諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

104 幸福の種 #3 遊戯、目標設定

2020年10月25日 | 幸福の種
富士山! 秋 国師ヶ岳から あられの後の晴れ間

今回から「生きがいについて」を読み進めます。
なお、「生きがい」=「幸福」か、という議論は少しおいておきます。
印象深いところを引用して、それなりにですが毎回まとめを作ろうかとおもいます。
「…」は省略、( )内は私の補足、引用部分はカラーにします。


2 生きがいを感じるこころ(P.14-25)
  
パスカルのいうとおり心情には理性とはまたべつな道理がある…。なんといっても生きがいについて一番正直なものは感情であろう。

その感情の形成について、

子供にとっては「あそび」こそ全人格的な活動であり、真の仕事、すなわち天職なのであるから、そこで味わうよろこびこそ子供の最大の生きがい感であろう。
…無償の遊戯的活動こそ文化的活動の芽ばえる母胎と考えられる…。たとえば数学的思考といった最も抽象的な知的活動を通して氏(数学者)の歓びが経験されるとしても。これを支える情緒的基盤は少年時代と少しも変わらないと考えてよいだろう。

感情の形成それが生きがいの土壌になる。それは文化的活動、さらには数学者の探求心にまで及ぶという。

人間の活動の中で、真のよろこびをもたらすものは目的、効用、必要、理由などと関係のない「それ自らのための活動」であるという。たしかに何か利益や効果を目標とした活動よりも、ただ「やりたいからやる」ことの方がいきいきとしてよろこびを生む。

でも、「それ自らのための活動」というのわかりやすいが、だれでもそれがもてるものなのだろうか、それを許さない外的内的な葛藤があるはずだ。ま、それは次回以降へ。

このあたりで論旨は方向を変わる。

しかし、希望や信頼の念は必ずしも建設的方向にのみ働くとはかぎらない。

のであり、

深い認識や観照や思索のためには、よろこびよりむしろ苦しみや悲しみのほうが寄与するところが大きいと思われる。

ほんとうに生きている、という感じをもつためには、生のながれはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。
したがって生きるのに努力を要する時間、生きるのが苦しい時間の方がかえって生存充足感を強めることは少なくない。

したがって、ひとはべつに生活上の必要にせまられなくても、わざわざ努力をようする仕事に就き、ある目標にむかって歩もうとする。


人間はべつに誰からたのまれなくても、いわば自分のの好きで、いろいろな目標をたてるが、ほんとうをいうと、その目標が到達されるかどうかは真の問題ではないのではないか。…結局、ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだとも言えよう。
(逆に)苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす、というのは一つの公理ともいえる。

以上、はじめの10頁分からの引用である。

はじめに、少年性のことに触れている。
このことは、現代の生物学者の福岡伸一さんも次のよう表現し子ども達に語っている。

私はたまたま虫好きが嵩じて生物学者になったけれど、今、君が好きなことが職業に通じる必要はまったくないんだ。大切なのは、何かひとつ好きなことがあること、そして、好きなことをずっと好きであり続けることの旅程が、驚くほど豊かで、君を一瞬たりともあきさせることがなないこと。そしてそれは君を静かに励ましつづける。最後の最後まで励まし続ける。
                    (福岡伸一『ルリボシカミキリの青』文春文庫)

子どものころ、それは圧倒的に純粋な好奇心と感受性があって、生きることの軸を自ら会得することがありうるのだろう。
このことは当ブログでも触れてみた(「子ども時代の意味#1~10」)。それは永遠に伴っていく質感のようなものとなって、必ずしも建設的方向に役立つものか分からないけど、彼自身をつくることになる。

しかし、それほど「それ自らのための活動」任せでは生きられない。
次は、苦しみや悲しみを伴う「生存充足感」をあげている。その過程で「深い認識や観照や思索」つまり人間的成熟を得るというだろうか。
そして、それが強いられた苦しみや悲しみでなくとも、人はわざわざ努力する目標をたて、「苦労して得たものほど大きな生きがい感をもたらす」道を選択するという。
さらに「ひとは無限のかなたにある目標を追っているのだ」という構造が公理だとも。
目標に向かえるこころがあることが幸福ともいえるのだろう。その過程で成熟していく?。

強いられたものか否かは別にして、生きがいは苦労を伴う性質のものなら、覚悟しだいで苦労は生きがい(幸福?)に転嫁すると図式的には言えることになるが、どうなのだろう。

次回は「価値」と生きがいについてである。








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103 幸福の種 #2 続 はじめに

2020年10月17日 | 幸福の種
富士山! 秋 奥秩父 甲武信岳からの朝焼け

「はじめに」の2回目となります。繰り返しで恐縮ですが意図をわすれないために書いておきます。

ー本文ー
前回のケンちゃんのクラスの先月の歌は『アイスクリームの歌』である。

「おとぎ話の王子でも、むかしはとても食べられないアイスクリーム、…僕は王子ではないけれどアイスクリームを召し上がる…」

むかしは王侯貴族でも得られないおいしいものを僕でも食べられるわけである。

「舌にのせると……、喉を音楽隊が通ります」

というのだから僕はこの現代が開発してたお菓子を文字通り謳歌している。
アイスクリームとの出合いは僕にとってエキサイティングなできごとだったのだろうと想像したりする。

調べるとこの歌が出来たのは1960年ごろ、60年前の少年だったのだ。
その後はというと、コンビニができ、グローバル化が進んで、深夜でも「ハーゲンダッツ」をいくらでも買えるのだからエキサイティングな現代のギフトはまだ成長し続けているのである。

同じように、自家用車だって、エアコンだって、スーパーマリオだって、Amazonだって、オンラインミーティングだって、「むかしはとても食べられない」ものの仲間である。


60年前の少年の興奮のあと、さらに技術開発があり、グローバル化して、エネルギー開発と供給手段も飛躍的に進んですごい勢いで「アイスクリーム」は増え続けている。
それはコマーシャリズムの明るいノリで浸透していき、私たちは「むかしはとても…」どころではない絶えまないエキサイティングで便利な世界に生きている。

そして、これらの新規なことごとは次第に日常化していき、それ自体は刺激的なものではなくなっていきながら、さらに開発は進む。
後には開発して当たり前のものとしてマインドセットされ、仕組み化されたものにコストだけは支払わねばならない。

このことについては、GDPの総額とエネルギー消費量とは比例するとか、産業構造、二酸化炭素…、そんな問題が社会的に言われるが、見えにくい問題として、大きなコスト(代償)の割には効率よく個々の幸福感にはつながっていないのではないか、ということである。
世界の幸福度ランキングはかなり低いし、あるアンケートには「未来は今より悪くなる」と感じている人が80%以上あった。自死者もまだ少ないとはいえない。

それは、生活自体の実質が変化した影響か、人間にある“業”や“欲”の問題なのか定かではない。
ただ、物質や変化による高揚は、自他の幸福に対する想像力や創造性を弱める傾向があるように思う。
こうした豊かさは、どこか刹那的であるということかもしれない。

このシリーズは、生きることへの地道な努力とそこから生じるであろう幸福について改めて考える。
もちろん、そのことはすべての子の教育にあてはまる「長期目標」(前世代の願い)にかかわることでもある。


もっとも、ユートピアの語源はウ・トポスというラテン語で、「どこにもないところ」という意味だそうで、一方、メーテルリンクの青い鳥は近くにいるという。いずれにしても目を凝らす程度では見えそうにない。
ま、ブログで考えるいいテーマかもしれません。


さて、テキスト、

神谷美恵子「生きがいについて」みすず書房

を柳田邦男さんが次のように解説している。

「いったい私たちの毎日の生活を生きるかいあるように感じされているものは何であろうか。ひとたび生きがいをうしなったら、どんなふうにしてまた新しい生きがいを見出すのだろうか」
神谷美恵子はつねに苦しむひと、悲しむひとのそばにあとうとした。本書は、ひとが生きていくことへの深いいとおしみと、たゆみない思索にささえられた、まさに生き思想である。


神谷さんは精神科医である。
らい(ハンセン氏病)の国立療養所に滞在した時の経験と調査とが本のベースになっている。
その時の調査アンケートには「将来になんの希望や目標を持てない」という記述が多い一方で、
「ここの生活…かえって生きる味に尊厳があり、人間の本質に近づき得る。将来…人を愛し、己が生命を大切に、ますますなりたい。これは人間の望みだ、目的だ、と思う。」
という入所者もあったという。
「同じ条件のなかにいてあるひとは生きがいが感じられなくて悩み、あるひとは生きるよろこびにあふれている。この違いはどこからくるのであろうか。」
と、本書の冒頭にある。

1966年の著作から、得たいことは多い。


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102 笑った!

2020年10月10日 | エッセイ
富士山! 秋 有名な撮影スポット 足柄峠(山中湖)から

小学部のケンちゃん。
常時酸素が必要で、酸素量が適切かをときどきチェックしている。
痰が絡みやすいので、苦しそうな時には吸引機をつかうこともある。

ケアが必要だから、担任の先生以外にも、保健室の先生や看護師さんもよく彼のもとにくる。
毎日のことだから彼に近しい人が多い。皆彼のファンだ。

しかし、ファンが多いのはそのためだけではではない。体調の良いとき見せる笑顔がいい。


以前、最重度のお子さんの指導についての研究会に出席した。
ある実践発表の中で、パソコンのディスプレイの中の様子をどの程度、現実と重ね合わせて認識できるかというテーマのものがあった。
デイスプレイは、それ自体は平面だし、高画質といっても相当に再生しきれいていないものであるという。
そういう趣旨のものだった。
しかし、実践場面のビデオが上映されおわると、出席者は自然に意外な結論?を思った。

「〇〇さーん、この中(PCのデイスプレイ)で大好きなものはどーれ」
とベッドサイドで聞きながら、順番に 動物、花、アニメのキャラクター…の写真が流れていく。
促しても反応がない…。
見えているのか?、否、ディスプレイそのものを認識できているのか、と思った。
随意で動かせる右手の指先にはスイッチがあり、返事の変わりに「ハーイ」という音声がながれるようになっているが殆んど指は動かない。
どんな結論にもっていくのだろうと少し心配になってきた。

ところが、最後にお母さんの笑顔がPCに映し出された時である。
ほぼ突然、スイッチどころかその子の表情は紅潮したようになり、全身で喜びを発するほどの発現があった。もちろん指もうごいた。「ハーイ」。
会場はどよめき、「あー」と言って皆頷いたりしている。

皆が納得したのは「画面への認識」以上に「お母さんの笑顔の力」である。


発達心理学で、赤ちゃんが注視するのは顔のモデルであり、とくに笑顔についてはかなり早い段階から好意を向ける対象であることは有名な話である。
今さら…、という照れがあるが、笑顔というのは深いところの欲求とつながっているのかもしれない。
時々そういう当たり前のことを新たな感情とともに実感しなおす。


コロナのこともあって無用にケンちゃんには近づきにくいが、状態が気になってケアの関係者の肩越しに、
「ケンちゃん、どーお?」
と聞く。
すると担任の先生が上手に気を利かせてくれて紹介してくれた。
「ケンちゃん、ケンちゃんのめにいろいろやってくれている先生だよ」。
そして、ちょっと間をおいて(タイミグよく、なのかもしれないが…)
ケンちゃんが笑った!。白い歯がのぞく。

やっぱり、精いっぱいやらないとと思っていることに気がつく。




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101 幸福の種 #1はじめに

2020年10月03日 | 幸福の種
富士山! 秋 南ア 仙丈ケ岳から北岳、間ノ岳と

「32 「坊ちゃん」のその後」というページがあり、おかげ様でアクセス数が多い。
テーマは時代の変化である。
明治生まれの坊ちゃんの世代が、その後、激しい変化の時代を生きることになることを誰も予想できなかったであろう、という内容である。

文化人類学では一世代を30年のスパンで考えるという。
これに沿って4世代をさかのぼる。2020年生まれ、1990年、1960年、1930年。世代間の環境の変化は大きくて、前世代が努力によって得た「生き方」は30年を経て異なる状況なっている次世代には生かされにくいことは誰でも具体例で考えられるだろう。
こんな状況が何世代も長く続いているのだから現代の教育が難しいことは巨視的には当然であるとも考えられる。
だから、忙しく10年おきに学習指導要領が更新される必要もある。
変化は必ずしも進歩ではない。
そればかりか変化の激しさの中、実際はいろいろな困難なことが起きていることは「そこら」で感じる。
それも含めて家庭も学校もつぎつぎにくる変化への対応に追われる。

もちろん、教育(家庭も学校も)は、変化だけを追ってるわけではない。
一方で普遍的なものを保っている。
子どもの側にたった営みと言ったらいいのか。それは変わらない。
学校で言えば学校文化といってもいいようなものかもしれない。

そしてその普遍性の根底にあるものは、
「どんな条件下であっても子どもたちは、幸福であってほしい」
と願う前世代の保護者や先生達の自然な感情である。

そんな、両面を教育はもっている。

さて、前回のシリーズ?で「第4の教育課程」というものを考えてみた。
学校は機能としての目的があることと、そこにいる生(なま)の子を相対してみたつもりだ。

そして「予測が困難な時代」(学習指導要領)にあって、この子たちはどう生きるのか、そういう観点から考える枠組みとして「第4の教育課程」が必要ではないかと。
そこで今回、子ども達と「幸福」について考え、「第4の教育課程」の内実としていきたい。
変化への対応に対してと幸福論を軸とした教育の普遍性について。
幸福は単なる客観的な物質条件との相関性とは。

テキストを設ける。

神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房

名著ながら、こんな機会でないと読みにくい本でもあり、ゆっくりと進めたい。

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