諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

169近未来からの風#8 グローバルって?

2022年01月30日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 天狗岳 反対に西峰から東峰を望んでます。

「近未来からの風」の背景を佐藤さんは次のような例で説明する。

Amazonは1995年の書籍の通販会社として、従業員3万人でスタートしました。(中略)
(それが)現在アメリカの小売消費市場においての商品の39%がAmazonで購入され、小売額第2位のウォルマートのシェアは5.8%です。中国のAlibabaも同様に巨大企業へと発展しています。日本の通販の最大では楽天ですが、楽天の年間売り上げ額はAlibabaの年間売上額の1日分にしかなりません。

Facebookは、2004年に当時ハーバード大学の学生であったマーク・ザッカーバーグが学内の学生用に開発したSNSサービス・システムでした。2006年このSNSシステムが一般人に公開されるとまたたくまに世界中に普及、2012年には10億人が利用する一大ネットワークに成長し、2017年には利用者20億人を突破しました。その広告種類は驚異的です。

世界の企業ランキングは「世界時価総額」で示されます。2020年8月のランキングは、Appleを筆頭にサウジアラコム、Microsoft、Αlphabet、Facebook、Alibabaとなっています。上位30社のほとんどがIT企業です。30社の国別が、アメリカ21社、中国4社、スイス2社、サウジアラビア1社、韓国1社です。日本の企業は上位30社に1つもなく、50位までででトヨタ1会社(48位)のみです。

32年前の統計では、日本の企業がトップ30社のうちの21社を占めていたことを言い、日本の経済面でも「後退」を指摘している。

こうした外国資本のIT企業の隆盛と、急速なグローバルネットワーク化で国も個人もそのシステムや日常の生活すらも変化せざるえなくなってきたいる。実際、スマートフォンを家に忘れた日は1日の仕事や生活に支障が出るほどである。いつの間にかそうなっている。「便利」という説得力は、これを手放して10年前に戻ろう、という発想にはなれないのである。また、このブログでも取り上げたように絶対的に有用性のある技術も多数あるのも事実だ。
ある評論家はすでに、今やコンピュータは延命装置(なくてな生きていかれないもの)化している、と表現するほどに社会や個人の生活にも浸透してしまっている。

したがって、教育もこの背景にこの技術革新とグローバルネットワークに無関心であるわけにはいかず積極的に対応する必要に追われてきている。その推進役は経済産業省であるという。数年前から経済産業省が文部科学省ともに教育イノベーションを行っているのが「未来の教室」であり、その主要な部分は「1人一台端末」を目標とする「GIGAスクール構想」である。全ての教育内容にICT教育の要素がふくまれてくる。

そしてその影で、IT企業にとってはこのイノベーションはビッグビジネスのチャンスになってきているらしい。文部科学省が掲げてきた教育企業への公教育への侵入阻止の原則が崩れつつあり。コロナによるICT教育予算の執行の前倒しや、「学びを止めない未来の教室」での「100を超えるIT企業が教育プログラムの「無料サービス」の提供」などがそれを加速している。そして、もし、AI教育がビッグデータと結びついて一定の成果が得られれば、公教育予算の8割を占める膨大な人件費が教員をコンピューターに置き換えることが可能になり、その余剰部分がIT企業に流れ込むことになると佐藤さんは指摘している。
こんな形の第四次産業革命は教育現場にも及びつつある。

もともと教育行政の独自性は「中立性」ということだった。学校教育が時の権力や営利団体等に利用されてはならないという崇い原則である。それは歴史の教訓による大原則のはずだたが、これまで懸念されてきた政治的な力とは違った角度から足をすくわれつつあるとう言い方もできるかもしれない。

昨年末アフリカで発生したオミクロン株というのが、ほんの1月で世界中を覆うのとになり慌てている訳だが、ICTの技術革新とグローバルネットワークというが、ほんの10年間で世界中の学校教育を覆うことになってきてどの国も慌てているらしい。

近未来からの風に思考が追いつかねばならない。




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168近未来からの風#7 佐藤学さんの近未来

2022年01月23日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 いよいよ天狗岳山頂 東峰から西峰を望む 風もある11月、結構寒いです。

今回からぐっと焦点を絞り日本の教育の近未来を探ります。
今回もテキストを設定します。

佐藤 学『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット

です。帯には、「子ども「一人一台端末」のその先は?」とあります。

佐藤学さんは、当ブログでもたびたび参考にさせていただいた、現場の実情を踏まえた日本の教育界を俯瞰される研究者であることは言うまでもありません。その佐藤さんがどんな近未来観をお持ちなのでしょう。今回も引用が多くなります。

〇第四次産業革命による社会の変化
佐藤さんは、ハラリさんのいう「AI社会の到来が変化を加速する」に近いイメージで、これからの未来を「第四次産業革命」といい、人類史上の過渡期としている。

第四次産業革命」と言う言葉は2016年の世界経済フォーラム(ダボス会議)で登場しました。この言葉はAI (人工知能)とロボット、あらゆるものをつなぐインターネットとビック・データを始め、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、再生可能なエネルギー開発などによって遂行される産業革命を意味します。

第四次産業革命は2012年頃からすでにドイツの「スマート工場」(AIとロボットで生産過程を制御された工場)で現実化していたと言われます。例えば、ジーメンス者のスマート工場では、ビック・データにもとづいて顧客に300種類の香水のうち最適な商品を推奨してインターネット販売を行い、その顧客の注文によって工場が自動で香水を製造しています。現在は宅配で届けていますが、数年先にはドローンで届けることになるでしょう。そうなると宣伝、販売、製造、配達のすべてが人の労働を介さない過程になります。
この例からわかるように、第四次産業革命は急速度で人々の労働と生活を変えています。人工知能が人間の能力を上回るとされる「シンギュラリティー(技術的特異点)」が2045年と予想されていますから、第四次産業革命は向こう25年間、加速度的に進行することになるでしょう。(ただし私はシンギュラリティーの到来には懐疑的です。技術的に可能であっても、市場経済にとって有益でなければシンギュラリティーは到来しないからです。)

〇社会の変化と教育の課題
これまで産業革命も社会に大きな変化を引き起こしている。さて第四次はどんな変化なのか。

人間の労働は頭脳労働と肉体労働に大別することができますが、これまでの産業革命の技術革新によって奪われた労働は肉体労働でした。しかし、第四次産業革命における技術革新は、肉体労働だけではなく、むしろ頭脳労働を奪っています。つまり新しく喪失させる労働は、そのほとんどが現在の頭脳労働より高度の頭脳労働になります。
この事は深刻な問題を引き起こします。この変化に対応する人々の学びが追いつかなければ、大量の人々が社会から排除されて「無用階級」に転落する危険が待ち受けています。労働市場から排除された人々が多くなれば、ますます単純労働の賃金は下がってしまいます。しかも、現代の労働市場は国境越えています。労働を創出した人々は人として最低限の生活を奪われるか、あるいは単純労働が残っている国と働き口を求めて流出し、世界中をさまようことになるでしょう。この危険はなんとしても避ける必要があります。ここに教育の大きな責任が横たわっています。


〇ビッグ・データの統計力と「最適な教育プログラム」
第四次産業革命の特徴はビッグ・データとその統計による現実認識が人を「客観的」にデータ化できうることである。“アルゴリズム”が自動処理していく感じ。
教育もそのデータ処理と同じ要領で最適解が導きだせるはずである、ということになる。

第四次産業革命の基盤の1つはビック・データです。(中略)
ビックデータは指数関数的に増加し集積されています。アメリカではGoogle情報はすべての人のインターネットへのアクセスからメールに至るまですべて、最終的には国防総省に集約されています。(中略)
アメリカでは、すべての子ども、生徒、学生の小学1年からの学力テストの結果はもちろん、あらゆる教科のあらゆる内容の学習において、どこでどうつまずいていたのか、どの内容をどう理解したのか、その学習でインターネットのどの情報にどうアクセスしたのかなどの個人別データがビック・データとして集積されています。このビック・データによって、一人ひとりの能力と学習歴に照らして最適なプログラムをICT教育で提供することが可能になっています。


〇第四次産業革命と日本の「人づくり改革」
佐藤さんは、こうした世界の潮流の中で決して対応が遅れたとは考えいないようだ。しかし、第四次産業革命が背景にある教育ありようは、従来の行政組織では想定しにくいことがわかる。

内閣府も経済産業省も文部科学省も、日本経済が厳しい状況にあることも、IT革命(第三次産業革命)において国際競争から脱落したことも認識しています。しかし、その原因である外交・経済・教育政策の誤りを顧みることなく、第四次産業革命の遅れをICT教育で取り戻そうとしています。「人づくり革命(内閣府)」も「Socie-ty5.0」(経済産業省)も、内容を読むと、文部科学省の政策文章のようです。文部科学省が担当すべき政策が経済産業省で担われる状況が生まれました。(中略)これらの政策によって第四次産業革命に対応した教育イノベーションを推進することができるのでしょうか。

以上は、このブックレットの第一章から抜粋である。
近未来の風に不穏さを感じる後ろには、こんな世界情勢やIT技術の変化、ビッグデータの威力があり、教育行政の政策のパッケージすらも変えようとしているらしい。

次回は、グローバル化とビッグデータの中での教育の未来像を、行政側から見てみたい。



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167近未来からの風#6 ハラリさん まとめ

2022年01月16日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 八ケ岳 
本沢テント場でテントをデポして天狗岳へ 天狗岳は頂上が2つ(双耳峰といいます)あり、奥が西峰、中央のピークが東峰。 


ハラリさんの本と、テレビの発言から考えています。
膨大な著作等からごく一部を拾っている訳ですが、とりあえず区切りをつけて、ハラリさんの「予測不可能な時代」学び観?をまとめてみます。引用して考察していきます。


人間であれば100万人でも、10億人でも協力し合うことができるんです。
百万人が同じストーリーを信じることができれば、たとえ知り合いでなかったとしても協力し合うことができるんです。

ストーリーを正しく使えば、私たちを結びつける最強の手段となります。力合わせて病院を建設したり、気候変動と戦ったりすることができるんです。でも戦争や迫害など悪いことに使われないように注意しなくてはなりません。
常に選択です。


このことは『サピエンス全史』の基調をなす発想である。ストーリーを共有できる、だから人類はここまで来たともいえるし、こんな苦い経験もしてきたともいえる。
いずれにしても、人間の協力する特性は、今後も変わりはなく、善きストーリーと善き協力とは何か、という探求を続けなければならない。それが、とりもなおさず今日の教育のテーマでもあるといえそうだ。
ある哲学者が「人生は絶えざる選択だ」といった。正しい選択ができるために学ぶのだ、というのは子ども達に通る話である。
ただ、歴史を転換点での選択は、多くが民意が合意して決定されたものではない。このことについては、もっとシビアな課題として教育の場でもテーマにしなければならない。
もっといえば「選択」は、多くの場合何らかの犠牲を強いることがほとんどだ。そんな中でも選びとる力が必要なことが公私の場を問わず日常的に求められる。

「ストーリーは人間が作ったものに過ぎないんじゃないか!」
人種差別と言うのは人間を残酷にするだけでなく、弱くもします。


人間は簡単に偏見に陥る。しかもそれがストーリーに乗るととんでもないことになる。
これは完全に教育のテーマである。
「いじめ」を取り上げないまでも、「陰キャ」「陽キャ」なんて怪しいものである。「陰キャ」といって人柄を固められるのは残酷なのだが、逆に「ノーベル賞受賞者のほとんどが、子どもころ「陰キャ」だった」という俗論もある。怪しいストーリーが流れるのは簡単なようだ。
怪しいストーリーに乗ったとき、これまで保っていた良識が薄くなる。これが、弱さということかもしれない。

現実は複雑だ、人は様々な関係性を持ち複雑なストーリーが必要だ、と認めることができれば実行可能な妥協案を見出せるでしょう。
忘れてはならないのは、「ライバルは決して敵ではない」


人間が協力するには、力を合わせるイメージの共有のためのストーリーが必要なのだが、複雑な現実に有効なストーリーは、よく練られたものが必要である。
不用意なストーリーには、他者意識が欠落しがちであるというのだ。
また、自分のストーリーに乗らない相手について、「決して敵ではない」というのはいい発言である。

これは私たちみんなのプロジェクト、歳をとった人も、若い人もみんなが力を寄せあって、人類共通の問題を解決していく
これは、ストーリーを作る以前のストーリーの執筆者について言っているように思う。善き選択は「みんなのプロジェクト」という意識の上に成り立つと。
そして、そのことが最後の学生の発言

一番の学びは私たちが今以上にどれだけ心を広く持つことができるかと言う点です。

につながっていく。

以上、人類がデウス(神)になり、現在は信じがたいアップグレードのさなかにあるというハラリさんの、学び観?を簡単にまとめてみたものである。

なるほど、ストーリーを持つことの危うさ脆さ、そこを洞察する冷静な知恵、そして協調と行動の必要性ということは理解できる。
認知革命以降の人類は、愚かさを見せながらも、互いにストーリーによって協力出来得ることを証明できる歴史でもあったということだろう。

ところが、この変化にうちもっとも懸念されるのがその「冷静な知恵」の部分ではないだろうか。
ICT社会への移行で、仕事の質がいつの間にか変化し、生活の「便利化」がすすんで、思考そのもの分断され、判断力が不要になっていくことである。しだいに「冷静は知恵」すら統計的なコンピューターの解析が優先される。
ハラリさんの言う通り、社会のありようは「すべては選択」なのだし、個人においても「人生は絶えざる」選択である。
しかし、妥当(なはず)を担保に、それをコンピューターの解析に乗っかっていいものか、人間社会として、人生としてどうなのだろう。
ここが、識者の意見も分かれるところである。
少し横道にそれるが、今話題の斎藤幸平さんは、

作業の効率化によって、社会としての生産力は著しく上昇する。だが、個々人の生産能力は低下していく。もはや現代の労働力は、かつての職人のように、1人で完成品を作る事はできない。テレビやパソコンを組み立てているのは、テレビやパソコンがどうやって作動しているのかを知らない人々である。
(中略)
現代の資本による包摂は、労働過程を超えて様々な領域へと拡張している。その結果、生産力の発展にもかかわらず、私たちは、未来を「構想」することができない。むしろ、より徹底した資本への隷属を強いられるようになってきていき、資本の命令を「実行」するだけになる。

(『人新世の「資本論」』集英社新書)

という。
「資本への隷属」という表現がふさわしいかわからないが、自分自身が、馴染んできて事々が何ものかにとってかわられる気配が、そして、思考が円滑に出来なくなる懸念が近未来の風に感じる。


これで、本シリーズの第1章は終了です。
前回の予告どおり、日本の教育が立っている「複雑な現実」を見てみよう。



 

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166近未来からの風#5 ハラリの回答

2022年01月09日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 八ケ岳 本沢温泉 ここのテントサイトで幕営
ここには、10分歩いた沢のほとりに露天風呂があり、マニアの方に人気らしいです。(写真は小屋のHPから)



前回から、ハラリさんのテレビでの発言を追っています。
その前回、ハラリさんは、未来予測を不可能にするファクターを、3点に絞って紹介しました。
そして、今回は、

2、その照らし返しとして、その中で人はどう生きていくべきか、学ぶべきか

です。参考にするのは、
・ETV特集 選「サピエンスとパンデミック~ユヴァル・ノア・ハラリ特別授業~」
(2020年11月14日放送)

この番組は、(御覧になった方も多いと思いますが)リモートでハラリさんと10人程度のインターナショナルスクールのティーンエージャーが対話する番組です。

さて、ハラリさんは、自分の「未来予測」をふまえてどう若者にメッセージするのか。
あまり前回の3点とリンクしていませんが、誠意を感じる彼の生の声をまとめてみる。

人間の協力性について
人間がお金が世界を支配する力を持てたと言うのは大人数で協力しあえたからなんです。これは他のどんな動物にもできません。皆さんは人間は賢くて唯一無二の存在だと思いたいかもしれませんが、単独では人はチンパンジーや象や豚よりも弱い存在なんです。でもチンパンジーは百匹だったとしても協力する事は無理なんですが、人間であれば100万人でも、10億人でも協力し合うことができるんです。
チンパンジーに対してね。「今、バナナをくれたら死んだ後に天国に行けるよ、そこではたくさんの花がもらえるよ」と約束してもそれを信じるチンパンジーはいませんよね。でも人間はそういったストーリーを信じるからこそ協力することができる。
ピラミッドの建設から月への飛行まで、人類の偉業と言うものはすべて大規模な協力で実現しました。百万人が同じストーリーを信じることができればたとえ知り合いでなかったとしても協力し合うことができるんです。それは私たち人間だけがなせる技です。


ストーリーの可能性
(ストーリーのもつ危険性の話の後で)それはまさに私たち次第です。ストーリーの中には対立を生むものもあれば結びつけるものもあります。私はストーリー自体が悪いと言っているわけではないんです。
例えば、ナイフは人を殺すために使うこともできる。その同じナイフを使って医者は手術で腫瘍を取り除き患者の命を救うこともできます。その同じナイフを使ってレストランのシェフならおいしい料理を作ることもできるんです。ストーリーも同じです。それは「道具」なんです。
ストーリーを正しく使えば、私たちを結びつける最強の手段となります。力合わせて病院を建設したり、気候変動と戦ったりすることができるんです。でも戦争や迫害など悪いことに使われないように注意しなくてはなりません。常に選択です。いつでも私たちは知己にどのように対応するのかを選択できます。憎しみを生み、感染症の流行を外国人やマイノリティのせいにし分断を選ぶのか、それとも思いやりを生み、連帯感をはぐくみ資源を分かち合い、情報を分かちあうのかのは、私たち次第です。
究極的には選択の基準はそれが苦悩を生むのか、幸福を生むのか、だと思います。ストーリーがより多くの苦しみを生むのか、それとも自分や他の人たちの苦しみを解放するのか、そこが大いなる物差しとなります。


ストーリーを見抜くこと
何より大切な事はストーリーが「全知全能の神」ではなくあくまで「不完全な人間」によって作られたものなんだと理解することです。
例えば私が10代の頃、自分がゲイであると言うことに気づきませんでした。なぜなら同性愛者を激しく嫌悪する社会で育ったからです。1980年代のイスラエルでは神は同性愛者を嫌悪すると言う考えが根付いていました。男性である自分にボーイフレンドがいたら神の怒りを買い地獄に落ちると言われていました。そして、そのストーリーは上から来たもので、反論の余地は無いものでしたが、成長して歴史を学ぶようになり、私は気づいたんです。「ストーリーは人間が作ったものに過ぎないんじゃないか」と。もし神が存在したとして、人を愛することで果たして神が人間を罰するだろうか?。男性同士、女性同士で愛し合い誰かを傷つけるわけではない。何が問題なのか。これは聖職者が2000年前だとか2500年以上前に作ったただのストーリーであって、絶対的な真実ではありません。
いちどこのことに気づけば信心深い人たちでさえも変わり始めるでしょう。そうすることで自分と異なる人やコミュニティーを受け入れる余裕が生まれます。すべての人が全く同じ存在である必要は無いんです。


ストーリーと差別、その弊害
人種差別と言うのは人間を残酷にするだけでなく、弱くもします。自分の属するグループが外よりも優れていると思うこと、つまり自分たちの人種、国、宗教だけが世界で唯一優れていて他者は劣っている、と考えその知恵や洞察に学ばないのだとすればそれは自らを弱体化させ愚かにさせることになるのです。人種について言えば3万年前、4万年前には、黒人も白人もありませんでした。それらはずっと後の時代になって考え出されたものです。
生物学的レベルまで掘り下げると私たちは誰1人として純粋なホモサピエンスではありません。ですから純粋な人種と言うような概念や自らの伝統にのみ固執すると言うのはほとんど意味をなさないのです。


フィクションの多様性は認められるべきか
人間は複雑な生き物です。同時に複数の集団に属し関係を築いています。そうした中で人々は家族、仕事、国、人類、真実などに対して同時に忠誠心を持つことができます。ナショナリズムであれ、宗教であれ、イデオロギーであれ、100%の忠誠心を要求さえしなければ問題はありません。
問題が生じるのは1つの事のみに忠誠を尽くせ、と言う動きが出てきた時です。例えば「忠誠を尽くす必要があるのは国家に対してだけだから、国家が大勢の人間を殺せ」と命じたならば殺さねばならない、国家が「嘘をつけ」と言えば嘘をつく、国家の栄光を称えるためにのみ芸術を創造し、その他の芸術は一切放棄するそのようなことを求めるのはファシズムです。ナショナリズムが「国だけでなく外にも忠誠心を持って良い」とする一方、ファシズムは「大切なのは国家だけ外は一切重要ではない」とします。このような極端なものを避け、現実は複雑だ、人は様々な関係性を持ち複雑なストーリーが必要だ、と認めることができれば実行可能な妥協案を見出せるでしょう。
忘れてはならないのは、「ライバルは決して敵ではない」と言うことです。対立する相手を一度敵や反逆者と見なせばいずれ内戦や暴力につながってしまいます。というのも敵との戦いにおいては最終的に民主的な決定を受け入れられないから、リアルな戦争を民主的な選挙で終結させることはできません。例えば中東で長年対立してきたイスラエル人とアラブ人全員に投票させても紛争は解決できません。なぜ自分を憎んでいる敵の意見を受け入れなければならないのか、そうなると秩序は完全に崩壊します。この状況を回避したければ合意できる共通点を懸命に見出さなければなりません。


人類は自ら「アップグレード」するが、
とても重要なのは、それでも私たちは動物だと言うことです。先ほど「私たちは神だ」と言いましたが、同時に生態系の1部でもあります。そして今、蝙蝠のような野生動物に由来するウィルスがわずか数ヶ月で地球全体を覆い、運命を揺るがしかねない状況です。ですから2つの観点を同時に持たなければなりません。力を持つと言う意味では神であり、大きな責任を負う必要がある。しかし、動物としては生態系に完全に結びついている。だから人間が生態系を破壊しながらその衝撃波から守られるはずは無いのです。

発展途上国支援
新型コロナであれ気候変動であれ、私たちは団結する必要があります。社会で最も弱い立場にある人を守るための地球規模のセーフティーネットが必要です。発展途上国が自分の力だけで問題を解決する事はできません。そのために地球規模で団結できるのか、それはわかりません。私たちみんなにかかっています。特に、あなた方、若い世代がその責任を担って、人類が直面する地球規模の問題に注目し、そこから取り残される人が1人もないように取り組んでもらいたいと心から願っています。

その途中から“締め”に、
この先、私たちはどこに向かうのか誰にもわかりません。20年30年後に社会や政治がどうなっているのか、見当もつかないのは歴史上はじめてのことだからです。若い皆さんにとって困難な時代だと思います。年上の知恵があてにできない、2050年に世界がどうなっているか予想もつきません。逃げているわけではありません。大人になればわかるものでもありません。私にも本当にわからないのです。だから私たちには、あなたたちの助けが必要です。誰かが教えてくれると言う事はもう無いのです。これは私たちみんなのプロジェクト、歳をとった人も、若い人もみんなが力を寄せあって、人類共通の問題を解決していくことを私は望んでいます。

で、ディスカッション終了後の参加者へのインタビュー、

ボリビアの男性、17歳
今、私たちは意思決定する時期に来ています。その上で、ハラリさんは有効な有効かつとても価値のある有益な情報を伝えてくれたと思います。決断を下すにあたって念頭におくべきことを教えてくれました。気象変動やコロナといった問題と戦うにあたり政治的に一致しなくても人間と言う種として共有できることがたくさんあると言うのはとても強固な考えです。
問題を深く考える上でより広い意味での共通の土台が与えられるような気がします。

タジキスタンの女性 19歳
一番の学びは私たちが今以上にどれだけ心を広く持つことができるかと言う点です。宗教や信仰、精神性の部分でもお話があったように、しばしば私たちはそれらを確定された決して代えられないもののように考えがちです。
この対話を通してそれらが思うように具体化できるもので、時間とともに変化し得るものだと気付かされました。それに一個人として、私にも世界を形作る力が大いにあること、そして未来においても世界に前向きな変化をもたらすことができるんだと気づきました。


日本の男性 ?歳
それぞれの個人の気づきがどう社会にインパクトを与えるかって、すごく大きくて答えるのは難しい問だけれども、自分たちでこうしたいっていう思いを共有して、それがどうやって変化をもたらせるのかっていうのを試すことによって問いに答え、自分たちが見たい未来を作っていきたいとすごく思いました。
それぞれがこうしたいって言うのを持ち寄ることで、みんなが見たい未来が見られるんじゃないかなって、今すごく希望を持って見られる感じです。


テレビの番組の出来過ぎ感はあるものの、近未来への希望が語られたのはとにかくほっとする。

次回は、日本の教育の枠で近未来はどう捉えられているか、見に行こう。





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165近未来からの風#4 ハラリの懸念

2022年01月02日 | 近未来からの風
久しぶりのテント泊 登山口から2時間 ミドリ池に到着
湖畔の”しらびそ小屋”は八ケ岳らしい森と池の佇まいで人気



ハラリさんの記述は一見、予言的である。ご本人も、2050年の世界は誰にもわからない、と述べているので、想像といってもいいのだろう。

ただし、前著、サピエンス全史を踏まえて、その続編として読むと、人類はそうするのかもしれないと思ったりする。ハラリさんは、こう述べる。

歴史学者として言える事は、人間の愚かさを決して見くびってはいけない、と言うことです。人類は生命の歴史で最大の力を持ちながら幾度となく誤った選択をしてきました。残念ながらそれが再び繰り返される可能性があります。

こういう警戒心を、人類史を遠望しながら持つに至ったのだろう。
いずれにせよ、「予測不可能な未来社会」を暗示させるのに十分である。

ところで、これまでの歴史書は、その多くが時代や地域を限定したものが多く「地球を外側から俯瞰したように書く」と言う超マクロな視点での歴史の捉えはあまりなかったのではないか。
逆に言えば、このようなダイナミックな史観でないかいぎり、近未来に展開される大きな変化を読み取る事は難しいのだろう。

そこで今回は、ハラリさんの見識からもう少し学ぶため、テレビ番組から発言を追いたい。視点は2つ。

1、グローバル社会の行く末を予測不可能にするファクター
2、その照らし返しとして、その中で人はどう生きていくべきか、学ぶべきか


である。参考にするのは、ともにNHK、

・BS1スペシャル 「“衝撃の書”が語る人類の未来~サピエンス全史/ホモ・デウス~」
 (2019年1月1日放送)
・ETV特集 選「サピエンスとパンデミック~ユヴァル・ノア・ハラリ特別授業~」
(2020年11月14日放送)

では、さっそく、第一の課題から。

1、グローバル社会の行く末を予測不可能にするファクター

NHKの構成では次のようなまとめ方がされた。
①生物工学の進歩
つまり自ら遺伝情報を書き換えると言うことを言うらしい。
実際人為的にマウスの遺伝情報をパソコン上で表示させデジタルにその文字配列を変えることによって、耳を緑色に光らせるマウスが出現させることがすでにできている。このように遺伝情報を人為的に操作し、その結果生物に意図的な、人為的な操作が可能になりつつある。これはもちろん人自身にも活用され得る。

初期段階では病気に苦しむ人に利用され、極度な肥満体質に悩む人への対応として有効であることが指摘されるが、倫理的規範を飛び越えたところでは意図的に我々とは様相の異なる人を作為的に作れる可能性を秘めている。

例えば、優れた容姿、抜きに出た知性をもつ人間が生物工学の発達によってつくり出せる日が来るだろう。つまりアップグレードされた新しい人類の開発だという。

②機械との融合
機械が技術力を増すことによって、身体の一部を限りなく機械が代替していくようになると言う。
これまでは人間の力の増大は主に外界の道具のアップグレードに頼ってきた。(石器や土器にはじまり自動車、スペースシャトルへ)だが、将来は人の心や体そのもののアップグレードに道具が関与すると言うのである。その事は身体の動きの制限性によって外界とのコミットに限定のある障害を持つ人にとっては大変歓迎されることだが、その一方で「懸念」があると言う。

コンピューターのつなぎ方を学んだ人類は、遠隔操作できる機械の手を持つ可能性もあります。脳に機械の手をつなぐ方法をいちど学べば、体に接続している必要はありません。

その1つの表れが兵器の開発であるらしい。バーチャル訓練で訓練を積んだ兵士が遠隔操作によって兵器を操り味方に損害なく一方で敵に甚大な被害を与えるそうした技術である。
脳に直接センサーをセットして、脳のイメージ(思い描いたこと)を直接代替身体が表現すること進められつつある。

③ AI社会の到来が変化を加速する
これまでの歴史でこれほど膨大なデータを十分に処理できる人はいませんでした。この先私たちはデータやコンピュータの力を駆使して他人の心を覗き込み、何を望んでいるのか、その欲望の支配までできるようになるのです。

実際に、日本の銀行でも融資の審査にスマホのアプリを使って行うという。質問項目を設定し、データ上のアルゴリズム(膨大なデータにもとづく統計的な計算)によってその対象者を評価し、銀行の損失がない融資ができるか否かを、これまでの会社なり個人の営業成績や所有資産、年収だけでなく、その人自身の内面性もコンピューターにる統計的で評価するということである。

また民間企業ではマーケティングの調査や営業効率の改善にAIが積極的に導入され効率化が図られている。膨大なデータはコンピュータに入れられ人間の処理能力を超えた能力で分析し結果が出される。

私たちは、無料のアプリなどに頻繁にアクセスし、スマホで交信するたびに、私たち自身の在り方を総計的に処理するアルゴリズムのデータへ個人情報を提供し続けて、それによってコンピュータによる判断根拠は精度をましながら、私たち自身を脅かす。
そして、もはやこれほど膨大なデータを十分に処理できる人はいないので、人の在りようの根拠は哲学でも感情でもなくコンピューターの判断に依存せざる得なくなるという。

そこにハラリさんが疑問を呈する。
知能と意識とは全く異なるものです。知能とは問題を解決する能力です。意識は物事を感じ取る能力です。苦痛、喜び、愛、憎しみなど主観的なものです。人間はこうした感情を通して問題を解決します。しかしコンピュータは別です。感情などの意識を発達させる事は全くありません。現在、世界中のほとんどの投資は知能の開発、AIに向けられています。企業や軍隊、政府はAIを必要としており、知能で問題を解決したいのです。
最も恐ろしいシナリオは、意識や感情を全く持たない超知的な存在に世界が支配されることです。それはほぼ全てにおいて私たちよりはるかに知的な存在ですが、感情や時間もなく人間と全く違った存在なのです。
(個人データが各所で収集され統一化されてコンピューターに把握された時)やがて私たちはこの全治のネットワークからたとえ一瞬でも切り離されてはいられなくなる日が来るかもしれない。私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの数が少ないアルゴリズムがあれば充分だ。そういうアルゴリズムがあれば、それを信頼して、自分の決定や人生の選択の次第に多くを委ねるものも理にかなっている。懸念されるのは人間そのものの価値が失われていくことだ。
データ至上主義が、世界を征服することに成功したら、私たち人間はどうなるのか?。最初、データ至上主義は、人間至上主義に基づく健康と幸福と力の追求を加速させるだろう。ところが人間からアルゴリズムへと権限が一旦移ってしまえば、人間至上主義のプロジェクトは意味を失うかもしれない。(人間よりも)はるかに優れたモデルが既に存在するのだから。

さて、こうしたこれまで人類が経験しない変化の渦中、ハラリさんは若者にどうメッセージするのか。


以上、テレビ番組からの抜粋で、言い回しなど若干の修正があります。


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