諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

247 寺田寅彦『柿の種』

2024年10月20日 | 

のんびり八ケ岳      行者小屋テン場に下山  小さな我が家を設営 上は横岳と硫黄岳へ続く稜線

古典といってもいい寺田寅彦『柿の種』岩波書店

自然科学者の寺田は漱石の弟子という言い方もされ、名文家でもある。

この本は折々にかかれた随想をまとめたものである。

扉に 

棄てた一粒の柿の種

生えるも生えぬも

甘いも渋いも

畑の土のよしあし

 とある。短文が長文のように語りはじめるかは私たちにかっているのだろう。

引用、ほぼ無作為。


日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。

このガラスは、初めから曇っていることもある。

生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。

二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。

しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。

しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。

ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。

それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは・・・・・・あまりに忙しいために。

穴を見つけても通れない人もある。

それは、あまりからだが肥り過ぎているために……。

しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。

まれに、きわめてまれに、天の焔を取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔かしてしまう人がある。

(大正九年五月)

 

脚を切断してしまった人が、時々、なくなっている足の先のかゆみや痛みを感じることがあるそうである。

総入れ歯をした人が、どうかすると、その歯がずきずうずくように感じることもあるそうである。

こういう話を聞きながら、私はふと、出家遁世の人の心を想いみた。

生命のある限り、世を捨てるということは、とてもできそうに思われない。

(大正九年十一月)

 

 平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。

すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張と上昇気流を利用するだけで上空を翔けり歩く研究を始めた。

最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回った男がある。

飛んだ距離は二里近くであった。

詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。

(大正十一年八月)

 

無地の鶯茶色のネクタイを捜して歩いたがなかなか見つからない。

東京という所も存外不便な所である。

このごろ石油ランプを探し歩いている。

神田や銀座はもちろん、板橋界隈も探したが、座敷用のランプは見つからない。

東京という所は存外不便な所である。

東京市民がみんな石油ランプを要求するような時期が、いつかはまためぐって来そうに思われてしかたがない。

(大正十二年七月)

(追記)大正十二年七月一日発行の「渋柿」にこれが掲載されてから、ちょうど二か月後に関東大震災が起こって、東京じゅうの電燈が役に立たなくなった。これも不思議な回りあわせであった。

 

 「二階の欄干で、雪の降るのを見ていると、自分のからだが、二階といっしょに、だんだん空中へ上がって行くような気がする」と、今年十二になる女の子がいう。

こういう子供の頭の中には、きっとおとなの知らない詩の世界があるだろうと思った。

しかしまた、こういう種類の子供には、どこか病弱なところがあるのではないかという気がする。

(大正十三年八月)

 

 ある日電車の中で、有機化学の本を読んでいると、突然「琉球泡盛酒」という文字が頭の中に現われたが、読んでいる本のページをいくら探してもそんな文字は見つからなかった。よく考えてみると、たぶん途中で電車の窓から外をながめたときにどこかの店先の看板にでもそういう文字が眼についた、それを不思議な錯覚で書物の中へ「投げ込んだ」ものらしい。ちょうどその時に読んでいた所がいろいろなアルコールの種類を記述したページであったためにそういう心像の位置転換が容易にできたものと思われる。

人間の頭脳のたよりなさはこの一例からでもおおよそ想像がつく。何時幾日にどこでこういう事に出会ったとか、何という書物の中にどういう事があったとか、そういう直接体験の正直な証言の中に、現在の例と同じような過程で途方もないところから紛れ込んだ異物が少しもはいっていないという断定は、神様でないかぎりだれにもできそうにない。

(昭和十年十月十四日)

 

 蝶や鳥の雄が非常に美しい色彩をしているのは雌の視覚を喜ばせてその注意をひくためだというような説は事実に合わないものだということがいろいろの方面から説明されているようである。自分の素人考えではこの現象はあるいはむしろ次のように解釈さるべきものではないかと思う。

周囲の環境と著しく違った色彩はその動物の敵となる動物の注意をひきやすく従ってそうした敵の襲撃を受けやすいわけである。そういう攻撃を受けた場合にその危険を免れるためには感覚と運動の異常な鋭敏さを必要とするであろう。それで最も目立つ血彩をしていながら無事に敵の襲撃を免れて生き遺ることのできるような優秀な個体のみが自然淘汰の師にかけられて選り残され、そうしてその特徴をだんだんに発達させて来たものではないか。

戦争好きで、戦争に強い民族なぞの発生にいくらかこれに似た選択過程が関係しているのではないかという気がする。

(昭和十年十月十六日)

 

 秋晴れの午後二階の病床で読書していたら、突然北側の中敷窓から何かが飛び込んで来て、何かにおつかってばたりと落ちる音がした。郵便物でも外から投げ込んだような音であったが、二階の窓に下から郵便をほうり込む人もないわけだから小鳥でも飛び込んだかしらと思ったが、からだの痛みで起き上がるのが困難だから確かめもせずにやがて忘れてしまっていた。しばらくしてから娘が二階へ上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い上げて持って来たのを見ると一羽の麓の死骸である。かわいい小さなからだを簡形に強直させて死んでいる。

北窓から飛び込んで南側の庭へ抜けるつもりでガラス障子にくちばしを突き当てて脳震濫を起こして即死したのである。「まだ暖かいわ」と言いながら愛していたがどうにもならなかった。

鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。ガラス戸というものができてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」を施すにはあまりに短かった。

人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。失敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人である。

三原山火口へ投身する人の大部分がそうである。またナポレオンもウィルヘルム第二世もそうであった。

この「ガラス」の見えない人たちの独裁下に踊る国家はあぶなくて見ていられない。

 

 


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246 『人間の建設』

2024年09月29日 | 

のんびり八ケ岳  阿弥陀岳山頂!阿弥陀様と盟主 赤岳が重なる。


名著『人間の建設』新潮文庫
は評論家の小林秀雄と数学者の岡潔の貴重な対談である。

1965年に行われたものだが、その優れた内容をみとめた新潮社が後年文庫化したものである。

わずか140ページの対談にして濃厚。あとがきを茂木健一郎さんが担当し「「情緒」を美しく耕すために」と題している。

※引用はほんの1部分です。

 

 …(前略)…だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。知性のなかだけで厳然として存在する数学は、考えることはできるかもしれませんが、やる気になれない。こんな二つの仮定をともに許した数学は、普通人にはやる気がしない。だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。

小林 あなたのおっしゃる感情という言葉ですが……。

 感情とは何かといったら、わかりにくいですけれども、いまのが感情だといったらおわかりになるでしょう。

小林 そうすると、いまあなたの言っていらっしゃる感情という言葉は、普通いう感情とは違いますね。

 だいぶん広いです。心というようなものです。知でなく意ではない。

小林 ぼくらがもっている心はそれなんですよ。私のもっている心は、あなたのおっしゃる感情なんです。だから、いつでも常識は、感情をもととして働いていくわけです。

 その感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。

小林 そうすると、つまり心というものは私らがこうやってしゃべっている言葉のもとですな。そこから言葉というものはできてきたわけです。

 ですから数学をどうするかなどと考えることよりも、人の本質はどういうものであって、だから人の文化は当然どういうものであるべきかということを、もう一度考えなおしたほうがよさそうに思うのです。

小林 すると、わかりました。

 具体的に言うと、おわかりになる。

小林 わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね。

 そうなんです。

小林 そこから逸脱したという意味で抽象的とおっしゃったのですね。

岡  そうなんです。

小林 わかりました。

 裏打ちのないのを抽象的。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない、そういうのを抽象的といったのです。

小林  それでわかりました。

岡   そこをあからさまに言うためには、どうしても世界の知力が下がってきていることを書かなければなりません。さしさわりのあることですが。数学の論文を読みましても、あるいは音楽を聞き、ごくまれに小説を読みましても、下がっているとしか思えない。それにいろいろな社会現象にしても、だんだん明らかな矛盾に気づかなくなって議論している。

小林 間違いがわからないのです。

 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起さないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。

小林 ベルグソンの、時間についての考えの根概はあなたのおっしゃる感情にあるのです。

 私もそう思います。時間というものは、強いてそれが何であるかといえば、情緒の一種だというのが一番近いと思います。

 

 


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170見えないhow-toを指揮すること

2022年02月06日 | 
久しぶりのテント泊 天狗岳と夏沢峠間 アイゼン不要、綺麗な雪道。

今回は「風」シリーズから離れます。

音楽の本から引用します。
趣味の話のようですが、これは学校などヒューマンサービスの現場に立つリーダーの在り方にも通じのではないかと思います。


音楽で、良い演奏というは実際にある。
あるが、その良いに定義はないし、それに向かう確固としたhow-toはないらしい。
先輩指揮者に習いにいくと「教えられるものじゃない」といわれるらしい。

私たちの仕事ヒューマンサービス業にも、もちろん、その場による良し悪しはある。
あるけど、どうしてそれが生じるのか、これも確固としたことは言えない。
数値みたいなころではもちろんない。
だから、現場のリーダーは“あの先輩とは性格も違うし…”、などと悩むのが普通であろう。

確固としていない成果のために何をどうするか、見えないhow-toを現場のリーダーが求めるのはむずかしい。

そこである。その掴みきれない感じをどうするか、”指揮者の現場”を聞いてみよう。
参考になれば、です。

35歳の指揮者のコメントである(インタビューの中で)

(大指揮者 朝比奈隆にレッスンを受けた時) 面白かったのは、とにかく「振りすぎだ、振りすぎだ」て言われたこと。「左手いらないからポケットに突っ込んでおけ」と言われて、右手だけで振ると、また「振りすぎ!」。そう言われて、暴れるような動作が少なくなってくると耳がどんどん開いてくるから、ピアノの演奏が聞こえてくるんです。それをおっしゃりたかったんじゃないかなと思うんです。オーケストラが聞こえてないと指揮はできないんだ、風景が見えないと運転出来ないのと同じことなんだと。

指揮者 下野竜也さんが、若手で様々なオーケストラと演奏を重ね始めたころのコメントである。「運転ありきではなく、まずは風景を見よ」と大先輩の話を捉えた。

そう、引用元は
近藤憲一「知ってるようで知らない指揮者おもしろ雑学辞典」ヤマハミュージックメディア 2006年発行 から。 
下野さんのWikipediaは、ここ

つづける。

自分の考えていた通り、勉強してきた通りにオーケストラが動いて、音が出るようにしなきゃいけない、そのたびに手を振る。すぐに動かないかもしれないけど、動いてくれる部分もある、と最初はそう思ってたんです。でも、違うんです。オーケストラは最初は僕が思った通りの音を出してくれているんです。
つまりオーケストラは「この若いやつはどうやるんだろう」て思って、まずはやってくれていた。だけど、僕がこうだと思って(指揮棒を)振っていることが、人にはそう見えていない。オケ(ストラ)は「お前がやった通り、やってるじゃないか」ということなんですよ。そこで、自分はこう振っているのに、オケはそう弾いてくれないっていうパニックに陥るんです。

折り合いについて

最初の練習が一発でうまくいけば、それはラッキーなわけ。最初からそう簡単には打ち解けられないじゃないですか。—中略—
オーケストラと自分の意見の相違って絶対出てきますね。スタンダードな曲であればあるほど、「わが社はこうする」と言う方針があるわけです。そこで「御社はそうなさるんでしょうけど、今回はこうやってくださいませんか?」と言うふうに協議していく。その時のやり方1つで、もう袂をわかっちゃえ、てことにはならなくて、じゃあ取り入れてみようかって言うふうにもなるんです。‐中略‐
ただし気をつけなきゃいけないのは、そこだけ変えて他が違うスタイルで混在してしまうと、変なものができてしまうので、基本的にはどちらのラインなのかっていうのちゃんと見極めてやります。


スタンスについて

音を出している人たち、演奏家が「ウオーッ!」てなるのはいいんと思うんですが、リヒャルトシユトラウスが言ったように、指揮者は「お前が汗かくな」て感じですね。そこのかねあいと言うのはまだわかんないです、正直言って。知と情のバランスを演奏会で作っていくのは非常に難しいですね。練習というのはわりと知の部分が多いと思いますけど、逆もあるかもしれない。すごく情熱的な練習をして、本番はクールにやって、すごい演奏になったりする人もいるでしょうし…。つまり、練習で炊きつけておいて、旅に出るときの船長さんみたいに、本番は冷静に見守っているみたいな感じのほうがいいんじゃないですかね、最終責任は俺が取るみたいなボスのほうが。オーケストラは自分たちより先に逃げちゃいそうな指揮者にはついて行きたくないでしょうからね。

スタンスについて(つづき)

新人指揮者にとって、最初のうちは、オーケストラの中でずっと何もしないで立っているというのが1番苦痛なんですね。オーケストラだけで勝手に演奏するから指揮台の上でずっと立ってなさいと言われたら、大体の人が耐えられないと思う。つまり、何かしていないと落ち着かない。でも、それに耐えられなきゃいけないと思うんですよ(笑)。いろんな音が鳴っている中で、ずっとじっと立ってられる。それで重心が下がって、体勢を整えられたら、これから何かできそうな気がしてくる。胸が上がっていっていてはダメですね。ほんと、自然体。丹田のところにちゃんと力を入れて、上半身はリラックスして、下半身はちゃんと落ち着いててっていう姿勢を作れば、気持ちも落ち着いて、何があっても大丈夫という気構えになりますが、それもできないうちは、ワーッてなっちゃうこともありましたね(笑)。

理想のオーケストラってありますか、の問いに

そういうことには全く興味がないです。

下野さんの指揮するコンサートに行くと、内声部が調和した充実感のある管弦楽が展開される。

今回も引用が多くなりました。参考になるでしょうか。

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90 坂村真民さんの詩

2020年07月25日 | 
 今回は、詩集を紹介します。
最近、教育を考える際に、理念や技術のことが多い気がしています。
実際こんな詩の言葉が、子ども達や先生達を後押ししてくれる場合があるように感じます。
「第4の教育課程」の趣旨とどこかでつながるかもしれません。

坂村真民『詩集 念ずれば花ひらく』から


ねがい

ただ一つの
花を咲かせ
そして終わる
この1年草の
一途さにふれて
生きよう


すべては光る

光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から光を受けて
光る


必然

夜は必ず明け光り必ず射してくる
念ずれば必ず花は咲き道は必ず開いてくる
この必然の祈りに生きよう


見えないからと言って

日が昇らない時が
あっただろうか
月の出ない時が
あっただろうか
見えないからと言って
なかったとは言えない
それを同じく
見えないからと言って
神さまや
仏さまが
いないと誰が言えよう
それは見る目を
持たないからだ
大宇宙には
たくさんの神や仏さまが居て
この世を幸せにしようと
日夜努力していられるのだ
一輪の花の美しさを見たら
一羽の鳥の美しさを見たら
それがわかるだろう
見ない世界の神秘を知ろう


何かをしよう

何かをしよう
みんなの人のためになる
何かしよう
よく考えたら自分の体に合った
何かがある筈だ
弱い人には弱いなりに
老いた人には老いた人なりに
何かがある筈だ
生かされて生きているご恩返しに
小さなことでもいい
自分にできるものをさがして
何かをしよう


鳥は飛ばねばならぬ

鳥は飛べねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒濤の海を
飛びゆく鳥のように
混沌の世を
生きねばならぬ
鳥は本能的に
暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も
一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ


念ずれば花ひらく

念ずれば
花ひらく

苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった



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42 「聴く」哲学

2019年08月25日 | 
写真)塩見岳山頂
 
 
かつて校内で読書会をしたことがあり、同僚が紹介してくれた本です。
 
鷲田清一『「聴く」ことの力 -臨床哲学試論』筑摩書房
 
哲学とあると難しそうですが、いいなぁと思う部分がたくさんありました。
その一部です。
 
 
「語る、諭すというという行為でもなくという、他者のことばを受けとる行為のもつ意味である。」
 
「聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場を劈(ひら)くということであろう。じっと聞くことそのとこの力を感じる。」
 
「人間が半分つぶれた虫のように地面でもがくことになるような類の衝撃を受けた人々は、自分の身に起こっていることを表現する言葉がない」
 
「苦しみの語りは語りを求めるのではなく、語りを待つひとの、受動性の前ではじめて、漏れるようにこぼれ落ちてくる。つぶやきとして、かろうじて。」
 
「(注意をもって聞くこと)は、もっとも高度な段階では祈りと同じものである」(ヴェイユという哲学者の引用)
 
 
 
最近、教育相談をする分掌にもあり、含蓄のある文章を紹介しました。
 
「他者の自己理解の場を劈(ひら)く」を助産する、その傾聴の姿勢は祈り、と説いている。

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