まとめもシリアスなものですが、直視しなくてはと思います。基本に返って。
子どもの「未来」は、学習指導要領にある。
「今の子供たちやこれから誕生する子供たちが,成人して社会で活躍する頃には,我が国は厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される。生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく,また急速に変化しており,予測が困難な時代となっている。また,急激な少子高齢化が進む中で成熟社会を迎えた我が国にあっては,一人一人が持続可能な社会の担い手として,その多様性を原動力とし,質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につながる新たな価値を生み出していくことが期待される。」(高等学校学習指導要領(平成 30 年告示)解説総則編)
難しい未来に対して、子どもたちは「学校知」どう受け止めるか。
「第4の教育課程」のもう一つの背景は「未来」のそのものが不鮮明なことをあげざるえない。
また、家庭の状況の多様化も急速に変わりつつある。
「家庭教育は学校教育の下請け」というほどに家庭の基盤が強いとは限らない。
結果的に子ども達にとって厳しい局面をむかえつつあって、その中で、学校だけでなく、家庭や地域、福祉の現場ではどんな姿勢が大切なのか?
そして、その一つの答えとして、「子どもらしさ」を育める社会や学校であること、子どもの平和な状況がすべての教育課程の基礎であることを述べた。未来志向の教育課程に対して、それを「第4の教育課程」としてみた。
しかし、この一見平凡なことは、目標設定として設定したり、成果を発表できることではない。
子ども達の個性や、場の状況、係る大人の側の違いも大きい。
どうやら、家庭でも地域でも福祉の現場、そして学校でも、そこにいる大人たちが善いイメージを互いに育み広げながら作っていくほかはなさそうである。
決して大量受注、大量生産できるわけではない。
もっとも、それは新しい課題でもない。心理学者の佐伯 胖さんの言葉は、心理学の枠を超えて響く。
「「何のために教えるか」という問いもまた、教師として親として何度も何度も問うていることであろう。
「文部省の指導要領にあるから」とか、「いい学校に入ってもらいたいから」とか、一応はいろいな理由が出てはくるが、やはり「でも、それだけのためじゃないはずだ」という気持ちも一方ではのこる。
そしてまた、子どもが「ああ、わかった!」とよろこんびの声をあげてくれたとき、あるいはその子がわき目もふらず何か一心に勉強している姿をみたとき、「これでいいのだな」と思い、「教えてよかった」と思うもので、何のためというものではない、その子がその子として本当に「生き生き」と生きてくれればそれでよく、そのためになら、今までの一切の苦労、泣き出したいような絶望と、「なぜわからないのか」とゆさぶりたいほどのいらだちの中での苦労も、全部帳消し、何もかも許してやりたい気持ちになるのが親であり先生である。
何のために学ぶのか。それはわたしたち自身が「より人間的に」なるためである。あるいは、人々を「より人間的に」していくという人間の日々の営みや文化の創造に自分も「参加」できるようになるためであろう。
何のために教えるのか。それはわたしたちが、子どもたちを「より人間的に」したいからであり、世の中を「より人間的に」していく人々の営みや文化の創造に、彼らも参加していけるようにしたいからであろう。」(『「学び」の構造』)
「第4の教育課程」とは手作りの営みということであろうか。ニヒリズムを警戒しつつ。
シリーズ 了
子どもの「未来」は、学習指導要領にある。
「今の子供たちやこれから誕生する子供たちが,成人して社会で活躍する頃には,我が国は厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される。生産年齢人口の減少,グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により,社会構造や雇用環境は大きく,また急速に変化しており,予測が困難な時代となっている。また,急激な少子高齢化が進む中で成熟社会を迎えた我が国にあっては,一人一人が持続可能な社会の担い手として,その多様性を原動力とし,質的な豊かさを伴った個人と社会の成長につながる新たな価値を生み出していくことが期待される。」(高等学校学習指導要領(平成 30 年告示)解説総則編)
難しい未来に対して、子どもたちは「学校知」どう受け止めるか。
「第4の教育課程」のもう一つの背景は「未来」のそのものが不鮮明なことをあげざるえない。
また、家庭の状況の多様化も急速に変わりつつある。
「家庭教育は学校教育の下請け」というほどに家庭の基盤が強いとは限らない。
結果的に子ども達にとって厳しい局面をむかえつつあって、その中で、学校だけでなく、家庭や地域、福祉の現場ではどんな姿勢が大切なのか?
そして、その一つの答えとして、「子どもらしさ」を育める社会や学校であること、子どもの平和な状況がすべての教育課程の基礎であることを述べた。未来志向の教育課程に対して、それを「第4の教育課程」としてみた。
しかし、この一見平凡なことは、目標設定として設定したり、成果を発表できることではない。
子ども達の個性や、場の状況、係る大人の側の違いも大きい。
どうやら、家庭でも地域でも福祉の現場、そして学校でも、そこにいる大人たちが善いイメージを互いに育み広げながら作っていくほかはなさそうである。
決して大量受注、大量生産できるわけではない。
もっとも、それは新しい課題でもない。心理学者の佐伯 胖さんの言葉は、心理学の枠を超えて響く。
「「何のために教えるか」という問いもまた、教師として親として何度も何度も問うていることであろう。
「文部省の指導要領にあるから」とか、「いい学校に入ってもらいたいから」とか、一応はいろいな理由が出てはくるが、やはり「でも、それだけのためじゃないはずだ」という気持ちも一方ではのこる。
そしてまた、子どもが「ああ、わかった!」とよろこんびの声をあげてくれたとき、あるいはその子がわき目もふらず何か一心に勉強している姿をみたとき、「これでいいのだな」と思い、「教えてよかった」と思うもので、何のためというものではない、その子がその子として本当に「生き生き」と生きてくれればそれでよく、そのためになら、今までの一切の苦労、泣き出したいような絶望と、「なぜわからないのか」とゆさぶりたいほどのいらだちの中での苦労も、全部帳消し、何もかも許してやりたい気持ちになるのが親であり先生である。
何のために学ぶのか。それはわたしたち自身が「より人間的に」なるためである。あるいは、人々を「より人間的に」していくという人間の日々の営みや文化の創造に自分も「参加」できるようになるためであろう。
何のために教えるのか。それはわたしたちが、子どもたちを「より人間的に」したいからであり、世の中を「より人間的に」していく人々の営みや文化の創造に、彼らも参加していけるようにしたいからであろう。」(『「学び」の構造』)
「第4の教育課程」とは手作りの営みということであろうか。ニヒリズムを警戒しつつ。
シリーズ 了