諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

244 そんなつもりではない

2024年09月08日 | エッセイ

のんびり八ケ岳 阿弥陀岳の肩の稜線が見えてきました。 標識が十字架? 右‐阿弥陀岳 左‐ 赤岳 となります

内田樹さんが誰に向けていったのか。

サッカーのゲームはもうすでに始まっている。
そこへ、君たちは選手として放り込まれる。
ところが、ルールも身体の動かし方もなんにも知らない。
だけど放り込まれたら、周りを見ながら必死で覚えて動くしかない。
それが実は仕事するってことなんだ。


仕事の意味を広げて”生きる”に置き換えても発言の主旨は大きく変わらず普遍性を増す。

 
子どもたちの場合、

子どもたちは変化の激しい社会にいつのまにか放りこまれる。
ルールも体の動かし方もなんにも知らない。
すでにゲームははじまっている。
 
と言える。

子どもたちは、〝そんなつもりではない”と放り込まれた試合中のサッカーの中で呆然とするかもしれない。
そもそも、なぜここにいるのか?を知らされていない。
〝そんなつもりではない”。
 
その前の大事な時間が必要なのだろう。

子どもは自分の世界をだれかに見てもらいたい、理解してもらいたいと思っています。
大人が子どもの行動からその願いや悩みを見ることができるとき、その大人との関係の中で、子どもはそれをいっそう明瞭に表現するようになります。つまり子どもの行為が展開してゆきます。


と津守さん。

こういうことが保育なのだろう。


《見出し写真の補足》
稜線の向こうに富士山、秋晴れ! 右が権現岳、赤岳につづくキレットの間から。




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