ブログもお陰様で4カ月続きました。
専門的だし取りとめもなく感じられる内容ですが、読んでくださる方があることは嬉しいものです。ありがとうございます。
教員が文章を書くというと、仕事で課されたものだったり、行政文書だったり、研究として書くにしても一定のテーマや制約は当然あるものです。
そこに行くとブログは自由です。主体的に書く気持ちが持続すれば自由に表現できる。日ごろの問題意識を整理するいい機会になることも分かってきました。
通常取り上げにくい問題も拾えます。これもブログのメリットです。(もちろん、拙文をネット上で公表するわけですから、無責任な表現にならないように慎重にやらねばなりません。)
そんな特長をいかしながら新しいシリーズを書きます。
「子ども時代の意味」。
小学校の初任のころ、プールの入水の手順を説明するために、床にプールを見立てた四角形をテープで作って授業開始を待っていました。
その日の提出物か何かを整理していると、背後でペタペタと床を叩くような音と、なぜか歓声とが聞こえました。
振り返ると、四角の中で泳いじゃっている。飛び込んでいる子までいる。教室の床の上。………もう水泳大会?。
後から思うとこんなことは特別なことではなく、私たちはそんな彼らのユニークな行為ににすっかり慣れて、楽しく思ったり、困ったりを繰り返しています。
そしてそれぞれの先生は自分なりの尺度や線引きで、その子ども行為を判断し、何らかの評価と指導をしています。
そんな時、無意識に基準にしているのが、
「子ども時代の意味」
なのではないでしょうか。
子どもたちは、小さな大人ではありません。
自分自身がそうであったように、その成長や発達に応じたその時の存在としてそこにいるので、大人としての適性さの尺度を単純にあてがうことは無理です。
大人へとつづく子ども時代ではあっても、けして直線ではありません。らせん階段状という言い方もあります。その中で今の彼らをどう見立てるか。結構難しい判断を経験やカンで基準を設けて評価や指導をしているはずです。
「ここは教室です。しかも床の上は汚れているし、行儀も悪いから泳いではいけない。」
とも言わない。
「君たち元気でいいね。それも練習になるね。」
とも言わない。
たぶんその中間で、出来れば形成的な指導をしたいと思います。
子どもの子ども時代の学びや経験が、大人の中でどう今生きているかという視点で、「子ども時代の意味」を考えたいと思います。
ただし実証的なんてできないので、エンターテイメントの小説のようになります。この方が表現しやすいということです。
経験もカンもない初任の私は、たまたま学校にいらしていた読書教育で有名だった老先生にそのことを伺いました。
すると、すぐに、
「(子どもの)先のことはわからないから、今を大切にしてあげることだよ」
とおっしゃる。たぶんそういうものなのでしょう。
分かりはしないという前提で進めたと思います。