諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

245 保育の歩(ほ)#35 歩の進め方(まとめ)

2024年09月16日 | 保育の歩

のんびり八ケ岳  最後に南八ケ岳の本領発揮、見上げるよう急こう配、随所に鎖がついてます。

本シリーズを振り返りたい。

はじめの”エピローグ”に次のように書いた。

予定調和を期待するシステムの中で、つい子どもの行く末も固定的に考え、教育もそれに向けて目的的に機能させないと落ちるかない、そのいうことが問題だという。

人生の長い時間、それと最初に対峙するする子ども時代の感性が一生を左右するなんて自伝や文学はたくさんある。大人に与えられた目標を達成するために子ども時代から離れた予定調和から解放され、白紙にクレヨンで自由に描くような時間、それを実現する教育ってどんなものだろう。

学校教育の原則、目標設定、適切な方法、評価、という連鎖から逸脱ということでもある。

そのことを保育の世界に見出してみたい。

このことへ回答できたのだろうか。

 厚生労働省発行の『保育所保育指導解説』では、保育のありよう、子ども姿が丁寧に親切に説明されていた。いかにも子どもがよく見える。「この時期の子どもは…」という言葉が多く、ほとんど学習指導要領にはない。

学習指導要領は、教科の部会ごとに編集される。教科の側の目標が上位にあり、学年ごとのディテールが構成される。そこには子ども論が入りにくい。

もちろん、児童福祉と学校教育は違うのだし、発達段階なり学齢も違うので当然といえばそれを否定はできない。

ただ、明らかに保育では子どもに健康な「居場所」を提供しようとする意志がある。

乳幼児期は、一生にわたる人間形成にとって極めて重要な時期である。

保育所は、この時期の子どもたちの「現在」が、心地よく生き生きと幸せなものとなるとともに、長期的視野をもってその「未来」を見据えた時、生涯にわたる生きる力の基礎が培われることを目標として、保育を行う。

その際、子どもの現在のありのままを受け止め、その心の安定を図りながらきめ細かく対応していくとともに、一人一人の子どもの可能性や育つ力を認め、尊重することが重要である。(保育の目標の設定について)

よい記述ではないか。また、具体的な保育目標の筆頭に、

(ア)十分に養護の行き届いた環境の下に、くつろいだ雰囲気の中で子どもの様々な欲求を満たし、生命の保持及び情緒の安定を図ること。

保育は、「十分に養護の行き届いた」「くつろいだ雰囲気」が最初に大きく謳われているのある。

 

次に取り上げたのは、『世界の保育の質評価』(明石書店)である。

一方、保育は公的なものである。

いろいろな社会の実情に影響される。たとえば、早期の教科教育、女性の社会進出、移民、そして社会的格差の問題が保育所のありようを決定する大きなファクターになる。

結果、社会保障を充実のために公的資金(税金等)に頼らざる得ない。

すると、各保育所の一定水準が担保されべきで、監督機関のもとの評価と管理が強くなり、保護者の参加も重視される。公的に保育者の育成や研修も求められる。

これら保育行財政の議論のなか、それぞれのシンクタンクのもつアカデミックな知見が光る。

ニュージーランドの「テ・ファリキ」は、エンパワメント、ホリスティックな発達、家庭と地域、関係性の4つからなる理念で、これに基づてたカリキュラムのもと、有名なラーニング・ストーリーを普及させている。

保育者が「気づく」「認識する」「応答する」「記憶する」「再検討する」と言う形成的な評価の流れを活用しており、子どもの能力の変化をたどり、可能な学びの筋道を考え、それを支える計画を立てることができる

という。優れた仕組みが、丁寧な実践を後押しする好例である。

また、シンガポールはより立体的な枠組みをもっている。

ECDA (幼児期開発局)というのが、「精神科学や子どもの発達理論など、様々な科学的知見を結集させて内容の見直し」を行い。EYDFという相関図を作成した。

横軸はニュージーランドと同じように、

「子ども発達」「意図的なプログラム」「専門職としての保育士」「家庭との連携」「地域社会との連携」

として、それぞれがどう深化させるべきか、縦軸がある。

「乳幼児に期待させる質」「柱と指導原理」「望ましい結果」そして「望ましい結果」をさらに説明する「結果の下位項目」

がそれである。

いずれにしても、こうした状況をこの本の編者は「諸外国における制度設計や改革のスピードには圧倒される」というが、それが子どもたち個人個人に実際としてどう機能しているのか、そこはわかない。

単に制度や仕組み論では語りきれない面があるのが保育(教育)といえる。

 

そして、その個人個人の実際を探究したのが『保育者の地平』(ミネルヴァ書房)である。

津守さんの愛育養護学校は幼稚部と小学部からなる私立の学校という条件で、自由な枠組みで純粋に子どもとのやり取りの中から確かなものを見出そうとしている。

だから、「べきだ論」がなく、エピソードの中の視座を紹介したり、小さなやり取りや配慮が綴られている。

そして、決まったカリキュラムはないこの学校では、子ども遊びに寄り添いながら、子ども中にカリキュラムを見出していく。

そして、まさに子どもを見ること、保育者間での「省察」(振り返り)の両輪でこの学校回っており、保育者育成もこの中にある。

この純粋さが保育への関心をぐっと引き付けるのだろう。

 

以上、35回にわたって保育について考えてきた。

どうやら、保育は条件や仕組だけては語れないようだ。

AよりもB、BよりCなのかもしれないが、それ以前に子どもがいる。

さまざまな条件の中で子どもはいたし、今もそうだろ。保育者はその子の中に何を見出すか、なのではないだろうか。

それがなければ、優れた環境や保育システムは空しいものになる。

子どもに追随して、彼らが次々に出くわすことの中に、大きな拡がりを期待さながら歩を進めること、それがたぶん子どもが子ども時間をより充実させる支援者の姿であろう。

 

                         保育の歩(ほ)了

 

 


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