諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

26 完食!

2019年05月29日 | エッセイ
(写真)三伏峠付近

  偏食というか拒食に近い小4の自閉症の子がいて、給食を食べない。
体重は20kgを切っていたかもしれない。
 
 担任の先生は、ざわつく大食堂から小部屋で気が散らないようにと環境を変えた。
食べ始める目標をご飯1粒からはじめた。食べさせる担当をタイミングを見て変えた。
 
 その後転勤もあり、そのことは、普段は思い出さなくなっていった。その先生も転勤しいったらしい。

 そして、5年後たまたま研修先でこの先生にばったり会った。
昔話をしている中で、
「あの時の〇〇ちゃん、中学部にいって、ついに完食(給食を全部食べること)したって連絡があったんです!。」
と、嬉しそうに笑っている。
 
 ある子の食欲についてずっと気にかけていて、そのことが同じように他の先生に引き継がれていて、5年後みんなで「完食」を喜んでいる。
こういう人たちの存在を同業者として誇らしく思う。
 




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25 子どもの側の教育計画#4 自分の側との連動

2019年05月26日 | 個別教育計画
(写真)沢沿いのガクアジサイ

 子どもを教育するということは、子どもの変容を期待することである。
そのシナリオの一つが「個別教育計画」である。

 優れたシナリオで子どもを向上させるべく、チームで話す、本人保護者の想いを確認する、違った角度の第三者の話を聞く、研修で学んだことを考慮する、以前の資料に目を通す、などしているとシナリオを書く材料(ネタ)が大きく膨らむ。

 この膨らみに期待感も膨らませつつ、次に計画としてこの膨らみをギュッと凝縮するように記述する作業にかかる。
 材料の大きさを最大限に生かし、現実の枠の中に落とし込む作業は「ああでもない、こうでもない」を繰り返す努力を要する。

 そして「よし!、納得できるものができた!」と一人完成を喜んだとき、実はこの過程は自分自身の心構え作るための過程だったような気がする。なんかすっきりしたような。

 たくさんの個別教育計画を読んでも同じだ。「この計画は先生自身の腹に落ちている」と感じるのものがある。この先生の今後の実践に期待が拡がるのは当然である。


 子どもの変容を期待するための記述に努力することは、教員自身を変える(成長させる)過程でもある。「子ども側」は「自分の側」と連動している。
  


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24 “やるしかないよね”

2019年05月22日 | エッセイ
   (写真)裏磐梯


「これも必要な経験だよ」と生徒に言ったり、「これも勉強ではなでしょうか」と学級通信を結んだりする。

 勉強と経験の詰め合わせが教育の総体であることは大まかに言ってほぼ間違いないから、これもこれもと入れて詰め合わせ袋の中はすぐ一杯になる感じがある。

 また、教育は誰でもが経験しているのでベタな議論が流通しやすい。一過的なポピュリズムにも流されることもある。
 各種団体が背後にあって「○○教育」というのが断片的に取り入れられたりする。

 それぞれは意義もあるし、善意でもあるからちょっと待てと言いにくいことが多い。

 そこで、子どもも先生も忙しいのでそれらを処理するようになると、お互いに「やるしかないよね」という不思議な共同意識?で「頑張る」ことになったりする。

 いろいろ変化が激しく流動的だ。
 子どもの側には、その流動性とはまったく別な内面的なニーズや原則がある。そこに対して思考が止まらないようにすること。同時にそれは、流れの中で先生が自分を保つためにも重要なことのように思う。
 
 

 

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23 子どもの側の教育計画#3 試合設定

2019年05月19日 | 個別教育計画
(写真)甲斐駒ケ岳

 例えばバスケットボール部に基礎練習の方法を教え、
「それが、試合で役にたつ。」
といって部員を鼓舞しても動かない。

その代わり、
「2カ月後、7月19日、相北高校と練習試合をすることにした。〇〇アリーナ、14時。」
という設定を伝えた方が部員の士気はあがるだろう。

 向こうの方に目標があって、それにむけて意識が高まり練習が主体的なものになる。その後、技術の必要性や反復の意味が分かってくる。

 パスやリバウンドの技術を教えることを「指導」とすると、試合組むようなことを「設定」とするなら、教育にはその両輪が必要なのだろう。

こんなこと当たり前のようだが、個別教育計画をつくると、未熟なところに目が行き、指導だけが増える面がある。

 設定とは子どもの自由度を増やすことでもあり、大人は待つことが重要になる。

 ついでにいうと、甲子園や箱根駅伝は設定の名作だ。
 たぶん、すべての野球をやる人、走る人にとってこの企画が大きなモティベーションの元になっているはずだ。
 河川敷の野球場でチャンスで打順が回ってきたときふと甲子園のあるシーンを思い出されたり、街中の急坂を箱根の坂に感じて「負けまい」と頑張るのもこの企画の存在による。

 ただ、ドラマ化?されたりしない限り、設定を企てた人についてはあまり話題にならない。主役は子ども達なり選手であって、設定者というのはあくまで黒子である。


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22 残業友の会?

2019年05月15日 | エッセイ
(写真)カラマツ林

 「最後の仕上げの5%の努力が、出来栄えを20%引き上げる」
と著名な経営者がいう。

 
 時計を見上げるともうこんな時間である。
 最後の文書をプリントアウトして退勤するべく立ち上がると、
 「えー、帰っちゃうの」
 と、向こうの席のヤマダ先生。
 「じゃ、明日また」
 と、パソコンを叩きながらタナカ先生。
 明日は土曜日なのである。
 「明日は有給いただきます」
 と応酬?する。

 こんな人たちだけど、雑務も率先してやる2人でこの学校は助かっている。
 気が付いて、なんでもできる人を愛さざる得ない。

 ライフワークバランスだし、働き方改革だ。確かにそうだけど。

 

 ※もちろん仮名です。

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