テーマ設定の山 山道を長時間歩くと、しばらくの間の自分のいたところがずいぶん狭く感じてきます。
教育哲学のことをつづけます。
この教育哲学の停滞している状況を、この教育学会会長は、
学校教育が目指すべき方向について、教育学者にもっと語ってほしいと私は思っている。現在の教育哲学者(少なくとも日本の)は、この点でずいぶん禁欲的な感じである。いや、禁欲的すぎる。
と言って教育哲学への期待を述べているのである。
性急な議論で、その妥当性を吟味される傾向があって話しにくいこともあるのかもしれないが、「そもそも、今日というのはねえ」から始まる教育哲学がもっと語れていいと私も思う。
若い先生が「近未来からの風」の中でも、教育ということそのものに確かな価値があり、仕事に誇りを持っていかれるためにも。
前回、ポストモダン論よって「教育の正当性や方向性をを根拠づける、最終的な足場は無い」ことが明らかになったと言うことを述べた。そして、広田さんは加えて、
教育学者が確固とした足場に立って教育の目的について語りえなくなった近年の事態は、実践的教育学の規範創出力が著しく減殺された状態である。これは、教育哲学や教育思想史学を研究するものだけの問題ではない。他の分野の教育学者にも大きな影響及ぼしている。
といい、こうした教育の現在的使命やあるべき方向(教育の目的)を語り得なくなった教育学の状況の中で、「現代の教育は、教育目的の次元で振り回される事態になっている」、といい、具体的に3つの点を挙げてそれを説明している。(見出しは私)
一つ目…教育な内容の決定者
現実社会の大きな変化によって、教育の目的の語り直しが教育学の外の人たちによってなされ、それが教育を大きく変化されてきた。財界人、エコノミスト、保守政治家や保守的評論家……といった人たちである。教育学者が黙り込んでいる空隙に、そういう人たちがやすやすと入り込んできたわけである。
グローバル化の急速な進展に対応した、旧来の社会システム全般の見直しの一環として、教育システムの中に市場原理や競争、評価を持ち込もうとする動きである。
財界人やエコノミストは、教育は、何よりも労働者の生産能力を高める手段である、と言うふうに考える。有能な労働者を学校が作り出すような方向へと教育改革を進めようとする。
(保守政治家や保守的評論家)は、共同体的な価値観を学校教育の中で教えさせることに心を注ぐ。教師の「教育の自由」とか、生徒の「思想・信条の自由」とかには無関心で、愛国心とか道徳を学校でガンガン教えさえすれば、秩序正しい人間が作れるはずだと素朴に考えている。
二つ目…被教育者の顧客化
学校教育の崇高な使命とか公共的意義のような部分がポストモダン論で「根拠なし」と叩かれていたちょうどその頃から台頭してきたのが、消費者資本主義的な学校利用観である。つまり「サービス消費者としての親・子ども」という存在の登場である。教育が、購入可能なサービスとして位置づけられ、教育の質は「サービスの質」と読み替えられるようになった。
ショッピングモールのように、学校や教師が思い思いに飾りつけた店を出して、お客さんが立ち寄ってくれるのを待つ、と言う風な感じである。
そこでは、思弁的な「教育の目的」も、学校教育法等に盛り込まれた「教育の目的」も、もはやさしたる意味を持たない。親や子どものニーズや選好がすべてある。教師はただ求められるものを察知し、それを提供する役割になる。
三つ目…学びがいの喪失
「教育の目的」として掲げられた公共的使命が重要性を失っていくと、教育を受ける子どもたちにとって、学校にいく意義が以前にもましてわからなくなる。
よりよい社会的地位の獲得のための勉強と言うのは、明治以来ずっと続いてきた。だから、そういう時でも勉強は目新しいものではない。
今の事態が新しいのは、そのような私的利益追求を超えるような、強力な「教育の目的」を掲げることが難しくなっていることだ。
今や、本人が望むもの、しかも本人のためになることが明白なもの以外のものを、教育の中に割り込ませることが難しくなってきているのである。
本人が学校や教師に対して望まないとすると。そこでの教育は単なる押しつけとして感受されてしまう。「教育の目的」を見失った学校は、子どもたちに対して何ができるか、という問題に直面することになる。
テキストであるこの『ヒューマニティー教育学』が書かれたのが2009年である。
その後十数年が経て、教育学的な言論を聞かないまま、ICT産業と経済産業省とかグリーバル化という波を受け入れざる得ないものとして学校教育に変化をもたらしつつある。それが単に「やり方しだいですね」という技術論での評価ではあまりにスケール感がなさすぎる気がする。教育はもっと腰をしっかり下ろせないといけない。
そして、こうした状況に対し、広田さんは、次の思想を紹介する。
19世紀前半のドイツの哲学者で、ヘルバトルとならんで高名なシュライエルマッハーは、教育の目標について、次のように論じてしる。
教育は、国家や教会や、普段のつき合い諸生活領域を準備し、個人の認識の作用をたかめるために行われる。しかし、この四領域の間には不調和が存在している。国家にとって正しいことが教会にとって正しくない、と言うふうに。こうした矛盾があることは、「これらの社会の状態が不完全であ」り、人倫的関係が不統一な状態である。だから、普遍妥当な倫理学で教育を方向づけることはできない。
ではどうするか。教育は、一方で、「成長期の青少年を国家の現場に対して有能かつ適任であるように育成するべき」である。しかし同時に、もう一方で、「すべての世代の教育の完了した後には共同生活のあらゆる点で不完全性を改善しようという衝動を有すにいたる」ことを教育の目的とすげきである。―社会の諸価値が対立状態であるから、一方では現在の社会への適応をはかりつつ、他方で、価値の対立をこえた調和した未来の社会を自ら作り上げていけるような人間を育てるのが、教育の目的だ、と言うのである。
教育哲学のことをつづけます。
この教育哲学の停滞している状況を、この教育学会会長は、
学校教育が目指すべき方向について、教育学者にもっと語ってほしいと私は思っている。現在の教育哲学者(少なくとも日本の)は、この点でずいぶん禁欲的な感じである。いや、禁欲的すぎる。
と言って教育哲学への期待を述べているのである。
性急な議論で、その妥当性を吟味される傾向があって話しにくいこともあるのかもしれないが、「そもそも、今日というのはねえ」から始まる教育哲学がもっと語れていいと私も思う。
若い先生が「近未来からの風」の中でも、教育ということそのものに確かな価値があり、仕事に誇りを持っていかれるためにも。
前回、ポストモダン論よって「教育の正当性や方向性をを根拠づける、最終的な足場は無い」ことが明らかになったと言うことを述べた。そして、広田さんは加えて、
教育学者が確固とした足場に立って教育の目的について語りえなくなった近年の事態は、実践的教育学の規範創出力が著しく減殺された状態である。これは、教育哲学や教育思想史学を研究するものだけの問題ではない。他の分野の教育学者にも大きな影響及ぼしている。
といい、こうした教育の現在的使命やあるべき方向(教育の目的)を語り得なくなった教育学の状況の中で、「現代の教育は、教育目的の次元で振り回される事態になっている」、といい、具体的に3つの点を挙げてそれを説明している。(見出しは私)
一つ目…教育な内容の決定者
現実社会の大きな変化によって、教育の目的の語り直しが教育学の外の人たちによってなされ、それが教育を大きく変化されてきた。財界人、エコノミスト、保守政治家や保守的評論家……といった人たちである。教育学者が黙り込んでいる空隙に、そういう人たちがやすやすと入り込んできたわけである。
グローバル化の急速な進展に対応した、旧来の社会システム全般の見直しの一環として、教育システムの中に市場原理や競争、評価を持ち込もうとする動きである。
財界人やエコノミストは、教育は、何よりも労働者の生産能力を高める手段である、と言うふうに考える。有能な労働者を学校が作り出すような方向へと教育改革を進めようとする。
(保守政治家や保守的評論家)は、共同体的な価値観を学校教育の中で教えさせることに心を注ぐ。教師の「教育の自由」とか、生徒の「思想・信条の自由」とかには無関心で、愛国心とか道徳を学校でガンガン教えさえすれば、秩序正しい人間が作れるはずだと素朴に考えている。
二つ目…被教育者の顧客化
学校教育の崇高な使命とか公共的意義のような部分がポストモダン論で「根拠なし」と叩かれていたちょうどその頃から台頭してきたのが、消費者資本主義的な学校利用観である。つまり「サービス消費者としての親・子ども」という存在の登場である。教育が、購入可能なサービスとして位置づけられ、教育の質は「サービスの質」と読み替えられるようになった。
ショッピングモールのように、学校や教師が思い思いに飾りつけた店を出して、お客さんが立ち寄ってくれるのを待つ、と言う風な感じである。
そこでは、思弁的な「教育の目的」も、学校教育法等に盛り込まれた「教育の目的」も、もはやさしたる意味を持たない。親や子どものニーズや選好がすべてある。教師はただ求められるものを察知し、それを提供する役割になる。
三つ目…学びがいの喪失
「教育の目的」として掲げられた公共的使命が重要性を失っていくと、教育を受ける子どもたちにとって、学校にいく意義が以前にもましてわからなくなる。
よりよい社会的地位の獲得のための勉強と言うのは、明治以来ずっと続いてきた。だから、そういう時でも勉強は目新しいものではない。
今の事態が新しいのは、そのような私的利益追求を超えるような、強力な「教育の目的」を掲げることが難しくなっていることだ。
今や、本人が望むもの、しかも本人のためになることが明白なもの以外のものを、教育の中に割り込ませることが難しくなってきているのである。
本人が学校や教師に対して望まないとすると。そこでの教育は単なる押しつけとして感受されてしまう。「教育の目的」を見失った学校は、子どもたちに対して何ができるか、という問題に直面することになる。
テキストであるこの『ヒューマニティー教育学』が書かれたのが2009年である。
その後十数年が経て、教育学的な言論を聞かないまま、ICT産業と経済産業省とかグリーバル化という波を受け入れざる得ないものとして学校教育に変化をもたらしつつある。それが単に「やり方しだいですね」という技術論での評価ではあまりにスケール感がなさすぎる気がする。教育はもっと腰をしっかり下ろせないといけない。
そして、こうした状況に対し、広田さんは、次の思想を紹介する。
19世紀前半のドイツの哲学者で、ヘルバトルとならんで高名なシュライエルマッハーは、教育の目標について、次のように論じてしる。
教育は、国家や教会や、普段のつき合い諸生活領域を準備し、個人の認識の作用をたかめるために行われる。しかし、この四領域の間には不調和が存在している。国家にとって正しいことが教会にとって正しくない、と言うふうに。こうした矛盾があることは、「これらの社会の状態が不完全であ」り、人倫的関係が不統一な状態である。だから、普遍妥当な倫理学で教育を方向づけることはできない。
ではどうするか。教育は、一方で、「成長期の青少年を国家の現場に対して有能かつ適任であるように育成するべき」である。しかし同時に、もう一方で、「すべての世代の教育の完了した後には共同生活のあらゆる点で不完全性を改善しようという衝動を有すにいたる」ことを教育の目的とすげきである。―社会の諸価値が対立状態であるから、一方では現在の社会への適応をはかりつつ、他方で、価値の対立をこえた調和した未来の社会を自ら作り上げていけるような人間を育てるのが、教育の目的だ、と言うのである。
元来、教育は諸価値の相対のなかにある、その中での主体性を育むのかが教育の目的だ、という。
そして、この章をまとめる。
グローバリゼーションが進む中、未来の社会は不透明である。国民国家で作られてきた世界をこれからどう変化させていくのか、先進国と開発途上国との大きな格差はこれからどうやっていくのか、資源や環境の有限性の問題にこれからどう対処していくのか― 現代が人類史的に見て大きな課題に直面しているであろうとすると、我々の世代は当然そうした問題に最優先でとりくまなかればいないのだが、同時に、これから大人になっていく世代の子どもたちに、この世界が抱えている問題を「改善しようという衝動と才能」をもってもらいたい。
という。
ところが、「改善しようという衝動と才能」を育成する教育というのは十分理解できるし、多数の人が同感するところと思うのだが…、
「デューイもキリパトリックも勝田守一も、似たような議論をしたいたような気がする」といいながら、 「私のこうした思いも、多様なイディオロギーの一つに過ぎない」のだ、ともいうのである。
ポストモダンって何なのか、蓄積されてきた知性の輝きを失わせるような作用を一般的感覚としてはいまだにわからない。
いずれにせよ、これまでの教育学の達成に基づいた教育プロパーとして発言が、今とても大切だと思うが、どうなのだろう。
そして、この章をまとめる。
グローバリゼーションが進む中、未来の社会は不透明である。国民国家で作られてきた世界をこれからどう変化させていくのか、先進国と開発途上国との大きな格差はこれからどうやっていくのか、資源や環境の有限性の問題にこれからどう対処していくのか― 現代が人類史的に見て大きな課題に直面しているであろうとすると、我々の世代は当然そうした問題に最優先でとりくまなかればいないのだが、同時に、これから大人になっていく世代の子どもたちに、この世界が抱えている問題を「改善しようという衝動と才能」をもってもらいたい。
という。
ところが、「改善しようという衝動と才能」を育成する教育というのは十分理解できるし、多数の人が同感するところと思うのだが…、
「デューイもキリパトリックも勝田守一も、似たような議論をしたいたような気がする」といいながら、 「私のこうした思いも、多様なイディオロギーの一つに過ぎない」のだ、ともいうのである。
ポストモダンって何なのか、蓄積されてきた知性の輝きを失わせるような作用を一般的感覚としてはいまだにわからない。
いずれにせよ、これまでの教育学の達成に基づいた教育プロパーとして発言が、今とても大切だと思うが、どうなのだろう。
次回は、マジックカーペットに乗った気分で、その「改善しようという衝動と才能」をもつた人の近未来へのアイデアを見てみよう。