秋の山で2 明野町から甲斐駒ケ岳
「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省
第3章 エ―ジェンシー
前回のラーニング・コンパスが、学びの方向性を指し示す羅針盤であることに対して、それに沿って歩こうとする意志や体力の養成が必要になる。
こうした生徒の主体性のことを「エージェンシー(agency)」と呼ぶ。
OECDの定義では、「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任を持って行動する能力」としており、白井さんも「ラーニング・コンパスにおいて、その中核的概念」としている。
ただ、「生徒等の主体性の実現」は、似た表現のものも含めるとほぼすべての学校の教育目標に取り上げられているし、教育基本法にも「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し」として、いわば学校教育の普遍的な概念と言える。
このことについて白井さんはOECDでの議論を踏まえて、次のように言う、
実は「主体的」や「主体性」の捉え方は曖昧であることも多い。実際、教師の指示に誤りなく従ったり、宿題を忘れずに提出するといった行動が、「主体的」と考えられている場合もあったりする。ただ「主体的」や「主体性」が本来目指すところが、単に教師の指示通りに行動することがことではないとしても、反対に、生徒による自発的な行動であれば何でも良いと言うものではない(OECD、2019)。
ややもすると、思考停止になりがちなこの概念をVUCAとなる時代において、OECDがどのようなイメージで捉え直しをし、再生しようと試みるのかを追ってみよう。
エージェンシーが、なぜラーニング・コンパスの中核的な概念として位置づけられるかと言えば、よりVUCAとなる未来において、私たちが実現したい未来(The Future We Want)」を実際に実現していくために、エージェンシーが必要になるからである。すなわち、「私たちが実現したい未来を」を実現していくためには、生徒が、教師から支持されたことをこなすだけであったり、あるいは、労働者が企業から求められるスキルを身に付けていくだけでは足りない。コンピテンシーに関する議論を含めて、従来の教育のあり方に関する議論が、ややもすれば、「(企業等からの)人材ニーズに応えていくために、どうしたら良いのか」、と言う観点から議論されがちであったのに対して、より本質的に重要なのは、自分たちが実現したい未来を、そもそも自分で考えて、目標設定し、そのために必要な変化を実現するために行動に移していくことである。
という差し迫った現状を踏まえた上での主体性(エージェンシー)と言うのが、ややもすると態度主義的だった主体性のイメージとかなり異なることなる。
そして、日本の現場においては、このエージェンシーの形成は喫緊の課題と言える。以下の表では、日本の教育におけるエージェンシーが極端な低さを表しているとして本書にも取り上げられている。
(日本財団(2019) 18歳意識調査)
白井さんが、このデータを取り上げたのは、OECD加盟国の中にあっても、日本が際立ってこのエイジェンシ―への課題の大きいことを感じていることを示しているように思われる。切迫感と言ってもいいのではないか。
さて、この会議場エージェンシーをどう提案していくのかについて、イギリスの文筆家であり教育実践家であるチャールズ・リードビーターさんと言う方が積極的な発言をしプロジェクトの議論をリードしていったようである。
リードビーターは、現在の教育システムが、教師による一方的な授業が中心であり、真の学びにつながっていないと言う危機意識を前提にして、「ダイナミック・ラーニング」の基本となる4つの要素として、①知識、②自己に関するスキル、③社会的スキル、④エージェンシー、を提案した。
そして、彼自身の問題意識を次のように表明している。
過去20年で、途上国を中心により多くの生徒が学校に通うことになったのは、教育における大きな成果である。しかし、生徒が学校で学んでいることのうち、彼らがその後の人生で直面する課題に取り組むために役立つ事は、極めて少ない。学校に入るとしても、ほとんど何も学んでいないのである。たとえ、優れた成果を出している国(あるいは教育制度)の生徒で、テストの点が良い点をとっている場合でも、実社会における変化や不確実性に対しては、充分には適当でない適応できていないだろう。より変化が激しく先の見通せない世界では、イノベーションや企業がより大きな影響を持つ。そのような世界で、新しい技術に適応しそれらを最大限に活用していくためには、子供たちは単に決まったルーティンを行うだけでなく、世の中で自分なりの道を切り開いていく力をつける必要がある。チャンスを見つけることや自らの目標を持つこと、リスクをとったり時間や労力を使うこと、複雑な問題を解決したり共通の目的を達成するために他者と協調できるようになる必要がある。
過去20年の学校教育は人生で直面する課題にとって無価値だったという。
少し乱暴に感じるが、この意見に対しては、(エージェンシーのモデルが個人レベルから地域レベル社会レベルへと徐々に広い世界に拡大していくと言う直線的なイメージであったことに対して、エージェンシーは個人や地域、社会との相互の往還関係の中で育っていくものではないかと言う批判が示されることになったようだが)、大筋同意を得て、新しいエージェンシー(生徒の主体性)の概念形成や目標設定、イメージ作りを主導したようだ。
そして、こうした議論の中で確認されていった部分やそれを踏まえた白井さんの文を断片的だが、引用する。
「VUCA」(Volatility・Uncertainty・Complexity・Ambiguity)(不安定,不確実,複雑,曖昧)という未来像での学校教育はどうあるべきか、各国の有識者はどう考えるのか「OECD(経済協力開発機構) Education 2030 プロジェクト」から見て行きたい。
テキストは、
白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』ミネルヴァ書房 (2020/12/22)
参考のHP
OECDにおける Agencyに関する議論について - 文部科学省
第3章 エ―ジェンシー
前回のラーニング・コンパスが、学びの方向性を指し示す羅針盤であることに対して、それに沿って歩こうとする意志や体力の養成が必要になる。
こうした生徒の主体性のことを「エージェンシー(agency)」と呼ぶ。
OECDの定義では、「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任を持って行動する能力」としており、白井さんも「ラーニング・コンパスにおいて、その中核的概念」としている。
ただ、「生徒等の主体性の実現」は、似た表現のものも含めるとほぼすべての学校の教育目標に取り上げられているし、教育基本法にも「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し」として、いわば学校教育の普遍的な概念と言える。
このことについて白井さんはOECDでの議論を踏まえて、次のように言う、
実は「主体的」や「主体性」の捉え方は曖昧であることも多い。実際、教師の指示に誤りなく従ったり、宿題を忘れずに提出するといった行動が、「主体的」と考えられている場合もあったりする。ただ「主体的」や「主体性」が本来目指すところが、単に教師の指示通りに行動することがことではないとしても、反対に、生徒による自発的な行動であれば何でも良いと言うものではない(OECD、2019)。
ややもすると、思考停止になりがちなこの概念をVUCAとなる時代において、OECDがどのようなイメージで捉え直しをし、再生しようと試みるのかを追ってみよう。
エージェンシーが、なぜラーニング・コンパスの中核的な概念として位置づけられるかと言えば、よりVUCAとなる未来において、私たちが実現したい未来(The Future We Want)」を実際に実現していくために、エージェンシーが必要になるからである。すなわち、「私たちが実現したい未来を」を実現していくためには、生徒が、教師から支持されたことをこなすだけであったり、あるいは、労働者が企業から求められるスキルを身に付けていくだけでは足りない。コンピテンシーに関する議論を含めて、従来の教育のあり方に関する議論が、ややもすれば、「(企業等からの)人材ニーズに応えていくために、どうしたら良いのか」、と言う観点から議論されがちであったのに対して、より本質的に重要なのは、自分たちが実現したい未来を、そもそも自分で考えて、目標設定し、そのために必要な変化を実現するために行動に移していくことである。
という差し迫った現状を踏まえた上での主体性(エージェンシー)と言うのが、ややもすると態度主義的だった主体性のイメージとかなり異なることなる。
そして、日本の現場においては、このエージェンシーの形成は喫緊の課題と言える。以下の表では、日本の教育におけるエージェンシーが極端な低さを表しているとして本書にも取り上げられている。
(日本財団(2019) 18歳意識調査)
白井さんが、このデータを取り上げたのは、OECD加盟国の中にあっても、日本が際立ってこのエイジェンシ―への課題の大きいことを感じていることを示しているように思われる。切迫感と言ってもいいのではないか。
さて、この会議場エージェンシーをどう提案していくのかについて、イギリスの文筆家であり教育実践家であるチャールズ・リードビーターさんと言う方が積極的な発言をしプロジェクトの議論をリードしていったようである。
リードビーターは、現在の教育システムが、教師による一方的な授業が中心であり、真の学びにつながっていないと言う危機意識を前提にして、「ダイナミック・ラーニング」の基本となる4つの要素として、①知識、②自己に関するスキル、③社会的スキル、④エージェンシー、を提案した。
そして、彼自身の問題意識を次のように表明している。
過去20年で、途上国を中心により多くの生徒が学校に通うことになったのは、教育における大きな成果である。しかし、生徒が学校で学んでいることのうち、彼らがその後の人生で直面する課題に取り組むために役立つ事は、極めて少ない。学校に入るとしても、ほとんど何も学んでいないのである。たとえ、優れた成果を出している国(あるいは教育制度)の生徒で、テストの点が良い点をとっている場合でも、実社会における変化や不確実性に対しては、充分には適当でない適応できていないだろう。より変化が激しく先の見通せない世界では、イノベーションや企業がより大きな影響を持つ。そのような世界で、新しい技術に適応しそれらを最大限に活用していくためには、子供たちは単に決まったルーティンを行うだけでなく、世の中で自分なりの道を切り開いていく力をつける必要がある。チャンスを見つけることや自らの目標を持つこと、リスクをとったり時間や労力を使うこと、複雑な問題を解決したり共通の目的を達成するために他者と協調できるようになる必要がある。
過去20年の学校教育は人生で直面する課題にとって無価値だったという。
少し乱暴に感じるが、この意見に対しては、(エージェンシーのモデルが個人レベルから地域レベル社会レベルへと徐々に広い世界に拡大していくと言う直線的なイメージであったことに対して、エージェンシーは個人や地域、社会との相互の往還関係の中で育っていくものではないかと言う批判が示されることになったようだが)、大筋同意を得て、新しいエージェンシー(生徒の主体性)の概念形成や目標設定、イメージ作りを主導したようだ。
そして、こうした議論の中で確認されていった部分やそれを踏まえた白井さんの文を断片的だが、引用する。
つまりあらたなエイジェンシーの姿の参考である。
エージェンシーは必ずしも1人だけで発揮されるものではなく、共同で発揮されるものであるとして、「共同エージェンシー(Co-agency)の概念が提唱されるなど、理論的な整理が行われた。
単に行動さえすれば、その結果は問われないと言うものではない、と言うことである。すなわち、エージェンシーには、生徒一人一人が社会の一員として、社会がより良くなるように考え、行動していくと言う責任があることが願意されているのである。
なお、しばしば誤解されがちだが、生徒がエージェンシーを発揮する事は、教師の専門性や教師による指導を否定するものではない事は注意する必要がある。もちろん、エージェンシーは、教師が一方的に生徒を指導したり、評価したりするといった古典的な教育に対する挑戦と言う側面はあるかもしれない。しかしながら、生徒がエージェンシーを発揮すればするほど、教師は、それを受け止めるだけのいっそう高い専門性が要求されるのであり、そうした力を備えた教師に対する需要がますます高まってくると考えられる。
エージェンシーとは単に個々人がやりたいことをやることではなく、むしろ、他者との相互の関わり合いの中で、意思決定や行動を決めるものである。
エージェンシーが、一人一人が成長する社会的・文化的な文脈において、親や仲間、地域の人々等との関係性を通して育まれるものであると言う事は、エージェンシーが、生まれながらにして変えられない性格や性質といったものではなく、学習することができるもの(learnable)であるとし、変えることができるもの(malleable)であることにも留意したい。
以上のように、議論の中で主題にきたるべき近未来に向けてのエージェンシーの有り様が姿を現してきたようである。
次回はこのエージェンシーをどう指導に取り込むかについて学んでいきたいと思う。
エージェンシーは必ずしも1人だけで発揮されるものではなく、共同で発揮されるものであるとして、「共同エージェンシー(Co-agency)の概念が提唱されるなど、理論的な整理が行われた。
単に行動さえすれば、その結果は問われないと言うものではない、と言うことである。すなわち、エージェンシーには、生徒一人一人が社会の一員として、社会がより良くなるように考え、行動していくと言う責任があることが願意されているのである。
なお、しばしば誤解されがちだが、生徒がエージェンシーを発揮する事は、教師の専門性や教師による指導を否定するものではない事は注意する必要がある。もちろん、エージェンシーは、教師が一方的に生徒を指導したり、評価したりするといった古典的な教育に対する挑戦と言う側面はあるかもしれない。しかしながら、生徒がエージェンシーを発揮すればするほど、教師は、それを受け止めるだけのいっそう高い専門性が要求されるのであり、そうした力を備えた教師に対する需要がますます高まってくると考えられる。
エージェンシーとは単に個々人がやりたいことをやることではなく、むしろ、他者との相互の関わり合いの中で、意思決定や行動を決めるものである。
エージェンシーが、一人一人が成長する社会的・文化的な文脈において、親や仲間、地域の人々等との関係性を通して育まれるものであると言う事は、エージェンシーが、生まれながらにして変えられない性格や性質といったものではなく、学習することができるもの(learnable)であるとし、変えることができるもの(malleable)であることにも留意したい。
以上のように、議論の中で主題にきたるべき近未来に向けてのエージェンシーの有り様が姿を現してきたようである。
次回はこのエージェンシーをどう指導に取り込むかについて学んでいきたいと思う。