋力が強化され、試行錯誤の結果合理的な足の運び(実は全身動き)が分かってくる。
目新しさのない日々の積み上げが、彼(女)に新しい世界を開かせることになる。

具体的な成果が見える場合だけではない。
勉強や仕事を強いられるようにやっているうちに、それそのものの面白さや味わいがあることを見出すことがある。
つまり、やることは変わらないけどこちらの内面が変わるという場合だ。

そういう意味では「石の上」でも歩みは続いているのである。
幸福というものが外の条件だけでは定義できないことはこのことによるのだろう。

小学生の時、皆で野球をしている時、ある子が、
「オレ、仕事がある」
と言って、いいところなのに帰ってしまった。
以前から親を手伝って、新聞配達をしているたのである。

その姿はすっと割切れていて、すでに彼は彼の人生を歩んでいるように見えた。
私には彼の景色は見えなかった。

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