諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

90 坂村真民さんの詩

2020年07月25日 | 
 今回は、詩集を紹介します。
最近、教育を考える際に、理念や技術のことが多い気がしています。
実際こんな詩の言葉が、子ども達や先生達を後押ししてくれる場合があるように感じます。
「第4の教育課程」の趣旨とどこかでつながるかもしれません。

坂村真民『詩集 念ずれば花ひらく』から


ねがい

ただ一つの
花を咲かせ
そして終わる
この1年草の
一途さにふれて
生きよう


すべては光る

光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から光を受けて
光る


必然

夜は必ず明け光り必ず射してくる
念ずれば必ず花は咲き道は必ず開いてくる
この必然の祈りに生きよう


見えないからと言って

日が昇らない時が
あっただろうか
月の出ない時が
あっただろうか
見えないからと言って
なかったとは言えない
それを同じく
見えないからと言って
神さまや
仏さまが
いないと誰が言えよう
それは見る目を
持たないからだ
大宇宙には
たくさんの神や仏さまが居て
この世を幸せにしようと
日夜努力していられるのだ
一輪の花の美しさを見たら
一羽の鳥の美しさを見たら
それがわかるだろう
見ない世界の神秘を知ろう


何かをしよう

何かをしよう
みんなの人のためになる
何かしよう
よく考えたら自分の体に合った
何かがある筈だ
弱い人には弱いなりに
老いた人には老いた人なりに
何かがある筈だ
生かされて生きているご恩返しに
小さなことでもいい
自分にできるものをさがして
何かをしよう


鳥は飛ばねばならぬ

鳥は飛べねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒濤の海を
飛びゆく鳥のように
混沌の世を
生きねばならぬ
鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も
一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ


念ずれば花ひらく

念ずれば
花ひらく

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった



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89 第4の教育課程#5 次のハードルと学校

2020年07月18日 | 第4の教育課程
「不器用にそこにいる存在」について考えている。

 乳幼児期の死亡率については、近代に入りある程度環境が整ってきて減少の兆しが見えてきたが、皮肉なことに近代化する社会が子どもには過酷な環境を生みだした。

 マルクスの「資本論」から(孫引ですが)。
「夜中の二時、三時、四時に九歳から一〇歳の子供たちが汚いベッドのからたたき起こされ、ただ露命をつなぐためだけで夜10時、11時、12時までむりやり働かされる。彼らはの手足はやせ細り、体は縮み、顔の表情は鈍麻し、その人格はまったく石のような無感覚の中で硬直し、見るも無残な様相を呈している。」
「マッチ製造業は、その不衛生さと不快さのためにきわめて評判が悪く、飢餓に貧した寡婦等、労働者階級でももっとも零落した層しかわが子を送り込まないようなところだった。送られてくるのは「ぼろをまとい飢え死にしかけた、まったく放擲(捨ててかえりみないこと)され教育を受けていない子供たち」である。

 こうしたイギリスの児童労働の実態を見たことが、マルクスに「資本論」を書かせた動機の一つになったとういう。
以上の引用と解説は内田 樹さんの本からである。

 また、この以前から、教会からの親の子に対する宗教教育へのしめつけや、親の「(子どもに対する)懲罰権」というのもかなりのものだったようだ。そんな背景もありマルクスの時代に至ったらしい。

 19世紀、大人たちが達成と信じて行った社会の更新や、強者の秩序維持の影で子どもたちは、呆然とせざる得ない過酷な状況があった。

 ところが、同じ歴史的状況下、大人たちは「義務教育」を作る。
理念としては「両親と雇用者によるこうした権力の乱用」から子どもを守る装置として。
(もちろん、複雑な思惑があろうが)大人の良識が生かされた画期的な出来事といえるのだろう。

  そして、この理念は2回の大戦を経て、日本にももたらされていく。

   日本国憲法には間違いなく次のようにある。

第二十六条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

そして、
第二十七条
1 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
3 児童は、これを酷使してはならない

 歴史を踏まえたものに違いない。

「不器用にそこにいる存在」の子どもは大人が義務を負って教育を受けられし、酷使されないのである。
学校はそういうところであり、元来児童福祉的な理念がある。

 では、実際の学校はどう機能してその子たちを導こうとするのか、ようやくですが教育課程を考えます。


※ 内田 樹『街場の教育論』を参考にしました。




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88 第4の教育課程#4 「七五三」

2020年07月11日 | 第4の教育課程
 前回、子どものことを「不器用にそこにいる存在」と書いた。
このことは、太古から、現代的な医療が整う前まで社会的な通念だったのではないか。
それほど子どもは無力だった。

 わらべ歌の「通りゃんせ」に「七つのお祝いに お札を納めに参ります」とある。
この風習が始まったころ乳幼児の死亡率が高く、7歳まで生き伸びることが今と比べて難しいため、無事に成長してその歳まで生きながらえたことを祝う儀式を表している…とする解釈がある。
「七五三」とは三歳、五歳、七歳の成長のハードルだったのではないか。

 医学も公衆衛生も今日のように整ていない江戸時代以前は、成人を迎えるられる人は約半数ではなかったかという。
徳川家のある将軍は、正室、側室のもと55人の子をもうけ、32人(約6割)が5歳までに亡くなっている記録があるそうだ。

 江戸時代までではない。
統計を見ると大正時代でも約15%の子が1歳の誕生日を待たずに亡くなっている。 

 元来、人類は超未熟児で生まれる。
他の動物のように数日のうちに自立することもないどころか、長期に渡って大人の慎重なケアが必要である。

 ケアができる人的環境、病気にならない環境、病気になった時対応できる環境、栄養管理ができる環境などが整わないと成長のハードルは超えて行かれない。

 ずっとずっと永い間、子どもは心もとない蝋燭の炎の揺らめきのような存在だった。
そういうイメージで大人たちは子どもを見ていたことだろう。

 現在、同じ統計で亡くなる乳幼児は0.2%である。
子ども死はごく稀になり、いわばタブーになった。
しかし、それは人類史上、この状況こそ稀であるとも言える
。元来、子どもはそもそも危うい存在として「そこにいる」ことに変わりがない。

その子ども観の中で育ってきたともいえる。

 古語辞典によると「かわいい」と「かわいそう」は同じ語源だという。

                           (つづく)

今回も読んでくださりありがとうございます。

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87 第4の教育課程#3 子どもの地点

2020年07月04日 | 第4の教育課程
「自分はこれでお別れだけど、お友達のことは頼んだよ」


今思えば、この「発言」が特別支援学校に着任したあとの大きな転換点になった。


現実の声ではないが事実として声が聞こえた。



 
これまでのやってきたことはあの子の期待に応えたものだったのか?。


 学校教育には、一定の教育水準を保つために、仕組みや取り決めがある。


その中で子どもの実態は把握される。


その枠組みの総体を広義の教育課程と言っていいだろう。


しかし、その枠組みとちがったところで捉えなきゃならない子ども観(子ども立場)があるのではないか。


 


人には一人ひとり死期が訪れる。それは避けられない。


そのことは、効率化を急ぐことが当たり前の社会にあっては、積極的には話題とはしない。


それが暗黙の了解であるように。


(このブログにだって死の話題を記しにくい。) 


 一方、子どもというのは、そんな世界には生きていない。


ふっとこの世に生まれてきて不器用にそこにいる。

その双方ギャップ。

捉えにくい子ども観(子ども立場)は、システム化、効率化の背後にすとんと落ちやすい。



 その子の「発言」(亡くなったお子さんの表情)は、そんなことを投げかけてきた。


子どもは「未来」だけではない、今をどうするという課題だけでもない、
存在そのものがもつニーズがあるのではないか。

そのことが「死」を通して見える気がする。



 かつて、アルフォンス・デーケン先生の「死の哲学」という講義を拝聴したことがあった。


死に向き合う人のこれまでの「生」をよく聴いておくことが、お別れとして大切であると伺ったように思う。もちろん送る人にとっても。



 きちんと聞くこと、見ること、分かろうとすることは、「認知」や「コミュニケーション」発達だけの問題ではないようだ。


                        (つづく)


 ※デリケートな問題でゆっくり行きます。読んでいただいて有難うございます。
 

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