諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

46 仕事と修養

2019年09月29日 | エッセイ
奥秩父から、八ケ岳方向を見ています。秋の空は広く感じますが、どうしてでしょう。


 ずっと前のプロ野球のオフシーズン、あるプロ野球選手のお宅拝見という番組をたまたま見ていた。
広い家が写って、犬が庭を走っていた。

 一瞬だが、そのスター選手とそのお子さんとがテレビを見ているシーンがあった。
普通の穏やかな家庭という意図の撮影なのだろうが、これをスタジオで見ていた野村克也さんが、「ああやってテレビ見ながらも器具握って握力のトレーニングしてたでしょ。オフシーズンだけど野球への緊張感を保つようにしているですよ」と意外なコメントに司会者も意表を突かれたようだった。

 プロゴルファーの片山 晋呉さんは、天狗の履くような一枚歯の高下駄でボールを打つ練習をする。毎回パターと握り方を変える。
マスターズで3位になり「最高のゴルフ」ができて以降、めっきりテレビに写らなくなった時期があった。
 先輩の中島常幸さんに「燃え尽きてもいいが、炭は残しておけ」と言われゴルフへの緊張感保つため様々な工夫を放棄しなかった。
現在も実力を保っている。

 テレビを見ながら握力のトレーニングすることや、高下駄のスイングが成績向上に直結しているかわからないが、向かう気持ちを維持することには繋がるに違いない。

 意図的な行為(取り組み)が心をつくる。

 こういう行為を「行」というのかもしれない。

 行為と心について僧侶の南直哉さんは「コップの水を手を使わず飲むと犬だ、片手で飲むと普通の人だ、両手を添えて飲むと仏に通じていく」という。
 心が行為によって変化、規定されるとしたら、取り組みべきものへ主体的に取り組みように何らかの意図的な行為が必要なのだろう。

 「ためしにこんなもの作って見たんですよ」と料理を勧めてくれる料理店は大体繁盛している。
創作が料理への緊張感を保ちその空気が店の雰囲気になっている気がする。

 意図的な行為をどう組み込むかはどんな仕事(仕事に限らないが)にも大切であり、これを修養というのだろう。

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45 子ども時代の意味#10 子ども時代への願い

2019年09月15日 | 子ども時代の意味
明野町で。向こうは甲斐駒ケ岳。本当はもっと夕焼けなんですが…。

 長くなった「子ども時代」について、今回でまとめとします。長い独り言?みたいでしたが、読んでいただいて嬉しく思います。



 「子ども中には“善さキン(菌)”がいる」というのは、教育学者 村井実さんである。
「善さ」というのは狭義の道徳律のような意味ではない。

 人間は、(あなたも、わたしも)善くなりたいと願っている生物であり、当然すべての子どもたちも“善く”なろうとしている。
 だから教育の目的は子どもの中にある“善さ菌”の働きを歓迎し、善さを実現する歩みを後押しすることだという。その道を示すのが文化であると。

 
 本シリーズ、前半で3人の物語を書いてみた。
善くなろうと思っている子ども時代。その中でいろいろな経験を経る。それが彼らの中でどう働き、結晶化し、その後の生きる歩みの中でどうそれが働く(後押しする)のか、ということを表せないないものかと。

 後半は、子ども時代が長期に、しかも明確に存在するのは人間だけであり、助け合って生きることの文化を身に着けることが最大の命題であったこと、村(コミュニティ)あげてこの時期の充実を図っていたことをまとめてみた。

 以上、書きつつ、前後半で「子ども時代の意味」を考えたが、はやり予想どおり、#1の老先生が言われた
「先のことはわからないから、今を大切にしてあげることだよ」
と少しも変わらないようだ。当然と言えば当然である。


だが、せっかく?子ども時代の感覚質についてふれたので、少しユニークにまとめてみる。

 坂を上りきって向こう側に大きく夕焼けが見えた。
「わぁーっ」
圧倒的に美しいものを見るとこんな声がでる。

 小学生の時、「家にあった」といって恥ずかしそうに外国製の色鉛筆(話は昭和)をもってきた子があった。
36色。みんなが囲む机でふたを開く。
「わぁーっ!」

 発色のよい色鉛筆。
どんな時にも自分らしい色を出せるものがランドセルに入っている。そんな良質な感覚を持たせられたらいい。

 善く生きたいと思う気持ちをしっかりもつことを、村井さんは「善さキン(菌)」のはたらきを活発にすると言っている。
そして、菌には感染性がある。
 友達も保護者も先生も、誰でもが善くなりたいという存在である。
その「横のつながり」の意識が、質の善い子ども時代の善き感覚をつくることと関係しているように思う。


                                       シリーズ 了









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44 子ども時代の意味#9 子ども時代の原型

2019年09月08日 | 子ども時代の意味
(写真)昔は峠を越えて上高地に入りました。
ふもとから標高2100mまで来た徳本峠で穂高山塊がはじめて姿を表します。



 「子ども時代の意味」を考えるシリーズもそろそろまとめていきます。こんな一文から。


 とにかくも人間は弱かった。

 とても猛獣と闘って太刀打ちできないし、逃げ足も遅い。温度の変化にも弱い。
だから集合して助け合わないと生き延びれなかった。そのことしかなかった。

 食糧を分担して確保すること、それを何らかの基準に応じて分かち合うこと、仲間割れをしないことを必死で実践しただろう。そのことだけで他の動物にはない特徴であるらしい。

 その中でも人間の赤ちゃんは全くの無力だ。生後すぐに歩いたりしない、1月で狩りの練習をする動物とも全く違う。生きるための意思表示さえはっきりしないので神経を使うケアが必要である。弱き人間の群れはその赤ちゃんのケアを一生懸命やった。老若男女が参加した。

 そしてケア時代を経て子ども時代になっても、子ども達はコミュニティの主力になりえない。身体もできないし、生殖能力もない。一人前まで遠い。

 それでも乳幼児期での死亡率は高かったから、無事に子ども時代(児童期?)を迎えた子は「幸運な子」だったし、「貴重な跡取り」に感じられた。だから、大人たちは、子どものもっている広大な時間の中で、何か大切にしていることを伝えたかっただろう。
 そんな自然な教育がずっと行われてきた。営みとしての教育。

 だから、人類の発生当初から人間にとって子どもを育てることは(療育や教育)、類としてもともと大事業だったといえる。けして一人では育つものではない。

 そして、次第に群れの成員数が多くなっていくにしたがって、脳の大きさ(容積)が増大していった。
人類学者によるとコミュニティの規模と脳能容積が比例するという。他者への配慮やいたわりといった高度な他者意識が脳の前頭葉等を発達させたという。(並行して肉食をによるたんぱく質の摂取にもよるらしいが)

 とにかくも弱かった人間は、共生しないと生きられなかったので、子どもの広大な子ども時代を、共生するための修養の時間に充ててきた、と言っても大きく外れてはいないだろう。

 共生には、不断の努力がいることでもある。



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43 尺度の怪

2019年09月01日 | エッセイ
(写真)上高地。たしかに別天地。

 かつてランニング大会に出たことがある。
はじめて出た大会は10キロ走。タイムは約70分。完走できたことが励みになり、週2回程度走るように頑張った。そして翌年は55分!。
若いわけでもないが、肉体は変えられる実感がよかった。血液検査の結果も良好、走ることが生活のリズムにもなった。

 一方で、昨今のランニング大会のデータ提供はすごい。
正確なタイムと着順、さらに年代別の成績もその場でプリントアウトされ何だか模擬テストの結果のように渡される。

ところが、それが良し悪しだ。
完走を喜んだ時の順位は最後尾から10%以内であり、練習の成果を出した!時も中間の選手より100人分遅いというデータである。
「やや弱い平凡なランナー。」それが1年の練習の成果だ。
さっきまでの充足感から離れて、「みんな速いんだなぁ」と思うと「自分が走ることが間違っているのかな」と一瞬考えてしまう。

 
 野球場は大リーガーと同じ規格になりつつある。
100mも飛ばないからホームランが打てない。ホームランだけが野球じゃないけどホームランがあり得ないと野球に感じられない。
だからと言って両翼60mの球場を作ると、面白さが増すかもしれないが、亜流だよと揶揄される。
子どものころ三角ベースで盛り上がていたのに。

 ずっとピアノを習っていたが、どうもオクターブ指が届かないとやめてしまう。
人間の側に尺度をあわせて、鍵盤の幅を少し狭くしてピアノを作ればモーツァルトもリストも弾けたかもしれない。

 学校教育には偏差値という尺度がある。
この数値が普及することで「亜流の学校」が出現してしまう。学校なんて多様な価値が存在するのに一本の数直線上にならべてしまう。
必然的に「最後尾から10%」に相当する学校ができる。

 そこに在籍している生徒は、「自分が学ぶことが間違っているのかな」と感じて無理はない。
また大きなフライを打ってもホームランに見られにくい。「せいぜい60m」。本当は120m飛んでいるかもしれないのに。

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