諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

45 子ども時代の意味#10 子ども時代への願い

2019年09月15日 | 子ども時代の意味
明野町で。向こうは甲斐駒ケ岳。本当はもっと夕焼けなんですが…。

 長くなった「子ども時代」について、今回でまとめとします。長い独り言?みたいでしたが、読んでいただいて嬉しく思います。



 「子ども中には“善さキン(菌)”がいる」というのは、教育学者 村井実さんである。
「善さ」というのは狭義の道徳律のような意味ではない。

 人間は、(あなたも、わたしも)善くなりたいと願っている生物であり、当然すべての子どもたちも“善く”なろうとしている。
 だから教育の目的は子どもの中にある“善さ菌”の働きを歓迎し、善さを実現する歩みを後押しすることだという。その道を示すのが文化であると。

 
 本シリーズ、前半で3人の物語を書いてみた。
善くなろうと思っている子ども時代。その中でいろいろな経験を経る。それが彼らの中でどう働き、結晶化し、その後の生きる歩みの中でどうそれが働く(後押しする)のか、ということを表せないないものかと。

 後半は、子ども時代が長期に、しかも明確に存在するのは人間だけであり、助け合って生きることの文化を身に着けることが最大の命題であったこと、村(コミュニティ)あげてこの時期の充実を図っていたことをまとめてみた。

 以上、書きつつ、前後半で「子ども時代の意味」を考えたが、はやり予想どおり、#1の老先生が言われた
「先のことはわからないから、今を大切にしてあげることだよ」
と少しも変わらないようだ。当然と言えば当然である。


だが、せっかく?子ども時代の感覚質についてふれたので、少しユニークにまとめてみる。

 坂を上りきって向こう側に大きく夕焼けが見えた。
「わぁーっ」
圧倒的に美しいものを見るとこんな声がでる。

 小学生の時、「家にあった」といって恥ずかしそうに外国製の色鉛筆(話は昭和)をもってきた子があった。
36色。みんなが囲む机でふたを開く。
「わぁーっ!」

 発色のよい色鉛筆。
どんな時にも自分らしい色を出せるものがランドセルに入っている。そんな良質な感覚を持たせられたらいい。

 善く生きたいと思う気持ちをしっかりもつことを、村井さんは「善さキン(菌)」のはたらきを活発にすると言っている。
そして、菌には感染性がある。
 友達も保護者も先生も、誰でもが善くなりたいという存在である。
その「横のつながり」の意識が、質の善い子ども時代の善き感覚をつくることと関係しているように思う。


                                       シリーズ 了









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44 子ども時代の意味#9 子ども時代の原型

2019年09月08日 | 子ども時代の意味
(写真)昔は峠を越えて上高地に入りました。
ふもとから標高2100mまで来た徳本峠で穂高山塊がはじめて姿を表します。



 「子ども時代の意味」を考えるシリーズもそろそろまとめていきます。こんな一文から。


 とにかくも人間は弱かった。

 とても猛獣と闘って太刀打ちできないし、逃げ足も遅い。温度の変化にも弱い。
だから集合して助け合わないと生き延びれなかった。そのことしかなかった。

 食糧を分担して確保すること、それを何らかの基準に応じて分かち合うこと、仲間割れをしないことを必死で実践しただろう。そのことだけで他の動物にはない特徴であるらしい。

 その中でも人間の赤ちゃんは全くの無力だ。生後すぐに歩いたりしない、1月で狩りの練習をする動物とも全く違う。生きるための意思表示さえはっきりしないので神経を使うケアが必要である。弱き人間の群れはその赤ちゃんのケアを一生懸命やった。老若男女が参加した。

 そしてケア時代を経て子ども時代になっても、子ども達はコミュニティの主力になりえない。身体もできないし、生殖能力もない。一人前まで遠い。

 それでも乳幼児期での死亡率は高かったから、無事に子ども時代(児童期?)を迎えた子は「幸運な子」だったし、「貴重な跡取り」に感じられた。だから、大人たちは、子どものもっている広大な時間の中で、何か大切にしていることを伝えたかっただろう。
 そんな自然な教育がずっと行われてきた。営みとしての教育。

 だから、人類の発生当初から人間にとって子どもを育てることは(療育や教育)、類としてもともと大事業だったといえる。けして一人では育つものではない。

 そして、次第に群れの成員数が多くなっていくにしたがって、脳の大きさ(容積)が増大していった。
人類学者によるとコミュニティの規模と脳能容積が比例するという。他者への配慮やいたわりといった高度な他者意識が脳の前頭葉等を発達させたという。(並行して肉食をによるたんぱく質の摂取にもよるらしいが)

 とにかくも弱かった人間は、共生しないと生きられなかったので、子どもの広大な子ども時代を、共生するための修養の時間に充ててきた、と言っても大きく外れてはいないだろう。

 共生には、不断の努力がいることでもある。



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41 子ども時代の意味#8 共生のはじまり

2019年08月18日 | 子ども時代の意味
 ある村で子どもが産まれた。
母子とも「大丈夫か」と今父親になったばかりの青年が今まで感じたことのない気持ちになっている。

 こんな時はねえと言っておばあちゃんは腕まくりをして働く。
無口だったおじいちゃんが「どれどれ」と言って読んでいた新聞を畳んで赤ちゃんを見に来る。

 近所の人もニコニコしてお見舞いにやってくる。「おめでとう。」
お祝いも届く。郵便配達の人までいつもと違う。
組合長さんもやってきて「ああ、この子は将来村長だな」とか言っている。

 子どもが産まれると家や地域の雰囲気がかわる。

 無力な赤ちゃんが生まれるということは、周りを変える。
それまで、子どもの座?にあった子は、おにいちゃん、おねえちゃんに。「若い衆」は、家長をめざすようになるし、娘は母になるし、父母は祖父母へとシフトチェンジしていく。組合長だって責任感が増す。

 そういった具合に赤ちゃんの誕生はドラマティックに周囲に影響する。

 そんな存在だから、両親のみならず周囲のみんながこの子を可愛がりたいし、将来の教育にも関心をもっている。
自分の大切にしてきたものをこの子の紹介したいと無意識に思う。自然な感情として。

 後年、この赤ちゃんは、隣のお兄ちゃんにザリガニ釣りを教わったし、お姉ちゃんに字の書き方を教わった。おじちゃんにトラクターに乗せてもらい、組合長からお祭りの太鼓の仲間に入れてもらった。そしておばあちゃんに料理の手ほどきを受けた。

 子ども時代は確かに自由な空間のようだが、周囲の人たちの愛情(場合によっては軋轢)とともにダイナミックに中身が構成されていく。
たぶんこのことは古来かわらない自然な教育である。

 子ども時代というのは周囲の人々と共鳴しながら一緒に生きる黙示的な文化性をさかんに身に着ける時なのだろう。


 



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40 子ども時代の意味#7 不思議な時間

2019年08月11日 | 子ども時代の意味
(写真)コマクサ

夏休みだからではありませんが、教育と迂遠な話です。

 
 人の一生、ライフステージのどこを切っても、時々の特徴があるから「子ども時代」だけを特別なものとするのは不自然ともいえる。
昨今はキャリア教育の中で「子ども時代」は次のライフステージの準備期間のように扱われることすらある。

 たぶん、子ども時代を特別な時期と考える思想は、ルソー以降なのではないかと思うが、それ以前だって大人は子どもを可愛がっていて、理解できない行動をとる子どもはどう考えても特別な存在だっただろう。
そもそも近代以前は乳幼児期の生存率が極端に低かった。そういう意味からも子どもは単に「大人の準備段階」ではなかったはずだ。 

 霊長類の研究者から見た人類は多産で子どもが成人まで育つ確率が低いことが特徴だという。出生から長い年月養育が必要であり、青年期に入っても、肉体的に完成されず労働の主力でもなく、家族をもつこともできない役割の不明確な存在だったようだ。
チームとして集住する中で役割が曖昧な時間が子ども時代として長く存在していた。

 さらに生物学者によれば、生物の多くが、弱肉強食の世界に生き抜き、種族の繁栄のため、出生後、急速な肉体的、性的な成熟があるという。つまりできる限り早く食糧の確保に奔走し、生殖行為の闘争のための準備に入る。
が、人間にはそれがそれほど明確にはないという。つまり差し迫った目的的な努力を強いられない長い時間があるというのだ。

 人間の子ども時代というのは大人への直線的な準備の過渡期ではなく、生物の成熟として「定型」といった規定もなく、本人や周囲や社会がその中身を決めうる時間として子ども時代がある。

 その時代を タナカは野球をやり、スズキはスキー学校に行き、ヤマダはミニ四駆に興じたりしている。(もちろん他にいろいろ)

 動物的の本能的で生理的な成長に対して、それとはおよそ無縁な文化活動を行っているというのはなんとも人類は不思議な存在だ。

 裏を返せば、描くべき教育の中身の自由度は大きく、大きいが故に悩みも生じる。
 

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39 子ども時代の意味#6 感覚質の蓄積

2019年08月04日 | 子ども時代の意味
(写真)夏のテント場で。三伏峠。

 

 

 

子ども時代のことがどう広がり、それ以降とどうつながっていくのか、そういうことを考えようと思って物語みたいなものを書いてみました。

それが読んでくださる方にどう伝わるかは心配なものです。こんな文は普段は書きません。

 

要は、子ども時代の経験は線で引っ張ったようにその後とつながっているのではなく、経験から得た自分なりの質感をともなった感覚として保存されていくものであること。そしてそれが子どもたちの成長を音もなく後押ししているだろうという感じ。子ども(大人も)の成長のエネルギーはこの感覚質なのではないか。

 

たぶん、それは、ジブリの映画『おもひでぽろぽろ』のように直接的な作用として小学校5年生の「私」が今の「私」を変えることは稀で、かつての経験の断片が感性の一部として意識されず、でも日常のいろいろな場面で自分を支えて(あるいは縛っている)いるのでしょう。書いた3つの物語は日常のルーチンから少し外れることで自分を支えている感覚質の起源が見える場面を想像しています。

 

子ども時代の意味は、子ども自身(大人もだが)、の成長を支えてくれる良き感覚質を得ることではないか。

 

小学校から当時の養護学校に転勤してきた時。一人ひとり違う状況の子どもたちに教育内容をほぼ手作りで考えなければならないことに呆然としました。学習指導要領に沿って教えることが先に決まっている小学校と全く違う。現在のように情報も多くありません。

実は子どものことが分かっていない。教科教育の座標軸がないと何が子どもたちの成長にとって大切なことなのか見当もつきませんでした。

 

また一方で、高等部の生徒に接すると、障害による特性ではないのに、「なぜかそれができない」という生徒が多いことに気づきました。いろいろなことに違和感があって生きにくい生徒です。

流行りの言葉でいうとトラウマなんでしょうが、ものごとへの捉えの印象があまりよくない、だから自己肯定感が低いまま生きている。

 

これもよく言われることですが、子どものころから客観的で公平性のある評価がされます。高等部になると人材的な観点で評価をされます。それはそれで否定されることもでもありませんが、子ども時代に得る一番大事なことはその後の人生を支えてくれる良き感覚質なのではないか、と思います。

 

以上、書いて見ましたが、何しろテーマが無意識の中のものだから説明できにくい。理屈っぽくなりますがもう少し続けます。

 

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