富士山! 秋 国師ヶ岳から あられの後の晴れ間
今回から「生きがいについて」を読み進めます。
なお、「生きがい」=「幸福」か、という議論は少しおいておきます。
印象深いところを引用して、それなりにですが毎回まとめを作ろうかとおもいます。
「…」は省略、( )内は私の補足、引用部分はカラーにします。
2 生きがいを感じるこころ(P.14-25)
パスカルのいうとおり心情には理性とはまたべつな道理がある…。なんといっても生きがいについて一番正直なものは感情であろう。
その感情の形成について、
子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の仕事、すなわち天職なのであるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう。
…無償の遊戯的活動こそ文化的活動の芽ばえる母胎と考えられる…。たとえば数学的思考といった最も抽象的な知的活動を通して氏(数学者)の歓びが経験されるとしても。これを支える情緒的基盤は少年時代と少しも変わらないと考えてよいだろう。
感情の形成それが生きがいの土壌になる。それは文化的活動、さらには数学者の探求心にまで及ぶという。
人間の活動の中で、真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない「それ自らのための活動」であるという。たしかに何か利益や効果を目標とした活動よりも、ただ「やりたいからやる」ことの方がいきいきとしてよろこびを生む。
でも、「それ自らのための活動」というのわかりやすいが、だれでもそれがもてるものなのだろうか、それを許さない外的内的な葛藤があるはずだ。ま、それは次回以降へ。
このあたりで論旨は方向を変わる。
しかし、希望や信頼の念は必ずしも建設的方向にのみ働くとはかぎらない。
のであり、
深い認識や観照や思索のためには、よろこびよりむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる。
ほんとうに生きている、という感じをもつためには、生のながれはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。
したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間の方がかえって生存充足感を強めることは少なくない。
したがって、ひとはべつに生活上の必要にせまられなくても、わざわざ努力をようする仕事に就き、ある目標にむかって歩もうとする。
人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分のの好きで、いろいろな目標をたてるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。…結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだとも言えよう。
(逆に)苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす、というのは一つの公理ともいえる。
以上、はじめの10頁分からの引用である。
はじめに、少年性のことに触れている。
このことは、現代の生物学者の福岡伸一さんも次のよう表現し子ども達に語っている。
私はたまたま虫好きが嵩じて生物学者になったけれど、今、君が好きなことが職業に通じる必要はまったくないんだ。大切なのは、何かひとつ好きなことがあること、そして、好きなことをずっと好きであり続けることの旅程が、驚くほど豊かで、君を一瞬たりともあきさせることがなないこと。そしてそれは君を静かに励ましつづける。最後の最後まで励まし続ける。
(福岡伸一『ルリボシカミキリの青』文春文庫)
子どものころ、それは圧倒的に純粋な好奇心と感受性があって、生きることの軸を自ら会得することがありうるのだろう。
このことは当ブログでも触れてみた(「子ども時代の意味#1~10」)。それは永遠に伴っていく質感のようなものとなって、必ずしも建設的方向に役立つものか分からないけど、彼自身をつくることになる。
しかし、それほど「それ自らのための活動」任せでは生きられない。
次は、苦しみや悲しみを伴う「生存充足感」をあげている。その過程で「深い認識や観照や思索」つまり人間的成熟を得るというだろうか。
そして、それが強いられた苦しみや悲しみでなくとも、人はわざわざ努力する目標をたて、「苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす」道を選択するという。
さらに「ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだ」という構造が公理だとも。
目標に向かえるこころがあることが幸福ともいえるのだろう。その過程で成熟していく?。
強いられたものか否かは別にして、生きがいは苦労を伴う性質のものなら、覚悟しだいで苦労は生きがい(幸福?)に転嫁すると図式的には言えることになるが、どうなのだろう。
次回は「価値」と生きがいについてである。
今回から「生きがいについて」を読み進めます。
なお、「生きがい」=「幸福」か、という議論は少しおいておきます。
印象深いところを引用して、それなりにですが毎回まとめを作ろうかとおもいます。
「…」は省略、( )内は私の補足、引用部分はカラーにします。
2 生きがいを感じるこころ(P.14-25)
パスカルのいうとおり心情には理性とはまたべつな道理がある…。なんといっても生きがいについて一番正直なものは感情であろう。
その感情の形成について、
子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の仕事、すなわち天職なのであるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう。
…無償の遊戯的活動こそ文化的活動の芽ばえる母胎と考えられる…。たとえば数学的思考といった最も抽象的な知的活動を通して氏(数学者)の歓びが経験されるとしても。これを支える情緒的基盤は少年時代と少しも変わらないと考えてよいだろう。
感情の形成それが生きがいの土壌になる。それは文化的活動、さらには数学者の探求心にまで及ぶという。
人間の活動の中で、真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない「それ自らのための活動」であるという。たしかに何か利益や効果を目標とした活動よりも、ただ「やりたいからやる」ことの方がいきいきとしてよろこびを生む。
でも、「それ自らのための活動」というのわかりやすいが、だれでもそれがもてるものなのだろうか、それを許さない外的内的な葛藤があるはずだ。ま、それは次回以降へ。
このあたりで論旨は方向を変わる。
しかし、希望や信頼の念は必ずしも建設的方向にのみ働くとはかぎらない。
のであり、
深い認識や観照や思索のためには、よろこびよりむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる。
ほんとうに生きている、という感じをもつためには、生のながれはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。
したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間の方がかえって生存充足感を強めることは少なくない。
したがって、ひとはべつに生活上の必要にせまられなくても、わざわざ努力をようする仕事に就き、ある目標にむかって歩もうとする。
人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分のの好きで、いろいろな目標をたてるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。…結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだとも言えよう。
(逆に)苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす、というのは一つの公理ともいえる。
以上、はじめの10頁分からの引用である。
はじめに、少年性のことに触れている。
このことは、現代の生物学者の福岡伸一さんも次のよう表現し子ども達に語っている。
私はたまたま虫好きが嵩じて生物学者になったけれど、今、君が好きなことが職業に通じる必要はまったくないんだ。大切なのは、何かひとつ好きなことがあること、そして、好きなことをずっと好きであり続けることの旅程が、驚くほど豊かで、君を一瞬たりともあきさせることがなないこと。そしてそれは君を静かに励ましつづける。最後の最後まで励まし続ける。
(福岡伸一『ルリボシカミキリの青』文春文庫)
子どものころ、それは圧倒的に純粋な好奇心と感受性があって、生きることの軸を自ら会得することがありうるのだろう。
このことは当ブログでも触れてみた(「子ども時代の意味#1~10」)。それは永遠に伴っていく質感のようなものとなって、必ずしも建設的方向に役立つものか分からないけど、彼自身をつくることになる。
しかし、それほど「それ自らのための活動」任せでは生きられない。
次は、苦しみや悲しみを伴う「生存充足感」をあげている。その過程で「深い認識や観照や思索」つまり人間的成熟を得るというだろうか。
そして、それが強いられた苦しみや悲しみでなくとも、人はわざわざ努力する目標をたて、「苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす」道を選択するという。
さらに「ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだ」という構造が公理だとも。
目標に向かえるこころがあることが幸福ともいえるのだろう。その過程で成熟していく?。
強いられたものか否かは別にして、生きがいは苦労を伴う性質のものなら、覚悟しだいで苦労は生きがい(幸福?)に転嫁すると図式的には言えることになるが、どうなのだろう。
次回は「価値」と生きがいについてである。