諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

17 職業と大学

2019年04月28日 | エッセイ
(写真)火の見櫓の横のアヤメ。

 鎌田実さんは高校生の時、親に「頼むから勉強しないでくれ」といわれたという。全部自分で賄うからと言って、東大医学部にいった。
 当時の大学進学率は20%台だった。大多数は18歳で地域社会で働いた。第二子以降は「東京に出て」働いたのかもしない。
 18歳で、地域社会のファンダメンタルとして働くことは自然だった。
 18歳まで育てれば、子どもは家族や地域のの力となり、学校教育も家庭教育も成就する。余裕がないからこそ子沢山になり、家族の力としたかった。沢山の子どもの中から自然にリーダー的な者が現れ家族や地域のバランスを保ったことだろう。

 大学進学率は50%になった。
「マーチ」や「ニットウコマセン」をランクキングみたいにならべて争う。
 4年間で一人500万円かかる。進学塾や諸経費をいれると3人とも大学生は難しそうなので子どもが多いことは経済的負担になる。家族や地域の援軍になる前に家計が立ち行かない。誰でもはじめから計算できる。
 50年前ならいたはずの兄弟姉妹は、学費等の教育費負担感の影で誕生しないことは容易に想像がつく。

 そもそも仕事は「やりたい仕事」として陳列されている訳ではない。誰かがやらないと困るからあるのが仕事だ。やりながらスキルを身に着け、やりがいもあとからついてくる。そのことは大学教育歴とはそれほど関係がない。

 「父は、煙突掃除の仕事をしてるんだ」というドイツの少年は、父の太い腕っぷしを誇りにしているようだった。

 堺屋太一さんは「高等教育を受け、企業に就職し、子どもはせいぜい2~3人、郊外にマイホームをもうけて、子どもも大学にやる、っていう人生観が定着した」という。官僚が主導したというがそれは分かららない。
 また、教育書によると1960年前後には「教育ママ」という言葉が登場する。家庭教育ブームという現象が生まれ、家庭教育が学校教育の下請け的な性格をもち、あらゆる階層が学歴獲得競争に巻き込まれはじめた、という。これを家族の戦後体制というらしい。
 
 大学などの高等教育が、職業選択と必ずしも直結しないことを確認することが、子育ても、学校教育も、職業観も楽に、豊かにするのではないか。

 しかし、この仮説も、戦後体制にほぼ順応して歩を進めてきたわれわれには確信をもって言いにくい。

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16 アユムくん

2019年04月24日 | エッセイ

(写真)山のふもとの集落には、火の見櫓があります。自衛の象徴であり、むかしからのコミュニティの象徴にも感じます。



 肢体不自由部門 中学部の生徒の給食介助の応援に行った。
「視力は明暗程度、意識が低くなると舌根が落ちる、小さな発作があるのでその時は食べさせない」
 という担任のアドバイス。

 食べ始めて、しばらくして、彼の動きがとまったように思ったので、様子を見ていると、通りかかったOT(作業療法士)さんが
「とまっているけど、うーん、食べたいと思ってますよ。たぶん。」
 というと、その直後、彼は目だけこちらに向ける。

  ……食べたかったのか。

 アユムくんという人である。

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15 健康な学校#6 落としてはならないこと  

2019年04月21日 | 健康な学校
(写真)山ツツジ。


<font color="black">「健康な学校」について、
「呼吸がしやすく、細胞が生き生きして、食べ物もおいしく、身体も軽い。
そして、明日の新しい自分が楽しみになる。だから目標に向けて努力ができる。」

そういう場をつくる条件を4つ挙げた。

1 リーダーが子どもを可愛がること
2 子どもに向けた小さなファインプレーを大切にすること
3 子どもが主人公になる活動の大小の輪が重なること
4 子どものことを心に留める努力や習慣をもつこと

 改めて箇条書きすると、学校のみならず人のケアをするヒューマンサービス業には共通した方針に感じる。


 一方で、民間企業を想定したあるホームページから「リーダーの条件」というのを見てみる。

1 夢のある者、希望がある
2 希望のある者、目標がある
3 目標のある者、計画がある
4 計画のある者、行動がある
5 行動のある者、実績がある
6 実績のある者、反省がある
7 反省のある者、進歩がある
8 進歩のある者、夢がある

という。
 これが、そのまま民間企業一般の方針に当てはまるかわからないが、学校のそれとはずいぶんと違う。
アグレッシブで、強い意志を持てという。厳しいビジネス界で戦う心構えであろう。それは理解できる。

 しかし、私たちからには違和感がある。強すぎて何かを見落としてしまいそうな感じ。
こういう考えで例えば保育園経営などを行うと、少し恐ろしさすら感じる。何かが落ちてしまいそうな。

 裏を返せば、教育(ヒューマンサービス)には意識や計算では計りきれないことが大きいのであろう。
 その自明なことをしっかり認識して、独自のユニークな経営をしないと基本となる「健康な学校」が損なわれる。
 可愛がるとか、心に留めるとかいった見えにくく、評価もしにくい領域などを含んで。

 また、学校も校務や雑務で忙しい。ライフワークバランスだし、作業を効率よくすることは当然のことだ。サクサク進めたい。

 だがその中でも「心の中で名前を読んであげる」ような努力を確保しないといつの間にか子どもの回りから酸素が少なくなってしまうのではないか。  

(シリーズ 了)



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14 AI と 遅れてくる自分

2019年04月17日 | 
 「人はパンのみに生きるにあらず」なのであって、人は明示しにくい心の何かがないと生きにくいことは誰もわかっている。
だから芸術や精神文化が生まれる。歴史を知りたいというのもそういうことかもしれない。

 教育もこれに似たところがあって、人は無力で生まれ一定の教育の時期が必要なことがは誰でもわかっている。
それは親の生きがいともつながっていて、教育という営みは芒洋としてつかみにくい、でも確かに存在する。

 一方、AI技術は育ちが違う。数値化、測定可能を積みあげているので貨幣の流通のように誰にでも明瞭で収まりがいい。意識野だけの思考でできているから合意形成が早い。
 いつの間にか社会のありようや生活の様式を変えてしまいつつある。そして、遅れて事態の変化に気づき驚くのは自分の中の無意識の部分だったり、細胞の更新に時間のかかる身体である。

 AIの問題はこの゛遅れてくる自分″をどう確保し、あるいはどう補完するかということではないか。それは科学技術に対する人文科学の役割ともいえるし、子どもに対する大人の直観だったりするのだろう。

 以上、
  新井紀子『AI vs 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社
 の感想でした。

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13 健康な学校#5 名前を呼ぶ時間

2019年04月14日 | 健康な学校
(写真)八ケ岳


私立のミッション系の学校に勤めていた時、その学校独自の研修が行われていた。
講師は神父さん。
聖堂のとなりにある木の壁の部屋で着席して待つと、陽気な神父さんが親し気な笑みを浮かべて入ってくる。
「はい、こんにちはっ。」
その雰囲気で労をなぎらてもらっている感じ。
 先生達のほとんどはクリスチャンではないが、毎回の講話にはそれほど違和感はない。なんだかすっきりした気分になる。

 そして、今でも印象に残っていることは、講話に入る前に必ず、
「心の中で子ども達の名前を呼んであげてください。」
という時間をもつことである。目を閉じて沈黙の時間だ。
たぶんわすか5分ぐらいだったのだろうが、かなり長く感じた。


 別の話。
 自宅に20年以上前に人からいただいた西洋画の複製が架かっている。
 モンマルトルの丘から市街地を眺望した画だ。実はフランスの風景画で少し洒落ているな、という印象だけで20年暮らしてきた。もともの派手な画ではない。

 ところがある晩、なんとなく寝付けず、仕方なく深夜照明をつけ起きていると、ふとこの画がいつになく目に留まる。「そうだ、「ユトリロ」だったな」。忘れていた。
 で、腕組みをしつつ画をながめると、その画家が画に込めた力のようなものが伝わってくる。

 絵というのは、そのアングルで第一印象が決まる。しかし、その画と一体化?するまで待っていると色づかいやタッチの動的な感じでその画家の存在が感じられてくるときがある。内実が伝わてくるというのか。
「あー、そうだったのか。」
20年間申訳かなった。ずっと一緒だったけど少しも見ていない。


 大したことでもないように思うが、私たちは平気で見ていないものをも見ていると思い込んじゃうもののようだ。
 昨晩も使ったいつものご飯の茶碗の模様が思い出せるだろうか。「ライン」に夢中で下車する駅のアナウンスを聞き逃したことがないだろうか。


 だとすると、校務や事務作業に追われて子ども達をきちんと見られているのか、声を聴き落としていなかっただろうか。

 もしその懸念があるとしたらきちんと子どもを想う時間を意識的につくるべきなのであろう。それほど私たちには元来見落としが多い

 健康な学校に行くとおしなべて先生同士の仲が良いように見える。その雰囲気で日ごろから子ども達のことを話題にし、先生同士がお互いに「心の中で子ども達の名前を呼んであげる」時間を設けている。


 

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