定番 高尾山縦走🈡 到着!陣馬山山頂 縦走完結 この後、藤野駅に下山
毎年、司馬遼太郎さんの命日を記念してシンポジュウムが行わる。
今年もテレビ放送があり、例年の通りたくさんの長編小説が取り上げられていた。そんな中、大作に肩を並べるようにある小品が印象的に紹介された。
たまたま本棚にあった随筆集のこの一編を読みかえすと、改めて番組の識者のコメントが気になって録画を見てみた。
すると、司会者に指名されたパネラーの作家も短い言葉で表すことに窮したような表情で…、「奇跡の名作」と言った。
やっちゃん
「ボクがボクであることの証はこれだ」
と、小学校5年生のやっちゃんは、まさかそんな難しい言いまわしはしなかったが、似たようなことを子供ふうのことばでいった。
まず、ぐいっと左耳を上げる。やがて上下に動かす。後は電動式みたいにさかんに動かした。
難は、当人が笑うと耳が静止してしまうことだった。だから、耳を動かすときは、真顔になる。
「右耳も動かしておくれ」
と、たれかが頼んだが、やっちゃんは丁寧に断った。「いまれんしゅう中だ」。
六年生になって、やっちゃんが珍しく算数で100点をとった。先生がその答案を両手でかざしてほめると、この少年は地面から出てきたばかりのワラビみたいに、大きな首を垂れてはずかしがった。
それが転機になったのか、以降、耳を動かさなくなった。両者のあいだに、何か心理的な関連があるらしかった。
十五、六の時に左官の徒弟に入った。この道では「土こね三年」というが、土こねや追いまわしばかりさせられて、そのうち兵隊にとられたため、十分な技術が身に付かなかった。
戦後は、ヤミ屋の時代だった。
やっちゃんもその仲間にはいったが、すぐやめた。
「こんなもの、身につかないよ」
再び左官の子方になってやりなおした。無収入同然だった。
そのころのやっちゃんに、大きな夢があった。
徒弟時代に見た姫路城の白亜や総塗籠の土蔵、あるいは高名な料亭の座敷でみた渋紙色の聚楽の壁のようなものを塗りたいということだった。
しかし、戦後の経済事情の中で、そんな古典的な普請がやたらとあるわけではなく、建売り住宅の壁ぬりやトイレのタイル張りなど、ただの左官業としてあけくれた。
三十前後で独立し、その後、ちまたの左官業として十分成功したが、ただあこがれの聚楽や白壁の注文はなかった。
もともと出発点が悪かった。京都の千家に出入りするような親方を師匠にもてばよかったのかもしれないが、そういう機会にはめぐまれなかったのである。
六十すぎて、隠居した。
マンションに老夫婦だけ住んだのだが、自宅の、スプレーでペンキを吹きつけただけの外壁や、安っぽい床の間の壁が気に入らなかった。
「この壁を聚楽にする」
と思ったが、奥さんが反対した。マンションに聚楽はそぐわないし、掃除のたびにぼろぼろと砂が落ちる。それに冷暖房のために悪乾きに乾いて、ひびも入るだろう。
「世の中は、思うようにはいかないな」
と、近頃やっちゃんが言う。
「職人でも商人でも、若いうちにいい師匠を見つけることだよ」
そんなわけで、彼は、ぜいたくな仕事と言う場数を踏んでいないのである。
だから、聚楽を塗ると思いたつにしても、
「おれには塗れやしないよ」
空想なんだ、と言っていた。
「ただ、俺の頭の中には、大した左官が住んでいるんだ。それは彦根城だろうと何だろうと、楽々と塗ってしまう」
そういえば、引退後やっちゃんは、建築史の学者のように、京都や奈良の建築や茶室の壁を見てまわっている。
「いい壁は、宝石だね」
しかしその“宝石”を塗る腕はない。
「ああいうものを見ると、自分の一生がでくのぼうだったと思うんだ」
「ところが、六十になって、こいつだけはできるようになった」
と、やっちゃんが急に真顔になった。
両耳を動かし始めたのである。
「―女房のやつ、変におだてやがって」
私はやっちゃんの奥さんに会ったことがないが、きっと気が優しくて賢くて、この鬱懐症の亭主のあやし方を知っているんだろうと想像した。
「男の一生というは単純だね」
そのようにいうやっちゃんが、私には聖者の列に加わっているように思えてくる。
(1987年3月2日)
『風塵抄』中央文庫
毎年、司馬遼太郎さんの命日を記念してシンポジュウムが行わる。
今年もテレビ放送があり、例年の通りたくさんの長編小説が取り上げられていた。そんな中、大作に肩を並べるようにある小品が印象的に紹介された。
たまたま本棚にあった随筆集のこの一編を読みかえすと、改めて番組の識者のコメントが気になって録画を見てみた。
すると、司会者に指名されたパネラーの作家も短い言葉で表すことに窮したような表情で…、「奇跡の名作」と言った。
やっちゃん
「ボクがボクであることの証はこれだ」
と、小学校5年生のやっちゃんは、まさかそんな難しい言いまわしはしなかったが、似たようなことを子供ふうのことばでいった。
まず、ぐいっと左耳を上げる。やがて上下に動かす。後は電動式みたいにさかんに動かした。
難は、当人が笑うと耳が静止してしまうことだった。だから、耳を動かすときは、真顔になる。
「右耳も動かしておくれ」
と、たれかが頼んだが、やっちゃんは丁寧に断った。「いまれんしゅう中だ」。
六年生になって、やっちゃんが珍しく算数で100点をとった。先生がその答案を両手でかざしてほめると、この少年は地面から出てきたばかりのワラビみたいに、大きな首を垂れてはずかしがった。
それが転機になったのか、以降、耳を動かさなくなった。両者のあいだに、何か心理的な関連があるらしかった。
十五、六の時に左官の徒弟に入った。この道では「土こね三年」というが、土こねや追いまわしばかりさせられて、そのうち兵隊にとられたため、十分な技術が身に付かなかった。
戦後は、ヤミ屋の時代だった。
やっちゃんもその仲間にはいったが、すぐやめた。
「こんなもの、身につかないよ」
再び左官の子方になってやりなおした。無収入同然だった。
そのころのやっちゃんに、大きな夢があった。
徒弟時代に見た姫路城の白亜や総塗籠の土蔵、あるいは高名な料亭の座敷でみた渋紙色の聚楽の壁のようなものを塗りたいということだった。
しかし、戦後の経済事情の中で、そんな古典的な普請がやたらとあるわけではなく、建売り住宅の壁ぬりやトイレのタイル張りなど、ただの左官業としてあけくれた。
三十前後で独立し、その後、ちまたの左官業として十分成功したが、ただあこがれの聚楽や白壁の注文はなかった。
もともと出発点が悪かった。京都の千家に出入りするような親方を師匠にもてばよかったのかもしれないが、そういう機会にはめぐまれなかったのである。
六十すぎて、隠居した。
マンションに老夫婦だけ住んだのだが、自宅の、スプレーでペンキを吹きつけただけの外壁や、安っぽい床の間の壁が気に入らなかった。
「この壁を聚楽にする」
と思ったが、奥さんが反対した。マンションに聚楽はそぐわないし、掃除のたびにぼろぼろと砂が落ちる。それに冷暖房のために悪乾きに乾いて、ひびも入るだろう。
「世の中は、思うようにはいかないな」
と、近頃やっちゃんが言う。
「職人でも商人でも、若いうちにいい師匠を見つけることだよ」
そんなわけで、彼は、ぜいたくな仕事と言う場数を踏んでいないのである。
だから、聚楽を塗ると思いたつにしても、
「おれには塗れやしないよ」
空想なんだ、と言っていた。
「ただ、俺の頭の中には、大した左官が住んでいるんだ。それは彦根城だろうと何だろうと、楽々と塗ってしまう」
そういえば、引退後やっちゃんは、建築史の学者のように、京都や奈良の建築や茶室の壁を見てまわっている。
「いい壁は、宝石だね」
しかしその“宝石”を塗る腕はない。
「ああいうものを見ると、自分の一生がでくのぼうだったと思うんだ」
「ところが、六十になって、こいつだけはできるようになった」
と、やっちゃんが急に真顔になった。
両耳を動かし始めたのである。
「―女房のやつ、変におだてやがって」
私はやっちゃんの奥さんに会ったことがないが、きっと気が優しくて賢くて、この鬱懐症の亭主のあやし方を知っているんだろうと想像した。
「男の一生というは単純だね」
そのようにいうやっちゃんが、私には聖者の列に加わっているように思えてくる。
(1987年3月2日)
『風塵抄』中央文庫