道 雲取山 有名な防火帯にそって
つづけます。
感想のB面。
「元気で楽しい授業」について考えたコメントは以下の通り。ま、ボツ原稿なのですが。
教育がまだ人の営みの中で未分化だったころから人々は共同体の中で助け合いながら生きてきました。暮らしを維持するためには昔も今も頑張る必要もあったでしょう。
狩猟・採集の時代は、村の誰かが
「いくぞー」
といって森へ獲物を求めて仲間を誘っただろうし、
「はい、これもって」
と言って採取した植物を入れる籠を配った誰かがいたでしょう。
その中に赤ちゃんがいて、籠を渡されたお母さんに代わって、
「ほら、行ってきて、赤ちゃんみてるから」
と言った年寄りもあったでしょう。
共同体の実際をよく見ると、力を合わせるというが、自然発生に行われるのではなく、それを支える推進者がいたと思われます。
つまり、
「一緒にやろうよ!」
と声を掛ける人です。
そして、それを理解したり、気持ちを共有したものが、
「わかった、やろう」
と呼応して、穏やかだが、規律性のある共同体は維持されてきたと思われます。
そこで、老若男女がそれなりにくらしてきた。
「一緒にやろうよ!」
という提案によって、人が動き、それによって心身共に人は変わっていったことでしょう。
それが、自然な形での“教育”といってもいいかもしれません。
そして、そんな光景を目にしながら、肌で感じながら子ども達は、共同体の一員としての自覚と技能を身に着けていったことでしょう。
「一緒にやろうよ!」と声を掛けられるのを待ちながら。
このことは、もちろん近代以前だけの話ではありません。
世の中にあるすべての組織そのものの成り立ちが、誰かによる「一緒にやろうよ」が起点になっています。この学校だって誰かかが「ここに学校をつくろうよ」と周囲に言ったにちがいありません。
身近なところでも、家族・友人で楽しく過ごすためには誰かが「一緒にやろうよ」の声を掛けなきゃはじまりません。
そして、気持ちが一致して、あるいは理解が進んで、
「じゃ、やろうか!」
となった時、身近な共同体も、生気を帯びてくるものです。
「一緒にやろうよ!」
という小さな掛け声が社会や人々の暮らしを発展させ、豊かにしていくもともとの原理だと思います。
コロナの中で現在、「一緒にやろうよ!」が言いにくく、したがって違和感を抱える人が多いといわれています。
幸い学校は開かれています。
授業の中で、学校生活の中で、子ども達には、明るく、楽しくしく「一緒にやろうよ」と誘ってあげるといいです。
もちろん「一緒にやろうよ!」はインクルーシブ社会の根本でもあります。
明るく、楽しい授業の中には、先生の「一緒にやろうよ!」というメッセージが詰まっています。
という原稿ですが、早々に断念した。
「一緒にやろうよ!」も、(あまり大風呂敷で)相手がもてあましては「じゃ、やろうか!」にはならない。そこが難しいところである。(了)
つづけます。
感想のB面。
「元気で楽しい授業」について考えたコメントは以下の通り。ま、ボツ原稿なのですが。
教育がまだ人の営みの中で未分化だったころから人々は共同体の中で助け合いながら生きてきました。暮らしを維持するためには昔も今も頑張る必要もあったでしょう。
狩猟・採集の時代は、村の誰かが
「いくぞー」
といって森へ獲物を求めて仲間を誘っただろうし、
「はい、これもって」
と言って採取した植物を入れる籠を配った誰かがいたでしょう。
その中に赤ちゃんがいて、籠を渡されたお母さんに代わって、
「ほら、行ってきて、赤ちゃんみてるから」
と言った年寄りもあったでしょう。
共同体の実際をよく見ると、力を合わせるというが、自然発生に行われるのではなく、それを支える推進者がいたと思われます。
つまり、
「一緒にやろうよ!」
と声を掛ける人です。
そして、それを理解したり、気持ちを共有したものが、
「わかった、やろう」
と呼応して、穏やかだが、規律性のある共同体は維持されてきたと思われます。
そこで、老若男女がそれなりにくらしてきた。
「一緒にやろうよ!」
という提案によって、人が動き、それによって心身共に人は変わっていったことでしょう。
それが、自然な形での“教育”といってもいいかもしれません。
そして、そんな光景を目にしながら、肌で感じながら子ども達は、共同体の一員としての自覚と技能を身に着けていったことでしょう。
「一緒にやろうよ!」と声を掛けられるのを待ちながら。
このことは、もちろん近代以前だけの話ではありません。
世の中にあるすべての組織そのものの成り立ちが、誰かによる「一緒にやろうよ」が起点になっています。この学校だって誰かかが「ここに学校をつくろうよ」と周囲に言ったにちがいありません。
身近なところでも、家族・友人で楽しく過ごすためには誰かが「一緒にやろうよ」の声を掛けなきゃはじまりません。
そして、気持ちが一致して、あるいは理解が進んで、
「じゃ、やろうか!」
となった時、身近な共同体も、生気を帯びてくるものです。
「一緒にやろうよ!」
という小さな掛け声が社会や人々の暮らしを発展させ、豊かにしていくもともとの原理だと思います。
コロナの中で現在、「一緒にやろうよ!」が言いにくく、したがって違和感を抱える人が多いといわれています。
幸い学校は開かれています。
授業の中で、学校生活の中で、子ども達には、明るく、楽しくしく「一緒にやろうよ」と誘ってあげるといいです。
もちろん「一緒にやろうよ!」はインクルーシブ社会の根本でもあります。
明るく、楽しい授業の中には、先生の「一緒にやろうよ!」というメッセージが詰まっています。
という原稿ですが、早々に断念した。
「一緒にやろうよ!」も、(あまり大風呂敷で)相手がもてあましては「じゃ、やろうか!」にはならない。そこが難しいところである。(了)