諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

243 保育の歩(ほ)#34 津守さん自身のコメント 2/2

2024年09月01日 | 保育の歩
のんびり八ケ岳 行者小屋のテント場でザックをデポして見上げると、阿弥陀岳の高度感。のんびりでもないか!

引き続き

『シリーズ授業10 障害児教育発達の壁を乗り越える』岩波書店1991年

から、津守さん自身のコメントである。

その一日が子どもにとって満ちたりたものでなかったら、次の日は生まれてこないでしょう。そこで子どもと大人の一日の生活がどのようにしてつくられるかを述べたいと思います。

ずっと読んできた津守さんの実践ですが、最後に保育の1日をまとめおられる部分を取り上げる。
朝の出会い子どもとの交わり日々(その日)の形成、そして、一日を振り返る省察である。
その心構えも含めて、私たちのために説明しているようにも感じる。

どの一日も同じ日はありません。どの一日も、完全な日はありません。一日は、それぞれの大人が、自分のまわりの子どもたちとしっかりと生活することによってつくられます。人はそれぞれ違いますが、子どもと交わるときには共通のことがあります。そのことについて次に述べます。

《出会う》
一日の生活は、朝、子どもと出会うところからはじまります。
朝、子どもが学校に来たとき、大人から喜んで迎えられたという実感があって一日が出発します。大人の側からいうならば、子どもと出会ったひととき、お互いに親しみの気持が湧くように、自分自身を子どもの方に向けることです。
どの子どもと出会うかは、かなり隅然に左右されます。たまたま出会った子どもとその日一日つき合うことになる場合もあります。また、ひととき親しむだけで通りすぎることもあります。子どもはいろいろの大人と出会うことによって、親しみの輪がひろがるでしょう。
朝学校に来た子どもが自分からし始めたことを、私は大切にしたいと思っています。子どもが自分から始めたことの中にその子の心があります。

《交わる》
子どもの心の思いにそのままにふれるように、大人は自分自身をととのえることがまず最初です。昨日まで考えていたことは一度わきにおいて、じかに子どもの心の肌にふれることができるように、これはむつかしいことですが日々新たに必要なことです。
それから、今日の一日、子どもにこたえて一緒に生活を作ろうという、未知の未来への挑戦の精神が子どもとの交わりを継続させます。
この人となら安心して自分らしく振舞えると子どもが思うような関係がつくられると、そのあとは、ひとつひとつの行為をどう見るか、それにどのように答えてゆくかが大人の課題です。つまり表現と理解の問題です。理解とは、大人の知識の網の目の中に子どもを位置づけることではありません。むしろそのようなことばによる知識を取り去って、子どもの側から見ることができるように自分が変化することです。


《現在を形成する》
子どもと一緒にいるときに、その「今」を楽しむことを、私は毎日を子どもと過ごす中で学びました。早く切り上げて次のことをしようと思ったら、その時は子どもにも大人にも充実した「今」にはなりません。子どもは大人が本気でそこにいるかどうかをすぐに見抜きます。たとえ2、3分でも、子どもと共にいるその「今」に腰を据えて楽しめるようにする時、そこから次の時間が展開します。

子どもは、自分自身が過去から引きずっている悩みがある時、それを「今」の行動に表現します。「今」をゆっくりと付き合ってくれる人に見せるのです。

「今」を生命的に生きられるようにする時、子ども自身が自らの過去を新たな目で見るようになります。今の生き方によって過去は変化するのです。

《省察》
子どもが眼前から去ると、大人はさし迫った要求から解放されて、子どもとの間の体験を振り返ってみることができます。そこまでを含めて私は一日の実践と考えます。
一日が終ったあとで、一緒に実践の場にいた人たちとお茶をのみながら子どものことについて話すときを私は大切と考えます。そうすることによって、違う人の視点を加えて子どもの全体像が見えてきます。職員の間で、また職員会で子どものことについて話し合うときが少なくなったら、どんなに行事が影然と運営されても、学校全体のモラルが低下すると考えてよいと思います。
さらにまた、自分ひとりになったときに、その日のことを思いめぐらすことにより、行為の意味はいっそう明瞭になります。毎日実の中にある人には、ひとりで省察する時間はそんなに残されません。省察には結論はありませんが、それが次の日の実践の下地です。


そして、この後、津守さんは、「発達の危機」ということについて書いている。

省察のときには、その日のことだけでなく、おのずからにそれまで積み重ねられた日々の全体が思い起こされます。そしてそれぞれの子ども自身が力動的に変化してきた過程が見えてきます。それは子ども自身が体験している変化です。もしかしたら生きることに積極的にかかわることを放棄することになったかもしれない危機を乗りこえた体験です。それは大人との関係の中のできごとなので、大人にも関係の危機として体験されることがしばしばです。
これまで私がいろいろの子どもとの間で経験したことから、次のようなことは人間に共通の発達の危機と考えます。

① 存在感の危機‐子どもが自分らしく生きる実感をもつことは、生きていく上の基盤です。子どもをとり巻く周囲の状況にはそれを脅やかす危機が多くあります。

② 能動性の危機‐自分で選択して何かをするところに、人間であることのよろこびがあります。しかし実生活には能動性を発揮することを承認されず、能動性の芽がつまれる危機が多くあります。

③ 相互性の危機‐他人と心を通じ合ってやりとりする交わりを人は求めています。しかし機械的なしつけや自分が関与しないきまりに取り巻かれて、相互性が阻まれる危機が多く起こります。

④ 自我の危機‐関係はそれぞれ主体的な人間の間のことです。個が関係の中に埋没して、自分と他者との境界がなくなったら、人間としての尊厳がやかされます。しばしば子どもはそのような関係に取りこまれることを拒否します。そのことにとくに敏感な子どももいます。

発達を危機として考えることは、自分自身の発達に本人が関与することです。危機を自分が生きる上のチャンスとするか、マイナスにするかは、本人がその事態をどうとらえ、どう生きるかによります。子どもの場合には、かかわる大人の見方、生き方がそれを左右します。

この4つは多くの人が納得することだと思うのだが、津守さんは改めて整理し取り上げ、珍しく箇条書きで強調しているのである。
保育(教育)はその意図に反して、知らずしらずに、子どもの、また大人の発達をも阻害する作用が生じやすいことをいっている。
実際にどれをとっても〝すぐそこにある危機″という実感があるのである。


愛育養護学校の実践は、発達心理学者の野村庄吾さんが指摘するように諸条件の違いから単純に一般の保育園や学校には持ち込めない。
ただ、子どもの発達の筋道を追い続けた津守さん等の実践記録は、確かな足がかりとして今後も生き続ける特別な意味があるのである。


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