定番 高尾山縦走 頂上のこれも定番のテラスからの富士 ここから陣馬山までロングトレックスタート
2 アルゴリズムと民主主義
人間は世界-内-存在として、「事物や他者の存在する世界(社会)」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような世界(社会)と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような世界と関わって生きるということなのである。
とサルトが言った。そして、
人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。
既に投げ出されてように存在している私たちが世界(社会)に主体的に働きかけることで、その総和によって世界はつくり出されるという。
また、21世紀になってもフランシス・フクヤマは同様に、
われわれが希望をもちうる唯一の理由は、社会秩序を復元する強靭な能力が人間に生まれつきそなわっているという事実である。歴史がよい方向へ進んでいくかどうかは、この復元作業がうまくいくかどうかにかかっている
という。
こんな思想が民主主義のバックボーンに流れているといっても大きな誤りはないだろう。
個の自由と社会とのかかわり、逆に個の主体性を育む社会の形成についての原理である。
このことは民主主義を標榜する公教育の目標とも合致する。
ところが、「的外れな情報であふれかえる世界にあって明確さは力だ」から始まるハラリの論はこの民主主義の思想がアルゴリズムによって揺らぐという。
人間の感情は謎めいていて、深遠な「自由意志」を反映しており、この「自由意志」が権限の究極の源泉であり、知能の高さは千差万別でも、あらゆる人間は、等しく自由であると言う前提に、民主主義は立っている。
心へのこのような依存は、自由民主主義のアキレス腱になりかねない。
人間の感情と自由選択に対する自由主義の信頼は、自然なものでもあまり古いものでもない。権限は、人間の心ではなく、神のほうに由来し、したがって、私たちは人間の中よりも、むしろ神の言葉を神聖視するべきだ、と人々は何千年にもわたって信じてきた。権限の源泉が天井の上から生身の人間に移ったのは、ようやく過去数世紀のことだ。
間もなく、コンピューターアルゴリズムが人間の感情よりも優れた助言を与えられるようになるかもしれない。スペインの異端審問所や、KGBがグーグルや百度(バイウド)に道を譲ったのと同じように、「自由意志」も神話であることが暴かれる可能性が高く、自由主義は実際的な優位性を失うかもしれない。
自由社会とされている場所でさえも、アルゴリズムが権限を増やすかもしれない。私たちは、しだいに多くの事がらでアルゴリズムを信頼した方が良いことを経験から学び、自ら決定を下す能力を徐々に失っていくだろう。考えてみて欲しい。わずか20年のうちに、何十億もの人が的確で信用できる情報を探すと言う、非常に重要な任務をグーグルの検索アルゴリズムにゆだねているようになった。私たちはもう情報を探さない。代わりに、「ググる」。そして、答えを求めて、次第にグーグルに頼るようになるにつれて、自ら情報を探す能力が落ちる。そしていつか、「真実」は、グーグルでの検索で上位を占める結果によって定義される。
(『21Lessons』河出書房)
センセーショナルなこの本ではあるがすでに見え始めている傾向として説得力がある。
実は歴史の浅い「深遠な自由意志」よりアルゴリズムを信頼する。そして、自分自身の選択によって行動する能力が落ちていく。
反民主主義というのは単純に国家体勢の問題だけではなく、アルゴリズムがその内実を骨ぬきにさせていくという面かも進行しかねない。そして私たちは、すでに便利さと「検索上位」に安心感をいだきながら「自分自身の選択」をビッグデータに由来する統計にゆだねはじめ、一方で例えば投票の権利を安易に放棄してしまっているように思える。
そして佐藤学さんは、「市民社会の維持と民主化に必要な公教育」の危機を述べている。
この時代に教育の公共性を擁護するためには、どのような方策が考えられるのでしょうか。新自由主義の市場、万能主義によって、世界各国の公教育が危機に瀕しています。その危機は、第四次産業革命と連動するICT教育と教育市場の巨大化によって増殖しています。どの国も債務国家になり、公教育は財政負担となって、国家財政だけで公教育を擁護維持することが困難になっています。その一方で、教育のニーズは年々高まっており、公教育の枠外の教育市場は膨張し続けています。その結果、市民社会の維持と民主化に必要な公教育と、教育市場において教育サービスを商品化し、利潤を追求する教育産業との間の境界は壊され、両者はボーダレスの状況になっています。もはや公教育は、教育市場との関係を排除して維持することができない状況です。この状況において、教育の公共性はどのように担保したらいいのでしょうか。
(『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット)
無論、利潤を追求する教育産業とはIT企業ということである。
フクヤマのいう「社会秩序を復元する強靭な能力」はこうした環境下で失われずにいられるのだろうか。
2 アルゴリズムと民主主義
人間は世界-内-存在として、「事物や他者の存在する世界(社会)」の中に投げ出されており、積極的にせよ消極的にせよ、そのような世界(社会)と何らかの仕方で関わりながら存在する。人間が存在するということは、好むか否かに関わりなく、何らかの立場を持ってそのような世界と関わって生きるということなのである。
とサルトが言った。そして、
人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。
既に投げ出されてように存在している私たちが世界(社会)に主体的に働きかけることで、その総和によって世界はつくり出されるという。
また、21世紀になってもフランシス・フクヤマは同様に、
われわれが希望をもちうる唯一の理由は、社会秩序を復元する強靭な能力が人間に生まれつきそなわっているという事実である。歴史がよい方向へ進んでいくかどうかは、この復元作業がうまくいくかどうかにかかっている
という。
こんな思想が民主主義のバックボーンに流れているといっても大きな誤りはないだろう。
個の自由と社会とのかかわり、逆に個の主体性を育む社会の形成についての原理である。
このことは民主主義を標榜する公教育の目標とも合致する。
ところが、「的外れな情報であふれかえる世界にあって明確さは力だ」から始まるハラリの論はこの民主主義の思想がアルゴリズムによって揺らぐという。
人間の感情は謎めいていて、深遠な「自由意志」を反映しており、この「自由意志」が権限の究極の源泉であり、知能の高さは千差万別でも、あらゆる人間は、等しく自由であると言う前提に、民主主義は立っている。
心へのこのような依存は、自由民主主義のアキレス腱になりかねない。
人間の感情と自由選択に対する自由主義の信頼は、自然なものでもあまり古いものでもない。権限は、人間の心ではなく、神のほうに由来し、したがって、私たちは人間の中よりも、むしろ神の言葉を神聖視するべきだ、と人々は何千年にもわたって信じてきた。権限の源泉が天井の上から生身の人間に移ったのは、ようやく過去数世紀のことだ。
間もなく、コンピューターアルゴリズムが人間の感情よりも優れた助言を与えられるようになるかもしれない。スペインの異端審問所や、KGBがグーグルや百度(バイウド)に道を譲ったのと同じように、「自由意志」も神話であることが暴かれる可能性が高く、自由主義は実際的な優位性を失うかもしれない。
自由社会とされている場所でさえも、アルゴリズムが権限を増やすかもしれない。私たちは、しだいに多くの事がらでアルゴリズムを信頼した方が良いことを経験から学び、自ら決定を下す能力を徐々に失っていくだろう。考えてみて欲しい。わずか20年のうちに、何十億もの人が的確で信用できる情報を探すと言う、非常に重要な任務をグーグルの検索アルゴリズムにゆだねているようになった。私たちはもう情報を探さない。代わりに、「ググる」。そして、答えを求めて、次第にグーグルに頼るようになるにつれて、自ら情報を探す能力が落ちる。そしていつか、「真実」は、グーグルでの検索で上位を占める結果によって定義される。
(『21Lessons』河出書房)
センセーショナルなこの本ではあるがすでに見え始めている傾向として説得力がある。
実は歴史の浅い「深遠な自由意志」よりアルゴリズムを信頼する。そして、自分自身の選択によって行動する能力が落ちていく。
反民主主義というのは単純に国家体勢の問題だけではなく、アルゴリズムがその内実を骨ぬきにさせていくという面かも進行しかねない。そして私たちは、すでに便利さと「検索上位」に安心感をいだきながら「自分自身の選択」をビッグデータに由来する統計にゆだねはじめ、一方で例えば投票の権利を安易に放棄してしまっているように思える。
そして佐藤学さんは、「市民社会の維持と民主化に必要な公教育」の危機を述べている。
この時代に教育の公共性を擁護するためには、どのような方策が考えられるのでしょうか。新自由主義の市場、万能主義によって、世界各国の公教育が危機に瀕しています。その危機は、第四次産業革命と連動するICT教育と教育市場の巨大化によって増殖しています。どの国も債務国家になり、公教育は財政負担となって、国家財政だけで公教育を擁護維持することが困難になっています。その一方で、教育のニーズは年々高まっており、公教育の枠外の教育市場は膨張し続けています。その結果、市民社会の維持と民主化に必要な公教育と、教育市場において教育サービスを商品化し、利潤を追求する教育産業との間の境界は壊され、両者はボーダレスの状況になっています。もはや公教育は、教育市場との関係を排除して維持することができない状況です。この状況において、教育の公共性はどのように担保したらいいのでしょうか。
(『第四次産業革命と教育の未来』岩波ブックレット)
無論、利潤を追求する教育産業とはIT企業ということである。
フクヤマのいう「社会秩序を復元する強靭な能力」はこうした環境下で失われずにいられるのだろうか。