のんびり八ケ岳 阿弥陀岳山頂!阿弥陀様と盟主 赤岳が重なる。
名著『人間の建設』新潮文庫
は評論家の小林秀雄と数学者の岡潔の貴重な対談である。
1965年に行われたものだが、その優れた内容をみとめた新潮社が後年文庫化したものである。
わずか140ページの対談にして濃厚。あとがきを茂木健一郎さんが担当し「「情緒」を美しく耕すために」と題している。
※引用はほんの1部分です。
岡 …(前略)…だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。知性のなかだけで厳然として存在する数学は、考えることはできるかもしれませんが、やる気になれない。こんな二つの仮定をともに許した数学は、普通人にはやる気がしない。だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。
小林 あなたのおっしゃる感情という言葉ですが……。
岡 感情とは何かといったら、わかりにくいですけれども、いまのが感情だといったらおわかりになるでしょう。
小林 そうすると、いまあなたの言っていらっしゃる感情という言葉は、普通いう感情とは違いますね。
岡 だいぶん広いです。心というようなものです。知でなく意ではない。
小林 ぼくらがもっている心はそれなんですよ。私のもっている心は、あなたのおっしゃる感情なんです。だから、いつでも常識は、感情をもととして働いていくわけです。
岡 その感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。
小林 そうすると、つまり心というものは私らがこうやってしゃべっている言葉のもとですな。そこから言葉というものはできてきたわけです。
岡 ですから数学をどうするかなどと考えることよりも、人の本質はどういうものであって、だから人の文化は当然どういうものであるべきかということを、もう一度考えなおしたほうがよさそうに思うのです。
小林 すると、わかりました。
岡 具体的に言うと、おわかりになる。
小林 わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね。
岡 そうなんです。
小林 そこから逸脱したという意味で抽象的とおっしゃったのですね。
岡 そうなんです。
小林 わかりました。
岡 裏打ちのないのを抽象的。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない、そういうのを抽象的といったのです。
小林 それでわかりました。
岡 そこをあからさまに言うためには、どうしても世界の知力が下がってきていることを書かなければなりません。さしさわりのあることですが。数学の論文を読みましても、あるいは音楽を聞き、ごくまれに小説を読みましても、下がっているとしか思えない。それにいろいろな社会現象にしても、だんだん明らかな矛盾に気づかなくなって議論している。
小林 間違いがわからないのです。
岡 情緒というものは、人本然のもので、それに従っていれば、自分で人類を滅ぼしてしまうような間違いは起さないのです。現在の状態では、それをやりかねないと思うのです。
小林 ベルグソンの、時間についての考えの根概はあなたのおっしゃる感情にあるのです。
岡 私もそう思います。時間というものは、強いてそれが何であるかといえば、情緒の一種だというのが一番近いと思います。