諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

200 近未来からの風#34 (まとめ)アルゴリズムの民主主義

2023年02月26日 | 近未来からの風
定番 高尾山縦走 頂上のこれも定番のテラスからの富士 ここから陣馬山までロングトレックスタート


2 アルゴリズムと民主主義

人間は世界-内-存在として、「事物や他者の存在する世界(社会)」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような世界(社会)と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような世界と関わって生きるということなのである。

とサルトが言った。そして、

人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。

既に投げ出されてように存在している私たちが世界(社会)に主体的に働きかけることで、その総和によって世界はつくり出されるという。

また、21世紀になってもフランシス・フクヤマは同様に、

われわれが希望をもちうる唯一の理由は、社会秩序を復元する強靭な能力が人間に生まれつきそなわっているという事実である。歴史がよい方向へ進んでいくかどうかは、この復元作業がうまくいくかどうかにかかっている

という。
こんな思想が民主主義のバックボーンに流れているといっても大きな誤りはないだろう。
個の自由と社会とのかかわり、逆に個の主体性を育む社会の形成についての原理である。

このことは民主主義を標榜する公教育の目標とも合致する。

ところが、「的外れな情報であふれかえる世界にあって明確さは力だ」から始まるハラリの論はこの民主主義の思想がアルゴリズムによって揺らぐという。

人間の感情は謎めいていて、深遠な「自由意志」を反映しており、この「自由意志」が権限の究極の源泉であり、知能の高さは千差万別でも、あらゆる人間は、等しく自由であると言う前提に、民主主義は立っている。
心へのこのような依存は、自由民主主義のアキレス腱になりかねない。
人間の感情と自由選択に対する自由主義の信頼は、自然なものでもあまり古いものでもない。権限は、人間の心ではなく、神のほうに由来し、したがって、私たちは人間の中よりも、むしろ神の言葉を神聖視するべきだ、と人々は何千年にもわたって信じてきた。権限の源泉が天井の上から生身の人間に移ったのは、ようやく過去数世紀のことだ。

間もなく、コンピューターアルゴリズムが人間の感情よりも優れた助言を与えられるようになるかもしれない。スペインの異端審問所や、KGBがグーグルや百度(バイウド)に道を譲ったのと同じように、「自由意志」も神話であることが暴かれる可能性が高く、自由主義は実際的な優位性を失うかもしれない。

自由社会とされている場所でさえも、アルゴリズムが権限を増やすかもしれない。私たちは、しだいに多くの事がらでアルゴリズムを信頼した方が良いことを経験から学び、自ら決定を下す能力を徐々に失っていくだろう。考えてみて欲しい。わずか20年のうちに、何十億もの人が的確で信用できる情報を探すと言う、非常に重要な任務をグーグルの検索アルゴリズムにゆだねているようになった。私たちはもう情報を探さない。代わりに、「ググる」。そして、答えを求めて、次第にグーグルに頼るようになるにつれて、自ら情報を探す能力が落ちる。そしていつか、「真実」は、グーグルでの検索で上位を占める結果によって定義される。

(『21Lessons』河出書房)

センセーショナルなこの本ではあるがすでに見え始めている傾向として説得力がある。
実は歴史の浅い「深遠な自由意志」よりアルゴリズムを信頼する。そして、自分自身の選択によって行動する能力が落ちていく。
反民主主義というのは単純に国家体勢の問題だけではなく、アルゴリズムがその内実を骨ぬきにさせていくという面かも進行しかねない。そして私たちは、すでに便利さと「検索上位」に安心感をいだきながら「自分自身の選択」をビッグデータに由来する統計にゆだねはじめ、一方で例えば投票の権利を安易に放棄してしまっているように思える。

そして佐藤学さんは、「市民社会の維持と民主化に必要な公教育」の危機を述べている。

この時代に教育の公共性を擁護するためには、どのような方策が考えられるのでしょうか。新自由主義の市場、万能主義によって、世界各国の公教育が危機に瀕しています。その危機は、第四次産業革命と連動するICT教育と教育市場の巨大化によって増殖しています。どの国も債務国家になり、公教育は財政負担となって、国家財政だけで公教育を擁護維持することが困難になっています。その一方で、教育のニーズは年々高まっており、公教育の枠外の教育市場は膨張し続けています。その結果、市民社会の維持と民主化に必要な公教育と、教育市場において教育サービスを商品化し、利潤を追求する教育産業との間の境界は壊され、両者はボーダレスの状況になっています。もはや公教育は、教育市場との関係を排除して維持することができない状況です。この状況において、教育の公共性はどのように担保したらいいのでしょうか。
(『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット)

無論、利潤を追求する教育産業とはIT企業ということである。

フクヤマのいう「社会秩序を復元する強靭な能力」はこうした環境下で失われずにいられるのだろうか。


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199 近未来からの風#33 (まとめ) 「ショートカット」の旅

2023年02月19日 | 近未来からの風
定番 高尾山 縦走 沢山のルートにうち6号路は自然の山道が残されています。

さて、「近未来からの風」再開します。
気鋭の歴史学者 ハラリさん、教育学者の佐藤 学さん、広田照幸さん、そしてOECD 2030プロジェクトをレポートした白井 俊さんの著作からお話しを伺うようにページをめくってきました。
そこでそろそろ伺った内容から感想文のようなものでまとめとしたいと思います。

ショートカットの旅

「新幹線は早くて便利だけど各駅停車の風情がないねぇ」という話題は以前よく耳にしたが、最近はあまり聞かれなくなった気がする。
例えば東京‐京都間は2時間。「旅」とも言いにくい短時間である。
「風情」の件はどこにいったのか?

ちょうど150年前まではもちろん鉄道がなく、人々は14~15日かけて歩いた。
濃厚な旅があったはずだ。
宿場には個性があり、方言をともなった違和感のある人々と交流しなければならない。
そもそも大きい川は容易に渡れない。山賊や盗賊もいただろう。もちろん相当な体力がいる。
だから、旅には総合力が必要で、「可愛い子には旅をさせろ」となった。
江戸‐京都間とは、そういうところだったにちがいない。
わずか150年間のテクノロジー進歩は2週間の移動を2時間にまでのショートカットに成功し、一方で(極端にいえば)旅の要素もほとんどなくなった。

もっとも鉄道が開設されても、小説や脚本の舞台になる程度の旅のニュアンスは残っていた。
三四郎が熊本から汽車で上京するのに数日かかり、不思議な女とは名古屋で一旦降りる。「滅びるね」と謎めいたこという髭の男がいうのは、浜松を過ぎたあたりだ。車中外国人も見かけるし、「田舎者」とも話をする。

また、九州から北海道へ鉄道で移住していく道中を描いた山田洋二さんの『家族』は1970年の作で、これも旅そのものだ。

これらも今なら阿蘇くまもと空港からフライトすればいいことになる。

今からは想像できない旅の中の予測不可能なことや不便さは、その時どきの人の覚悟を想像させ、実際の旅の経験は人を成長させ、成熟を促していたことは間違いない。
昔の旅はそういう「含み」のあるものだった。
それが2時間で行くショートカットによって今日ではそれがほとんどないほど快適な「旅」ができることになっている。
もちろん、東京からから京都に日帰で、南禅寺の梅を見に行かれることに何ら否定的なことない。

同じように、いたるところにショートカットが知らないうちにできている。
知らないことは「ググる」ことで多くは解決するし、買い物は翌日雨が降っても宅配業者が届けてくれて、クレジット会社が銀行から自動的にお金を引き出すことで現金に触れることなく支払されている。
図書館や商店が遠い場合、入手しにくい物が欲しい時、健康上出歩けない場合など通販は便利としかいいようがない。
しかし一方で、カットしてしまったことも沢山ある。ここで例をあげないまでも。

技術の進歩は、不要と思われるものをカットして、圧倒的便利さや快適さによって歓迎されながら生活や仕事に進入定着してきている。
そして、私たちは、それによって失われたもの中には意図的には再生しにくいことも含まれていることを直感しながらも、概念化できないまま不問にしてしまっているのだろう。
いずれにしても、生活教育論が元気だったころ、彼らの言っていた「生活即教育」という発想は、今日では成り立ちにくいほど生活に「含み」がなくなってしまった言えるのではないだろうか。

そして、ショートカットは思考力にも影響があるように思われる。
A→Gを説明するのに、(B→C→D→E→F)の過程があったことを忘れてしまがちになる。また、A→HやA→Zの発想に跳べないことはないだどうか。思考の過程に「含み」の可能性が秘めていることを感じる感性が衰えているのではないか。

そのことに近いことを『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済)で新井紀子さんは指摘する。

AI楽観論者が言うように、多くの仕事がAIに代替えされても、AIが代替えできない新たな仕事が生まれる可能性はあります。しかし、たとえ新たな仕事が生まれたとしても、その仕事がAIで仕事を失った勤労者の新たな仕事になるとは限りません。現代の労働力の質が、AIのそれと似ていると言う事は、AIでは対処できない。新しい仕事は、多くの人間にとっても苦手な仕事である可能性が非常に高いと言うことを意味するからです。

といって、もともと理科系の新井さんがこの本で読解力を取り上げてのは、思考力への懸念があるからだ。
短絡的で抽象化した生活の中であったも、ふり幅の大きい思考が求められるそれが近未来への大きな課題といえるのではないだろか。

そしてその方法として、アクティブラーニングを唱えることは、まさしく学びを裏打ちする「含み」を意識したものであろう。
テキストに則せば、オーバーロードに注意しながら、それぞれがもつラーニングコンパスの精度をあげる現実的な手段であると。
                                         つづく



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198 with自意識

2023年02月12日 | 自意識からの問い
🈟 定番! 高尾山を縦走します。これには乗らず山道へ

もう結構前にことになる。
特別支援学校高等部の一人の生徒のこと。

次の体育に備えて早めに着替えを終えた彼が教室ですわっている。
そして、突然だ。こっちを向いて「センセイ…」というとありふれた質問をするような調子で、
「ボクが生きている価値ってなんですかね。」
という。
そこにいた更衣をせず見学するつもりの生徒も顔を上げてこっちを見た。

もちろん、ありふれた質問ではない。
彼は中学校の支援級のときうまくいかなかった。
あることでこじれて転校までした経緯を知っている。

ここに入学してからも友達になぜか“上からものを言う感じ”が抜けなかった。
なんとなく友達と混ざれない。

だから、更衣室にいたたまれず早く着替えてきたのかもしれない。
ありふれたものの言いようしかできないのか?。

教師の習慣で、置かれている条件を考える。
両親のこと、兄弟のこと、放課後デイサービスのこと、睡眠など健康面、もちろん学校生活のストレス…、そんな構造で彼を理解しようとする。それはそれでいい。

しかし、なんとなく(あるいは努力しても)友達と混ざれない、身のおきどころのないような寂しさは、ある種の具体的な質感とともに彼の中にあるままだ。それは意外に気づかれにくい。気づかれまいともする。

周囲との隔たり感じ、自分の中に居場所を探そうと自分を覗き込む。
これをくり返すうちに傷つきやすい自意識が生まれる。
居場所であるべき学校にこうした要素がある。

前回、「教育は静かに語ろう」と書いた。
自意識の揺れについて考えてみる。


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